アラゴン王国
- アラゴン王国
- Reino d'Aragón (アラゴン語)
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← 1035年 - 1715年 →
→(王室旗) (国章)
1190年のアラゴン連合王国-
公用語 アラゴン語、カタルーニャ語、カスティーリャ語 首都 サラゴサ 現在 スペイン
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アラゴン王国︵アラゴンおうこく、アラゴン語: Reino d'Aragón、カタルーニャ語: Regne d'Aragó、スペイン語: Reino de Aragón︶は、中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペインのアラゴン州に存在した王国である。
起源[編集]
アラゴン王国はナバーラ王︵イベリア王とも自称した︶サンチョ3世︵在位‥1004年 - 1035年︶による庶子ラミロ1世への領土分割に端を発する。サンチョ3世は大王と称される傑物で、イベリア半島北方のレオン王国のベルムード3世をガリシアへ敗走させ、カスティーリャ伯爵領︵カスティーリャ王国の前身︶を1029年、妃マヨールに継がせるなど、イベリアのキリスト教世界に覇を唱えた人物である。サンチョ大王は死に臨んで、息子たちに遺領を分割した。当時、アラゴン川流域のチャカ︵アラゴン語‥スペイン語ハカ︶を中心とするアラゴンの領域は庶子ラミロ1世に与えられ、国王の称号も許された。アラゴン王国の成立である。12世紀レコンキスタ︵再征服運動︶の進展とともに、アラゴン王国はより広いエブロ川流域に進出し、1118年にはアルフォンソ1世がサラゴサの町をイスラム教徒から奪回した。以後サラゴサはアラゴン王国の都となっている。アラゴン連合王国[編集]
「アラゴン連合王国」も参照
カタルーニャとの連合[編集]
カタルーニャはアラゴンとは別の起源をもつ地域で、801年にカロリング王朝のルイ敬虔王が南フランスからピレネー山脈を越え、イベリア半島北東部のバルセロナをイスラム教徒から奪回したのが始まりである。フランク王国のスペイン辺境伯領として成立し、住民は南フランスのセプティマニアから来た者が多かった。このため今日でもこの地方の言語︵カタルーニャ語︶はスペインの他地域とは異なる。やがてフランク王国の解体によって政治的に自立し、現在のカタルーニャ州に当たる地域はバルセロナ伯領︵カタルーニャ君主国︶となった。アラゴン王家はこのバルセロナ伯家と通婚を重ね、1137年にアラゴン王ラミロ2世の一人娘ペトロニーラ女王とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、両家の連合が成立した。アラゴン、バルセロナともそれぞれ別のコルテス︵議会︶を持ち、法制度の違いも残ったが、2人の間の子アルフォンソ2世以降はバルセロナ家の君主の下に統合された。こうしてアラゴン連合王国と呼ばれる同君連合が成立した。
アラゴン王国 (濃) と アラゴン連合王国 (淡)
強大化したアラゴン連合王国はレコンキスタを加速化させ、1229年にはハイメ1世がイスラム教徒が支配するバレアレス諸島を占領し、1238年にはバルセロナの南にあるイスラムのバレンシア王国を征服した。これによってイベリア半島におけるレコンキスタは一応終結し、アラゴン王国はバルセロナを拠点に地中海へ発展していく。1282年シチリア島民がフランス・アンジュー家の圧政に反して蜂起したシチリアの晩鐘事件が起こると、アラゴン王ペドロ3世がシチリア王として迎えられた。これ以後、アラゴン王家の分家が代々シチリアを支配することになる。またサルデーニャ島の領有権をイタリアのジェノヴァ共和国と争ったこともある。アラゴン王家とは無関係であるが、東ローマ帝国に傭兵として雇われたアラゴンとカタルーニャの騎士たち︵アルモガバルス︶が反乱を起こし、1311年から1390年頃までアテネ公国を支配したこともあった。