西ゴート王国
- 西ゴート王国
- Regnum Visigothorum
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500年頃の西ゴート王国の領域(橙色)-
言語 ゴート語
俗ラテン語
バスク語族
ヘブライ語
アラム語宗教 カルケドン派
アリウス派首都 トロサ
(418年 - 507年)
バルセロナ
(507年 - 542年)
トレド
(542年 - 711年)現在 スペイン
フランス
ポルトガル
スペインの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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スペイン ポータル |
ガリア統治時代[編集]
ダキアを経てローマ領内に移動した西ゴート族は、5世紀初頭の指導者アラリック1世のもとイタリア半島に侵入した。ローマ帝国の首都ローマを寇略しローマ人に衝撃を与えた。しかし皇帝の在所であったラヴェンナには手が出せず、西ゴート族は食料を求めシチリアを経由してアフリカ渡航を企図したが失敗に終わった[2]。イタリアでの将来の見通しが立たなくなると、アラリック1世の死後、後継者となったアタウルフ幕下で西ゴート族はガリアへと移動した。西ローマ帝国は海上封鎖によって西ゴート族を飢えさせる作戦を取り、食料に困窮した西ゴート族はヒスパニアへと追われた[3][2]。建国[編集]
415年にワリア王は西ローマ帝国と手を結び、イベリア半島を征服していたヴァンダル族、スエビ族らを討ち、418年にホノリウス帝から正式に属州アクイタニア︵アキテーヌ︶の一部︵ガロンヌ川沿いの土地︶を与えられた[4][5]。彼は南ガリアで勢力を拡張し、トロサ︵トゥールーズ︶を首都と定め西ゴート王国が建国された。 西ローマ帝国とは基本的に友好な姿勢を保っていたが、敵対した時期もある。西ローマ帝国滅亡後にイタリア半島を占領し東ゴート王国を建国する東ゴート族とは連絡を保っていたが共同して行動することはなかった。451年にはパリ西方のカタラウヌムでフン族を撃退した︵カタラウヌムの戦い︶。456年には西ローマ帝国の実権を掌握し、西ローマ帝国の名でヒスパニアでの勢力を拡大した。 476年に西ローマ帝国で西方正帝が廃止されると、エウリック王は混乱に乗じてフランスの中部からイベリア半島の南部まで勢力圏を広げた。このころからヴァンダル族は西ゴート王国に朝貢し、アフリカに退去したためイベリア半島への入植が進んだ。フランス北部では興ったばかりのフランク王国と争った。宮廷官職[編集]
西ゴート族の間では、5世紀までは制度的な宮廷会議が開かれることはなく、事実上数人の重臣 (princeps) が王の決定に助言を与える会合に参加していた。その後、国の統治に関する王の意志決定に参与する宮廷官職が形成され、有力貴族をもって充てられた。代表的な官職としては、王室及び国の財政を担当するcomes patrimoniiや王の警護を担当するcomes spatariorum、王の書記職であるcomes notariorumなどがある。このような官職に就く貴族は宮中伯 (comes, conde) という称号を帯びていた。 やがて王の側近だけでなくカトリック教会の司教や、宮廷会議参加資格を有さない貴族や地方官をも含めた大規模な合議体である王会 (Aula regia) が形成され、中心的な国王の顧問会議となった。これはトレド教会会議が国政に関与するようになるまでは大きな影響力を持っていたが、会議の主導権はあくまで国王の側にあり、王が召集し、その議決は王を拘束するものではなかった[6]。イベリア半島時代[編集]
アリウス派からカトリックへの改宗[編集]
西ゴート族はアリウス派を信仰していた。イシドールスによれば、西ゴート族がローマ帝国内に侵入した際のローマ皇帝ウァレンスがアリウス派だったためである[7][8]。ウァレンス帝はニケーア信条を奉じるアタナシウス派を弾圧し、アリウス派信仰を正統としていた[9]。西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止され、背景には信仰の相違があったと考えられている。レオヴィギルド王の時代にゴート人とローマ人の通婚は許可された[10]。 ローマ帝国領内侵入からイスパニア定住に至る西ゴート族の移動期には、カトリック勢力との軋轢は目立たない。イスパニア定住後に軋轢が増加するがその原因はカトリック聖職者の側にあったとされる[7]。イシドールス﹃ゴート人の歴史﹄には西ゴート王の異端の過去には配慮が見られ、彼らがカトリックに寛容であったことが強調されている。そのためエウリック王のカトリック迫害にも沈黙している[11]。 西ゴート中興の英主レオヴィギルド王はガリアを喪失して以降分裂傾向にあった国内を再統一した。宗教政策上もカトリックには弾圧を加える一方、アリウス派の教義をカトリックが入信しやすいよう一部改変し、統一をはかった。カトリックに改宗したヘルメネギルド王子の反乱があったが[12]、反乱の翌580年に王はアリウス派の教会会議を開き、従来﹁父﹂より下位に置かれていた﹁子﹂を、﹁父﹂と同格とした。これによりカトリック側からの改宗者が増えたが、カトリック教会側は勢力切り崩しと捉え、反発した[13]。 つづくレカレド王は587年に、メロヴィング朝と同じくカトリックに集団改宗した[14]。レカレド王の改宗は個人的なものとも集団的ともとれるが[15]、589年の第三回トレド教会会議にて西ゴート王国は公式にアリウス派からカトリックへ改宗した[16][15]。これによりアリウス派の反乱を鎮圧、王権と教会の提携を強め、西ゴート王国はカトリック国家となった。会議では、教義だけでなく世俗的な問題も議題とされ、世俗の高官も臨席した。首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。レカレド王以降の王は589年から701年の約110年の間に18回の宗教会議を召集し、6世紀中頃からは神権政治の色彩を帯びるようになる。イベリア半島制圧 〜再征服と統一〜[編集]
フランク王国、イベリア半島の先の征服王朝であるスエボス王国やユスティニアヌス1世の下で西方領土の回復を目指す東ローマ帝国としばしば争った。555年には東ローマ帝国が西ゴートの内乱に乗じてカルタゴ=ノヴァ、マラガ、コルドバなどを占領している[17]。これ以後、東ローマ帝国のヘルメネギルドの乱︵579年から584年︶への関与、589年と597年に起きた東ローマ皇帝マウリキウスとの戦い︵どちらの戦いも東ローマ帝国が領土を幾らか奪った︶というようにカトリック改宗前後も戦乱が絶えることは無かった。レカレド1世の次々代ウィテリック、ウィテリックの後継者グンデマルも東ローマ帝国と交戦、グンデマルの後を継いだシセブトの時代にようやく東ローマ帝国に対して優勢となり、620年代にはスウィンティラ王の下、イベリア半島のほぼ全土を支配するに至った。但し、634年までアルガルヴェ地方︵現在のポルトガルの最南端部︶に東ローマ帝国の拠点が維持されていたとする史料も残っている為、634年以降、つまりスウィンティラ王から王位を簒奪したシセナンド王の時代以降に統一が完了したと見ることもできる。滅亡[編集]
711年にイスラーム勢力のウマイヤ朝がイベリア半島に上陸、最後の王であるロデリックがグアダレーテ河畔の戦いで戦死して滅亡した[18]。一部の残党は718年まで抵抗を続けたが、一般的にはこの年を滅亡年とする。 滅亡したあと、西ゴート王国の王族とキリスト教徒の一部はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込みアストゥリアス王国を建国[19]、後のカスティーリャ王国、レオン王国のもととなった。西ゴート王国時代の建造物などはほとんど残されていないが、多くの国民は宗教的に寛容なイスラム支配を受け入れ、後のスペイン文化の基礎を作っていった。法制[編集]
西ゴート族はローマとの交流を早くに持ったため、ローマ化するのも早かった。イベリア半島に定住してからはゲルマン慣習法とローマ法︵のちにはキリスト教の要素も加味された︶に基づく法令がたびたび発され、征服地であるイベリア半島の住民とゴート族の融合がはかられた。これはゴート族が学問を重んじ、ギリシャ・ローマ文化の維持に努めたためだと考えられる。 618年ないし619年の第2回セビリャ教会会議および633年の第4回トレド公会議ではイシドールスの活躍により、西ゴート王国の教会は独立と自由を維持しながらも国王に忠誠を誓うという形で、ローマ教皇の管轄権を排除した。 630年代におこなわれた3回の公会議は世俗の問題についての議決を多く含むが、﹃西ゴート統一法典﹄にはこの時期の王の名を冠する法は採録されていない。公会議が王国会議と見なされ、議決が王国法として機能したためとされる[20]。玉置さよ子は、この時期の王、シセナンドとキンティラの名を冠した法が﹃西ゴート統一法典﹄に採録されていないのはキンダスイント王以降西ゴート王の王権強化の意図が見えるとする。たとえば反ユダヤ人立法では、シセナンド・キンティラ両王の時代に王の名による世俗法の立法が見られず、カノンの決定に反ユダヤ規定があることに鑑みると、世俗的なシセナンド・キンティラ期のカノンは世俗法の代わりを果たしていたと思われる。キンダスイント王以降、西ゴート王は世俗法制定を通じて王権強化を図ろうとしたが、シセナンド王とキンティラ王の時期に公会議によって世俗法が決定された前例はこれと対立する事実である。したがって、キンダスイント王の子であるレケスイントは、﹃西ゴート統一法典﹄において意図的にこの2王の名を冠した章を設けなかった。﹃西ゴート統一法典﹄により立法に対する西ゴート王の絶対的権限が確立された。[21]。 654年にリベル法典が発布され、同時に属人法の廃止、すなわち人種によって法令の使い分けがなされなくなった。つまりこの時期の頃にはすでにゴート人と先住人の文化的な差異はなくなっていたと見られる。このとき異人種間の結婚が公に認められ、人種的にも同化が進んでいったと考えられている。政治・文化[編集]
指導者は世襲と合議・選挙による選出という古ゲルマンの慣習に従ったもので有力者や合議・選挙に参加する貴族の利害が絡んだため、王の暗殺、廃位や内戦がたびたび起こった[注釈 1]。イベリア半島へ移り住んでから滅亡までの200年間に26人の王が立ち、平均在位は8年足らずであったことからも王権の弱さがわかる。アギラ1世に対するアタナギルドの反乱も、﹁血筋﹂に﹁実力﹂を優先する伝統的概念によって正当化されるものであり、カトリック改宗後のウィテリックによるリウヴァ2世殺しもそれに含まれる。更に、時の王が息子を共同王に指名したことによって次王即位の望みを失った有力者が、父王の生前に陰謀を企てる場合も考えられる。 シセブト王の治世の奇妙な終わり方[注釈 2]は著明な例と考えられる︵﹃ゴート人の歴史﹄は、そのようにして即位したスウィンティラへの遠慮から表現を抑えたと思われる︶。王座にある者は常に息子に位を継がせようとしそれに反発した有力者が剣を取る。D.クラウデが分析したこの力学によって、王権は王国滅亡の直前まで不安定な側面を持ち続けた[注釈 3]。レカレド王の改宗[編集]
当時のゲルマン人の集団改宗は近代的な個人の信仰心のあり方と同列に論じることはできない[14]。3世紀までのキリスト教への改宗は、使徒や宣教者の超自然的能力に対する驚きや感嘆、あるいは殉教の目撃という個人的体験に基づいて行われていたのに対し4世紀以降の改宗は崇敬感情よりも政治的熟慮のほうが勝っており、宣教活動は支配者を対象として行われた[22]。また西ゴート王国は改宗以前に、被支配民であるローマ系住民はカトリック、支配者であるゴート族はアリウス派からカトリックへの改宗が進んでおり、両者のアイデンティティーの統合は進みつつあった[23]。レカレド王は改宗後に徹底的なアリウス派根絶に努めており、それにより王を中心とする政治的宗教的統一体形成の基盤をなしたという見方もある[15]。宗教政策[編集]
589年のレカレド1世によるカトリック改宗も先住ラテン人たちとの対立解消に役立ったが、同時にアリウス派を信じる人々との溝が深まり内戦の原因となった。レカレド1世は同時にローマ貴族であるフラウィウス氏を名乗るが、これも民族融和策の一つと考えられている。王国の初期にはユダヤ人に対しても寛容であったが、宗教の政治への介入が強まるにつれて非寛容へと転じていった。 第4回トレド公会議で定められた75のカノンの最後のカノンにおいて、イスパニアの君主と教会の関係に言及している。このカノンはのちの公会議で繰り返し言及され、西ゴート王国における聖俗の権力関係を規定していくことになった。カノンは西ゴート古来の選挙王制に言及し、ゴート人の代表と聖職者によって王が選ばれるべきと述べる。さらに王に正義と敬虔を要求し、法による支配を求め、法に反した支配をおこなった王は破門されると記す。このような規定により、イスパニアの教会はここにおいて西ゴート王国の現実政治に直接的な責任を負う存在と自らを位置づけたのである。[24]。王権と教会の関係[編集]
西ゴート王国の王権と教会の関係については、特に王のカトリック改宗後の両者の関係を﹁神権政治﹂ないし﹁神政政治﹂と見る見方が18世紀以来支配的であったが1930年代に国王の側に主導権を認め、君主専制国家として教会を従属させていたと見る見方が提起された。[25][26] また改宗前の西ゴート王国については、フランク王国を除く他のゲルマン民族国家と同様、支配者と被支配民の間で信仰が異なる﹁二重国家﹂の典型として見られてきたが、そのことが過去の日本において、カトリック改宗後の西ゴート王国について研究を滞らせてきた[27]。年表[編集]
●375年 - ゲルマン民族の大移動。西ゴート族、ローマ帝国内へ侵入 ●408年 - アラリック1世がローマ包囲 ●410年 - ローマ占領 ●415年 - 都をトロサに定め建国 ●418年 - テオドリック1世即位 ●451年 - ローマ帝国と連合を組みアッティラとカタラウヌムの戦い。勝利を得るもテオドリック1世は戦死。 ●456年 - 一時的に西ローマ帝国の実権を掌握。 ●475年 - エウリック王法典編纂︵対象はゴート族︶ ●476年 - 西ローマ帝国で西ローマ皇帝が消滅 ●506年 - アラリック抄典編纂︵東ローマ帝国のテオドシウス法典の焼き直し。対象は、ゴート人とイベロ=ローマ人︶ ●507年 - フランク王国とブイエの戦いに敗北、アラリック2世が戦死。スペインのみの統治に ●549年 - メリダに遷都 ●554年 - 東ローマ帝国の攻撃に遭いスペイン南部を喪失 ●560年 - トレドに遷都 ●579年 - ヘルメネギルドが父王レオヴィギルドに対して反乱を起こす︵ヘルメネギルドの乱︶。 ●584年 - ヘルメネギルドの乱終結。 ●585年 - スエボス︵スエビ︶王国を併合。ヘルメネギルドが処刑される。 ●589年 - カトリックを公認。レカレド1世も改宗 ●621年 - イベリア半島統一[注釈 4] ●654年 - 属人法を廃止 ●673年 - 第30代ワムバ王︵Wamba︶に対するヒルデリックの反乱 ●694年 - ユダヤ人を迫害 ●711年 - ウマイヤ朝の攻撃にあい滅亡︵グアダレーテ河畔の戦い︶ ●718年 - 完全に滅亡系図[編集]
文献[28][29][30][31]
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| アラリック1世1 |
| 娘 |
| アタウルフ2 |
| ガッラ・プラキディア (ローマ皇女) |
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| (子または婿) テオドリック1世5 |
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| トリスムンド6 |
| テオドリック2世7 |
| フレデリック |
| エウリック8 |
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| アラリック2世9 |
| テオデゴンダ (東ゴート王テオドリック娘) |
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| クローヴィス1世 フランク王 |
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| (庶子) ゲサリック10 |
| アマラリック11 |
| クロティルダ |
| クロタール1世 フランク王 |
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| リウヴァ1世16 |
| テウドシア |
| レオヴィギルド17 |
| ゴイスウィンタ |
| アタナギルド15 |
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| レカレド1世18 |
| ブルンヒルド |
| シギベルト1世 アウストラシア王 |
| ガルスウィント |
| キルペリク1世 ネウストリア王 |
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| ヘルメネギルド |
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| イングンド |
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| アタナギルド |
| リウヴァ2世19 |
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| シセブト22 |
| 娘 |
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| スウィンティラ24 |
| テオドラ |
| レカレド2世23 |
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| キンダスウィント28 |
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| シセナンド25 |
| キンティラ26 |
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| レケスウィント29 |
| テオデフレード |
| 娘(ゴダorゴド) |
| アルデバルト |
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| トゥルガ27 |
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| ロデリック34 |
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| エルウィグ31 |
| リウヴィゴート |
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| ワムバ30 |
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| キクシロ |
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| エギカ32 |
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| ウィティザ33 |
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| アギラ2世35 |
| アルド36 |
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脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 五十嵐ミドリ 1992, pp. 245–247.
- ^ a b 足立広明 1999, p. 214.
- ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 124.
- ^ ブライアン・ウォード=パーキンズ 2014, p. 36.
- ^ 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎 2008, pp. 37–38.
- ^ 山田信彦 1992, pp. 34–35.
- ^ a b 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎 2008, p. 40.
- ^ 玉置さよ子 1996, p. 56.
- ^ 尚樹啓太郎 1999, p. 66.
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