ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74
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『ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74』 | |
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ジョン・レノン&ポール・マッカートニー の ブートレグ・アルバム | |
リリース | |
録音 |
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ジャンル | ロック |
時間 | |
レーベル | Mistral Music |
﹃ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74﹄︵A Toot and a Snore in '74︶は、1992年に発売されたブートレグ・アルバムである。1974年3月28日にロサンゼルスで行われたジョン・レノン、ポール・マッカートニーらによるジャム・セッションの模様が収録されている[2][注釈 1]。
解説[編集]
セッションに至る背景[編集]
1970年4月にビートルズが事実上解散[注釈 2]して以来、レノンとマッカートニーは個人的に会うことも連絡することも全くなかった。また1974年当時は、ビートルズの法的な解散に関する合意が未決着であった[注釈 3]。 レノンは前年7月にオノ・ヨーコと別居し[7]、フィル・スペクターをプロデューサーに起用した﹃ロックン・ロール﹄のレコーディングのためにロサンゼルスに滞在していた[注釈 4]。ところが12月にスペクターがセッション・テープを持ったまま姿をくらましてしまったため、レコーディングが中断を余儀なくされ、レノンはハリー・ニルソンの新しいアルバムをプロデュースすることを決めた。 一方、マッカートニーは前年12月にウイングスのサード・アルバム﹃バンド・オン・ザ・ラン﹄をリリースすると、1月からは弟マイクのアルバム﹃マクギア﹄の制作を行っていた。レコーディングが一段落すると、キャピトル・レコードとの話し合いのためにロサンゼルスを訪れていたが、ナイトクラブでの一件[注釈 5]を知り、心配したマッカートニーはレノンに会うために、家族を連れてサンタモニカに向かった[7]。セッション当日[編集]
3月28日、レノンはバーバンク・スタジオでニルソン、リンゴ・スター、ジェシ・エド・デイヴィス、ボビー・キーズ、ダニー・コーチマーら共に、﹃プシー・キャッツ﹄のレコーディングを始めていた。その日のレコーディングが終わってスターらが帰った後、スティーヴィー・ワンダーが来て[注釈 6]ジャム・セッションを行っていると、突然マッカートニー夫妻が訪問してきた[2]。 レノンはとりあえず握手をしながら﹁勇敢なポール・マッカートニーとお見受けしますが?﹂と挨拶した。マッカートニーはすぐ﹁勇敢なジャスパー・レノンとお見受けしますが?﹂と返した。これはロンドンのフィンズバリー・パークにあったオデオン・アストリアで、1963年12月24日から1964年1月11日まで行われた﹁ザ・ビートルズ・クリスマス・ショー﹂の中で演じたコントのセリフだった[10]。レノンの秘書で当時のガールフレンドであったメイ・パンは、﹁ポールが来るなんてまったく知らなかった。振り向いたらそこにいたのよ﹂と回想している[2]。 マッカートニーはスターのドラムを、リンダはハモンドオルガンでセッションに参加し、﹁スタンド・バイ・ミー﹂や﹁ミッドナイト・スペシャル﹂などを演奏した[3]ニルソンはバッキング・ヴォーカルで参加した[注釈 7]。 セッションは飲酒と薬物摂取しながらのものとなった[1][注釈 8]。マッカートニーは﹁あの場において酔ってない人間はいなかったと思う。﹂と振り返っている[注釈 9]。また、キーズはセッションについて何度か質問されたが全く思い出せなかったし、ワンダーは﹁クレイジーで、おもしろかったよ﹂と語ったが、記憶はあやふやだった[注釈 10]。その後[編集]
翌日の午後、マッカートニー夫妻は3人の娘、ヘザー、メアリー、ステラを連れてレノンが借りていたビーチハウスを訪問し、ひと時を過ごした[14]。その後、アカデミー賞の授賞式に参列し、イギリスに戻った。 レノンは4月下旬にニューヨークに戻ると、6月に﹃プシー・キャッツ﹄を完成させ、8月に﹃心の壁、愛の橋﹄、10月には﹃ロックン・ロール﹄と2枚のアルバムのレコーディングを行うなど精力的に活動した。一方、マッカートニーは6月からナッシュビルで新メンバーによるウイングスのアルバム制作に向けてのリハーサル・セッションを行い、その際にレコーディングした﹁ジュニアズ・ファーム/サリー・G﹂を10月にリリースした。 12月19日、レノン、マッカートニー、ジョージ・ハリスンの3人はビートルズの法的解散合意書にサインすることになっていた[注釈 11]。ところが土壇場になってレノンは﹁今日は星の巡りが悪い﹂と言って姿を見せなかった[注釈 12]。ハリスンは激怒した[注釈 13]が、マッカートニーが執りなし、レノンは翌日のツアーの打ち上げパーティーで謝罪した。 1975年1月、マッカートニーからウイングスの﹃ヴィーナス・アンド・マース﹄のレコーディング・セッションに誘われていたレノンは、パンと共にニューオリンズに向かう準備を進めていた。ところが出発直前にオノからの連絡を受け、そのままレノンは別居生活に終止符を打ち、セッションへの参加をキャンセルしてしまった[注釈 14]。 その後、ショーンの誕生を受け﹁主夫﹂生活を送っていたレノンをプライベートでマッカートニーが訪ねることが何回かあったが、それも途絶えてしまった。結局、1980年12月にレノンが亡くなったため、結果的にハリウッドでのセッションが音源の残されている二人の共演の最後となってしまった。アートワーク[編集]
アルバムのフロントカバーは、1979年にEMIからリリースされたコンピレーション・アルバム﹃ザ・ソング・オブ・レノン&マッカートニー﹄のデザインをもとに、セッションの参加者の写真やイラストをコラージュしている[注釈 15]。 なお、タイトルは﹁痛飲と退屈﹂もしくは﹁コカインの吸入といびき﹂[注釈 16]という、飲酒とコカインを摂取しながら行った状況を表しており、セッション中の会話が基になっている[1][2]。収録曲[編集]
# | タイトル | 作詞・作曲 | オリジナル・シンガー(リリース年) | 時間 |
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1. | 「ア・トゥート・アンド・ア・スノア」(A Toot and a Snore) | |||
2. | 「ブルージー・ジャム・セッション」(Bluesy Jam Session) | |||
3. | 「スタジオ・トーク」(Studio Talk) | |||
4. | 「ルシール」(Lucille) | リトル・リチャード、アルバート・コリンズ | リトル・リチャード(1957年) | |
5. | 「スリープ・ウォーク[15][注釈 17]」(Sleep Walk) | サント・ファリーナ、ジョニー・ファリーナ、アン・ファリーナ[16] | サント&ジョニー(1959年) | |
6. | 「スタンド・バイ・ミー」(Stand By Me) | ベン・E・キング、ジェリー・リーバー、マイク・ストーラー | ベン・E・キング(1961年) | |
7. | 「スタンド・バイ・ミー」 | |||
8. | 「スタンド・バイ・ミー」 | |||
9. | 「キューピッドよ あの子を狙え / チェイン・ギャング / 9ポンドのハンマー[注釈 18]」(Cupid / Chain Gang / Take This Hammer) | サム・クック [注釈 19] / サム・クック、チャールズ・クック[注釈 20] / トラディショナル・フォーク | サム・クック(1961)/ サム・クック(1960)/トラディショナル(1915) | |
合計時間: |
参加ミュージシャン[編集]
- ジョン・レノン - リード・ボーカル、ギター
- ポール・マッカートニー - ハーモニー・ボーカル、ドラム
- リンダ・マッカートニー - ハモンドオルガン[注釈 21]
- ジェシ・エド・デイヴィス - ギター
- エド・フリーマン - ベース[注釈 22]
- ハリー・ニルソン - ハーモニー・ボーカル[19]
- スティーヴィー・ワンダー - エレクトリックピアノ
- ボビー・キーズ - サクソフォーン
- マル・エヴァンズ - タンバリン[11][注釈 23]
- メイ・パン - タンバリン[注釈 24]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ このセッションの存在は1975年のインタビューでレノンが言及したことで知られることになった。当時はレノンがロサンゼルスで参加していた﹁ジム・ケルトナー・ファンクラブ・アワー﹂[3]ではないかと憶測が飛び、日付も3月30日とされていた。しかし、メイ・パンの1983年の著書﹃Loving John﹄で詳細が明らかになった。またマッカートニーも1997年のインタビューで言及した。
(二)^ 1970年4月10日、マッカートニーがグループを脱退する意向であることがイギリスの大衆紙﹃デイリー・ミラー﹄で報じられた。これはアルバム﹃マッカートニー﹄のリリース前にプレス向けに配付された、マッカートニー自身が用意した資料に基づいた記事であった。一問一答形式の資料の中には﹁今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない﹂とあり、マスコミから﹁脱退宣言﹂だと受け取られた。こうして実質的にビートルズは解散した[4][5]。
(三)^ マッカートニーは1970年12月30日、ロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌年1971年3月12日、裁判所はマッカートニーの訴えを認め、他の3人は上告を断念、この時点でビートルズの解散の判決は確定された。しかし4人が解散合意書にサインを済ませたのは1974年12月で、翌1975年1月9日に法的解散が決まった[6]。
(四)^ また、レノンがメイ・パンと愛人関係にあった時期でもあり、後にレノンはこの時期を﹁失われた週末﹂と称している[8]。
(五)^ 1974年3月、毎晩のように飲み歩いていたレノンはハリウッドのナイトクラブ、トルバドールで2度にわたってトラブルを引き起こした。1度目は当時お気に入りのレコードの1つであった﹁アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン﹂をリリースしたアン・ピーブルスのコンサートで、額に生理ナプキンを付けて歩き回り、ウェイトレスに詰られた。2度目はその2週間後、レノンとニルソンがスマザーズ・ブラザーズを野次った後、前回とは違うウェイトレスと乱闘し、クラブから叩き出された[9]。
(六)^ ワンダーはレコード・プラントでアルバム﹃ファースト・フィナーレ﹄のミックスを行っていた。
(七)^ セッションについて、パンは﹁ジョンとハリーがジャム・セッションをやりたがって、ポールもそれに賛成したの。リンダはハモンドオルガンのところに向かって、ジェシ・エドはギター、ポールはドラムを演奏することになって、私とマルはタンバリンを手に取った﹂と回想している[11]。
(八)^ レノンは﹃ロックン・ロール﹄セッションから飲酒、薬物摂取が常態化していた[2]。
(九)^ どういうわけだったか、僕はドラムを叩くことにしたんだ。それはちょうどパーティーのようなものだった。控えめに言って、﹁無秩序﹂というところか。僕は秩序を取り戻すために﹁みんな、曲を考えよう。いいアイデアじゃないかな﹂と呼びかけたかもしれないけど、実際にそうしたのかは思い出せない、とも語った[12]。
(十)^ ﹃ロックン・ロール﹄セッションと混同しおり、その場にいなかったスペクターの話をしている[13]。
(11)^ スターは事前にロンドンでサインを済ませていた。
(12)^ 代わりに﹁ヨーコとジョンは今夜も元気だ (Yoko & John are allright tonight)﹂というシンプルなメモが添えられた﹁この風船を聴け (LISTEN TO THIS BALLOON)﹂と書かれたプロモーション用風船をホテルに届けてきた。
(13)^ この日のコンサートでレノンと共演する予定だったが、実現しなかった。
(14)^ 前年11月、マディソン・スクエア・ガーデン で行われたエルトン・ジョンのコンサート会場でレノンと再会していたオノは﹁いい禁煙方法を教えるから、一度家に来て。﹂と誘ったと言われている。パンは推測だと断ったうえで﹁ヨーコは、ジョンがポールとまた一緒になったら、自分のもとには二度と戻ってこないと恐れていた﹂と語っている[11]。
(15)^ ﹃ザ・ソング・オブ・レノン&マッカートニー﹄のマッカートニーの横顔はクラウス・フォアマンが描いた、ビートルズのアルバム﹃リボルバー﹄のイラストの一部を再利用、レノンの横顔はアルバム﹃イマジン﹄の裏表紙の写真をイラスト化したものであった。
(16)^ ﹁Toot﹂は痛飲、飲み騒ぐ、鼻からドラッグを吸入することを意味する隠語。本来の意味はラッパや笛を短く吹くこと。また﹁Snore﹂はいびき。転じてとても退屈なものを意味する。
(17)^ CDの裏ジャケットには﹁ナイトメアズ (Nightmares)﹂と掲載されている。
(18)^ CDの裏ジャケットの掲載では﹁チェイン・ギャング﹂が漏れている。
(19)^ CDの裏ジャケットには作者としてワンダーと掲載されているが誤りである。
(20)^ サム・クックの兄であり、チャールズ・クック・ジュニアとしても知られている[17]。
(21)^ CDの裏ジャケットに掲載されているクレジットには未表記。
(22)^ プロデューサー、アレンジャー、ミュージシャン、写真家。隣のスタジオでドン・マクリーンのシングル曲﹁Todos Los Dias (Every Day)﹂をプロデュース中だった。CDの裏ジャケットに掲載されているクレジットには未表記。
(23)^ CDの裏ジャケットに掲載されているクレジットでの担当パートは﹁Tea﹂︵バラされると不都合な秘密やゴシップ、隠された真実︶となっている。
(24)^ CDの裏ジャケットに掲載されているクレジットでの担当パートは﹁Sympathy﹂︵悪い状況にある人への同情、思いやり︶となっている。
出典[編集]
(一)^ abcdDoyle 2014, p. 140.
(二)^ abcdeWomack 2014, p. 920.
(三)^ ab“Record Plant - Los Angeles - Jim Keltner Fan Club”. liquisearch.com. 2022-09-31閲覧。
(四)^ ビートルズと60年代 1996, pp. 394–395.
(五)^ アップル・コア 2000, pp. 350–352.
(六)^ 藤本国彦 2021, p. 277.
(七)^ ab“ヨーコ・オノ﹁ジョン・レノンとの結婚を救ってくれたのはポール・マッカートニー﹂”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク (2010年10月12日). 2022年10月20日閲覧。
(八)^ White, Dave. "Interview: May Pang‐Lennon's "Lost Weekend" Lover" (Interview). About.com, Classic Rock. 2012年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月21日閲覧。
(九)^ “A Day in the Life : Photographing John Lennon During His Lost Weekend”. zimberoff.medium.com (2019年1月18日). 2022年3月31日閲覧。
(十)^ “4人のアイドル、ビートルズによるクリスマスショウ”. TAP the POP (2014年12月23日). 2022年10月23日閲覧。
(11)^ abc桑原亘之介 (2021年5月15日). “︻スピリチュアル・ビートルズ︼70年代半ば、急接近していたジョンとポール メイ・パンが語る﹁失われた週末﹂”. www.kyodo.co.jp. 共同通信社. 2022年1月21日閲覧。
(12)^ Hiatt, Brian (2012年2月15日). “Paul McCartney: The Beatles Considered Reuniting”. Rolling Stone (Penske Media Corporation) 2022年1月25日閲覧。
(13)^ “Stevie Wonder Remembers John Lennon, Paul McCartney Jam Session In VMan Magazine”. HuffPost. HuffPost Entertainment (2011年5月25日). 2022年1月21日閲覧。
(14)^ “ジョン・レノンとポール・マッカートニーが一緒に写った最後の写真を発掘 74年3月29日撮影”. amass (2023年11月1日). 2024年2月1日閲覧。
(15)^ Engelhardt, Kristofer (1 March 2010). Beatles Deeper Undercover (Updated version ed.). Collectors Guide Publishing. p. 234. ISBN 9781926592091. "The historic evening ended with a jam of "Lucille", "Sleepwalk" (sic), "Stand By Me", "Cupid", "Chain Gang", "Take This Hammer"."
(16)^ Bronson, Fred (1992). Billboard Book of Number One Hits. New York, New York: Billboard Publications, Inc.. pp. 58. ISBN 0-8230-8298-9
(17)^ “discogs.com”. discogs.com. 2022年10月21日閲覧。
(18)^ Andrew Grant 2012, p. 114.
(19)^ DeRiso, Nick (2016年3月28日). “Why John Lennon and Paul McCartney's Final Session Was a Bust”. Ultimate Classic Rock. Townsquare Media. 2022年1月21日閲覧。
参考文献[編集]
- アップル・コア『ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版』リットーミュージック、2000年。ISBN 4-8456-0522-8。
- Jackson, Andrew Grant (2012). Still the Greatest: The Essential Songs of the Beatles' Solo Careers. Scarecrow Press. ISBN 0-8108-8222-1
- Doyle, Tom (2014) [2013]. Man on the Run: Paul McCartney in the 1970s. U.S.: Random House Publishing Group. ISBN 0-8041-7915-8
- Womack, Kenneth (2014). The Beatles Encyclopedia: Everything Fab Four. Santa Barbara, California: ABC-CLIO. ISBN 0-3133-9171-8
- 藤本国彦 (2021). 365日ビートルズ. 扶桑社. ISBN 978-4-5940-8959-7