ロックン・ロール (ジョン・レノンのアルバム)
『ロックン・ロール』 | ||||
---|---|---|---|---|
ジョン・レノン の スタジオ・アルバム | ||||
リリース | ||||
録音 |
| |||
ジャンル | ロック | |||
時間 | ||||
レーベル | アップル/EMI | |||
プロデュース | ジョン・レノン、フィル・スペクター | |||
専門評論家によるレビュー | ||||
チャート最高順位 | ||||
ジョン・レノン アルバム 年表 | ||||
|
﹃ロックン・ロール﹄(英語: Rock 'n' Roll)は、ジョン・レノンが1975年2月に発表した6枚目のスタジオ・アルバム。1950年代後半から1960年代前半の曲を集めたオールディーズ・カバー・アルバムである。全米6位、全英10位を記録した。
2004年にリミックス&デジタル・リマスタリング盤が再リリースされ、ボーナス・トラック4曲が収録された。
解説[編集]
制作に至る経緯[編集]
1973年9月、﹃マインド・ゲームス﹄のレコーディングを終えたレノンは、次回作としてオールディーズのカバー・アルバムを企画した[1]。当時レノンはオノ・ヨーコと別居し、ロサンゼルスで個人秘書のメイ・パンと共同生活していた。幼少期からレノンが好んでいたジェリー・リー・ルイスやファッツ・ドミノの公演を観るためにラスベガスに赴いたのもこの頃であった。折しも、多くのオールディーズが用いられた映画﹃アメリカン・グラフィティ﹄が大ヒットしていたこともあり、テレビでも同時代を舞台にしたドラマ﹁ハッピーデイズ﹂シリーズの制作が始まっていた[注釈 1]。 レノンは﹃サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ﹄以来、疎遠になっていたフィル・スペクターにプロデューサー就任を依頼した[3][4]。スペクターはオールディーズが主流であった時期に名を馳せており、これまでもレノンの作品を多く手掛けていた。レノンは歌手に徹するため、スタジオやミュージシャンの手配など、スペクターにすべて任せることにした [5][6][7][8]。 一方、10月、 チャック・ベリーの楽曲の出版権者モリス・レヴィが起こしていた著作権侵害をめぐる裁判[注釈 2]の審理が12月に始まるという通知がレノンの下に届いた。ロサンゼルスでの自由な生活を送っていたレノンは、裁判のためにニューヨークに戻ることを避けたかったので、法廷外で和解することにした。和解の条件として、レノンが次に発表するアルバムにレヴィのビッグセブン出版社が所有する楽曲から﹁ユー・キャント・キャッチ・ミー﹂を含む3曲を収録することが取り決められた[注釈 3][7]。ロサンゼルスでのレコーディング・セッション[編集]
1973年10月中旬、A&Mスタジオでセッションが始まった[6]。レノンがレコーディングしているというニュースが流れると、ハリウッドの全てのミュージシャンがセッションに参加したがり[2]、実際に30人以上のミュージシャンが参加した[5]。レコーディングは良い雰囲気で始まったが、次第に飲酒が常態化し、ついには誰かがミキシング・コンソールに酒をこぼしてしまったためレノンと関係者はスタジオを使用できなくなった[2]。 まもなくレコード・プラント・スタジオ・ウエストに場所を移してセッションを再開したが、今度はスペクターが精神的に不安定となり、異常な行動を重ねた挙句[注釈 4]、セッションのテープを持って失踪してしまった[10][注釈 5]。その後、音信不通が続き[注釈 6]、1974年3月31日に自動車事故でスペクターが昏睡状態になると、レコーディング再開の目処は全く立たなくなった。仕方なくレノンはプロデューサーとして制作中のハリー・ニルソンのアルバム﹃プシー・キャッツ﹄を完成させるために5月、パンと共にニューヨークに戻った。 結局、20万ドルを超える費用がかかったこのセッションでは、A&Mスタジオで和解条件の﹁エンジェル・ベイビー﹂など8曲[注釈 7]、レコード・プラントで﹁ユー・キャント・キャッチ・ミー﹂など3曲[注釈 8]が録音されたが、もう1曲﹁ヤ・ヤ﹂はまだ出来上がっていなかった。ニューヨークでのレコーディング・セッション[編集]
ニューヨークに戻ったレノンは新曲によるアルバム﹃心の壁、愛の橋﹄のレコーディングを行った。レコーディング開始直前にスペクターからセッション・テープを取り戻すことができた[注釈 9]が、そのまま棚上げにされた[2][15]。 ﹃心の壁、愛の橋﹄を完成させたレノンが確認したロサンゼルスにおけるセッション・テープはどれも満足できるものではなかった。またスペクターがオーバーダビングを重ねたためにボーカルと演奏が混交したテープは復元不可能であった。レノンは全てを破棄して新しく録音し直そうとも考えたが、多額の出費を余儀なくされたレコード会社から拒否された。そこでレノンは同音源を使うことを前提として、アルバムを作るために十分な素材を追加することにした。 ところが9月末に﹃心の壁、愛の橋﹄が発売されると、おまけのように収録された﹁ヤ・ヤ﹂[注釈 10]以外が全て新曲だったため、約束を反故にされたと感じたレヴィが激怒し、和解を撤回し再提訴すると通告してきた[7]。慌てたレノンはレヴィにレコーディングが遅れている経緯を説明し、セッション・テープを聴かせて、実際にカバー・アルバムを制作中であることを保証した。納得したレヴィはレコーディングに先立って、ニューヨーク州ゲントにある彼の農場をリハーサルのために使わせた[15][16]。 10月中旬、レノンは﹃心の壁、愛の橋﹄のセッション・ミュージシャンを呼び戻し、オリジナルのアレンジに近づけるようにリハーサル・セッションを行うと[注釈 11]、21日から僅か5日間で集中的に行われたレコーディング・セッションでは、残されていた﹁ヤ・ヤ﹂など10曲[注釈 12]の録音と﹁ジャスト・ビコーズ﹂のボーカルを録り直した[16][17]。その後、ミキシングと編集は11月中旬まで続いた[16]。また、それまで仮に﹃オールディーズ・バット・モールディーズ(Oldies But Mouldies)﹄[注釈 13]と呼ばれていたアルバム・タイトルも、正式に﹃ロックン・ロール﹄となり[18]、1975年4月にリリースすることが決定された[4][6]。アルバム『ルーツ』[編集]
『ルーツ』 | |
---|---|
ジョン・レノン の スタジオ・アルバム | |
リリース | |
録音 | 1973年10月-1974年10月25日 |
ジャンル | ロック |
時間 | |
レーベル | Adam Ⅷ |
プロデュース | ジョン・レノン、フィル・スペクター |
﹃ルーツ﹄(英語: Roots: John Lennon Sings the Great Rock & Roll Hits)は、レノンが提供した﹃ロックン・ロール﹄セッションのラフ・ミックス・テープからレヴィが製作し、1975年に自身のレーベル、アダムⅧから通信販売でリリースされたアルバムである。
レノンはアルバム制作が順調に進み、完成間近であることをレヴィに確認してもらうためにラフ・ミックスのコピーを渡した[7][13]。レヴィは以前よりレノンに、双方がより大きな分配を受けるためにキャピトル/EMIを通さずに自身のレーベルから直接リリースすることを提案していた。レノンはいったん承諾したものの、セッションに多くの資金と時間を費やしたレコード会社のいずれもが手放すはずもなく、結局レヴィの提案を断り、レノンが自身の録音契約に従ってリリースすることにした[7]。
再び裏切られたと思ったレヴィは、レノンが提供したラフ・ミックスのコピーテープからアルバムを3000 [注釈 14]製作し、﹁ゲット・バック・セッション﹂中に撮影されたレノンの写真を使ったジャケットに収め、テレビで通常の市場価格より2ドル低い価格[注釈 15]でアダムVIIIレーベルから通信販売をするという宣伝を行った[7][19]。併せて、レノン、EMI、キャピトルに対して契約不履行で4200万ドルを求める訴えを起こした[13]。これに対してキャピトル/EMI側は販売の差し止めと損害賠償の訴えを起こす[13]とともに、テレビ局にテレビコマーシャルの放映を取り止めるように要請した。またアダムⅧの供給業者にも圧力をかけ、取次を停止させた[7]。
結局﹃ルーツ﹄は差し止められるまでの3日間で合計1,270枚が販売されたが、総売上は7,000ドル未満で、アルバムの制作費とマーケティング費用をまかなうことはできなかった[7]。さらにレヴィは裁判でも敗訴し、レノンとキャピトル/EMI に対して14万4,700ドルの賠償金を支払う一方で、レノン側の和解案違反[注釈 16]に対する6,795ドルの損害賠償金を得るにとどまった[4][7] [13]。﹃ルーツ﹄の生産と流通は停止され、アルバムの廃棄が命じられた。
収録曲は次の通り。
# | タイトル | 作詞・作曲 | オリジナル・シンガー(リリース年) | 時間 |
---|---|---|---|---|
1. | 「ビー・バップ・ア・ルーラ」(Be-Bop-A-Lula) |
| ジーン・ヴィンセント(1957年) | |
2. | 「エイント・ザット・ア・シェイム」(Ain't That A Shame) | ファッツ・ドミノ(1955年) | ||
3. | 「スタンド・バイ・ミー」(Stand By Me) | ベン・E・キング(1961年) | ||
4. | 「スウィート・リトル・シックスティーン」(Sweet Little Sixteen) | チャック・ベリー | チャック・ベリー(1958年) | |
5. | 「メドレー:リップ・イット・アップ / レディ・テディ」(Medley: Rip It Up / Ready Teddy) | リトル・リチャード(1957年) | ||
6. | 「エンジェル・ベイビー」(Angel Baby) | ロージー・ハムリン | ロージー・アンド・ザ・オリジナルズ(1960年) | |
7. | 「踊ろよベイビー」(Do You Wanna Dance) | ボビー・フリーマン | ボビー・フリーマン(1958年) | |
8. | 「ユー・キャント・キャッチ・ミー」(You Can't Catch Me) | チャック・ベリー | チャック・ベリー(1956年) | |
合計時間: |
# | タイトル | 作詞・作曲 | オリジナル・シンガー(リリース年) | 時間 |
---|---|---|---|---|
1. | 「ボニー・モロニー」(Bony Moronie) | ラリー・ウィリアムズ | ラリー・ウィリアムズ(1957年) | |
2. | 「ペギー・スー」(Peggy Sue) | バディ・ホリー(1957年) | ||
3. | 「メドレー:悲しき叫び / センド・ミー・サム・ラヴィン」(Medley: Bring It On Home / Send Me Some Lovin') |
| サム・クック(1962年)/ リトル・リチャード(1956年) | |
4. | 「スリッピン・アンド・スライディン」(Slippin' And Slidin') |
| リトル・リチャード(1956年) | |
5. | 「ビー・マイ・ベイビー」( Be My Baby) | ザ・ロネッツ(1963年) | ||
6. | 「ヤ・ヤ」(Ya Ya) | リー・ドーシー(1961年) | ||
7. | 「ジャスト・ビコーズ」(Just Because) | ロイド・プライス | ロイド・プライス(1957年) | |
合計時間: |
『ロックン・ロール』の正式リリース[編集]
事前にレヴィの動きを察知していたキャピトルは予定を大幅に前倒しし、﹃ルーツ﹄発売の10日後の2月17日には﹃ロックン・ロール﹄を正式にリリースした[7][8]。ただ急ぎの作業だったため、初回プレスは、LPが2,444枚、8トラック・カートリッジが500本だけという、通常のリリースと比べると大幅に少ない数にとどまり、しかも﹃ルーツ﹄に対抗するために通常価格より1ドル安く販売せざるをえなかった[1][19]。2月21日にはイギリスでもリリースされた[20]。その際、﹁エンジェル・ベイビー﹂と﹁ビー・マイ・ベイビー﹂の2曲は外され[注釈 17]、﹁ユー・キャント・キャッチ・ミー﹂は最初の詩を繰り返す編集を行い、約50秒引き伸ばされた。
3月10日にアメリカで、4月18日にイギリスで﹁スタンド・バイ・ミー﹂がシングル・カットされた[21][注釈 18]。レノンはプロモーションを兼ねて4月18日に放映されたBBCのテレビ番組﹁オールド・グレイ・ホイッスル・テスト﹂に出演し、ボブ・ハリスからのインタビューも受けた[22][注釈 19]。また6月13日に放映された﹁ア・サルート・トゥー・サー・ルー・グレード﹂にも出演し、ライヴ・パフォーマンスを披露した[注釈 20]。B面には未発表曲﹁ようこそレノン夫人﹂を収録したものの、アメリカでは20位、イギリスでは30位を記録するにとどまった[21][注釈 21]。2枚目のシングルとして﹁スリッピン・アンド・スライディン / エイント・ザット・ア・シェイム﹂が予定され、プロモーション盤も作成されたがリリースされなかった[注釈 22]。
結局、アメリカ、イギリスともにアルバム・チャートで6位を記録し、イギリスでは合計25週間チャートインしたものの、前作からわずか5か月足らずでのリリースだったことと先行シングルの発売がなかったこと、そしてオールディーズ・ブームが既に落ち着いていたため、期待されるほど売り上げは伸びなかった[注釈 23][注釈 24]。
その後[編集]
レノンはこの年、1967年から9年間にわたるEMI/キャピタルとのレコーディング契約が満了する前に新曲のアルバム制作を計画していた[注釈 25]。しかし、前年末に和解したオノ・ヨーコが妊娠したため[注釈 26]、過去の作品を集めたコンピレーション・アルバム﹃シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡﹄を10月にリリースした[27]。その後、レノンは﹁主夫﹂宣言を行い、息子ショーンの育児に専念するため音楽活動を停止した[注釈 27]。そのため、1976年2月満了のEMI/キャピトルとのレコーディング契約の更新には興味を示すことはなく[28]、1980年にアルバム﹃ダブル・ファンタジー﹄を発表するまでは他のレコード会社との契約を結ぶこともなかった。 アメリカでは、レノンの音楽シーンへの復帰が話題となっていた1980年10月に廉価版で再リリースされた[29]。イギリスではレノンの死後、1981年1月17日に再びチャート入りし、64位となった[22]。また他の7枚のアルバムと共にボックスセットとして6月15日に[30]、11月25日には低価格レーベルのミュージック・フォー・プレジャーから異なるジャケットデザインでリリースされた[29]。またベルギー[31]とフランスでは、ビートルズの﹃ロックンロール・ミュージック﹄と共にボックスセットの一部として1981年にリリースされた[29]。オーストラリアでは1988年に﹁Rip It Up﹂とタイトルが付けられ、別のジャケットで再リリースされた[注釈 28]。 1986年にリリースされたコンピレーション・アルバム﹃メンローヴ・アヴェニュー﹄に、ロサンゼルス・セッションから﹁ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン﹂[注釈 29]﹁エンジェル・ベイビー﹂[注釈 30]﹁マイ・ベイビー・レフト・ミー﹂﹁トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー﹂の4曲の未発表曲が収録された。一方﹃ロックンロール・ロール﹄は1987年に初めてCD化された[4]が、ボーナス・トラックは含まれなかった。1998年に発表されたボックス・セット﹃ジョン・レノン・アンソロジー﹄には﹁ビー・マイ・ベイビー﹂が初めて収録された。 2004年、オノの監修の下で﹃ロックン・ロール﹄リミックス&デジタル・リマスタリング盤がリリースされ、ボーナス・トラックとして﹁エンジェル・ベイビー﹂﹁トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー﹂﹁マイ・ベイビー・レフト・ミー﹂﹁ジャスト・ビコーズ (リプライズ)﹂が収録された。批評[編集]
専門評論家によるレビュー | |
---|---|
レビュー・スコア | |
出典 | 評価 |
AllMusic | [33] |
Christgau's Record Guide | B?[35] |
Mojo | [36] |
The Music Box | [37] |
MusicHound | 4/5[38] |
Paste | [39] |
Pitchfork Media | 7.1/10[34] |
Rolling Stone | (unfavourable)[40] |
The Rolling Stone Album Guide | [41] |
Uncut | [42] |
一部の批評家はこのアルバムを﹁後戻りした﹂と揶揄したが、ローリングストーン誌のアルバムガイドは﹁レノンはこれらの古典に品位を与えている。彼の歌は優しく、説得力があり、好感が持てる﹂と書いている[43]。オールミュージックはこのアルバムを﹁︵レノンの︶イマジン以降の作品における頂点として、証明するものは何もなく、努力する必要もない彼を捉えたアルバム﹂と評している[33]。
ジャケット写真の撮影現場、現在の様子
レノンはアルバム・ジャケットに幼少期に描いた絵を使うことを計画しており、アートディレクションはロイ・コハラ[注釈 31]が担当していた。ところがレコーディングが中断してしまったため、既に制作が始まっていたアートワークが宙に浮いてしまった。そこでレノンはこれを﹃心の壁・愛の橋﹄に使うことにし、新たなアイデアを探した。
1974年9月、レノンの代わりに第1回ビートルフェストに参加したパンは、ビートルズが1961年のハンブルクツアーの際に撮影された写真が販売されているのを見つけ、すぐに伝えた[注釈 32]。これはドイツ出身の旧友ユルゲン・フォルマーによるもので、その後再会したレノンは彼の作品の中から、ハンブルグの繁華街ザンクトパウリ地区ウォルウィル通りにある建物[46]の入り口にもたれかかる自分と、その前を横切るポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、スチュアート・サトクリフのぼやけたシルエットが写っている1枚をアルバム・ジャケット用に選んだ[17]。またレノンはジョン・ウオモト[注釈 33]がカバーアート用に制作したネオンサインの中にあった﹁ROCK 'N' ROLL﹂の文字が気に入り、正式タイトルに採用した[47]。
アートワーク[編集]
収録曲[編集]
プロデュース及びアレンジはレノン。但し**の曲はロサンゼルスでのセッションからの音源で、プロデュース、アレンジはスペクターが行い、レノンはリプロデュース、リアレンジを行った。オリジナル・アナログ・LP[編集]
# | タイトル | 作詞・作曲 | オリジナル・シンガー(リリース年) | 時間 |
---|---|---|---|---|
1. | 「ビー・バップ・ア・ルーラ」(Be-Bop-A-Lula) |
| ジーン・ヴィンセント(1957年) | |
2. | 「スタンド・バイ・ミー」(Stand By Me) | ベン・E・キング(1961年) | ||
3. | 「メドレー:リップ・イット・アップ / レディ・テディ」(Medley: Rip It Up / Ready Teddy) | リトル・リチャード(1957年) | ||
4. | 「ユー・キャント・キャッチ・ミー **」(You Can't Catch Me) | チャック・ベリー | チャック・ベリー(1956年) | |
5. | 「エイント・ザット・ア・シェイム」(Ain't That A Shame) | ファッツ・ドミノ(1955年) | ||
6. | 「踊ろよベイビー」(Do You Wanna Dance) | ボビー・フリーマン | ボビー・フリーマン(1958年) | |
7. | 「スウィート・リトル・シックスティーン **」(Sweet Little Sixteen) | チャック・ベリー | チャック・ベリー(1958年) | |
合計時間: |
# | タイトル | 作詞・作曲 | オリジナル・シンガー(リリース年) | 時間 |
---|---|---|---|---|
1. | 「スリッピン・アンド・スライディン」(Slippin' And Slidin') |
| リトル・リチャード(1956年) | |
2. | 「ペギー・スー」(Peggy Sue) | バディ・ホリー(1957年) | ||
3. | 「メドレー:悲しき叫び / センド・ミー・サム・ラヴィン」(Medley: Bring It On Home / Send Me Some Lovin') |
| サム・クック(1962年)/ リトル・リチャード(1956年) | |
4. | 「ボニー・モロニー **」(Bony Moronie) | ラリー・ウィリアムズ | ラリー・ウィリアムズ(1957年) | |
5. | 「ヤ・ヤ」(Ya Ya) | リー・ドーシー(1961年) | ||
6. | 「ジャスト・ビコーズ **」(Just Because) | ロイド・プライス | ロイド・プライス(1957年) | |
合計時間: |
2004年リミックス&デジタル・リマスタリング盤[編集]
# | タイトル | 作詞・作曲 | オリジナル・シンガー(リリース年) | 時間 |
---|---|---|---|---|
1. | 「ビー・バップ・ア・ルーラ」(Be-Bop-A-Lula) |
| ジーン・ヴィンセント(1957年) | |
2. | 「スタンド・バイ・ミー」(Stand By Me) |
| ベン・E・キング(1961年) | |
3. | 「メドレー:リップ・イット・アップ / レディ・テディ」(Medley: Rip It Up / Ready Teddy) |
| リトル・リチャード(1957年) | |
4. | 「ユー・キャント・キャッチ・ミー **」(You Can't Catch Me) | チャック・ベリー | チャック・ベリー(1956年) | |
5. | 「エイント・ザット・ア・シェイム」(Ain't That A Shame) |
| ファッツ・ドミノ(1955年) | |
6. | 「踊ろよベイビー」(Do You Wanna Dance) | ボビー・フリーマン | ボビー・フリーマン(1958年) | |
7. | 「スウィート・リトル・シックスティーン **」(Sweet Little Sixteen) | チャック・ベリー | チャック・ベリー(1958年) | |
8. | 「スリッピン・アンド・スライディン」(Slippin' And Slidin') |
| リトル・リチャード(1956年) | |
9. | 「ペギー・スー」(Peggy Sue) |
| バディ・ホリー(1957年) | |
10. | 「メドレー:悲しき叫び /センド・ミー・サム・ラヴィン」(Medley: Bring It On Home / Send Me Some Lovin') |
| サム・クック(1962年)/ リトル・リチャード(1956年) | |
11. | 「ボニー・モロニー **」(Bony Moronie) | ラリー・ウィリアムズ | ラリー・ウィリアムズ(1957年) | |
12. | 「ヤ・ヤ」(Ya Ya) |
| リー・ドーシー(1961年) | |
13. | 「ジャスト・ビコーズ **」(Just Because) | ロイド・プライス | ロイド・プライス(1957年) | |
14. | 「エンジェル・ベイビー **」(Angel Baby) | ロージー・ハムリン | ロージー・アンド・ザ・オリジナルズ(1960年) | |
15. | 「トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー **」(To Know Her Is To Love Her) | フィル・スペクター | テディ・ベアーズ(1958年) | |
16. | 「マイ・ベイビー・レフト・ミー **」(Since My Baby Left Me) | アーサー・クルーダップ | アーサー・クルーダップ(1951年) | |
17. | 「ジャスト・ビコーズ (リプライズ) **」(Just Because (Reprise)) | ロイド・プライス | ロイド・プライス(1957年) | |
合計時間: |
参加ミュージシャン[編集]
- ジョン・レノン - ギター、ボーカル
- ジェシ・エド・デイヴィス - ギター
ロサンゼルス・セッション[編集]
|
|
ニューヨーク・セッション[編集]
- エディー・モトウ - アコースティックギター
- クラウス・フォアマン - ベース、アンサー・ボーカル「Bring It On Home to Me」
- ケニー・アスチャー - キーボード
- ジム・ケルトナー - ドラムス
- アーサー・ジェンキンス - パーカッション
- ジョセフ・テンパリー - サクソフォーン
- フランク・ヴィカリ - サクソフォーン
- デニス・モラウズ - テナーサックス
チャート[編集]
週間チャート[編集]
|
週間チャート(再発時)[編集]
年間チャート[編集]
受賞[編集]
|
関連事項[編集]
●﹁ビー・バップ・ア・ルーラ﹂と﹁エイント・ザット・ア・シェイム﹂の2曲は、後年ポール・マッカートニーも取り上げた。前者はアンプラグド・アルバム﹃公式海賊盤﹄︵1991年︶に収録。後者は1988年発表の﹃バック・イン・ザ・U.S.S.R.﹄に収録後、1989年発売の4曲入りCDシングル﹁マイ・ブレイヴ・フェイス﹂に再収録された。 ●﹁スウィート・リトル・シックスティーン﹂、ボーナストラックの﹁トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー﹂はビートルズ時代にも取り上げており、﹃ザ・ビートルズ・ライヴ!!アット・ザ・BBC﹄にBBCラジオでのライヴ音源が収録されている。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ レノンもメイ・パンと共にハリウッドの撮影セットを訪れていた[2]。
(二)^ レヴィはビートルズの﹁カム・トゥゲザー﹂はベリーの﹁ユー・キャント・キャッチ・ミー﹂のメロディと酷似しており、さらに歌詞の一部 "Here come a flat-top"︵﹁カム・トゥゲザー﹂では "Here come old flat-top"︶を使用しており、著作権を侵害していると主張し、ノーザン・ソングスらを相手取って提訴していた。レノンはこれに関して一貫してベリーの影響は認めているが盗作は否定していた。
(三)^ この時点で残りの2曲は﹁エンジェル・ベイビー﹂、﹁ヤ・ヤ﹂が選ばれた。
(四)^ ある日スペクターは外科医の服装で現れ、スタジオの天井に銃を撃ち込み、レノンの耳を痛めたこともあった[2][9]。またある晩、電話でレノンに、スタジオが燃え尽きてしまったので来ないように、と言ったこともあった。
(五)^ レノンは知らなかったが、スペクターは毎晩、セッションが終わるとスタジオからテープを取り出し、自宅に持ち帰っていた[5][6]。
(六)^ スペクターは一度だけ、レノンに最近起きたウォーターゲート事件の﹁ジョン・ディーンのテープ﹂を持っていると不可解な電話をかけてきたが、レノンはスペクターがセッション・テープを持っていることを意味していると推測した[5][11][12]。
(七)^ 残りの7曲は﹁ボニー・モロニー﹂﹁スウィート・リトル・シックスティーン﹂﹁ジャスト・ビコーズ﹂﹁ビー・マイ・ベイビー﹂﹁トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー﹂﹁ア・ラヴ・ライク・ユアーズ﹂﹁ボーン・トゥー・ビー・ウィズ・ユー﹂。
(八)^ 残りの2曲は﹁マイ・ベイビー・レフト・ミー﹂とこのセッションで唯一のオリジナル楽曲でスペクターとの共作﹁ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン﹂。
(九)^ スペクターがワーナーと契約上のトラブルを抱えていることを知ったキャピトル・レコードのアル・クーリーが、9万ドルおよび3%のロイヤリティーと引き換えにテープの引き渡しを承諾させた[13][14]。但し、当時スペクターの新たなプロデュース・ワークで取り上げられる予定だった﹁ア・ラヴ・ライク・ユアーズ﹂﹁ボーン・トゥー・ビー・ウィズ・ユー﹂の2曲は除かれた。その後2曲はそれぞれ、ハリー・ニルソン&シェールのシングルと、ディオンのアルバム表題曲に取り上げられた。
(十)^ セッションの休憩中に録音された、レノンの当時11歳の息子ジュリアンがドラムを叩いている1分ほどの断片。
(11)^ ﹁カモン・エヴリバディ﹂、﹁サーティー・デイズ﹂、﹁ザットル・ビー・ザ・デイ﹂など候補のうちいくつかの曲はリハーサルの段階で外れ、実際にレコーディングされることはなかった。またいくつかの即興のジャムも行った[16]。
(12)^ 残りの9曲は﹁ビー・バップ・ア・ルーラ﹂﹁スタンド・バイ・ミー﹂﹁エイント・ザット・ア・シェイム﹂﹁踊ろよベイビー﹂﹁スリッピン・アンド・スライディン﹂﹁ペギー・スー﹂と﹁リップ・イット・アップ / レディ・テディ﹂﹁悲しき叫び / センド・ミー・サム・ラヴィン﹂の2つのメドレー曲、そしてこのセッション唯一のオリジナル楽曲﹁ようこそレノン夫人﹂。この曲は﹃心の壁、愛の橋﹄のセッションでも録音され、アルバムに収録される予定であったが、結局外されていた[14]。﹁ボニー・モロニー﹂も再録音されたが、スタッフのミスで使用不能となってしまった。
(13)^ これは﹁オールディーズ﹂が一つの音楽ジャンルを示す言葉として世に広まるきっかけとなったコンピレーション・アルバム﹃オールディーズ・バット・グッディーズ(Oldies But Goodies)﹄をもじったものであり﹁古いけどいい曲、だけど古臭い曲﹂という意味である。﹁Mouldies﹂は﹁かび臭い﹂﹁古臭い﹂を意味する形容詞﹁Mouldy﹂を名詞化、複数形にした、レノンの造語である。
(14)^ アナログLPが2500枚、8トラックテープが500本。
(15)^ アルバム1枚4ドル98セント、テープ1本5ドル98セント。
(16)^ ﹃ロックン・ロール﹄には和解条件の﹁エンジェル・ベイビー﹂が収録されていなかった。
(17)^ この2曲はそれぞれ﹃メンローヴ・アヴェニュー﹄(1986年)、﹃ジョン・レノン・アンソロジー﹄(1998年)に収録された。
(18)^ アルバムの発売に際して先行シングルをリリースしなかったのは﹃イマジン﹄以来だった。
(19)^ 番組では﹁スタンド・バイ・ミー﹂と﹁スリッピン・アンド・スライディン﹂をカラオケに合わせて歌った[22]。
(20)^ 4月18日にニューヨークの高級ホテル、ウォルドルフ=アストリアで収録されたこのライヴ・パフォーマンスは生前最後のものとなった。﹁スタンド・バイ・ミー﹂﹁スリッピン・アンド・スライディン﹂﹁イマジン﹂を歌った[22]。
(21)^ 1977年4月4日、アメリカで﹁女は世界の奴隷か!﹂とのカップリングで再リリースされた[5]。
(22)^ 日本などでは﹁ビー・バップ・ア・ルーラ / ヤ・ヤ﹂がリリースされた[23]。ドイツでは﹁ヤ・ヤ / ビー・バップ・ア・ルーラ﹂
[24]としてリリースされ、メディア・コントロール・チャートで47位に達した[25]。
(23)^ アメリカでゴールドディスク認定されたのは、発売から16年後の1991年11月だった。
(24)^ レノンはこのアルバムについて次のように語っている。﹁73年にフィルと一緒に始まって、バラバラになった。僕はロサンゼルスの狂った酔狂なシーンの一部となり、最終的に自分ひとりでそれを完成させた。そして、発売される直前までまだ問題があったんだ。言い出したらきりがない、常軌を逸してた、あのアルバムには不運つきまとっているんだ。﹂[26]
(25)^ このアルバムは﹃ビトウィーン・ザ・ラインズ﹄(Between the Lines)というタイトルで、1975年後半にリリースする計画だった。レノン本人も﹃オールド・グレイ・ホイッスル・テスト﹄出演時にニューアルバムとテレビスペシャルを計画していることを語っていた[14]。
(26)^ シングル﹁真夜中を突っ走れ﹂が全米1位になったらコンサートで共演する約束をしていたレノンが、1974年11月28日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトン・ジョンのコンサートに出演した後、来場していたオノと和解したと言われている。なお、共演の模様はシングル﹁メイド・イン・イングランド﹂に収録されている。
(27)^ 10月7日に国外退去命令破棄の判決が下され、9日にショーンが誕生していた[19]。
(28)^ 但し、レコード・レーベルには﹃Rock 'n' Roll﹄と記載されていた[32]。
(29)^ 2006年リリースのサウンドトラック盤﹃アメリカvsジョン・レノン﹄にも収録された。
(30)^ 2010年リリースの4枚組CDセット﹃ギミ・サム・トゥルース.﹄にも収録された。
(31)^ アメリカの写真家、デザイナー。1963年、キャピトル・レコードのクリエイティブ・サービス部門に入社。1972年にアシスタント・アート・ディレクター、1974年にアート・ディレクターに昇進。1980年リリースのボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンドの﹃奔馬の如く﹄で1981年グラミー賞最優秀アルバム・パッケージ・グラミー賞を受賞。ビートルズの﹃ロックン・ロール・ミュージック﹄﹃リール・ミュージック﹄、レノンの﹃メンローヴ・アヴェニュー﹄のアート・ディレクションを担当した[44]。
(32)^ 元々このイベントに賛同していたレノンは参加するつもりでいたが、人ごみに緊張するため断念、パンに面白そうなものがあれば買ってくるように指示をしていた[45]。
(33)^ ビジュアルアーティスト。主にネオン/ネオンレタリングの制作を行っており、ライ・クーダーの﹃ライ・クーダー・ファースト﹄(1970)、テイスト・オブ・ハニーの﹃アナザー・テイスト﹄(1979)、モーテルズの﹃ようこそモーテルズへ﹄(1979)などのタイトル・レタリングを担当した。
出典[編集]
(一)^ abEdmondson 2010, p. 152.
(二)^ abcdePang, May (1983). Loving John. Warner Books
(三)^ Blaney 2005, p. 142.
(四)^ abcdCalkin, Graham. “Rock 'n' Roll”. Jpgr.co.uk. 2013年2月3日閲覧。
(五)^ abcdeBlaney 2005, p. 154.
(六)^ abcdNorman, Philip (2009). John Lennon: The Life (illustrated ed.). HarperCollins. ISBN 978-0-00-734408-6
(七)^ abcdefghijSelf, Joseph C.. “Lennon v. Levy – The Roots Lawsuit”. abbeyrd.best.vwh.net. 2022年3月31日閲覧。
(八)^ ab“John Lennon: The Roots of Rock 'N' Roll”. rarebeatles.com. 2022年3月31日閲覧。
(九)^ O'Hagan, Sean (2007年3月18日). “Bullied, hurt and obsessive; the perfect producer”. The Guardian (London) 2010年5月22日閲覧。
(十)^ Blaney 2005, p. 142,154.
(11)^ John Lennon, "Interview," WNEW NY, September 1974
(12)^ “Beatle Brunch looks back 30 years ago this month to a very special Lennon anniversary”. Joe Johnson's Beatle Brunch (2004年). 2011年9月23日閲覧。
(13)^ abcdeEdmondson 2010, p. 155.
(14)^ abcBlaney 2005, p. 143.
(15)^ abEdmondson 2010, p. 156.
(16)^ abcdBlaney 2005, p. 155.
(17)^ abPang, May (2008). Instamatic Karma. St. Martin's Press. ISBN 9780312377410
(18)^ The Editors of Rolling Stone: The Ballad of John and Yoko, Rolling Stone Press 1982
(19)^ abcIngham 2003, p. 110.
(20)^ abBlaney 2005, p. 153.
(21)^ abBlaney 2005, p. 167.
(22)^ abcdBlaney 2005, p. 168.
(23)^ “-John-Lennon-Be-Bop-A-Lula”. Discogs. 2013年3月30日閲覧。
(24)^ “John Lennon - Ya Ya / Be-Bop-A-Lula (Vinyl) at Discogs”. Discogs. 2013年3月30日閲覧。
(25)^ “charts.de - Ya Ya”. charts.de. 2014年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月5日閲覧。
(26)^ “1975 Rolling Stone Interview With John Lennon by Pete Hamill”. John-Lennon.com. 2011年7月31日閲覧。
(27)^ Blaney 2005, p. 173.
(28)^ Ingham 2003, p. 110,111.
(29)^ abcBlaney 2005, p. 204.
(30)^ Blaney 2005, p. 203.
(31)^ “Beatles Vinyl-Holland”. Beatlesvinyl.com. 2013年2月3日閲覧。
(32)^ “John Lennon – Rip It Up (15 Rock ’N’ Roll Greats)”. Discogs. 2013年3月30日閲覧。
(33)^ abロックン・ロール - オールミュージック
(34)^ “Pitchfork: Album Reviews: John Lennon: Acoustic / Rock 'n' Roll”. Pitchforkmedia.com (2004年11月9日). 2009年2月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月31日閲覧。
(35)^ Christgau, Robert (1981). “Consumer Guide '70s: L”. en:Christgau's Record Guide: Rock Albums of the Seventies. Ticknor & Fields. ISBN 089919026X 2019年3月1日閲覧。
(36)^ Doyle, Tom (2010年11月). “John Lennon Signature Box”. Mojo: p. 114
(37)^ Metzger, John (2004年12月). “John Lennon Rock 'n' Roll”. The Music Box (vol. 11, no. 12). 2014年8月16日閲覧。
(38)^ Gary Graff & Daniel Durchholz (eds), MusicHound Rock: The Essential Album Guide, Visible Ink Press (Farmington Hills, MI, 1999; ISBN 1-57859-061-2), p. 667.
(39)^ Kemp, Mark (2007年10月23日). “John Lennon - Reissues”. Paste. 2014年10月13日閲覧。
(40)^ Landau, Jon. Rolling Stone 22 May 1975: 66
(41)^ “John Lennon: Album Guide | Rolling Stone Music”. Rolling Stone. オリジナルの9 February 2014時点におけるアーカイブ。 2014年8月16日閲覧。.
(42)^ Mulholland, Garry (November 2010). “John Lennon - Remasters”. Uncut: 108. オリジナルの11 November 2014時点におけるアーカイブ。 2014年11月11日閲覧。.
(43)^ Brackett, Nathan (2004年). “John Lennon: Album Guide”. Rolling Stone. 2011年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月5日閲覧。
(44)^ “Roy Kohara”. Discogs. 2022年3月31日閲覧。
(45)^ Badman 2001, p. 132,133.
(46)^ “Information for visitors to Hamburg : Jägerpassage”. Hamburg Tourismus GmbH. 2022年3月31日閲覧。
(47)^ The Editors of Rolling Stone: The Ballad of John and Yoko, Rolling Stone Press 1982
(48)^ abKent, David (1993). Australian Chart Book 1970-1992. St Ives, NSW: Australian Chart Book. ISBN 0-646-11917-6
(49)^ “Top Albums/CDs - Volume 23, No. 8, April 19, 1975”. RPM. 2015年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月3日閲覧。
(50)^ “Album Search: John Lennon” (ASP) (ドイツ語). Media Control. 2012年2月24日閲覧。[リンク切れ]
(51)^ “Yamachan Land (Archives of the Japanese record charts) - Albums Chart Daijiten - The Beatles” (2007年12月30日). 2012年2月24日閲覧。[リンク切れ]
(52)^ “charts.nz John Lennon - Rock 'n' Roll” (ASP). charts.nz. Recording Industry Association of New Zealand. 2012年2月24日閲覧。
(53)^ “norwegiancharts.com John Lennon - Rock 'n' Roll” (ASP). VG-lista. 2012年2月24日閲覧。
(54)^ “swedishcharts.com John Lennon - Rock 'n' Roll” (スウェーデン語). Hung Medien, swedishcharts.com. Sverigetopplistan. 2012年2月24日閲覧。
(55)^ “The Official Charts Company - John Lennon - Rock n' Roll” (PHP). Official Charts Company. 2012年2月24日閲覧。
(56)^ “allmusic ((( Rock 'n' Roll > Charts & Awards > Billboard Albums )))”. AllMusic. 2012年2月24日閲覧。
(57)^ “RPM Top 100 Albums of 1975”. RPM. 2013年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月3日閲覧。
(58)^ “Complete UK Year-End Album Charts”. 2012年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月12日閲覧。
(59)^ "British album certifications – John Lennon – Rock 'n' Roll". British Phonographic Industry.
{{cite web}}
: Cite webテンプレートでは|access-date=
引数が必須です。 (説明) Select albums in the Format field. Select Gold in the Certification field. Type Rock 'n' Roll in the "Search BPI Awards" field and then press Enter.
(60)^ "American album certifications – John Lennon – Rock 'n Roll". Recording Industry Association of America. {{cite web}}
: Cite webテンプレートでは|access-date=
引数が必須です。 (説明)
参考文献[編集]
- Badman, Keith (2001). The Beatles Diary Volume 2: After the Break-Up 1970–2001. London: Omnibus Press. ISBN 978-0-7119-8307-6
- Ingham, Chris (2003). The Rough Guide to The Beatles (1st ed.). London: Rough Guides. ISBN 978-1-84353-140-1
- Blaney, John (2005). John Lennon: Listen to This Book. John Blaney. ISBN 978-0-9544528-1-0
- Edmondson, Jacqueline (2010). John Lennon: A Biography. Santa Barbara, CA: Greenwood. ISBN 978-0-313-37938-3