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ナチ党党大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1937年全国党大会の様子。ツェッペリン広場におけるサーチライトによる光の列柱

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党大会一覧[編集]

回次 日程 開催地 大会のスローガン 備考
1 1923年1月27日-29日 ミュンヘン なし 12か所での公開党大会となった。本大会は1月28日に行われ、ここでヒトラーは自らがデザインした突撃隊旗を突撃隊の各連隊に託し、これは後の党大会まで受け継がれる慣例となった[22]
2 1926年7月3日-4日 テューリンゲン州ヴァイマール 当時、テューリンゲン州はヒトラーの演説を許可していた数少ない州であった為、会場に選ばれた。[23]。この党大会ではクルト・グルーバー率いるザクセンのナチ党青少年組織「大ドイツ青少年連合」を「ヒトラー・ユーゲント」と改称し、党唯一の青少年組織に定めた[22][24]ミュンヘン一揆の失敗による党の解散、そして1925年、党再建後の初の党大会であり、ナチ党の復活を世間にアピールする意味が大きかった[25]。ナチ党はこの時点では弱小政党に過ぎなかったが、それでも3500人ほどの突撃隊の行進を行いヴァイマールでの党大会を締めくくった[26]
3 1927年8月19日-21日 ニュルンベルク およそ2万人の党員が参加した。21日の演説でヒトラーは「ドイツ民族には生存圏が必要であり、それは力による領土拡張によってのみ実現される。しかしドイツは3つの忌むべき思想、国際主義民主主義平和主義によって力を奪われてしまった。この邪悪の三位一体はユダヤ人が創造した物である。」と述べ、生存圏概念を反ユダヤ主義に結び付けた[27]
- 1928年 - 資金不足により開催中止。
4 1929年8月1日-4日 ニュルンベルク この大会をもとに同年、プロパガンダ映画『Der Nürnberger Parteitag der NSDAP[28]が製作された。この大会中に起こったドイツ共産党員とナチ党員との激しい衝突のため、1930年と1931年の大会の開催はニュルンベルク市当局に禁止された。
- 1931年10月17日-18日 ブラウンシュヴァイク 突撃隊の集会という形で行われた[29]
- 1932年 資金不足により開催中止。
5 1933年8月30日-9月3日 国家党大会広場
ニュルンベルク・ルイトポルトハイン(Luitpoldhain)
勝利の大会 政権獲得後の最初の党大会であり、ヴァイマル共和政との戦いに勝利したことから「勝利の大会」と名付けられた。32万人から40万人の人々が参加した。この大会はレニ・リーフェンシュタールが記録映画として収め、『信念の勝利』というタイトルで公開された。
初日の8月30日、ヒトラーはニュルンベルクを「帝国党大会の都市」と宣言した。1927年に党大会を最初にニュルンベルクで開催したのは、ドイツのほぼ中央に位置すること、野外イベントに適したルイトポルトハインという公園があること、ニュルンベルクのナチ党組織は大管区指導者ユリウス・シュトライヒャーのもとでよく組織されていたためその組織力をあてにできたこと、現地の警察がナチ党に好意的であった等の条件が揃っていたた為である。政権獲得後、ニュルンベルクが党大会の開催地となることは、かつて当地が神聖ローマ帝国(第一帝国)の中心地のひとつで、皇帝カール4世の「金印勅書」(1356年)以来、1543年まで帝国議会の開催された街であった伝統と結び付けられ、理念的に正当化されるようになった。
6 1934年9月4日-10日 統一と力の大会 この大会からアルベルト・シュペーア発案の夜間の130基の対空サーチライトによるライトアップが効果的に使用された。これは当時、会場の全体が完成していなかったため、ライトアップにより「光の大聖堂」(Lichtdom)を作って威容を補うことを意図したものだった[30]。サーチライトを提供させられた空軍のヘルマン・ゲーリングは、空軍の備蓄のほとんどを使うことになると猛反発したが、ヒトラーは「他国は、ドイツにはこんなこともできるくらいサーチライトがあり余っているのだと思い込むだろう」と説得した。「光の大聖堂」は演出上、非常に効果的であったので以降の党大会においても毎年実施されることになった[30]

[31]
7 1935年9月10日-16日 自由の大会 ドイツ再軍備宣言によりヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、ヴェルサイユ体制からの解放、自由を記念するため、「自由の大会」と名付けられた。大会開催中の9月13日、ヒトラーはユダヤ人から公民権を奪う法律を急遽策定する旨を内務省に命じ、2日後の9月15日にニュルンベルクに緊急招集した国会でいわゆる「ニュルンベルク法」として可決され、ユダヤ人の市民権を完全に剥奪した。この大会もレニ・リーフェンシュタールが記録し、主に国防軍による軍事演習を中心にした内容となった。『自由の日! – 我らの国防軍』というタイトルで公開され、ナチ党大会記録映画としては最終作となる。
8 1936年9月8日-16日 名誉の大会 ラインラント進駐によりドイツの名誉が回復されたことを記念し、「名誉の大会」と名付けられた。ヒトラーはこの党大会において四カ年計画を発表した。大会にはイギリスの元首相ロイド・ジョージも臨席しており、彼はヒトラーの演説と党大会の美しさに心酔し、帰国後にイギリスの新聞に「我が国にもヒトラーのような優れた素質を持った指導者が欲しいものだ」と寄稿している[32]
9 1937年9月6日-13日 労働の大会 ナチ党の政権獲得以来、失業率が低下していることを記念して「労働の大会」と名付けられた。この党大会には、日本から秩父宮雍仁親王が来賓として臨席している。この大会と前年の大会の模様は、ハンス・ヴァイデマン監督による21分のカラー短編映画『Festliches Nürnberg』として記録されている[33]
10 1938年9月6日-12日 大ドイツの大会 オーストリア併合(アンシュルス)を記念して「大ドイツの大会」と名付けられた。
11 1939年9月2日- 平和の大会 ドイツとドイツ国民の平和への意思を表すために「平和の大会」と名付けられていたが、直前の第二次世界大戦の勃発により開催されなかった。以降の党大会は戦争のため開かれなかった。

ギャラリー[編集]

参考文献[編集]


NSDAP (1933). Nürnberg 1933. Eine Sammlung der wichtigen Reden auf dem Parteitag der Nationalsozialistischen Deutschen Arbeiterpartei vom 30. August bis 3. September 1933, Berlin.. Franz-Eher-Verlag 

  1889-1945 206452001ISBN 978-4760120581 

  1979 

  1970 

  1993 

 2001 

53520031 

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  1. ^ Nürnberg 1933:13
  2. ^ Nürnberg 1933:12
  3. ^ Zelnhefer, Siegfried, 1991 Die Reichsparteitage der NSDAP. Geschichte, Struktur und Bedeutung der größten Propagandafeste im nationalsozialistischen Feierjahr, Nürnberg S.241
  4. ^ スローターダイク(2001) p.24
  5. ^ スローターダイク(2001) p.22
  6. ^ Domarus, Max (Hrsg.), 1973 Hitler. Reden und Proklamationen 1932-1945. Kommentiert von einem deutschen Zeitgenossen, 4Bde, München. S.719
  7. ^ クラウス・フォンドゥンク(1988)『ナチズムと祝祭 国家社会主義のイデオロギー的祭儀と政治的宗教 』(池田昭訳) 未来社 - p.217
  8. ^ a b シュペーア(1970) p.70
  9. ^ シュペーア(1970) p.66
  10. ^ ヴァルター・ベンヤミン, 1981 「パリ書簡」 (針生一郎訳) 『ベンヤミン著作集8』 晶文社
  11. ^ Nürnberg 1933:17
  12. ^ クラウス・フォンドゥンク, 1988 『ナチズムと祝祭 国家社会主義のイデオロギー的祭儀と政治的宗教 』 (池田昭訳) 未来社 p.217
  13. ^ クラウス・テーヴェライト, 1999 『男たちの妄想Ⅰ 女・流れ・身体・歴史 』 (田村和彦訳) 法政大学出版局 p.637
  14. ^ Zelnhefer, Siegfried, 1991 Die Reichsparteitage der NSDAP. Geschichte, Struktur und Bedeutung der grössten Propagandafeste im nationalsozialistischen Feierjahr, Nürnberg. S.130
  15. ^ Behnken, Klaus (Hrsg.), 1980 Deutschland Berichte der sozialdemokratischen Partei Deutschlands (SOPADE) 1934-1940, 7Bde, Frankfurt/M. Bd.2:1019
  16. ^ Stahr, Gerhard, 2001 Volksgemeinschaft vor der Leinwand Der nationalsozialistische Film und sein Publikum, Berlin 106-7
  17. ^ Behnken 1980 Bd.2:714
  18. ^ Zelnhefer1991:206
  19. ^ Zelnhefer 1991:204
  20. ^ Zelnhefer1991:260-5
  21. ^ a b Michael H. Kater: Hitler-Jugend. Aus dem Englischen von Jürgen Peter Krause. Primus-Verlag, Darmstadt 2005, ISBN 3-89678-252-5, p.95
  22. ^ a b 阿部(2001)、p.92
  23. ^ トーランド(1979)、上巻p.249
  24. ^ 『ヒトラー・ユーゲント―青年運動から戦闘組織へ』(中公新書)9ページ。ISBN 978-4121015723
  25. ^ 阿部(2001)、p.135
  26. ^ トーランド(1979)、上巻p.250
  27. ^ トーランド(1979)、上巻p.258
  28. ^ IV. Reichsparteitag der NSDAP, Nürnberg 1929, IWF Wissen und Medien gGmbH
  29. ^ 阿部(2001)、p.186
  30. ^ a b Martin Filler, "Hanging Out with Hitler", review of Martin Kitchen, Speer: Hitler's Architect, New York Review of Books 62:20:36-40 (December 17, 2015)
  31. ^ 阿部(2001)、p.286
  32. ^ 阿部(2001)、p.324
  33. ^ Festliches Nürnberg - インターネット・アーカイブ

外部リンク[編集]