マイケル・ジョーダン
NASCARカップでのジョーダン(2021年) | |||||||||||||||
シャーロット・ホーネッツ | |||||||||||||||
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役職 | オーナー | ||||||||||||||
所属リーグ | NBA | ||||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||||
愛称 | MJ, Mike, Air Jordan, His Airness, Black Jesus, G.O.A.T | ||||||||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | ||||||||||||||
生年月日 | 1963年2月17日(61歳) | ||||||||||||||
出身地 |
ニューヨーク州ニューヨーク ブルックリン区 | ||||||||||||||
身長(現役時) | 198cm (6 ft 6 in) | ||||||||||||||
体重(現役時) | 98kg (216 lb)[a] | ||||||||||||||
キャリア情報 | |||||||||||||||
高校 | エムズレイ・A・レーニー | ||||||||||||||
大学 | ノースカロライナ大学 | ||||||||||||||
NBAドラフト | 1984年 / 1巡目 / 全体3位[1] | ||||||||||||||
シカゴ・ブルズから指名 | |||||||||||||||
プロ選手期間 | 1984年 - 1993年、1995年 - 1998年、2001年–2003年 | ||||||||||||||
ポジション | シューティングガード | ||||||||||||||
背番号歴 | 23, 12,[b] 45 | ||||||||||||||
永久欠番 |
ブルズ 23 ヒート 23 | ||||||||||||||
経歴 | |||||||||||||||
1984-1993 | シカゴ・ブルズ | ||||||||||||||
1995-1998 | シカゴ・ブルズ | ||||||||||||||
2001-2003 | ワシントン・ウィザーズ | ||||||||||||||
受賞歴 | |||||||||||||||
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NBAキャリアハイ | |||||||||||||||
レギュラーシーズン / プレーオフ | |||||||||||||||
得点 | 69 / 63 | ||||||||||||||
リバウンド | 18 / 19 | ||||||||||||||
アシスト | 17 / 14 | ||||||||||||||
NBA通算成績 | |||||||||||||||
得点 | 32,292 (30.1 ppg) | ||||||||||||||
リバウンド | 6,672 (6.2 rpg) | ||||||||||||||
アシスト | 5,633 (5.3 apg) | ||||||||||||||
Stats Basketball-Reference.com | |||||||||||||||
バスケットボール殿堂入り選手 (2009年) (詳細) | |||||||||||||||
FIBA殿堂入り選手 (2015年) (詳細) | |||||||||||||||
代表歴 | |||||||||||||||
キャップ | アメリカ合衆国 | ||||||||||||||
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経歴[編集]
生い立ち[編集]
カレッジ[編集]
高校卒業後はノースカロライナ大学︵ターヒールズ︶に進学し、地理学を専攻した。後に伝説のショットとして語り継がれている1982年のNCAAトーナメントチャンピオンシップで彼はウィニング・ショットを決め、同校2度目のNCAAチャンピオンに導いた。ジョーダンは後に、このショットが彼のバスケットボールキャリアにおける大きなターニングポイントとなったと語っている[12][13]。2年次に彼はチームの主力となり、その年に彼は全米ジュニア選抜に選ばれた。3年次の時にはネイスミス賞とウッデン賞を受賞した。ターヒールズでの3シーズンの間、彼は1試合平均54.0%のシュート成功率で17.7得点、5.0リバウンドの成績を残した[14]。 この年のシーズン終了後、当時ヘッドコーチだったディーン・スミスの薦めもありプロ入りを決意。1984年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズに全体3位で指名された︵当時の全体1位はヒューストン・ロケッツのアキーム・オラジュワンであった︶。 大学を休学した後の夏にアメリカ代表としてロサンゼルスオリンピックに参加、中心選手の一人として金メダル獲得に貢献した。シカゴ・ブルズ時代︵一度目の引退まで︶[編集]
キャリア初期[編集]
ジョーダンは早くも入団1年目からレギュラーの座をつかみ、平均得点はリーグ上位の28.2点を記録。2年目は怪我によりシーズンの多くを欠場したものの22.7点。そして3年目にはその才能を完全に開花させ、リーグトップの一試合平均37.1点、シーズン総得点は3,000点を超えウィルト・チェンバレン以来の数字を残した。 得点能力のみならず運動能力、特に空中でのボディコントロールには抜群のセンスを見せることで若手ながらリーグ屈指の人気選手となり、シカゴ・ブルズが遠征で訪れる試合は多くの観客を集め、ホームの試合のチケットは入手が困難になった。しかし、チーム自体は強豪とはほど遠く、ブルズを﹁ジョーダンとその他4名﹂とさえ揶揄するマスコミやファンが存在していたのも事実である。また、ジョーダンはその能力の高さゆえ、必然的に他のチームメイトよりもボールを持つ機会やシュートの本数が多くなったため、﹁独りよがりなプレーを繰り返している﹂と批判する声も一部では見られていた。 入団当初のジョーダンは高価なアクセサリーを身に付けて試合することがあり[注 2]、先輩選手たちには生意気な新人と見られることがあった。1985年には新人ながらオールスター戦出場を果たすが、この試合でジョーダンは味方選手からパスを回してもらえない﹁フリーズ・アウト﹂という仕打ちを受ける。のちにジョーダンはこの経験に深く傷ついたと語っている。この事件の首謀者と言われたアイザイア・トーマス︵当時デトロイト・ピストンズ︶とはしばらく良くない関係が続いた。しかし、トーマスがヘッドコーチを務めた2003年のオールスターゲームで、ファン選出から漏れてしまったジョーダンを最後のオールスターに先発出場させるために、トーマス自らヴィンス・カーターを説得。カーターはジョーダンに先発の座を譲った。ピストンズの壁[編集]
1980年代が終盤に近づくと、この時代イースタン・カンファレンスを支配していたボストン・セルティックスが徐々に衰退し始め、代わってデトロイト・ピストンズが台頭するようになる。一方のシカゴ・ブルズもまた、若手のダグ・コリンズ監督の下で力を付け始め、ブルズは年間50勝できるチームにまで成長していた。 1987年にセルティックスに敗れた次のシーズンから、ブルズは毎年プレーオフでピストンズと対戦するようになる。この時期、荒いディフェンスでバッドボーイズと呼ばれていたピストンズは、対戦する度にブルズとジョーダンを痛めつけ敗退させた。ピストンズはジョーダン・ルールと呼ばれる方法でジョーダンのオフェンスを封じようとした。これはインサイドに切り込んだジョーダンを数人がかりで抑え込むもので、精神的・肉体的にジョーダンを苦しめた。 1988年に続き1989年もプレーオフでピストンズに敗退すると、コリンズはブルズの監督を解雇され、アシスタント・コーチだったフィル・ジャクソンが監督に昇格した。ジャクソンは新システムトライアングル・オフェンスの導入に取り組むなどチーム強化に努めた。若手のスコッティ・ピッペンとホーレス・グラントも次第に成長していき、ついにはレギュラーシーズンの勝ち星を55勝にまで増やした。チームメートの信望が厚いビル・カートライトはキャプテンとしてチームをまとめ、ロールプレーヤーのジョン・パクソンはバックコートでジョーダンと組む選手として定着し、ブルズはジョーダンのワンマンチームからジャクソン監督のシステム下で役割分担のチームワークを持った手堅いチームとなっていた。 しかしプレーオフでは、ピッペンの変調などもあり、3勝4敗でまたしてもピストンズに惜敗。このシーズンと前シーズン、ピストンズは連覇を果たしており、チーム史上の絶頂期にあった。最初のスリーピート[編集]
翌1990–91シーズン、ブルズはチーム史上最多の61勝を挙げる。ジョーダン自身もそれまでのスタイルを変え、ジャクソン監督の方針通りボールを他のチームメートと分かち合う場面が以前より見られるようになった。このシーズン、チームの勝ち数は過去最高だったにもかかわらず、ジョーダンの平均得点は過去数年で最低の31.5点だった︵ただし、それでも得点王となっていた︶。 プレーオフでは、カンファレンス・ファイナルでピストンズと4年連続の対戦。この年は4勝0敗でこれまでの雪辱を果たし、NBAファイナルではマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズが相手となった。新旧スーパースター対決となったこのシリーズを、シカゴ・ブルズは4勝1敗で勝利し、初優勝を決めた。ジョーダンはファイナルMVPを受賞した。 翌シーズン、ブルズはリーグ史上屈指の67勝を挙げ、再びNBAファイナルに進出したブルズは、クライド・ドレクスラーを擁するポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。ジョーダンに似たタイプで得点力のあるシューティングガードのドレクスラーを相手に、ジョーダンは目覚ましいパフォーマンスを見せ、4勝2敗で2年連続の優勝を実現した。ブレイザーズは、1984年のドラフトで全体2位指名権を持ちながらジョーダンを指名しなかった[注 3]。後にジョーダンは﹁あの時ブレイザーズに指名されないで本当によかった﹂と冗談交じりに語っている。 次の1992–93シーズンは、ブルズは57勝と前シーズンより10勝減らしたが、プレーオフでは再びNBAファイナルに進出した。ウェスタン・カンファレンスを制したのはフェニックス・サンズで、ジョーダンの親友でもありチームのエース、チャールズ・バークレーはこのシーズンMVPに選ばれた。レギュラーシーズンの勝ち数がリーグ最多だったサンズはホームコートアドバンテージを持っており、ブルズはホームでの試合数が一つ少ない不利を抱えていた。シリーズは敵地での6試合目を制したブルズが勝利し、3度目の優勝を決めた。このシリーズで平均41.0得点︵NBAファイナル歴代最高︶をあげたジョーダンはMVPに選ばれた。 1980年代末より﹁3連覇﹂を意味する﹁スリーピート﹂という言葉が使われていたが、NBAのチームがこれを実現するのは1960年代のボストン・セルティックス以来のことだった。父の死と一度目の引退[編集]
3連覇達成後シーズンオフの1993年7月23日、不慮の事件によって父親を失った[15] ジョーダンは、突如引退を表明した[16]。全盛期にあっての引退はNBAとメディアに衝撃を与えた。1993年10月の引退表明の会見でジョーダンは﹁もはや証明するものはない﹂と述べたが、以前より続いていたバッシング、3連覇達成によるモチベーションの低下、父を失った衝撃が引退の動機になったとマスコミは推測した。MLBへの挑戦[編集]
シカゴ・ブルズ時代︵二度目の引退まで︶[編集]
復帰[編集]
1995年3月に再びブルズに復帰。メディアは大々的にジョーダンの復帰を報じた。復帰時にはかつて着用した背番号23番ではなく45番を着用した。シーズン末の17試合に参加し、チームはプレーオフに臨んだ。プレーオフでは、1回戦でシャーロット・ホーネッツを3勝1敗で下し、続くカンファレンス・セミファイナルではオーランド・マジックと対戦した。オーランドはシャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイという二人の才能ある若手を擁した新進気鋭のチームだった。このシリーズ、ジョーダンは重要な場面で些細なミスを繰り返し、2勝4敗でブルズが敗退する原因の一つとなった。第1戦の第4Q残り18秒ブルズは1点リードしてジョーダンがボールを持っていたが、ニック・アンダーソンにボールをはたかれスティールされたプレーが逆転負けにつながった[18]。試合後にアンダーソンは45番をつけたマイケルは昔のマイケルとは違うと発言、第2戦ではその言葉に奮起したジョーダンは背番号23をつけてプレー、38得点をあげてブルズが勝利した[19]。後期スリーピート[編集]
1994–95シーズン終了後のオフ、野球体型から脱却し切れていなかったジョーダンはバスケットボールの体型を取り戻すべく、そして再び優勝を狙うために懸命にトレーニングを行った。オフにはジョーダン主演の映画撮影も行われたが、映画撮影の場所付近にジョーダン専用のバスケットボールゴールを設置。ジョーダンの呼びかけに、ピッペン、オニール、レジー・ミラーなどNBAの主力選手が集まり、ジョーダンと共に練習をした。後にジョーダンは、このオフの練習で従来のバスケットボールの感覚を取り戻し、相手選手の動きを把握できるようになったといった。 1995–96シーズンが始まると、ブルズは快進撃を続け、NBA史上最高の勝利数を狙えるほどの勢いだった。ジョーダン、ピッペン、そしてかつての宿敵デトロイト・ピストンズでプレーしていたデニス・ロッドマンがサンアントニオ・スパーズから移籍してきてリーグ最強の3人組として注目を集めた。また、欧州出身の長身シューターであるトニー・クーコッチ、優秀なディフェンダーであるロン・ハーパーも陰からチームを支えた。ジョーダン自身は、1993年以前の強烈なスラムダンカーというよりは、技巧的なジャンプシューターとしてプレーしていたが、平均得点30.4で8度目の得点王に輝くことになる。 シカゴ・ブルズは72勝10敗でレギュラーシーズンを終えた。この勝ち数はゴールデンステート・ウォリアーズが2015–16シーズンに記録するまでのレギュラーシーズン最多勝利記録(ウォリアーズが73勝9敗で新記録)であり、70勝を超えたチームも歴史上初だった。ブルズは数字上史上最強のチームとしてプレーオフに臨み、NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦。敵地のシアトルで2試合を落としたものの、6試合目にシカゴに戻り4度目の優勝を決めた。ジョーダンは再びファイナルMVPを受賞した。 続く1996–97シーズン、ブルズは前シーズンより3勝少ない69勝でレギュラーシーズンを終える。プレーオフでは、このシーズンもブルズはファイナルに進出。ウェスタン・カンファレンスからは、ユタ・ジャズが勝ち上がってきた。史上屈指の名コンビと言われるジョン・ストックトンとレギュラーシーズンのMVPカール・マローンを相手に、シリーズは4勝2敗でブルズがものにする。初戦のブザービーターや敵地ソルトレイクシティでの病気を押してのパフォーマンスが注目されたジョーダンが再びMVPに選ばれた。ブルズとジョーダンの優勝回数は5回となっていた。 続く1997–98シーズンは、フィル・ジャクソン監督がシーズン後の退任を早い時期から仄めかしており、ピッペンはチーム経営陣との関係を悪化させていた。強豪ブルズは今年で最後かという観測を、マスコミはジャクソンの表現を借りラストダンスという言葉で表した。復帰以降、マスコミやファンはしばしばジョーダンの年齢を話題にするようになっており、﹁いつまでプレーするか﹂が関心の的になっていた。ジョーダンは﹁ジャクソン監督とピッペンが辞めれば自分も辞める﹂と発言していたが、自身の進退については明言を避けていた。このシーズンはブルズの2度目の﹁スリーピート﹂がかかっており、様々な意味で注目を集めることになった。 ブルズはNBAファイナルに進出し、対戦相手はこの年もユタ・ジャズだった。両チームともレギュラーシーズンは62勝20敗だったが、シーズン中の対戦成績に勝っていたユタ・ジャズがホームコートアドバンテージを得ていた。 5戦目までで3勝2敗でシリーズの舞台をユタに戻し、臨んだ第6戦、ジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決め、ブルズに6度目の優勝と2回目のスリーピートをもたらした。この時、解説者のアイザイア・トーマスは﹁第4クウォーターのマイケルは殺し屋︵killer︶だ﹂と述べた。 シーズン終了後、フィル・ジャクソンの契約が切れ、スコッティ・ピッペンとデニス・ロッドマンの退団が迫り、オーナーによるNBA選手のロックアウトの後期に入っていたため、ジョーダンは1999年1月13日に2度目の引退を表明した[20][21][22]。ワシントン・ウィザーズ時代[編集]
オーナーおよび人事部門責任者[編集]
1999年、引退後のジョーダンがシャーロット・ホーネッツのオーナー陣に加わるとの報道がなされた。ジョーダンは実際そのために関係者と協議を行っていたが、結局は物別れに終わり、ジョーダンのオーナー入りは実現しなかった。 翌2000年に彼はワシントン・ウィザーズに出資を行い、オーナーの一人となった。同時に同チームのバスケットボール運営部門の社長となった。これは選手の人事に関する責任者になったことを意味した。 この時期のウィザーズは勝ち数20前後と低迷しており、チーム再建がジョーダンに課せられた使命だった。ジョーダンはかつてのブルズの監督ダグ・コリンズをウィザーズ監督に任命。2001年のNBAドラフトでは、ウィザーズは全体1位の指名権を獲得しており、ジョーダンはクワミ・ブラウンを指名した。高卒の新人が全体で1位指名を受けるのはNBA史上初めてのことであり、当時議論を呼んでいた新人の低年齢化を象徴する出来事となった。2度目の現役復帰[編集]
NHL選手のマリオ・ルミューの活躍に触発されたジョーダンは、2001年に低迷を続けるウィザーズのために2度目の復帰を果たす。以前はガードのポジションだったが、チーム事情によりスモールフォワードでプレーすることとなった。彼の運動能力は年相応に衰えてはいたが、2001-02年シーズンはケガに悩まされながらも一試合平均22.9点の記録を上げた。2002–03年シーズンは1試合平均20.0点を上げる。だが、ラストゲームでは、NBA初の、40歳40得点を記録した。 復帰当初、ジョーダンはチームをプレーオフに進出させることを目標にすると明言していたが、2001–02シーズンは37勝45敗でイースタン・カンファレンス10位、2002–03シーズンは同じく37勝45敗でカンファレンス9位と目標を果たせずに終わった。 2002年NBAオールスターゲームにおいて、以前の彼の象徴であったスラムダンクを失敗し、視聴者は茫然とした。しかし、翌年のNBAオールスターゲームでは、試合終了間際に逆転フェイダウェイショットを決めた。直後に同点にされたが、既にシーズン終了後の引退を表明していたジョーダンに対し会場からはジョーダンコールが繰り返された。 彼の引退試合のフィラデルフィア・セブンティシクサーズ戦ではアウェイ戦にもかかわらず選手紹介からジョーダンに大きな拍手があった。 途中退場したが、会場から"We want Michael! "と会場全体から声が上がった。そこでジョーダンは出場し、シクサーズの選手からファ―ルを受け、2本のフリースローが与えられ、2本とも成功している。選手としての特徴 [編集]
ポジションと得点力NBA記録[編集]
レギュラーシーズン[編集]
シーズン得点王: 10(1986–87-1992–93, 1995–96-1997–98)[23]
シーズン得点王連続記録: 7(1986–87-1992–93)[23][24]
通算平均得点: 30.12(32,292/1,072)[23]
シーズン1試合平均30得点以上: 8(1986–87-1992–93、1995–96)
30得点以上通算試合数: 562
シーズン得点王最年長記録: 1997–98)
35歳 + 61日(1試合50得点最年長記録: 2001年12月29日)
38歳 + 315日(51得点、vs. ホーネッツ、1試合40得点最年長記録: 2003年2月21日)[25]
40歳 + 4日(43得点、vs. メッツ、プレーオフ[編集]
- 通算1試合平均得点: 33.4(5,987/179)
- 50得点以上通算試合数: 8
- 40得点以上通算試合数: 38
- 1ポストシーズンでの得点: 759(1992)
- プレーオフシリーズ全試合で35得点以上: 2回
- プレーオフシリーズ全試合30得点以上: 7回
- 1試合得点: 63、セルティックス、1986年4月20日(2 OT)[26]
レギュレーション[編集]
オールディフェンシブ1stチーム: 9
通算ガードブロックショット数: 893
シーズンガードブロックショット数: 131(1987–88)
史上唯一の1シーズン200スティール・100ブロックショット: 259スティール, 131ブロック(1987–88)[27]
史上唯一の同じ年に得点王と最優秀守備選手賞受賞(1987–88)[27]
史上初の通算で新人王、最優秀守備選手賞、MVP受賞
史上初の通算で得点王・NBA最優秀守備選手賞受賞
史上唯一の同じシーズンで得点王・MVP・最優秀守備選手賞受賞(1987–88)[27]
史上初の同じシーズンでMVP・最優秀守備選手賞受賞(1987–88)[27]
史上初の同じシーズンで得点王・スティール王(1987–88、1989–90、1992–93)
史上4人目の同じシーズンで得点王・NBAチャンピオン(1990–91、1991–92、1992–93、1995–96、1996–97、1997–98)
史上6人目のオリンピック金メダル・NCAAチャンピオン・NBAチャンピオン
史上唯一の新人王、最優秀守備選手賞、シーズンMVP、オールスターMVP、ファイナルMVP
ファイナル[編集]
- MVP受賞: 6(1991、1992、1993、1996、1997、1998)
オールスター[編集]
個人成績[編集]
略称説明 | |||||
---|---|---|---|---|---|
GP | 出場試合数 | GS | 先発出場試合数 | MPG | 平均出場時間 |
FG% | フィールドゴール成功率 | 3P% | スリーポイント成功率 | FT% | フリースロー成功率 |
RPG | 平均リバウンド数 | APG | 平均アシスト数 | SPG | 平均スティール数 |
BPG | 平均ブロック数 | PPG | 平均得点 | 太字 | キャリアハイ |
優勝シーズン | リーグリーダー | NBA記録 |
レギュラーシーズン[編集]
シーズン | チーム | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984–85 | CHI | 82* | 82* | 38.3 | .515 | .173 | .845 | 6.5 | 5.9 | 2.4 | .8 | 28.2 |
1985–86 | CHI | 18 | 7 | 25.1 | .457 | .167 | .840 | 3.6 | 2.9 | 2.1 | 1.2 | 22.7 |
1986–87 | CHI | 82* | 82* | 40.0 | .482 | .182 | .857 | 5.2 | 4.6 | 2.9 | 1.5 | 37.1* |
1987–88 | CHI | 82 | 82 | 40.4* | .535 | .132 | .841 | 5.5 | 5.9 | 3.2* | 1.6 | 35.0* |
1988–89 | CHI | 81 | 81 | 40.2* | .538 | .276 | .850 | 8.0 | 8.0 | 2.9 | .8 | 32.5* |
1989–90 | CHI | 82* | 82* | 39.0 | .526 | .376 | .848 | 6.9 | 6.3 | 2.8* | .7 | 33.6* |
1990-91† | CHI | 82* | 82* | 37.0 | .539 | .312 | .851 | 6.0 | 5.5 | 2.7 | 1.0 | 31.5* |
1991-92† | CHI | 80 | 80 | 38.8 | .519 | .270 | .832 | 6.4 | 6.1 | 2.3 | .9 | 30.1* |
1992-93† | CHI | 78 | 78 | 39.3 | .495 | .352 | .837 | 6.7 | 5.5 | 2.8* | .8 | 32.6* |
1994–95 | CHI | 17 | 17 | 39.3 | .411 | .500 | .801 | 6.9 | 5.3 | 1.8 | .8 | 26.9 |
1995-96† | CHI | 82 | 82 | 37.7 | .495 | .427 | .834 | 6.6 | 4.3 | 2.2 | .5 | 30.4* |
1996-97† | CHI | 82 | 82 | 37.9 | .486 | .374 | .833 | 5.9 | 4.3 | 1.7 | .5 | 29.6* |
1997-98† | CHI | 82* | 82* | 38.8 | .465 | .238 | .784 | 5.8 | 3.5 | 1.7 | .5 | 28.7* |
2001–02 | WAS | 60 | 53 | 34.9 | .416 | .189 | .790 | 5.7 | 5.2 | 1.4 | .4 | 22.9 |
2002–03 | WAS | 82 | 67 | 37.0 | .445 | .291 | .821 | 6.1 | 3.8 | 1.5 | .5 | 20.0 |
通算[14] | 1,072 | 1,039 | 38.3 | .497 | .327 | .835 | 6.2 | 5.3 | 2.3 | .8 | 30.1 | |
オールスター[14] | 13 | 13 | 29.4 | .472 | .273 | .750 | 4.7 | 4.2 | 2.8 | .5 | 20.2 |
プレーオフ[編集]
シーズン | チーム | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985 | CHI | 4 | 4 | 42.8 | .436 | .125 | .828 | 5.8 | 8.5 | 2.8 | 1.0 | 29.3 |
1986 | CHI | 3 | 3 | 45.0 | .505 | 1.000 | .872 | 6.3 | 5.7 | 2.3 | 1.3 | 43.7 |
1987 | CHI | 3 | 3 | 42.7 | .417 | .400 | .897 | 7.0 | 4.7 | 2.4 | 1.1 | 36.3 |
1988 | CHI | 10 | 10 | 42.7 | .531 | .333 | .869 | 7.1 | 7.6 | 2.5 | .8 | 34.8 |
1989 | CHI | 17 | 17 | 41.8 | .510 | .236 | .799 | 7.0 | 7.6 | 1.7 | 1.8 | 29.1 |
1990 | CHI | 16 | 16 | 42.1 | .514 | .320 | .836 | 7.2 | 6.8 | 2.8 | .9 | 36.7 |
1991† | CHI | 17 | 17 | 40.5 | .524 | .385 | .845 | 6.4 | 8.4 | 2.4 | 1.4 | 31.1 |
1992† | CHI | 22 | 22 | 41.8 | .499 | .386 | .857 | 6.2 | 5.8 | 2.0 | .7 | 34.5 |
1993† | CHI | 19 | 19 | 41.2 | .475 | .389 | .805 | 6.7 | 6.0 | 2.1 | .9 | 35.1 |
1995 | CHI | 10 | 10 | 42.0 | .484 | .367 | .810 | 6.5 | 4.5 | 2.3 | 1.4 | 31.5 |
1996† | CHI | 18 | 18 | 40.7 | .459 | .403 | .818 | 4.9 | 4.1 | 1.8 | .3 | 30.7 |
1997† | CHI | 19 | 19 | 42.3 | .456 | .194 | .831 | 7.9 | 4.8 | 1.6 | .9 | 31.1 |
1998† | CHI | 21 | 21 | 41.5 | .462 | .302 | .812 | 5.1 | 3.5 | 1.5 | .6 | 32.4 |
通算[14] | 179 | 179 | 41.8 | .487 | .332 | .828 | 6.4 | 5.7 | 2.1 | .8 | 33.4 |
引退後[編集]
シャーロット・ボブキャッツ / ホーネッツ[編集]
オーナーおよび選手人事最終決定者[編集]
筆頭オーナー[編集]
2010年3月にはボブキャッツを買収し、元選手としてはNBA史上初の筆頭オーナーに就任した[28]。 2016年、大統領自由勲章を受章[29]。 2022年、今後のNBA最優秀選手賞にはジョーダンの名をとってマイケル・ジョーダン・トロフィーが授与されると発表された[30]。有名なプレー[編集]
●1986年のプレーオフ、当時史上最強と言われたボストン・セルティックスと対戦したイースタン・カンファレンス第1回戦2試合目で、プレーオフ記録となる63得点を上げた。試合後、ラリー・バードは﹁あれはマイケル・ジョーダンの姿をした神だ﹂とコメントした。試合自体はブルズの負けで、シリーズも3連敗で敗退した。 ●1989年のプレーオフ、クリーブランド・キャバリアーズと戦ったイースタン・カンファレンス1回戦、2勝2敗で迎えた第5戦終了直前(残り3秒)99対100の場面で、ジョーダンは空中でマーカーのクレイグ・イーローをかわし難しいジャンプシュートを放ち、終了のブザーと同時に逆転を成功させた。このシュートでブルズのカンファレンス・セミファイナル進出が決まった。このシュートを英語圏ではThe Shotと呼ぶことがある。 ●1991年のデンバー・ナゲッツ戦、ジョーダンは当時ルーキーだったディケンベ・ムトンボに向かって﹁This one's for you baby﹂と語りかけ、目を閉じたままフリースローを決めた。 ●1991年NBAファイナル第2戦、ダンクに向かって跳躍するジョーダンは、サム・パーキンスのブロックをかわすためボールを左手に持ち替え、落下しながらスクープショットを決めた。このシュートを英語圏ではThe Moveと呼ぶことがある。 ●1991年のプレーオフ1回戦、ニューヨーク・ニックスとの第3戦、3ポイントライン付近で味方からボールを受け取ったジョーダンは、ベースライン沿いにドライブ。が、ニックスのチャールズ・オークリーに進路を阻まれた為、一旦3ポイント方向へターン、が更に進路を阻まんとジョン・スタークスが立ちはだかり、完全にダブルチームでライン沿いに追い込まれるジョーダン。しかし、オークリーの一瞬の隙を突き、ワンドリブルでオークリーの右脇から抜け出しペイントエリアへ。ここで最後の壁、パトリック・ユーイングがブロックに飛ぶ。が、ジョーダンはユーイングの頭上からカウントワンスローの豪快なダンクを決め、マディソン・スクエア・ガーデンに衝撃が走った。 ●1992年のNBAファイナル、ブレイザーズと戦った第1戦、ジョーダンが放つ3ポイントシュートがことごとく決まり、前半で6本の3ポイント成功は当時のNBAファイナル記録だった。この試合は前評判では当時ジョーダンと評価を二分していたクライド・ドレクスラーとの戦いという事で盛り上がった。が、結果はジョーダンの一人舞台であった。 ●1993年敵地でのカンファレンスセミファイナル、対クリーブランド・キャバリアーズ第4戦。勝てばカンファレンスファイナルに進出という試合、序盤からジョーダンは痛めた右手首の影響から、シュートの精彩を欠いていた︵ダンクシュートも手首に負担をかけないよう、左手で行っていた︶。ゲームは一進一退の攻防を見せ、同点で迎えた第4Q残り1.7秒、フェイダウェイ・ジャンパーで放ったシュートがゲーム終了と同時に決まり、1989年のThe shotの再現となった。なお、それにちなんでこのシュートはThe shot2と呼ばれている。 ●1993年ファイナル第6戦、試合終了前に、一人でディフェンスを突破し、非常に高い位置でのレイアップを決め、グライダーとよばれる。そしてNBA3連覇を成し遂げた︵ジョーダンはMVP︶。 ●1997年のNBAファイナル第1戦、ジョーダンは試合終了と同時にウィニングショットを決めた。 ●1997年のNBAファイナル第5戦、ジョーダンは食中毒で最悪のコンディションだったが38得点を上げ、ブルズは優勝に王手をかけた。 ●1997年のNBAファイナル第6戦、ダブルチームを受けたジョーダンはフリーのスティーブ・カーにアシスト。これが決勝点となった。 ●1998年のNBAファイナル第6戦、試合終了間際にジョーダンはカール・マローンからスティール。そのままボールを運びジャンプショットを放ち、残り5.2秒で逆転に成功。ユタ・ジャズはその後追いつくことなく、ブルズは6度目の優勝を決めた。このシュートはThe Last Shotと呼ばれている。私生活[編集]
人物[編集]
人気[編集]
ジョーダンを主題にしたHang TimeとReboundの著者である記者・作家のボブ・グリーンはジョーダンがエルビス・プレスリーの再来であり、﹁アメリカ文化の頂点に登り詰めた﹂と表現。人々はジョーダンが史上最高のバスケットボール選手であると論じるばかりか、ベーブ・ルース、モハメド・アリと比較するなどバスケットボールを超えた文脈で彼の存在を語るようになった。 1990年代には、遠く海を越えた日本でも、バスケットボール人気の過熱とともに当時の若者たち、特にスポーツに親しむ少年たちの最高の憧れの存在となり、多くのメディアを飾り、これに触発されたSLAM DUNKなどの娯楽作品も大いなる人気を博した。 ジネディーヌ・ジダン、デビッド・ベッカム、タイガー・ウッズ等、数々の世界の一流アスリートにもジョーダンに憧れ、尊敬している人物は多い。 ジョーダンがここまでの存在になったのには、いくつかの要因があると考えられる。 運動能力 ジョーダンはNBAの歴史の中で非常に高い運動能力を持っており、見る者の注目を集めるのに十分だった。彼は人が見たこともない動きをしばしば見せ、特に空中でのプレーは見る者を驚嘆させた。実況するアナウンサーはジョーダンがジャンプすると﹁TAKE OFF︵離陸を開始した︶﹂、﹁人類が空を飛んだ﹂と表現したほどである。ジョーダンの個人能力が注目されるようになったのは、シカゴの市場が比較的大きかったこと、キャリア初期にブルズの監督を務めていたケヴィン・ローリーがジョーダンを自由にプレーさせる方針を採ったことも要因となった。また、ティム・グローバーを専属トレーナーに雇い、故障に強い体を作り上げた。 ジョーダンの人並み外れた身体能力は先天的なものであると思われることが多いが、その恵まれた才能に加えて彼は早くからウエイトトレーニングを導入し、真夜中や早朝であっても思い立ったらすぐに専属トレーナーを呼んでトレーニングを行った。どんな体勢からでもシュートできるようにバランス感覚を鍛え、怪我の予防のため足首の筋力トレーニングも欠かさず行った。その結果、捻挫しても2〜3日で復帰できたという。また、彼は試合後もクールダウンやケアに時間を費やした。このことで彼は故障の少ないキャリアを過ごすことができたと考える専門家も多い。 また、身長198cm・体重99kgという一般人と比較すると一見大柄に見える体格︵身長・体重の項目も参照︶がバスケットにおいて大きい部類ではなく、むしろ小さい事も影響している。これまでのNBAでは7フッターの巨人たちが支配的だったが、ジョーダンは恵まれた運動能力と鍛え上げた肉体と磨き抜いた技術により2メートルをはるかに超える巨人たちと渡り合った。体は小さくはあるが腕が長く、運動能力とあいまって高さの不利が減少され、速度と技術の有利で勝負できる程度の小さすぎない肢体はある意味で理想的といえた。 1980年代のNBAの隆盛 1970年代末期にはNBAの人気は低迷しており、リーグのイメージもあまり良くなかった。しかし、デビッド・スターンがコミッショナーに就任しリーグの再建に努めたこと、マジック・ジョンソンとラリー・バードのライバル関係が大いに注目されたことなどから、NBAの人気は上昇していった。マジックとバードがキャリアの末期に入る頃には、次のジョーダン時代への土壌が十分に出来上がっていたといえる。また、同時期にケーブルテレビが普及し始めたこともこの流れを助けた。 商業的な成功 ジョーダンは商業的に最も成功を収めたアスリートの一人である。1998年の時点でFortune誌はジョーダンがプロフェッショナル入り以降100億ドルの経済効果を上げたと述べている。これは本業のバスケットボールだけでなく、ナイキ、マクドナルド、コカコーラ、ゲータレードなどとのスポンサーシップなしには果たし得ない。特に1980年代に、当時新進気鋭の映画監督だったスパイク・リー指揮によるナイキの一連のCMが成功したことが大きい。背番号に関するエピソード[編集]
●1995年の最初の復帰に際して、今までの背番号を“23”から“45”へ変更した。45番はMLBへの挑戦の際につけていた番号であり、父親が最後に見た23番のユニフォームの歴史を変えたくないという思いがあった。しかし、前述のオーランド・マジックとのプレーオフ・カンファレンス・セミファイナル初戦でミスを連発し、それに対する気分転換のため、ブルズの用具係の提案で23番のユニフォームを着用した。この行為はリーグからクレームがつき45番に戻すよう発表がされたが、ジョーダンが拒否。ブルズもそれを支持したため、シーズン終了後2万5000ドルの罰金を科せられた。 ●元々45番は尊敬する兄が学生時代につけていた番号であり、23番は兄のせめて半分以上、上手くなりたいという想いから選んだものだった[37]。 ●ジョーダンの背番号23番はマイアミ・ヒートの永久欠番になっているが、ジョーダンはマイアミ・ヒートの選手として一試合足りともプレイをした経歴がない。にもかかわらず永久欠番となっているのは、マイアミ・ヒートの球団社長であったパット・ライリーが2003年にジョーダンの所属するワシントン・ウィザーズとの対戦を前にジョーダンに敬意を表して23番を永久欠番としたためである[38]。バスケットゴールを破壊?[編集]
1985年8月25日、ジョーダンが22歳の時にイタリアのトリエステで行われたナイキエキシビジョンゲームでプレーした際、ゴールを破壊、バックボードは粉砕したというアクシデントがあった[39]。政治的信条[編集]
共和党支持者でドナルド・トランプとは親交がある。逆にバラク・オバマのことは﹁あんなヘッポコと話していたら日が暮れてしまう﹂と酷評している。ビジネス[編集]
1980年代にNBAでプレーし始めて以降、ジョーダンは多くの企業と広告契約を結び、様々な事業を手がけてきた。ジョーダンはプロバスケットボールのみならず、本業以外で得る収入の大きさではスポーツ界でも際立った存在になった。また、彼の代理人、デビッド・フォークもこのマネーゲームの中心となった。 ジョーダンが最初期にかかわり、以後も最も重要になったのはスポーツ用品メーカーナイキとの関係だった。ジョーダンは新人のシーズンよりナイキとの契約を結び、自身の名前をブランドに取り入れたバスケットボールシューズ﹁エア・ジョーダン﹂シリーズの生産・発売が開始された。 エア・ジョーダンシリーズのテレビCMの制作には、当時新人の映画監督だったスパイク・リーが起用された。ジョーダンの運動能力を強調しつつも奇抜な演出を取り込んだリーのCMはヒットし、ジョーダンの人気とも相まってエア・ジョーダンは爆発的な売上を見せた。ジョーダンは当時としては画期的だった歩合制の契約を結んでおり、シューズの売上に比例してジョーダンの収入も上昇した。ナイキ自身も当時業界1位だったコンバースを抜くことになった。以後NBAのスター選手の多くはナイキと同様の契約を結ぶようになった。 バルセロナオリンピックの金メダル授与の式において、ジョーダンはアメリカ代表ジャージのリーボックのロゴを星条旗で隠すという行動をとった。これはジョーダン個人がナイキとスポンサー契約していたことが原因である。 エア・ジョーダンに関しては、主に二つの点で批判が起きた。一つは、このシリーズがあまりにも人気を博したため、少年少女たちがシューズを狙った強盗の被害に遭う事件が起きていたことだった。もう一つは、エア・ジョーダンを生産するために発展途上国の児童たちが低賃金で働かされているというものだった。後者に至っては、雇用の確保につながっているという観点もあり、主因は社会の構造的問題であるため、ジョーダンも明確な反論はしていない。 ジョーダンは食品関係の広告も幅広く行った。マクドナルドのCMに出演し、地元のシカゴでは﹁マクジョーダン・スペシャル﹂というメニューが出された。ゲータレードのCMで採用された﹁Be Like Mike﹂﹁マイク︵マイケル︶みたいになりたい﹂という歌は広く知られた。他にコカ・コーラのキャラクターになったほか、シリアル食品﹁ウィーティーズ (Wheaties)﹂でもジョーダンの姿がパッケージに登場した。 ジョーダンは下着メーカーヘインズとも広告契約を結び、香水・装飾品メーカーのビジャンからは﹁マイケル・ジョーダン・コロン﹂が発売された。1996年には映画﹃スペース・ジャム﹄に出演し、アニメのキャラクターバッグス・バニーやラリー・バード、チャールズ・バークレー、俳優のビル・マーレイらと共演した。 ジョーダンはシカゴやニューヨーク、故郷のノースカロライナ州にレストランを持っている。 また、AMAスーパーバイクシリーズにチームを持っており、Moto-GPを観戦する姿が度々報道されるなど、かなりのバイク好きでもある。2004年のバレンシアGPでは自らの手でMotoGPマシン︵ドゥカティ・デスモセディチ︶を試乗した。 2018年10月Eスポーツのフランチャイズ、TeamLiquidを所有するaXiomaticへジョーダン、Declaration Capital、およびCurtis Polkが投資したことを同社より発表された。﹁aXiomaticへの投資によって私のスポーツ株式投資の幅が広がることを楽しみにしている。Eスポーツは急成長中の国際産業であり、このすばらしい投資家グループと共に参加できることを嬉しく思っている﹂とジョーダンが声明で語ったとされる[40]。 2020年9月22日、NASCARのトップドライバーであるデニーハムリンと共同チームを立ち上げ、2021年よりNASCARカップシリーズにオーナーとして参戦することを発表[41]。ドライバーはシリーズ唯一の黒人ドライバーのダレル・ウォレス・ジュニア。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
- ネクスト・ジョーダン
- AIR/エア - 「エア・ジョーダン」が誕生するまでの奮闘を描いた映画
外部リンク[編集]
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- マイケル・ジョーダン
- アメリカ合衆国の男子バスケットボール選手
- アフリカ系アメリカ人のバスケットボール選手
- マクドナルド・オール・アメリカン選出選手
- NCAA男子バスケットボールオールアメリカン選出選手
- シカゴ・ブルズの選手
- シカゴ・ブルズのドラフト指名選手
- ワシントン・ウィザーズの選手
- NBAオールスターゲーム選出選手
- NBAのオーナー
- シャーロット・ボブキャッツ
- シャーロット・ホーネッツ関連人物
- ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂入り
- FIBA殿堂
- アメリカ合衆国の野球選手
- シカゴ・ホワイトソックス傘下の選手
- 複数のスポーツで活躍したバスケットボール選手
- 複数のスポーツで活躍した野球選手
- バスケットボール男子アメリカ合衆国代表選手
- オリンピックバスケットボールアメリカ合衆国代表選手
- アメリカ合衆国のオリンピック金メダリスト
- バスケットボールのオリンピックメダリスト
- アメリカ合衆国のパンアメリカン競技大会選手
- アメリカ合衆国のパンアメリカン競技大会金メダリスト
- ノースカロライナ大学出身のバスケットボール選手
- ニューヨーク州出身のバスケットボール選手
- NBA永久欠番保持者
- 大統領自由勲章受章者
- 20世紀のアフリカ系アメリカ人のスポーツ選手
- 21世紀のアフリカ系アメリカ人のスポーツ選手
- ブルックリン出身の人物
- 1963年生
- 存命人物