一谷嫩軍記
﹃一谷嫩軍記﹄︵いちのたにふたばぐんき、一谷嬾軍記とも[1]︶とは、文楽および歌舞伎の演目のひとつ。五段続、宝暦元年︵1751年︶11月に大坂豊竹座にて初演。並木宗輔の作。三段目の切は特に﹃熊谷陣屋﹄︵くまがいじんや︶と通称される。ただし宗輔はこの作の三段目までを執筆して病没したので、浅田一鳥らが四段目以降を補って上演した。版行された浄瑠璃本には、作者として浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三・難波三蔵・豊竹甚六の連名のあとに、﹁故人﹂として並木宗輔の名が記されている。
﹁組討﹂ 熊谷が沖へと向う敦盛を呼び戻すという場面。四代目中村歌 右衛門の熊谷次郎直実、初代中村福助の無官太夫あつ盛。嘉永3年︵1850年︶5月、大坂中の芝居。五粽亭広貞画。
︵組討の段︶平家の軍はほとんどが船に乗り、八島へ向けて退こうとしている。須磨の浜の波打ち際、敦盛もその船を目指し沖に向って馬を走らせる途中、声を掛けたのはこれも騎馬の熊谷直実。引き返して勝負あれとの熊谷の言葉に、敦盛は引き返し、熊谷と一騎討ちの勝負に及ぶ。やがて互いは得物も捨てて組み合ううちに馬より落ち、最後は熊谷が敦盛を組み伏せた。しかし熊谷は、覚悟を極め自分の首をとれとしおらしくいう敦盛を憐れみ逃がそうとするが、その様子を平山武者所が、離れたところから手勢を率いて見ていた。わざわざ組み敷いておきながら平家方の大将を逃がすとは、熊谷には二心あるに極まったと声高に罵る。敦盛は自分の回向を頼み、熊谷はやむを得ず、ためらいながらも﹁未来は必ず一蓮托生﹂と願い、敦盛の首を討ち落とした。
平山に深手を負わされ倒れていた玉織姫は、敦盛を討ち取ったというのを聞き何者が敦盛を討ったのかと弱々しく声をかける。熊谷はそれに気づいて姫のそばに駆け寄る。熊谷は姫が敦盛の妻であるというので、せめてものことに討ったばかりの首を姫に抱かせるが、姫はもはや目も見えず、敦盛の死を嘆き悲しみながら息絶えた。都以外のことを知らぬ貴公子や姫君のかかる最期の無惨さに、敵方である熊谷も涙するのだった。熊谷は敦盛と姫の死骸を馬の背に乗せ、首を片手に抱え馬を曳きながら自らの陣所へと帰る。
︵菟原の里林住家の段︶菊の前の乳母をしていた林は、菊の前が成長したことにより役目を退き、いまは摂津菟原の里にひとりつつましく住んでいる。そこに黄昏時、薩摩守忠度が供も連れずにひとり訪れ、泊めてほしいという。林はにわかの来訪に驚くが忠度は、自分が和歌の師と仰ぐ都の藤原俊成のもとを訪れ、現在編纂の千載集に自作の和歌を加えてほしいとひそかに願い出ていたのだが、合戦となったのでやむなく須磨にある平家の陣所に帰る途中であると述べる。林は忠度を休ませるため、奥へと通した。
そのあと、この家に頬被りをした男が忍び入り、納戸にしまってあった袋入りの太刀を持ち出そうとするが、気配を察した林に声を掛けられびっくり、逃げ出そうとするも取り押さえられてしまう。ところが頬被りを剥ぎ取って人相を改めると、それは林の息子太五平だったのである。太五平は日ごろの素行の悪さに林が勘当していたのであった。林は親のもとに盗みに入る太五平に呆れるが、太五平は今真っ最中の源平の合戦で手柄を立てて褒美を得ようと、家に伝わる太刀を取りにきたのだという。もちろん林は聞く耳を持たず太五平の手から太刀を取り返そうとするところに、人入れ稼業の茂次兵衛がきて林をなだめる。じつは今度の合戦で旗持ち役の雑兵がいるので、それを太五平にあてがおうというのである。それを聞いて林も機嫌を直し、太五平に太刀を渡し茂次兵衛が持ってきた雑兵用の具足も着せてやって送り出す。林は茂次兵衛に、息子が世話になった礼をしようとて酒肴を用意し奥の納戸へと案内する。
そこにまた駆けつけてきたのは菊の前であった。菊の前と忠度は互いのことを恋い慕う仲であったが、忠度が都を立ったと知り、あとを追いかけたもののその行方がわからず、とりあえず林を頼ろうとやって来たのである。しかし林から、すでに忠度が奥で休んでいると聞いた菊の前は喜んで奥へと入った。だがしばらくして、菊の前は奥より飛び出した。林がどうしたことかと尋ねると、忠度から別れの言葉を言い渡されたという。やがて忠度も出てきて、平家の命運はもはや尽き敗戦を重ね、自分もいずれ討死するであろう。また平家にかかわりあっては菊の前はもとより、その父俊成も源氏に目をつけられ迷惑をかけることになる。だからこのまま自分とは別れるようにと忠度は菊の前に話すが、たとえ討死するとも忠度様にどこまでも付いてゆく、別れるのはいやと菊の前は涙ながらに訴えるのであった。
すると、にわかに鳴り響く陣太鼓とともに手勢を率いて現れたのは、源氏方の梶原平次景高。茂次兵衛が忠度のことを知らせたのである。忠度は菊の前と林を奥へとやり、太刀を抜いて応戦する。景高は多勢で以って忠度を絡めとろうとするが、忠度はひるむことなく手勢をなぎ倒し投げ飛ばして寄せ付けない。その勢いに恐れをなした景高は手勢の雑兵ともども逃げ去った。そこに、忠度卿に見参と烏帽子に大紋の礼装で現れたのは、義経の家臣六弥太忠澄であった。
﹁菟原の里林住家﹂ 忠度は六弥太と後日の勝負を約し、菊の前とも別 れを惜しみつつ須磨の陣所へと帰る。右より五代目瀬川菊之丞の菊のまへ、七代目市川團十郎の岡部の六弥太、二代目澤村源之助のさつまの守忠のり。天保2年︵1831年︶7月、江戸河原崎座。国貞画。
六弥太は、義経より託された忠度の短冊をつけた桜の枝を差し出し、この短冊の﹁さざなみや﹂の和歌が千載集に﹁よみひとしらず﹂として入集したことを忠度に知らせる。忠度は本意が果たせたことを喜び、六弥太とは戦場で再会し勝負することを約束した。時もすでに暁、菊の前との別れを惜しみながらも、忠度は六弥太の用意した馬に乗って須磨の陣所へとは向うのであった。
初代中村福助の熊谷次郎直実。安政元年︵1854年︶5月、江戸市村 座。福助の養父四代目歌右衛門の三回忌追善として、﹁熊谷陣屋﹂の一幕が上演された︵﹃歌舞妓年代記続篇﹄︶。歌川国芳画。
︵熊谷陣屋の段︶やがて日も暮れようとするころ、熊谷が戻ってきた。景高のことを聞いた熊谷は、軍次に景高の相手をさせることにし、一方妻の相模には、女の身で戦場に来るとは何事だと叱る。だが熊谷の背後からいきなり斬りつけようとする者があらわれ、熊谷は思わずそれをねじ伏せた。が、それが藤の方だと聞いてびっくりし、手を離して相模ともども平伏する。藤の方と相模は敦盛をなぜ討ったと熊谷に質すが、熊谷は戦場でのことは致し方ないことであると言い、そのかわりにと敦盛を討った様子を、相模と藤の方の前で物語る。そして相模に、藤の方を連れ直ぐにここを立ち退けといって奥へと入った。
相模は藤の方が持っている敦盛の形見の笛を目にし、それを吹いたら経文代わりのよい供養になろうと、笛を吹くのを勧める。藤の方はその勧めに従い、笛を吹いた。ところがそのとき一間の障子に人影が映る。もしや敦盛の幽霊かと藤の方は急ぎ障子を開け放すと、そこには死ぬ直前まで敦盛が着ていた鎧兜が、鎧櫃の上に置かれるばかりである。藤の方と相模は、あまりの切なさに涙した。
再び奥から、敦盛の首が入った首桶を持って熊谷が現れる。それを見た相模はどうかひと目その首を藤の方にと夫を引き止め、藤の方も熊谷にすがりつき嘆くが、あるじ義経に見せるまでは誰にも見せられぬと熊谷は二人を突き放し、義経のもとへと行こうとする。そのとき奥より、熊谷待てと声を掛けてあらわれたのは、ほかならぬ御大将義経公。義経は、熊谷が敦盛を討ったにもかかわらず、すぐさま自分のところにその首を届けに来ないのを不審に思い、自ら出向いてきたのだという。熊谷は義経の前に首桶と義経より託された制札を置き、制札の文言に添って首を討ったと述べた。そして、首桶を開けた。
だが、その首の顔を、ちらりと見た相模は、ヤアその首はと仰天して首に駆け寄ろうとした。熊谷は寄ろうとするのを引寄せて物も言わせず、さらに藤の方もわが子の顔見たさに駆け寄ろうとするがこれも熊谷はお騒ぎあるなと寄せ付けない。
義経は首を検分し、よくぞ討った…縁者にその首を見せて名残を惜しませよという。熊谷は相模に、藤の方に敦盛卿の首を見せるようにと首を渡した。相模は嘆き悲しみながら藤の方に見せる。藤の方は首を見て驚く。それは敦盛ではなかったからである。
義経は敦盛が後白河院の落胤であることを知り、なんとかその命を助けたいと考えていた。そこで小次郎をその身代りに立てろとの意を込めた﹁此花江南の所無也﹂云々の制札を熊谷に手渡し、熊谷はその義経の意向に従った。すなわち一谷の平家の陣所で手傷を負ったと称して連れ去ったのは敦盛であり、須磨の浦で熊谷と戦って首を討たれたのはじつは小次郎だったのである。弥陀六に石塔を誂えさせた若衆というのも、また藤の方が笛を吹いたときに障子にあらわれた人影も、じつは幽霊ではない敦盛本人であった。だが相模は、夫の熊谷から何も聞かされてはいなかった。
やがて出陣の合図である陣太鼓が鳴り響き、熊谷はいったんその用意に義経の前から下がった。そこへ景高が飛び出し、敦盛を助けたことを鎌倉へ注進せんと駆け出そうとするが、その背中に石鑿が飛んできて突き刺さり、景高はその場で絶命する。これはと人々が驚くうち、出てきたのは石屋の弥陀六。石鑿は弥陀六が投げたものであった。幽霊のご講釈承ってまずは安堵と、弥陀六はその場を去ろうとする。だが義経は、弥陀六がじつは平家の武士、弥平兵衛宗清であると見破り声を掛ける。最初はとぼけていたものの、ついにはこらえきれずに弥陀六じつは宗清はおのれの正体を明かし、娘の小雪というのもじつは平重盛のわすれがたみであり、そして自分がかつて常盤御前に抱かれていた幼児の義経を助けておかなければ、いまの平家の悲運はなかったものをと嘆くのであった。
すると義経は、石屋の親父に渡すものがあるといって先ほどの鎧櫃を渡した。これを娘に届けよというので、宗清が中を改めようとして蓋を開けるとそこには敦盛、藤の方は思わず駆け寄るが、宗清こと弥陀六が何にもないと押しとどめ、敦盛の命を助けた熊谷に礼をいうのであった。いっぽう鎧兜に身を包み再び義経の前に現れた熊谷は、義経に暇乞いを願い出る。そして兜を脱ぐと、その頭は髻を切っており、鎧も脱ぐとその下は白無垢の衣類に袈裟の姿。熊谷は小次郎の菩提を弔うために武士を捨て名も蓮生︵れんしょう︶と改め、僧侶となる覚悟をしていたのである。義経もこれを見て熊谷の心根を察し暇乞いを許すと、相模も自分も尼となって小次郎を弔おうと髷を切った。
長居は無用と弥陀六は、鎧櫃を背負い藤の方を連れてこの場を立とうとすると、熊谷と相模も黒谷の法然上人を師とたのまんと京へと向おうとする。そんな様子に義経は堅固で暮らせと声を掛け、人々はおさらばと別れてゆく。
﹁楽人斎隠居所﹂ 菊の前は忠度の仇と楽人斎に斬りかかろうとする。 右より五代目市川海老蔵の兎原の田五平、初代岩井紫若のけいせい菅原実は菊のまへ。天保12年︵1841年︶4月、江戸河原崎座。本来は三枚続きで、海老蔵の右側に初代澤村訥升演じる六弥太の絵があったと見られる。国芳画。
楽人斎はじつは、合戦のとき六弥太に従った旗持ちの雑兵であった。六弥太は須磨の浦で忠度と戦ったとき、忠度に組み敷かれ討たれそうになったが、そのとき楽人斎が駆け寄って忠度の右腕を斬り落とした。それで六弥太も忠度を討つことができたのである。その功により六弥太は楽人斎を親とも尊び、自ら引き取って面倒をみていたのだった。だがもう堪忍ならぬと、その着ていた鎧でもって六弥太は楽人斎を散々に殴る。そこへ、これまでの話を聞いていた菊の前が一間より飛び出し、楽人斎こそ忠度の仇と持った刀で楽人斎の右腕を斬り落とした。だがなおも斬りつけようとする菊の前を楽人斎は止め、六弥太はその場に林を縛って引き出し、ふたりは意外なことを物語る。それは…
楽人斎とはじつは林の息子太五平であり、菅原はその実の妹であった。そして兄妹の父親とは、平重衡の家来でその重衡を裏切った後藤兵衛守長だったのである。太五平は手柄を立てるという口実で雑兵となり、幼少のころ別れた父守長を戦場で探していた。そのとき六弥太が忠度と戦うところに出くわし、平家に味方せんとじつは六弥太を討とうとした。ところが手元が狂い、忠度の右腕を斬ってしまったのである。そして忠度は六弥太に討たれた。その申し訳なさにいったんは切腹しようかとも思ったが、この上は平家の恨みをはらそうと、その折をうかがって今日まで生きながらえて来たのだと。
だが一方、六弥太は菊の前の父藤原俊成から頼まれたことがあった。俊成は和歌の弟子である忠度の命を惜しみ、ひそかに六弥太に忠度を救ってくれるよう頼んでいたのである。六弥太はそれを承知し須磨の浦で忠度と勝負したとき、その命を助けようとしたのだが、太五平が忠度の右腕を斬ってしまった。その深手によりもはや助けられず、やむなく忠度を討ったのだと。また太五平のことについては、六弥太はかねてからその素性に不審を抱いていた。そこで自分のもとに引き取り様子をうかがっていたのを、その母の林が鎌倉に来たのを幸い、敵討ちにかこつけて菊の前と林を自分の館へとおびき寄せ、林を捕らえて父親が後藤兵衛守長であることを聞き出していたのである。
語り終えて太五平は、菅原が刀を持っていたのをその手を掴んで自分の脇腹を突かせた。これはと驚く菅原と林。だが太五平は、これは本来敵対する平家の余類である菅原を、源氏の武士である六弥太に添わせるためであり、最前女房になれなどといったのも、菅原の手にかかり兄妹の縁を切らせるためであった。どうか妹を見捨ててくださるなと太五平は六弥太に頼む。これを聞いて菅原や林はもとより、菊の前も今は仇を討つ心も失せ、その心根に涙するのであった。
すると、平家の余類である菅原とは添われぬ、ここを出て行けと六弥太がいきなり言い出す。それはあんまりなと菅原が言おうとすると、六弥太が追い出したのは菅原と名乗った菊の前と林であった。すなわちこれで本物の菅原を妻とすることに、何の障りもないとしたのである。太五平は六弥太の心遣いに感謝する。また六弥太は菊の前に向って短冊を投げ出した。見るとそれは、﹁ゆきくれて このしたかげを やどとせば はなやこよひの あるじならまし﹂という忠度が書いた辞世の歌であった。菊の前は涙して六弥太に礼をいう。
やがて暮六つの鐘が鳴り、菊の前と林はその場を立とうとする。深手を負った太五平は、最期を迎えようとするのであった。
四代目中村芝翫の熊谷次郎直実。明治31年︵1898年︶7月、東京演 伎座上演の﹃一谷嫩軍記﹄の時のものと見られる︵﹃歌舞伎年表﹄第7巻︶。芝翫最晩年の、﹁芝翫型﹂の扮装である。白黒写真ではあるが、それでも現行の﹁團十郎型﹂との違いが見て取れる。着付けは濃い色のもの︵おそらく黒︶、裃は雲に龍の地模様であり、顔も﹁芝翫筋﹂︵しかんすじ︶と呼ばれる筋を目尻から上向きに強く引いているようである。
文化10年︵1813年︶、江戸から上方へ帰った三代目中村歌右衛門は大坂で、この﹃一谷嫩軍記﹄の熊谷直実を演じた。二段目の﹁組討﹂ではそれまでの演出に自らの工夫を加え、それが歌右衛門のほかは古今に演じ手はいまいといわれるほどの大評判を取った。ところが三段目の﹁陣屋﹂は評判が悪かった。それというのも幕切れ近くになって兜を脱ぐときに、それまでは﹁切り払うたる有髪の僧﹂、つまり髻は切っているが髪の毛は残っている頭を見せたのが、歌右衛門は丸坊主の頭に替えて出たからで、これがやり過ぎだとの大不評を招いた。そしてそれがもとで歌右衛門は大坂を出て、京都の芝居に移ってしまったという[4]。しかしのちにはこの丸坊主の頭がふつうになり、現在の﹁陣屋﹂にまで伝わることになる。三代目歌右衛門の熊谷は、その後四代目歌右衛門からさらに四代目中村芝翫へと受け継がれており、それが﹁芝翫型﹂と呼ばれている。
﹁組討﹂ 討つのをためらう熊谷を﹁ヤアヤア熊谷、平家方の大将を組 敷きながら助くるは、二心に紛れなし…﹂と、平山武者所が遠くから罵る。右より二代目中山文五郎の平山武者所季重、五代目市村竹之丞の熊谷次郎直実、初代坂東しうかの無官太夫敦盛。嘉永4年︵1851年︶6月、江戸市村座。本来ならば熊谷たちと平山との間はもっと離れているが、文五郎を大きく描いたことでこのような構図となっている。三代目歌川豊国画。
これに対する敦盛じつは小次郎も芝居の底を割る、すなわちその正体が小次郎だとわかるような芝居をしてはならないとされているが、六代目尾上菊五郎によれば﹁組討﹂のなかで二ヶ所、親子の情を表すところがあり、それは平山に熊谷が罵られ、﹁熊谷ははっとばかりに、いかがはせんと﹂で熊谷と顔を見合わせるところ、もうひとつはいよいよ熊谷に討たれる時、﹁玉の様なる御粧ひ﹂で座した小次郎が熊谷を見上げるところだという[9]。
二代目松緑は﹁組討﹂の熊谷を演じるに当たって、まず沖に向う敦盛を見つけて﹁おーい、おーい…﹂と熊谷が呼び止めるところが大切だという。それは﹁ここの敦盛はすでにすり替わった熊谷の息子の小次郎ですから、ここで呼び戻せば、親が手ずからわが子を殺さなければならない﹂という覚悟の意味があるからだと述べている。また熊谷が乗る馬にも情愛がなくてはならないとし、首を討ったあとの死骸や鎧兜を馬に乗せるところも見物からは雑に見えてはならず、丁寧にやらなくてはいけないという。