合浦公園
合浦公園 Gappo Park | |
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分類 | 都市公園(総合公園) |
所在地 |
青森県青森市合浦2丁目86外 |
面積 | 17.0ha |
開園 | 1894年 |
設計者 | 水原衛作 |
運営者 | 青森市(指定管理者:パークメンテ青い森グループ[1]) |
設備・遊具 | C11 167、動物舎など |
バリアフリー | 車椅子対応トイレ |
アクセス |
バスで「合浦公園前」 「岡造道一丁目」 「合浦公園口」下車 |
事務所 | パークメンテ青い森グループ |
事務所所在地 | 青森県青森市合浦2丁目17−50 |
公式サイト | 指定管理者のサイト |
合浦公園︵がっぽこうえん︶は、青森県青森市中心部から東部に位置する青森市立の都市公園︵総合公園︶で、青森湾に面している。園内には青森市営野球場がある。
概要[編集]
●敷地面積17ヘクタール ●桜の本数 670本︵ソメイヨシノを主体としてシダレ桜、サトウ桜など4種類︶ ●黒松の本数 700本︵中にはかつてここが江戸時代に奥州街道であった頃からの三譽の松もある︶ 公園内には石川啄木の歌碑、棟方志功の言葉を刻んだ記念の石碑も建てられている。工藤卓爾の碑もある。青森県民駅伝競走大会の一区と二区の中継地点でもある。 積雪期は青森市歩くスキーコースが開設され、用具の無料貸し出しも行っている。沿革[編集]
●1880年頃‥旧弘前藩の庭師、水原衛作が自らの手で公園の造成を開始する。 ●1885年‥衛作、公園建設の過労がもとで死去。 ●1894年‥衛作の死の後、仕事を引き継いだ弟の柿崎巳十郎が公園を完成させ、青森町︵現在の青森市︶に寄付する。 ●1924年1月‥付近に浪打駅開業。 ●1945年‥青森大空襲により近くにあった青森中学校︵現在の青森県立青森高等学校︶が焼失。戦後敷地を編入する。敗戦後しばらくの間は駐留軍に接収された。 ●1950年‥青森市営球場開場。青森競輪場開場。 ●1954年12月9日‥米軍から公園返還[2] ●1968年7月‥東北本線ルート変更により浪打駅廃止。 ●1977年9月3日‥国民体育大会出席のために来県した昭和天皇が競輪場に行幸[3]。 ●1982年‥青森競輪場移設。跡地は広場になる。 ●1989年‥日本の都市公園100選に選出される。 ●1994年‥公園の完成百周年を記念し、水原衛作、柿崎巳十郎兄弟の像が設立される。青森春まつり[編集]
毎年春には青森市西部の野木和公園とともに青森春まつりが行われている。2005年の開催期間は4月29日から5月8日︵野木和公園は5日︶までで、合計で約20万人︵合浦公園15万人、野木和公園5万人︶の人出であった[要出典]。合浦公園海水浴場[編集]
砂浜は夏に一般に開放され、多くの海水浴客で賑わっている。昔は自然に公園周辺に美しい砂浜が続いていたが、戦後になると周辺の水質汚濁や利用客の増加などのためか、砂浜にはだんだんと泥がたまるようになっていった。砂浜の保全のため、過去二度にわたり海岸環境整備事業を実施しているが、砂浜が保全されているのは公園の部分の、それも海岸に近い部分のみに限定されている︵周辺の海岸はコンクリートで固められている︶。2005年の遊泳期間は7月22日から8月23日であった。三譽の松[編集]
樹齢460年以上と言われる傘型の黒松で、市文化財として天然記念物に指定されている。現在の公園敷地の中央部に位置し、公園を東西に貫く歩道︵旧奥州街道︶の脇にある。歴代の弘前藩主が地方巡見の際にこの松の下で酒宴を催し、藩主自ら酒を献上したと言われている。1991年の台風19号︵りんご台風︶により、大枝を損傷し切除したため、かつてに比べると容姿は損なわれているとも言われるが、今なお公園を代表する老松であることに変わりはない。アクセス[編集]
●青森市営バス ●県病・原別・浅虫・戸山方面線﹁合浦公園前﹂下車、徒歩3分。 ●弘南バス ●五所川原線・黒石線﹁合浦公園前﹂下車、徒歩3分。 ●十鉄バス ●十和田市線﹁岡造道一丁目﹂下車、徒歩5分。 ●下北交通 ●青森線﹁合浦公園口﹂下車、徒歩3分。脚注[編集]
- ^ 青森市の都市公園
- ^ 東奥日報1954年12月10日付け記事『"合浦公園"返還 きのう米軍と返還調印』より
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、147頁。ISBN 978-4-10-320523-4。