周布元兼
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周布元兼 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文15年(1546年) |
死没 | 天正6年6月9日(1578年7月13日) |
改名 | 周布千寿丸(幼名)→周布元兼 |
別名 | 通称:彦次郎 |
戒名 | 訂心 |
官位 | 左近将監、兵庫頭 |
主君 | 大内義隆→義長→毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 益田氏庶流周布氏 |
父母 | 父:周布武兼 |
兄弟 | 元兼、兼泰、兼俊 |
妻 | 冷泉隆豊の娘 |
子 | 元盛、女(桂元忠室)、長次、兼次 |
周布 元兼︵すふ もとかね︶は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。石見国那賀郡周布郷[1]を本拠とする国人・周布氏の第14代当主。大内氏、毛利氏の家臣。父は周布武兼。
生涯[編集]
天文15年︵1546年︶、周布武兼の子として生まれる。天文17年︵1548年︶12月14日に僅か3歳で、父から所領を譲られた。 天文24年︵1555年︶9月には毛利元就に帰属。弘治3年︵1557年︶5月12日、吉地右衛門尉を通した懇望により、毛利隆元を烏帽子親として元服。﹁元﹂の偏諱を受けて元兼と名乗った。同年8月、長門国大津郡日置庄40石や同郡三隅庄50石などを与えられ、また、石見邇摩郡内の福光兼教の旧領100貫を始めとして、合計300貫を与えられた。元亀4年︵1573年︶4月7日には毛利輝元から兵庫頭の官途を授けられている。天正4年︵1576年︶、足利義昭が備後国鞆に移った際には、一族の周布弾正忠を名代として派遣した。 天正6年︵1578年︶の播磨国上月城攻めでは吉川元春の軍に属して戦ったが、同年6月9日に戦死。享年33。嫡男の元盛が後を継いだ。脚注[編集]
参考文献[編集]
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