星野和平
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ほしの わへい 星野 和平 | |
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星野和平(1954年撮影) | |
生年月日 | 1913年10月19日 |
没年月日 | 1973年3月27日(59歳没) |
出生地 | 日本 東京府豊多摩郡野方村大字新井 |
職業 | 実業家、映画プロデューサー |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1935年 - 1956年 |
星野 和平︵ほしの わへい、1913年10月19日 - 1973年3月27日︶は、日本の実業家、映画プロデューサーである[1]。五社協定時代︵1953年 - 1971年︶以前の日本の映画界で﹁俳優ブローカー﹂として活躍したことで知られる。
人物・来歴[編集]
1913年︵大正2年︶10月19日、東京府︵現在の東京都︶の新井薬師に生まれる[2][1]。生家は質店であった[1]。1928年︵昭和3年︶、旧制・尋常小学校を卒業する[2]。白木屋︵現在の東急百貨店︶の呉服部員となり、マキノ光雄の妻と知り合い、1935年︵昭和10年︶に設立されたマキノトーキー製作所に入社する[1]。 1941年︵昭和16年︶に戦時統合が行われ、日本全体の映画作品の製作本数、必要人員が削減された時代、星野芸能社を設立、杉狂児や宮城千賀子、嵐寛寿郎、黒田記郎、江川宇礼雄らの地方巡業を行う[1]。 1946年︵昭和21年︶11月、東宝争議を原因に、大河内傳次郎、長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子が組合を脱退、﹁十人の旗の会﹂を結成、それがやがて新東宝設立に向かう。星野は星野芸能社で、原節子、佐分利信、木暮実千代、水戸光子、飯田蝶子、高峰三枝子、三浦光子、坂本武、宇佐美淳、徳大寺伸らのマネジメントを行い、映画会社に所属しない俳優を強力にブッキングする[1][3]。 1949年︵昭和24年︶、熊谷久虎、倉田文人とともに映画芸術研究所︵芸研プロダクション︶を発足、設立第1作﹃殿様ホテル﹄を倉田監督、主演河津清三郎で製作・配給する[4]。同社の社長は熊谷、星野は倉田や佐分利信とともに取締役として名を連ねた[1]。翌1950年︵昭和25年︶には、佐分利の監督・主演作﹃女性対男性﹄、同じく﹃執行猶予﹄を太泉映画︵現在の東映︶と提携製作する。太泉映画の合併と東映の成立を機に、芸研プロダクションを閉じ、東京プロダクションを設立する[1]。同社の設立第1作は、1952年︵昭和27年︶5月29日公開の﹃離婚﹄︵監督マキノ雅弘、配給新東宝︶であった[1]。同年、マキノ雅弘監督の﹃弥太郎笠 前・後篇﹄を、主演の鶴田浩二の会社新生プロダクションで製作、完成後に東京プロダクションの解散を発表する[1]。 1954年︵昭和29年︶、製作を再開した日活の契約プロデューサーとなる[3]。翌1955年︵昭和30年︶、渡辺邦男とともに新東宝に入社、渡辺が取締役製作担当︵製作本部長︶、星野は取締役撮影所長に就任する[2]。同年12月29日、大蔵貢が社長に就任、渡辺も星野も取締役を辞任する。1956年︵昭和31年︶7月12日公開の﹃四谷怪談﹄を最後に、同社の製作のクレジットから名前が見えなくなる。 1973年︵昭和48年︶3月27日、死去する。満59歳没。フィルモグラフィ[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「映画界の盲點を衝く 星野和平氏に聞く」、『キネマ旬報』1952年10月下旬号、キネマ旬報社、1952年10月
- 特集グラフィック「映画人クロースアップ 星野和平」、『キネマ旬報』1954年12月下旬号、キネマ旬報社、1952年12月
- 座談会「二人で新東宝を立直す 渡辺邦男・星野和平・清水千代太」、『キネマ旬報』1955年3月下旬号、キネマ旬報社、1955年3月
- 『1956 ダイヤモンド会社職員録』、加藤一、ダイヤモンド社、1956年9月10日
- 『マッカーサーとチャンバラ - ある活動屋の思い出ばなし』、小川正、恒文社、1995年9月 ISBN 4770408412
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- Wahei Hoshino - IMDb(英語)
- Kazuhira Hoshino - IMDb(英語)
- Kazuhei Hoshino - IMDb(英語) 読み誤記
- 星野和平 - 日本映画データベース
- 星野和平 - KINENOTE
- 星野和平 - allcinema