材木売
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材木売︵ざいもくうり︶は、中世︵12世紀 - 16世紀︶期に存在した日本の行商人[1]。平安時代︵9世紀 - 12世紀︶以降、材木を仕入れて販売した行商・店舗、およびその業者等を総称して、材木商人︵ざいもくしょうにん︶、材木商︵ざいもくしょう︶、材木屋︵ざいもくや︶と呼び[2]、本項ではこれについても扱う。
堀川に架かる現在の一条戻橋︵京都市、2004年撮影︶。
現在の和賀江島と材木座海岸︵鎌倉市、1983年撮影︶。
現在の木津川︵木津川市加茂町、2006年撮影︶
近代以降の木場︵東京都江東区、1933年撮影︶。
9世紀後半、879年︵元慶三年︶の京都・祇園社︵現在の八坂神社︶の記録に、堀川十二町︵現在の堀川今出川から堀川御池の範囲︶の﹁材木商人﹂について記されている[2][3]。堀川十二町の寄進によって、同地は祇園社の領地となり、﹁材木商人﹂たちは同社を本所とした﹁神人﹂の地位を得た[2]。﹃京都嵯峨材木史﹄によれば、堀川の地に﹁材木商人﹂が居を構えて生業を始めたのは、794年︵延暦13年︶の平安京の造営に際して、輸送された木材が同地で引き上げられて使用されたことによる[3]。現在はほぼ暗渠であるが、当時の堀川は、川幅が4丈︵約12.1メートル︶あり、貯木場として成立しえたという[3]。堀川十二町の﹁材木商人﹂は﹁堀川材木神人﹂︵ほりかわざいもくじにん︶と呼ばれた[4]。
現在も地名に残る神奈川県鎌倉市材木座は、鎌倉時代︵12世紀 - 14世紀︶に、相模国鎌倉郡和賀江津に設置された座﹁材木座﹂に由来する[5]。同地に現存する人工島、和賀江島は、1232年︵貞永元年︶に築かれた港湾施設である[5]。興福寺の塔頭・一乗院︵現存せず︶が支配した山城国相楽郡木津︵現在の京都府木津川市木津︶にも、鎌倉と同時期の12世紀に﹁材木座﹂が置かれたとされる[6]。
室町時代に入り、1459年︵長禄3年︶には、堀川十二町の﹁堀川材木神人﹂たちは﹁材木座﹂を結成、堀川の貯木場を独占、大鋸挽たちの製材した﹁大鋸板﹂︵おがいた︶の販売権を独占した[3]。この時代には、丹波国︵現在の京都府中部ほか︶、近江国︵現在の滋賀県︶、美濃国︵現在の岐阜県南部︶、安芸国︵現在の広島県西部︶、あるいは四国からの木材が、堀川の材木座に集約されるようになっていた[5]。材木座は、京都堀川や木津、鎌倉和賀江津のほか、大和国奈良、和泉国大鳥郡堺︵現在の大阪府堺市︶に存在したことが知られている[5]。この時代、木津で水揚げした材木は、京都・奈良で振売の販売を行っていた[7]。
略歴・概要[編集]
「材木座」を参照
15世紀末の1494年︵明応3年︶に編纂された﹃三十二番職人歌合﹄の冒頭には、﹁いやしき身なる者﹂として、﹁竹売﹂とともに﹁材木売﹂として紹介され、袴を穿き、板材を束ねる姿が描かれている[1]。同歌合は京都の都市部に見られる﹁職人﹂︵商工業者、芸能者︶をピックアップしており、図においてこの﹁材木売﹂が小刀を帯刀しているのは、身分が﹁神人﹂であるからであり、﹁堀川材木神人﹂であることを示している。この歌合に載せられた歌は、
●よし野木の 材木なれば あたひをも 花におほせて はなたかるなり
というもので、吉野材の価値を歌っている[8]。
中世の時期、﹁問丸﹂︵といまる︶と呼ばれる商人が現れ、海岸や河川の港で、貨物の保管・輸送・販売を行った[9]。16世紀には﹁仲買﹂が現れ、やがて﹁問丸﹂が江戸時代︵17世紀 - 19世紀︶に入り、卸売商人である﹁問屋﹂へと発展し、流通のシステムが変革されていく[9][10]。江戸における﹁材木問屋﹂は、その当初は﹁仲買﹂と﹁小売﹂を兼ねていたが、のちに分化していく[6]。﹁材木屋﹂と呼ばれた小売商店は、製材を行う職人である﹁大鋸引﹂︵木挽︶、ならびに筏師︵川並鳶︶を配下に抱えていた[6]。江戸・八丁堀で材木商を営み、寛永寺本堂造営への材木提供で財をなした人物が、紀伊國屋文左衛門である[11]。
「材木問屋」を参照
近代以降については、木材商 を参照。
用語一覧[編集]
﹁材木売﹂﹁材木商人﹂らのおもな関連用語の一覧である。 ●材木座 - 貯木場・板材等の販売権を独占する座 ●材木奉行 - (一)中世の材木の調達・管理を行った役人・役所 (二)近世・江戸幕府の職名、材木の調達・管理を行った ●木屋・樹屋︵きや︶ - 材木小屋、材木の貯蔵用の倉庫 ●木屋預︵きやあずかり︶ - 木屋の管理をする頭人・頭目 ●川並鳶・川並 - 木場で木材の管理をする者 ●材木問屋 - 近世以降の流通における問屋 ●材木屋風 - 近世・江戸で流行った髪形 ●杣 - 古代・中世の律令時代の指定山林 ●杣司 - 古代・中世の杣の管理人 ●杣工 - 古代・中世の杣を伐採・製材する者 ●木屋師 - 丸太を山中から川まで運ぶ職人 ●筏師 - 筏作り・筏流しを行う労働者 ●木挽・大鋸挽 - 製材する者著名な人物[編集]
著名な﹁材木売﹂﹁材木商人﹂らのおもな一覧である。 ●淀屋 - 米・材木を商う (一)淀屋常安 ︵1560年 - 1622年︶ (二)淀屋言當 ︵1576年 - 1644年︶ (三)淀屋箇斎 ︵1606年 - 1648年︶ (四)淀屋重當 ︵1634年 - 1697年︶ (五)淀屋廣當 ︵1684年 - 1718年︶ ●吉田勘兵衛 ︵1611年 - 1686年︶ ●紀伊國屋文左衛門 ︵17世紀 - 18世紀︶ ●奈良茂左衛門 ︵1695年 - 1725年︶ ●奈良屋茂左衛門 ︵17世紀 - 18世紀︶ - 名跡 ●加納宗七 ︵1827年 - 1887年︶ ●高島嘉右衛門 ︵1832年 - 1914年︶ ●平沢嘉太郎 ︵1864年 - 1932年︶ ●三田平凡寺 ︵1876年 - 1960年︶材木屋風[編集]
元禄年間︵1688年 - 1704年︶に﹁材木屋風﹂︵ざいもくやふう︶という男性の髪型が流行する[12]。これは、後頭部で髷を細く結ったスタイルであった[12]。江戸時代の風俗を記録したことで知られる加藤曳尾庵の随筆﹃我衣﹄︵1825年︶には、﹁元祿頃、材木屋風なり、つつこみと云中ぞり有﹂とあり、突込頭︵つっこみあたま︶と同じものであり、頭頂部を剃る﹁中剃り﹂のある、元禄年間に流行った髪型であるとしている[13]。﹁突込頭﹂とは、やはり材木屋らの髪型であり、頭頂部を大きく剃り︵中剃り︶、元結を1寸︵約3.03センチメートル︶程度に巻き上げて結んだもので、突込髷︵つっこみわげ︶とも呼ばれた[14][15]。巻き上げる髪の量が多く、髪油で汚れないようにするのが床屋の技術であったという[15]。林不忘の小説﹃釘抜藤吉捕物覚書﹄の主人公・藤吉が、この髪型︵材木屋風︶であった[16]。脚注[編集]
(一)^ ab小山田ほか 1996, p. 142.
(二)^ abc材木商、Yahoo!辞書、2012年9月10日閲覧。
(三)^ abcd京都木材流通の変遷と北側丸太、京都税理士協同組合、2012年9月10日閲覧。
(四)^ Discover Japan編集部 2010, p. 100.
(五)^ abcd世界大百科事典 第2版﹃材木座﹄ - コトバンク、2012年9月10日閲覧。
(六)^ abc遠藤元男. “材木屋”. コトバンク. 2019年6月2日閲覧。。
(七)^ 松井吉昭. “材木座”. コトバンク. 2019年6月2日閲覧。。
(八)^ 岩崎 1987, p. 107.
(九)^ ab世界大百科事典 第2版﹃問丸﹄ - コトバンク、2012年9月10日閲覧。
(十)^ デジタル大辞泉﹃問屋﹄ - コトバンク、2012年9月10日閲覧。
(11)^ 大石学. “紀伊国屋文左衛門”. コトバンク. 2019年6月2日閲覧。。
(12)^ abデジタル大辞泉﹃材木屋風﹄ - コトバンク、2012年9月10日閲覧。
(13)^ 材木屋風、Yahoo!辞書、2012年9月10日閲覧。
(14)^ 突込頭、Yahoo!辞書、2012年9月10日閲覧。
(15)^ ab坂口 1972, p. 142.
(16)^ 釘抜藤吉捕物覚書 巷説蒲鉾供養、林不忘、青空文庫、2012年9月10日閲覧。