桂枝太郎
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(桂枝太郎 (初代)から転送)
- 三代目桂枝太郎 - 当代
初代[編集]
初代 | |
本名 | 岩本 宗太郎 |
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別名 | 先斗町の枝太郎 |
生年月日 | 1866年2月 |
没年月日 | 1927年2月6日 |
出身地 | 日本・京都 |
師匠 | 桂慶治 2代目月亭文都 2世曽呂利新左衛門 3代目笑福亭松鶴 2代目桂文枝 |
名跡 | 1. 桂扇太郎(1872年? - 1875年) 2. 桂春之助(1875年 - ?) 3. 笑福亭梅幸(? - ?) 4. 桂春之助(? - ?) 5. 5代目笑福亭吾鶴(? - ?) 6. 初代桂枝太郎(1887年 - 1927年) |
活動期間 | 1872年? - 1927年 |
活動内容 | 落語 舞踊 |
所属 | 桂派→京桂派 |
初代 桂 枝太郎︵1866年2月 - 1927年2月6日︶は、本名: 岩本 宗太郎。享年62。
人物[編集]
京都生まれ。幼少の頃に父を亡くしたため、2代目桂猫丸︵初代桂文之助の門下︶が養父となる。 初め6歳で桂慶治に入門し扇太郎?を名乗る。1875年ころに2代目月亭文都の門下で春之助を名乗るが、文都と養父の意見が合わず、明治10年代初めに2世曽呂利新左衛門の門下で笑福亭梅幸の名で旅巡業に出る。その後春之助に戻り、1885年、養父の死によって京都へ戻り、3代目笑福亭松鶴の門下で5代目笑福亭吾鶴を名乗り︵あるいは3代目桂文吾の門下で吾鶴を名乗るとも︶、幾世亭に出演。1886年、上京し関東地方を巡業。1887年、2代目桂文枝の門下に移り、初代枝太郎を名乗り、主に京都の寄席で真打を張った。後に﹁京桂派﹂を主催し、若手育成にも尽力した。 住所から俗に﹁先斗町﹂と呼ばれる。歯切れ良く、線の太い芸風で、名人と称された。十八番は﹃堀川﹄﹃紙屑屋﹄﹃莨の火﹄などで、特に﹃大丸屋騒動﹄は、あまりに素晴らしい出来であったため、この演目のやり手が他になくなったと言われる。なお、SPレコードに﹃雷の褌﹄という小噺を吹き込んでおり、その芸風の一端を偲ぶことができる。また、舞踊は山村流の名手で、初代橘ノ圓と並び称された。 墓所は京都市東山の本壽寺。法名: 妙法桂宗院英枝居士。一門弟子[編集]
●桂桃太郎 ●桂枝雁 ●桂燕太郎︵枝雁の実子︶ らがいる。2代目[編集]
二代目 | |
本名 | 池田 芳次郎 |
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生年月日 | 1895年5月7日 |
没年月日 | 1978年3月6日(82歳没) |
出身地 | 日本・東京 |
師匠 | 三代目古今亭今輔 六代目雷門助六 六代目春風亭柳枝 二代目桂小文治 |
名跡 | 1. 古蔵宝輔 (1917年) 2. 雷門雷好 (1924年 - ?) 3. 春風亭枝好 (時期不明) 4. 三代目春雨家雷蔵 (? - 1938年) 5. 初代桂小金治 (1938年 - 1943年) 6. 二代目桂枝太郎 (1943年 - 1978年) |
活動期間 | 1917年 1924年 - 1978年 |
活動内容 | 新作落語 |
所属 | 日本芸術協会 →落語芸術協会 |
受賞歴 | |
藍綬褒章(1977年) | |
二代目 桂 枝太郎︵1895年5月7日 - 1978年3月6日︶は、本名∶池田 芳次郎。享年84。落語芸術協会所属。出囃子は﹃串本節﹄。
人物[編集]
女には奥手だったが、戦後、戦災未亡人と結ばれた。しかし、数年して死んだはずの夫が復員してきたという。すでに大看板となっていた枝太郎であったが、数年間どこで何をしているか行方不明の失跡状態となった︵実際は大阪にいた︶。帰京後、住んでいたアパートに偶然東洋興業︵浅草フランス座︶の従業員が住んでおり、彼を介して浅草フランス座内に寄席︵定席︶、﹁東洋劇場﹂を作らせることに成功した。これが現在の﹁浅草演芸ホール﹂の前身である。 ボランティアも積極的に行い、少年院・刑務所などで落語を行うほか、篤志面接委員となって在院者・受刑者達の更生に尽くした。その功績により1977年︵昭和52年︶、春の藍綬褒章を受章している。また、川柳・都々逸作家として落語家の川柳の会﹁鹿川会﹂を主宰したため、墓所は柄井川柳の墓がある台東区蔵前の龍宝寺にある。経歴[編集]
●日本橋本石町の工業薬品商の次男として生まれる。 ●本石町常盤小学校4年︵現‥中央区立常盤小学校︶を卒業。 ●1908年に青山学院入学。 ●その後、明治薬学校︵現: 明治薬科大学︶に入学させられた。 ●当時としては︵落語家としてだけでなく一般人の中でも︶珍しい高学歴で、俗に﹁インテリの枝太郎﹂と呼ばれる。 ●しかし学業は性に合わず、21歳の頃、﹃演芸新聞﹄に﹁住吉のぶ代﹂と言うペンネームで寄稿していると、活弁の生駒雷遊から熱烈ラブレターが舞い込んだこともあったという。 ●1917年12月、3代目古今亭今輔に入門。しかし﹁古蔵宝輔﹂と言う珍名を名付けられ、落胆して半年で廃業。 ●兄を追って相場師になるも、関東大震災で断念。 ●1924年、やはり噺家が諦めきれず橘家花圓蔵︵川崎仙太郎︶の引きで噺家に復帰。6代目雷門助六門下で雷門雷好を名乗る。 ●次に6代目春風亭柳枝門下で枝好。 ●次に旅回り専門となり3代目春雨家雷蔵。 ●1938年に2代目桂小文治門下となって初代桂小金治を名乗る。 ●1943年4月、真打昇進し2代目枝太郎襲名。得意ネタ[編集]
﹃自家用車﹄﹃子故の春﹄などの新作落語や、﹃焔火百話﹄などの随談ものを得意とした。一門弟子[編集]
直弟子[編集]
移籍[編集]
関連項目[編集]
出典[編集]
- 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編、平凡社、1989年、ISBN 458212612X)
- 『落語系圖』(月亭春松編) - 初代に関して
- 『桂春団治』(富士正晴著)「上方落語年表」 - 初代に関して