浅野長武 (侯爵)
浅野長武 | |
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東京国立博物館長時代の浅野長武(『アサヒグラフ』1956年10月14日号より) | |
生年月日 | 1895年(明治28年)7月5日 |
出生地 | 日本東京府東京市 |
没年月日 | 1969年(昭和44年)1月3日 |
出身校 | 東京帝国大学文学部国史科 |
所属政党 | 火曜会 |
称号 | 侯爵 |
貴族院議員 | |
選挙区 | 侯爵議員 |
在任期間 | 1940年12月28日 - 1947年5月2日 |
浅野 長武︵あさの ながたけ、1895年︵明治28年︶7月5日 - 1969年︵昭和44年︶1月3日[1]︶は、日本の美術史家、政治家、華族。貴族院侯爵議員、東京国立博物館長を歴任した。
経歴[ソースを編集]
東京市出身。侯爵・浅野長之の息子として生まれる[1]。学習院高等科を経て、1920年、東京帝国大学文学部国史科を卒業し、さらに同大学大学院を修了[2][3][4]。父・長之が1940年12月20日に隠居し[5]家督を相続する。同月28日、侯爵を襲爵し、貴族院侯爵議員に就任する[6]。火曜会に所属し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。 1927年、学習院講師に就任する[4]。その他、内務省嘱託、帝国学士院嘱託、東京府嘱託、文部省委員、歌御会始読師などを歴任する[2]。また、重要美術品等調査委員会会長、正倉院評議員、国立近代美術館評議員、国立西洋美術館評議員なども務めた[3][4]。 1951年、東京国立博物館長に就任し、美術界で話題となる大展覧会を開催した[3]。また、館長在任中の1960年︵昭和35年︶2月29日の浩宮徳仁親王︵現・第126代天皇︶および1965年︵昭和40年︶12月6日の礼宮文仁親王︵現・皇嗣︶の﹁浴湯の儀﹂において、前田利建︵宮内庁式部官︶とともに鳴弦の儀を執り行った[7]。著書[ソースを編集]
●﹃美術道すがら﹄講談社、1966年。 ●﹃日本美術の流れ﹄信濃毎日新聞社、1966年。親族[ソースを編集]
●前妻‥恭子︵やすこ、伏見宮博恭王長女︶[1] ●後妻‥安子︵やすこ、山階宮菊麿王長女︶[1] ●長女‥頼子︵徳川圀斉の妻︶[1] ●長男‥長愛︵山階鳥類研究所理事長︶[1] ●次男‥芳正︵山階芳麿養子︶[1]脚注[ソースを編集]
参考文献[ソースを編集]
●霞会館華族家系大成編輯委員会﹃平成新修旧華族家系大成﹄上巻、霞会館、1996年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。 ●日本近代文学館編﹃日本近代文学大事典 第1巻﹄講談社、1977年。 ●斎藤忠﹃日本考古学人物事典﹄学生社、2006年。関連項目[ソースを編集]
●東京大学浅野キャンパス日本の爵位 | ||
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先代 浅野長之 |
侯爵 (広島)浅野家第3代 1940年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |