今日出海
今 日出海 (こん ひでみ) | |
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小国英雄(右)とともに(1949年) | |
誕生 |
1903年11月6日 北海道函館市 |
死没 |
1984年7月30日(80歳没) 神奈川県鎌倉市 |
職業 |
小説家、評論家、翻訳家 初代文化庁長官(1968-1972) |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 東京帝国大学仏蘭西文学科卒業 |
代表作 | 『天皇の帽子』(1950年) |
主な受賞歴 |
直木三十五賞(1950年) 勲一等瑞宝章(1974年) 文化功労者(1978年) |
デビュー作 | 『大いなる薔薇』(1940年) |
親族 | 今東光(兄) |
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今 日出海︵こん ひでみ、1903年︵明治36年︶11月6日 - 1984年︵昭和59年︶7月30日︶は、日本の小説家、文芸評論家、舞台演出家。
初代文化庁長官を務めた。
略歴[編集]
北海道函館市に生まれた。3人兄弟の末子で、長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光である。 日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年︵明治44年︶に神戸市の小学校へ入り、1917年︵大正6年︶神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京の暁星中学へ移った。1922年︵大正11年︶、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。 1925年︵大正14年︶、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄・三好達治・中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰・武田麟太郎らがいた。 1924年︵大正13年︶に開場した築地小劇場を観て演劇に熱中し、1925年に村山知義・河原崎長十郎・市川団次郎・池谷信三郎らが結成した劇団﹃心座﹄の演出に加わった。また、中学の頃からチェロを始め、音楽に打ち込んでおり、高校以来の親友諸井三郎が、1927年︵昭和2年︶に始めた音楽運動﹁スルヤ﹂に関係した。 1928年︵昭和3年︶、東大仏文科卒。就職できず法科へ入り直したが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学。矢代幸雄の﹃黒田清輝美術研究所﹄︵現在の東京国立文化財研究所︶の嘱託として西洋美術史を一年あまり研究し、また、妻桂子を得た。女優の藤間春江︵のちの吾妻徳穂︶との仲が新聞ダネになった。 1929年︵昭和4年︶、心座から中村正常・舟橋聖一・池谷信三郎ら右派が独立した﹃蝙蝠座﹄に加わり、翌年第1回公演を打った。 1928年に﹃文芸都市﹄誌、1930年︵昭和5年︶には﹃作品﹄誌の同人となり、のちに﹃文學界﹄誌の同人に加わり、文芸評論・随筆・翻訳を載せた。左翼に同じぬ正統芸術派的立場であった。 1932年︵昭和7年︶、開設された明治大学専門部文芸科の講師となった。1935年︵昭和10年︶、請われて、崔承喜主演の映画﹁半島の舞姫﹂を、新興キネマ東京撮影所で制作した。1937年︵昭和12年︶、パリに半年近く滞在した。1939年︵昭和14年︶、明治大学教授となった。 1941年︵昭和16年︶11月、陸軍の報道班員に徴用され、三木清・尾崎士郎・石坂洋次郎・火野葦平らと、太平洋戦争初期のマニラに約1年滞在した︵﹃比島従軍﹄、創元社1944︶。1944年︵昭和19年︶12月に再度徴用されたときは、マニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸し、ルソン島北部への約5ヶ月の逃避行ののち、被弾を修理した新司偵に乗って、制空権のないバシー海峡を越え、台湾へ脱出した。さらに台北からDC-3で、戦闘末期の沖縄上空を飛び、雁ノ巣飛行場へ帰った︵﹃山中放浪﹄、日比谷出版社1949︶。 1945年︵昭和20年︶11月、文部省社会教育局文化課長となり、翌月同芸術課の初代課長となった。1946年︵昭和21年︶1月、本間雅晴中将の戦犯裁判の証人に喚ばれ、戦後のマニラに飛んだ。同年7月、神戸一中で同級だった白洲次郎の仲立ちで、吉田茂首相にGHQの横暴を直訴し、以後吉田に親炙した。その秋、第1回の芸術祭を催した。1947年︵昭和22年︶12月、芸術課長を辞し、約1年病臥した。 1950年︵昭和25年︶、﹃新潮﹄2月号に掲載した﹁三木清における人間の研究﹂で、三木清を批判した。小説﹁天皇の帽子﹂で、第23回直木賞[1]を受けた︵兄の東光も同賞を6年後に受賞︶。その後も旺盛な執筆活動を続けた。1966年︵昭和41年︶、網膜剥離で片目の視力を失った。 1968年︵昭和43年︶6月、佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官となり、約4年間務めた。1972年︵昭和47年︶10月から、国際交流基金の初代理事長を8年間務め、モナリザの日本初公開︵1974年︶、および、パリの唐招提寺展を実現した。 1974年︵昭和49年︶、勲一等瑞宝章を受け、1978年︵昭和53年︶、文化功労者に選ばれた。1980年︵昭和55年︶、国立劇場会長となった。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。 1984年︵昭和59年︶7月30日、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市の病院で没[2]。80歳。鎌倉カトリック墓苑に葬られた。著作[編集]
著書[編集]
- 『大いなる薔薇』白水社、1940年
- 『東西雑記』三学書房、1941年/新太陽社、1948年
- 『日本の家族制度』青木書店、1942年 (被徴用期に仏文仲間が編集した)
- 『秋の歌』三杏書院、1943年
- 『比島従軍』創元社、1944年(検閲で多くの箇所を削除された)
- 『山中放浪 私は比島戦線の浮浪人だつた』日比谷出版社、1949年/中公文庫、1978年、復刊1991年
- 『天皇の帽子』ジープ社、1950年/中公文庫、1981年
- 『脂粉の舞』ジープ社、1950年
- 『人間研究』新潮社、1951年
- 『たぬき部落』創元社、1951年
- 『私の人物案内』創元社、1951年/中公文庫、1985年、改版2006年
- 『山上女人国』読売新聞社、1952年
- 『悲劇の将軍 山下奉文・本間雅晴』文藝春秋新社、1952年/中公文庫、1988年
- 『雪間草』小説朝日社、1952年
- 『怒れ三平』毎日新聞社、1953年
- 『天皇の帽子・いろは紅葉・激流の女』小説朝日社、1953年
- 『現代紳士録』創元社、1953年/東京創元社、1956年
- 『泣くなお銀』北辰堂、1954年
- 『晴れた日に』新潮社、1955年
- 『チョップ先生』毎日新聞社、1956年/春陽文庫、1967年
- 『酔いどれ船』彌生書房、1958年
- 『人さまざま』光書房、1959年
- 『まだまだ夜だ』新潮社、1962年
- 『迷う人迷えぬ人』新潮社、1963年
- 『海賊』毎日新聞社、1966年
- 『吉田茂』講談社、1967年/中公文庫、1983年
- 『今日出海対話集』講談社、1969年
- 『静心喪失』東京美術 ピルグリム・エッセイシリーズ、1970年
- 『青春日々』雷鳥社、1971年
- 『今東光・今日出海集 日本文学全集59』集英社、1972年
- 『隻眼法楽帖』中央公論社、1981年
翻訳[編集]
- アンドレ・ジイド『イザベル』六蜂書房、1934年
- アンドレ・ジイド『二つの交響楽(田園交響楽・イザベル)』白水社、1936年
- アンドレ・ジイド『地の糧・ひと様々』白水社、1936年/「地の糧」新潮文庫、新版2023年
- ヴィクトル・ユーゴー『九三年』国立書院、1948年
- モオリス・ブデル『北緯六十度の恋』(福永武彦と共訳)、実業之日本社 仏蘭西文学賞叢書、1940年/新潮社、1951年
脚注[編集]
- ^ 受賞作家の群像 今日出海
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)146頁
参考文献[編集]
- 「新潮日本文学辞典」、磯田光一ほか編、新潮社(1988年) ISBN 4107302083
- 今日出海 「私の人物案内」中公文庫:解説林秀雄(1985年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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