滝川利雍
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滝川 利雍 | |
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時代 | 江戸時代中期 – 後期 |
生誕 | 宝暦10年2月15日(1760年3月31日) |
死没 | 文政5年6月12日(1822年7月29日) |
改名 | 郁之丞(幼名)、山野辺義嬰、毛利嬰、滝川利済、利雍 |
別名 |
通称:靱負、帯刀 字:粛之 号:玉芝園、南谷 |
戒名 | 文徳院殿前藝州刺史賢明宗仁大居士 |
墓所 | 下谷広徳寺塔頭桂徳院 |
官位 | 従五位下長門守、出羽守、安芸守 |
幕府 | 江戸幕府 中奥小姓、小普請組支配、甲府勤番支配、西丸小姓組番頭、小姓組番頭 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
氏族 | 山野辺氏、毛利氏、滝川氏 |
父母 |
父:森褧、母:青柳氏 養父:滝川一貞 |
兄弟 | 利雍、片桐貞芳室、関盛平 |
妻 | 正室:酒井忠香の娘 |
子 |
石河勝任、輿之助、明熈、女子4人 養子:利教(美利) |
滝川 利雍︵たきがわ としやす︶は、江戸時代中期から後期の旗本。旧片野藩主滝川家第11代当主。初名は利済︵としなり︶。通称は靱負︵ゆきえ︶、帯刀︵たちわき︶。字を粛之、号を玉芝園、南谷と称した。官位は従五位下、長門守、出羽守、安芸守。
漢学者毛利扶揺として知られる実父の薫陶を受けて漢詩に長じ、﹁布衣以上第一の作家﹂︵大名・大身の中で一番の詩作者︶と称された[1]。滝川 南谷︵たきがわ なんこく︶の雅号でも知られる[2]。
生涯[編集]
宝暦10年︵1760年︶、水戸藩家老山野辺家︵1万石︶の養嗣子、山野辺義褧︵扶揺︶の長男として水戸で生まれた。母は青柳氏[注釈 1]。幼名は郁之丞[3]。元服して名を義嬰︵または義采︶、通称を靱負、字を長孺と称した[3][4]。 安永6年︵1777年︶、父扶揺が廃嫡され[注釈 2]、父とともに山野辺家から離縁した[注釈 3]。江戸に移り住んで父の実家豊後佐伯藩主毛利家の厄介となり、氏を毛利、名を嬰に改めた[注釈 4]。 天明5年︵1785年︶、毛利家出身の旗本滝川一貞[注釈 5]の末期養子に迎えられ、名を利済、通称を帯刀に改めた[5]。同年5月6日、幕府から滝川家︵近江国内4000石︶の家督継承を認められ[6]、12月9日、将軍徳川家治に初めて御目見した[7]。 天明6年︵1786年︶、中奥小姓に任命され[8]、翌6年︵1787年︶、従五位下長門守に叙任された[9]。 寛政8年︵1796年︶、小普請組支配に転じ[10]、同10年︵1798年︶末、甲府勤番支配に任じられた[11]。甲府勤番支配は同役2名が甲府城に常駐する役職であり、翌11年︵1799年︶3月に甲府に赴任した[12]。 甲府在勤中に名を利雍、官名を出羽守に改める。利雍の在勤は6年に及び、甲府勤番支配として番士を指揮し、月番で甲府の町政をみるかたわらで、甲府学問所徽典館の創建[注釈 6]、甲斐国の地誌﹃甲斐国志﹄の編纂[注釈 7]等、文教面においても治績を残した[13]。文化元年︵1804年︶には勤労を賞せられて時服を拝領した[14]。 文化2年︵1805年︶、江戸に呼び戻され、西丸小姓組の番頭に任命された[15]。同3年︵1806年︶、官名を安芸守に改める[注釈 8]。同4年︵1807年︶には小姓組の番頭に転ずるが[16]、翌5年︵1808年︶、病気のため辞職して寄合に列した[17]。 文化11年︵1814年︶、寄合肝煎となる[18]。文政3年︵1820年︶5月、病気のため寄合肝煎を辞任し[19]、同年11月、家督を養父一貞の実子である滝川利教[注釈 9]に譲って致仕した[20][注釈 10]。 文政5年︵1822年︶死去、享年63[21]。文芸活動[編集]
利雍は幼少時に実父毛利扶揺に漢詩の手ほどきを受け、父の命を受けて父と同じく服部南郭の門人である安達清河に就いて学んだ[5]。 詩集に﹃玉芝園詩草﹄があるほか、交流のあった文士の著作に多くの詩文が採録されている[22][23]。交友関係[編集]
山野辺家時代の父の年少の友人であった水戸藩の儒者立原翠軒とは父子ともに生涯親交を保った[24]。また、利雍と同じく上級武士の漢詩人として高名であった山村良由︵蘇門︶︵木曽代官・美濃国内5700石︶とは没するまで親友関係にあった[25]。 滝川家の家督継承後は、実家毛利家の当主である佐伯藩主毛利高標︵霞山︶[注釈 11]の縁で好学の大名として高名な因幡国若桜藩主池田定常︵冠山︶、近江国仁正寺藩主市橋長昭︵格斎︶、美濃国岩村藩の藩主一門松平乗衡︵後に林大学頭家を継承して林述斎となる︶らと親しく交際し、交代寄合︵備中国撫川領5000石︶の旗本戸川達邦︵伯家︶邸で開かれていた文学会﹁風月社﹂に参加した[26]。 49歳で小姓組番頭を辞職して無役となってからは、麻布三河台町の自邸[注釈 12] に全国の文士を招き、身分の隔てなく交際した[注釈 13]。交流のあった文士としては、市河寛斎、大沼竹渓、樺島石梁、菊池五山、古賀侗庵、西島蘭渓などが挙げられる[27]。 病気がちであった晩年の文政4年︵1821年︶には潮浴療養のため44年ぶりに常陸国を訪れ、水戸藩の文士と詩を交している[28][注釈 14]。作風[編集]
利雍の漢詩の師である安達清河は荻生徂徠の流れを汲む古文辞学派の学者であり、﹃玉芝園詩草﹄に収録された滝川家相続以前の作品は、盛唐の詩に題材や表現を借りて感慨悲壮の感情を込めた格調派の作品が多いとされる。滝川家を継いで交友関係を広げてからは、晩唐・宋の詩の影響を受けた新詩風を取り入れ、現実的な題材で写実的な描写を行うようになった。池田定常は、利雍の詩は晩年には南宋の陸游を模範としたとしている[29]。 他方で、利雍は詩に新奇さを感じさせながらも、常に格調声律の調整に心を配っていたとされる[30]。林述斎は、利雍の詩はあくまで漢・唐の詩風に学んで遵守したと評している[31]。著作[編集]
●﹃玉芝園詩草﹄ ●﹃滄溟近体声律考﹄ ●﹃両韻考﹄系譜[編集]
●父‥森褧︵1730 - 1786︶ – 豊後佐伯藩主毛利高慶の四男。 ●母‥青柳氏 ●養父‥滝川一貞︵1758 - 1785︶ – 滝川利広養子。豊後佐伯藩主毛利高丘︵高慶孫︶の五男。 ●正室‥酒井忠香︵越前敦賀藩主︶の娘 – 初め公家の風早実秋と婚約し、破約後に利雍に嫁す。 ●子女 ●石河勝任 – 旗本石河勝行︵200石・廩米100俵︶養子。 ●輿之助 ●明熈 ●女子4人 ●養子 ●利教︵1785 - 1849︶ – 初名は美利。滝川一貞の長男。 滝川家は常陸片野藩2万石の旧藩主家で、織田信雄・豊臣秀吉に仕えた戦国武将滝川雄利の子孫。雄利の子滝川正利のときに嗣子を欠くことを理由に幕府に所領返上を願い出て廃藩したが、摂津高槻藩主土岐定義の次男滝川利貞が幕命により正利の娘を娶って名跡を継承し、旗本寄合席︵2000石、のち4000石︶となった[32]。 利貞夫妻の直系子孫は第9代滝川利広で絶え、豊後佐伯藩主毛利高丘の五男高納を末期養子に迎えて第10代滝川一貞とした。一貞も幼い男子を残して28歳で早逝したため、水戸藩家老山野辺家を廃嫡されて実家毛利家の厄介となっていた森褧︵毛利扶揺︶の嫡子毛利嬰︵26歳︶が急遽第11代当主に据えられ、滝川利済︵利雍︶となった[33]。 利雍は、先代一貞が亡くなった年に生まれた遺児の利教︵﹃寛政重修諸家譜﹄の美利︶を養子として養育し、滝川家の家督を譲った[34]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 儒者大竹東海の撰した毛利扶揺の墓碑﹁扶揺藤公子碑銘﹂によると、利雍は妾腹の長男であるが、扶揺は正室を持たなかったため嫡長子であった︵岳融著﹃岳東海先生文稿下篇﹄巻之二、文化2年。日本漢学画像データベース。︶。
(二)^ 毛利扶揺が山野辺家を廃嫡された経緯については、水戸藩の史料﹃水府系纂﹄に﹁側近を寵愛し譜代の家臣を冷遇したため家中騒動となり、藩命で離縁させて実家毛利家に蟄居させた﹂とある(森潤三郎 1940a, p. 131)(岡澤稻里 1936, p. 27-29)。
(三)^ 扶揺父子と親交のあった水戸藩の儒者立原翠軒が利雍に贈った送別の辞﹁送長孺森君序﹂によると、山野辺家の家臣の一部は当主義胤の養嫡孫に当たる利雍に山野辺家に残って家を継ぐように要請したが、利雍は﹁父を捨てることは天倫の義に反する﹂と固辞した︵﹃此君堂文集﹄巻之一。 doi:10.20730/100129210。︶。
(四)^ 儒者安達清河が門人の詩を集めて編纂した﹃嚮風草﹄︵天明4年︵1784年︶序︶に佐伯藩厄介時代の滝川利雍は﹁擒藻公子﹂の名義で記載され、姓は藤原、氏は毛利、名は嬰、字は長孺、号は擒藻で、佐伯藩の白金下屋敷に起居するとある︵﹃嚮風草二編﹄巻之一。 doi:10.20730/100223139。︶。
(五)^ 一貞は、利雍の従兄︵毛利扶揺の歳上の甥︶に当たる佐伯藩主毛利高丘の五男で、利雍より2歳年長であった︵﹃寛政重修諸家譜﹄巻466 ([堀田正敦等編] 1923, p. 426).︶。
(六)^ 徽典館は利雍の甲府赴任前に開設された勤番子弟の学問所を前身とし、在任中の享和3年︵1803年︶から校舎が整備されて大学頭の林述斎によって徽典館と命名された︵甲府市市史編さん委員会 編﹃甲府市史 通史編﹄ 2巻、甲府市、1992年、757-759頁。doi:10.11501/9540889。︶。40年後の天保14年︵1843年︶に大学頭林檉宇が撰した﹁重新徽典館碑﹂には﹁寛政年中、府尹出羽守滝川利雍、徽典館を創建す﹂とある︵水上文淵﹃甲斐碑文集 : 史談材料﹄ 巻之下、知新堂、1903年、28頁。doi:10.11501/780568。︶。
(七)^ ﹃甲斐国志﹄の編纂は、享和3年︵1803年︶に林述斎が全国の地誌編纂を企画したことを受けて開始され、利雍の後任の甲府勤番支配松平定能によって完成された︵雲室上人﹃雲室随筆﹄風俗絵巻図画刊行会、1923年、50頁。doi:10.11501/1183033。︶。
(八)^ 駿河沼津藩主水野出羽守忠成が老中に就任したため。老中の官名を避けて改称することは当時の一般的な習慣であった(森潤三郎 1940b, p. 61)。
(九)^ 滝川家の菩提寺桂徳院の過去帳を調査した書誌学者森潤三郎によれば、利雍の家督を継いだ利教は、﹃寛政重修諸家譜﹄に利雍の養子として見える﹁美利﹂と同一人物である(森潤三郎 1940d, p. 65)。
(十)^ ﹃続徳川実紀﹄は滝川利教の家督相続記事を﹁父死して家つぐ﹂とするが、養父利雍はその翌年に生存が確認されるので明らかな誤記である(森潤三郎 1940d, p. 65)。
(11)^ 高標は、利雍の従兄に当たる佐伯藩主毛利高丘の長男で、養父滝川一貞の実兄に当たる。
(12)^ 切絵図によれば現在の港区六本木4丁目2-50付近︵﹃赤坂絵図﹄尾張屋清七、嘉永三年。 doi:10.11501/1286666︶。滝川家の屋敷はもと芝飯倉町︵港区東麻布1丁目付近︶にあり、文化8年︵1811年︶に御用のため収公されて三河台町に替地を与えらえた︵東京市 編﹃東京市史稿 市街篇第三十四﹄東京市、1939年、224頁。doi:10.11501/3450825。︶。
(13)^ 西島蘭渓は、池田定常と滝川利雍を並べて追悼した文で﹁池田冠山・滝川南谷の二公は士を好むことで有名で、しかも学識と人徳を兼ね備えていた。そのため優れた学者や文人が四方から集い、文酒の会を開くと客は貴賤なくやってきて、門前払いされる者もなかった﹂と回顧している︵西島長孫﹃愼夏漫筆﹄巻一、尚古堂、弘化四年︶。doi:10.20730/100206568︶。
(14)^ 交流の記録は﹃東海唱和﹄と題して刊行された︵滝川利雍ほか﹃東海唱和﹄文政五年。doi:10.20730/100369518︶。
出典[編集]
- ^ 勝間田三千夫 1991, p. 25.
- ^ 森潤三郎 1940a, p. 130.
- ^ a b 森潤三郎 1940b, p. 57.
- ^ 岡澤稻里 1936, p. 30.
- ^ a b 森潤三郎 1940b, p. 58.
- ^ 「浚明院殿御実紀」巻52, 天明5年5月6日条. (成島司直等編 1904, p. 761)
- ^ 「浚明院殿御実紀」巻53, 天明5年12月9日条. (成島司直等編 1904, p. 772)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻1, 天明6年12月2日条. (成島司直等編 1905a, p. 17)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻2, 天明7年3月18日条. (成島司直等編 1905a, p. 42)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻20, 寛政8年6月5日条. (成島司直等編 1905a, p. 582)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻25, 寛政10年12月23日条. (成島司直等編 1905a, p. 721)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻26, 寛政11年3月15日条. (成島司直等編 1905a, p. 736)
- ^ 森潤三郎 1940b, pp. 59–61.
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻36, 文化元年3月6日条. (成島司直等編 1905a, p. 972)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻39, 文化2年7月24日条. (成島司直等編 1905a, p. 1015)
- ^ 『年録』巻367, 文化4年3月8日条. doi:10.11501/2562047。
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻43, 文化5年9月13日条. (成島司直等編 1905b, p. 33)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻49, 文化11年3月20日条. (成島司直等編 1905b, p. 250)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻55, 文政3年5月6日条. (成島司直等編 1905b, p. 450)
- ^ 「文恭院殿御実紀」巻55, 文政3年11月29日条. (成島司直等編 1905b, p. 464)
- ^ 森潤三郎 1940d, p. 67.
- ^ 森潤三郎 1940d, pp. 68–69.
- ^ 森潤三郎 1940e, pp. 60–64.
- ^ 岡澤稻里 1936, p. 34.
- ^ 森潤三郎 1940b, p. 59.
- ^ 石原隆好 2002, pp. 48–53.
- ^ 森潤三郎 1940c, pp. 70–74.
- ^ 森潤三郎 1940d, pp. 66–67.
- ^ 石原隆好 2002, pp. 55–58.
- ^ 森潤三郎 1940c, p. 68.
- ^ 石原隆好 2002, p. 58.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻466 ([堀田正敦等編] 1923, pp. 424–425).
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻466 ([堀田正敦等編] 1923, p. 426).
- ^ 森潤三郎 1940d, p. 65.