牧野忠利
牧野忠利 | |
---|---|
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保19年9月27日(1734年10月23日) |
死没 | 宝暦5年7月24日(1755年8月31日) |
別名 | 幼名:吉五郎 |
戒名 | 紹隆院前駿州功誉勲成俊雄大居士 |
官位 | 従五位下、駿河守 |
藩 | 越後長岡藩主 |
氏族 | 牧野氏 |
父母 |
父:牧野貞通、母:本庄氏 養父:牧野忠敬 |
兄弟 |
忠敬、貞隆、貞長、忠利、 忠寛(公式系図上、実弟) |
妻 | 正室:茂姫(初め逸姫。公式上、本多康桓の娘。長岡藩の史料では実は牧野忠周長女) |
子 | 養子:弘姫(実は養家側の叔母。伊達村賢婚約者)、鏐姫(実は養家側の叔母。太田資愛正室)、忠寛 |
牧野 忠利︵まきの ただとし︶は、越後長岡藩の第7代藩主。長岡藩系牧野家8代。
﹃宝暦武鑑 御大名衆 巻之二﹄︵宝暦3年︵1753年︶刊︶より越 後長岡藩牧野忠利の箇所
享保19年︵1734年︶9月27日、日向延岡藩主・牧野貞通の八男として延岡にて生まれる。ちなみにこの翌日に実父は奏者番となる。
延享5年6月︵1748年︶、長岡藩第6代藩主で長兄である牧野忠敬が嗣子なく死去した。当時京都所司代であった実父の貞通とともに京都にいた忠利は、急遽江戸に下向して寛延元年8月︵1748年︶に長岡藩江戸藩邸に入り、末期養子として長岡藩主家の家督を相続した。
同年12月に従五位下、駿河守に叙任する。なお、長岡藩史料の﹁御附録﹂では実年齢は15歳であるが、﹁内慮あって﹂公年を17歳と幕府に届けているので、﹁寛政重修諸家譜﹂では享保17年︵1732年︶出生扱いとなっている。ちなみに17歳は末期養子が原則許可される最低年齢である。
寛延3年︵1750年︶に、公式上は膳所藩主・本多康桓の娘となっている、牧野忠周の長女である茂姫と婚約する。宝暦4年︵1754年︶に三蔵火事で全焼した長岡城本丸が再建完了する。宝暦5年6月23日︵1755年︶に茂姫と婚礼となるが、同年7月24日に22歳で死去した。
家督は公式上の異母弟︵実は忠周実子、正室茂姫の実弟︶である忠寛が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のち新潟県長岡市の悠久山に改葬された。