犬鳴峠
犬鳴峠 | |
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新犬鳴トンネル | |
所在地 | 福岡県宮若市・久山町 |
座標 | 北緯33度40分31秒 東経130度32分48秒 / 北緯33.67528度 東経130.54667度座標: 北緯33度40分31秒 東経130度32分48秒 / 北緯33.67528度 東経130.54667度 |
標高 | 約270[1] m |
山系 | 犬鳴山系 |
通過路 | 福岡県道21号福岡直方線 |
プロジェクト 地形 |
犬鳴峠︵いぬなきとうげ、旧称‥久原越︶は、福岡県宮若市と同県糟屋郡久山町との境を跨いで存在している峠である。
宮若市側の犬鳴隧道入口。入口左に記念碑。
犬鳴隧道︵いぬなきずいどう、通称:旧犬鳴トンネル︶は1884年~1885年︵明治17~18年︶に糟屋郡と鞍手郡連合組合会の決議において工事が着手されたが工事技術の未熟さと莫大な工事費を要したため一時中止となった。しかし1927年︵昭和2年︶11月糟屋郡および鞍手郡各町村会において決議され、各町村長の署名捺印をもって県当局に犬鳴道路の陳情をした。犬鳴トンネル掘削工事については糟屋・鞍手両郡関係町村民一体となって、1949年︵昭和24年︶11月3日府県道福丸箱崎線︵福岡県道21号線︶が開通した。翌年の8月10日には国鉄バスの博多と直方を結ぶ直方線の運行が開始された[3]。当時のバスは﹁いすゞ・BX91型﹂と﹁ふそうB12型︵定員50~70人︶﹂が使われた。燃料には木炭を使用していたが、燃料事情が改善し、1951年︵昭和26年︶にはガソリンエンジン、その後にディーゼルエンジンへと交換していった[4]。その後24年を経過した1975年︵昭和50年︶には新犬鳴トンネルが開通し、こちらが実質的な福岡と北九州を結ぶ幹線道路となった。
トンネル開通後、峠は深山幽谷であるのにもかかわらず北九州都市圏および筑豊圏と福岡都市圏を結ぶ最短路であったため、車の通行が非常に多かった[5]。よく旧犬鳴トンネルと称されるが、銘板には﹁犬鳴隧道﹂と彫られており、国土地理院の地図でも﹁犬鳴隧道﹂の名称で記載されている。しかし宮若市役所や文献では新旧区別のために犬鳴トンネルと称するなど、両方一概とされている面もある。
旧道は新トンネルへ付け替えられた後に閉鎖された旧トンネル経由の廃道と犬鳴ダムの建設により水没した部分の2か所があるが、双方の距離は1km以上離れている。犬鳴峠関連で旧道と称する場合は主にダムとは直接の関連がない旧トンネル経由の廃道を指す。不法投棄や暴走族の溜まり場となったりするなどの問題が発生したことから、旧道と旧トンネルが共に閉鎖されている。旧トンネルの入り口はコンクリートのブロックで覆われており、そこに向かう旧道も柵で封鎖されている。閉鎖されている道路は道幅が狭く、一部では崖崩れなどで通行が非常に危険である。またトンネル内は素掘りになっており、上部から地下水が滴っているため、崩落の危険性もある。久山側は比較的旧トンネルにアクセスがしやすい状況にあったが、防犯上の理由により県道に面した旧道入り口は柵で封鎖され監視カメラが設置されている。無断立ち入りは警察に通報を行う旨の警告看板が設置されており、許可無く侵入した場合は法律・条例などで処罰の対象となり得る[6]。一方で宮若側旧道は車の通行が規制されているが、犬鳴山の河原之河内︵かわらんこうち︶登山口から熊ヶ城に続く登山道が敷設されているため、登山者であれば通行は可能となっている[7][8][9]。
旧犬鳴トンネル口道路記念碑
府縣道福丸箱崎線開通記念碑
︵道路記念碑裏面碑文︶
文明者依交通開宜哉前筑鞍手郡犬鳴之嶮藩政時代通福岡唯一之要路也雖然峻坂三里羊腸老樹鬱葱昼尚暗可比蜀桟道人馬之来往危険至極多劬労犬猿亦以欲趣此峻坂悲鳴之故有此地名焉時恰遇明治之昭代郡民総皆出夫改修此峻坂年次爾来望平坦通路甚切也於此大正十三年以来挙郡一致要請県道編入遂至昭和二年有十箇年計画重要県道許可焉其後工事着々進捗仝八年更至見内務省指定県道請願許可仝十七年得鉄道々営路線隧道開鑿之確矣施工三閲年玆以昭和二十四年十一月三日挙開通式嗚呼快哉郡民百年之大望成就矣是可謂国家之息恵挙郡協力寶也今有志相謀建碑以欲後世徴于以撰文乃勒梗概云爾
銘曰
羊腸荊谷
虎貌巖顚
昔要害固
今交通填
遂裂地拓
忽補天穿
百年一夢
萬古十全
餘慶不尽
民衆長伝
昭和二十四年己丑歳晩秋
醉石
香月楽平
撰
筑水
谷
庫造
書
概要[編集]
犬鳴峠という名前は側に位置する犬鳴山︵標高583.6メートル︶から来ている。由来は諸説あり、文献﹃犬鳴山古実﹄には﹁この山を犬啼と呼ぶのは谷の入口には久原へ越える道筋に滝があり、昔 狼が滝に行き着いたが、上に登れないことを悲しんで鳴いていた﹂と記されている。他にもこの犬鳴山はとても深いため、犬でも越えることが難しく泣き叫んだため犬鳴山と命名された説がある。 他にも、律令時代に稲置︵いなぎ︶の境界線に位置していたことから、次第に﹁いんなき﹂と変化していった説がある。筑前方言で犬は﹁イン﹂と呼ぶため、﹁インナキとうげ﹂とも呼ばれる[2]。 宝永7年︵1710年︶に完成した﹃筑前國続風土記﹄︵貝原益軒と貝原好古の共著︶によると、犬鳴山および犬鳴谷の地名が現れるのは藩命により御譜代組足軽たちが移住してからで、それまでは大河内または火平︵ひのひら︶と呼んでいたという。江戸時代から犬鳴各戸の菩提所である浄久寺︵浄土宗鎮西派‥宮若市乙野︶と東禅寺︵曹洞宗‥宮若市湯原︶が所蔵する過去帳や記録などの文献上に初めて犬鳴山と犬鳴谷の地名が現れるのは、元禄6年︵1693年︶と翌年の元禄7年である。また糟屋郡久山町の伊野天照皇大神宮︵通称・伊野大神宮︶の拝殿脇に苔で覆われた手水石があるが、これは元禄五年に犬鳴の御譜代組足軽一同により奉納寄進されたもので、犬鳴山中と元禄五年などの文字が刻まれている。 江戸時代に編纂された﹃筑前國続風土記﹄﹃筑前國続風土記附録﹄﹃筑前國続風土記附録拾遺﹄などの各地誌では、犬鳴山周辺においてオオカミの生息は記載されていない。 律令時代の稲置の境界線説は﹃鞍手郡郷土史﹄﹃福岡県百科事典﹄﹃福岡県地名辞典﹄に記されているが、この3点の文献は、その根拠となる出典などは明確にしていない。 明治5年︵1872年︶に政府の命令で福岡県庁が編纂を開始した﹁福岡県地理全誌﹂に鞍手郡犬鳴谷村は24小区3村の内に属し、福岡県庁からの道程は5里8町︵約25キロ︶。戸数は31戸で内訳は士族3戸と旧卒族28戸と記されている。 江戸時代、鞍手郡から福岡と糟屋の縦貫線は脇田を通り、縁山畑︵へりやまはた︶から彦六峠︵現・猫峠︶を越し、福岡と糟屋に行ったらしく、当時は旅人の多くはこの道を利用していた。地理・交通[編集]
久山町の東端部および宮若市の西端部にあたり、峠の北側に犬鳴山がある。糟屋郡の久山町・篠栗町、古賀市・福津市側と宮若市側を分かつ犬鳴連峰を越える峠の一つで、福岡市と直方市を結ぶ福岡県道21号福岡直方線が通る。同道路はヘアピンカーブが連続し、狭いトンネルをくぐる交通の難所であったが、1975年に新犬鳴トンネルが開通した後は道幅も広がっている。なお、周辺は山間部なので大雨や積雪などの影響で通行止めになることもある。 筑豊地域の中で福岡都市圏寄りに位置し、北九州市・直方市と福岡市との近道として利用されることや、宮若市にはトヨタ自動車九州本社である宮田工場が存在する関係などで、交通量は非常に多く、深夜でも大型トラックやダンプカーなども多数通行している。 公共交通機関としては、宮若市・久山町・粕屋町を経由して福岡市と直方市を結ぶJR九州バスの路線︵直方線︶が犬鳴峠を越えて運行されており、新犬鳴トンネルの両端出口付近に停留所が設けられている。停留所名は宮若市側が﹁犬鳴口﹂、久山町側が﹁白木橋﹂である。 犬鳴山を挟んで峠と反対側に山陽新幹線が通っているが、峠近くの区域はすべてトンネル︵福岡トンネル︶内となっている。新犬鳴トンネル入口の銘板には﹁新犬鳴トンネル﹂︵全長:1,385m︶と記されている。 峠の約2km北東、宮若市側では1970年から犬鳴ダムの建設が進められ、1994年に完成した︵完成当時は若宮町︶。ダム湖には﹁司書の湖﹂という愛称がつけられている。また峠の入口には、温泉地である脇田温泉も存在する。 犬鳴峠の古称は久原越えと言われ、江戸時代初期、1615年-1623年︵元和年間︶に道が開かれたと言う事であるが、江戸時代より昭和初期ごろまで地元民からは重要視されていない峠道であったらしい。犬鳴峠は非常な悪路であったため利用者はほとんどなく、地元、吉川村の住民は福岡、博多へ行くときは猫峠を越えて篠栗に出ていたという。また犬鳴住民も犬鳴峠は避け、現在は登山道になっている古賀市清滝に抜ける薦野峠を使用していたという。猫峠、薦野峠は江戸時代より昭和初期ごろまで地元民にとって生活上、重要な幹線道路であったという。江戸時代より糟屋、宗像郡などからやって来る行商人は早朝、家を出立し猫峠、薦野峠を越え吉川村の集落などで夕刻ごろまで商取引をした後、集落の中で懇意にしている家に一泊し、朝早く峠を越え帰途についたという。宿泊代は売れ残り商品で済ませていた。犬鳴にも行商人が定宿にしていた家があり、そういった関係から宗像、糟屋郡の住民と婚姻などの縁組が多かっという。宮若市側、旧犬鳴トンネル脇にある林道奥は犬鳴の地籍ではなく、脇田の地籍である。犬鳴隧道・旧道[編集]
犬鳴村伝説[編集]
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﹁旧犬鳴トンネル近くに、法治が及ばない恐ろしい集落﹃犬鳴村﹄があり、そこに立ち入ったものは生きては戻れない﹂という都市伝説。
この都市伝説に関しては諸説あるが、概ね以下の内容である。
●トンネルの前に﹁白のセダンは迂回してください﹂という看板が立てられている。
●日本の行政記録や地図から完全に抹消されている。
●村の入り口に﹁この先、日本国憲法︵または、大日本帝国憲法︶は適用しません﹂という看板がある。
●江戸時代以前より、激しい差別を受けてきたため、村人は外部との交流を一切拒み、自給自足の生活をしている。近親交配が続いているとされる場合もある。
●入り口から少し進んだところに広場があり、ボロボロのセダンが置いてある。またその先にある小屋には、骸が山積みにされている。
●旧道の犬鳴トンネルには柵があり、乗り越えたところに紐と缶の仕掛けが施されていて、引っ掛かると大きな音が鳴り、斧を持った村人が駆けつける。﹁村人は異常に足が速い﹂と続く場合もある。
●全てのメーカーの携帯電話が﹁圏外﹂となり使用不能となる。また近くのコンビニエンスストアにある公衆電話は警察に通じない。
●若いカップルが面白半分で犬鳴村に入り、惨殺された。
犬鳴は江戸時代中期、1691年︵元禄4年︶に福岡藩庁が城下、地行町に居住していた御譜代組足軽に移住を命じ成立させた村落であり、激しい差別を受けていた等の事実はない。犬鳴にあった江戸時代中後期にかけての足軽墓地群の改葬時︵昭和40年頃︶、墓地群にあったほとんどの墓石の戒名は軒号および庵号が刻まれていたという。
1691年︵元禄4年︶以前頃までは犬鳴谷と呼ばず﹁火平︵ひのひら︶﹂または﹁大河内﹂と呼ばれていた。御譜代組足軽たちが藩命により移住してから一帯の総称を犬鳴山および犬鳴谷と呼ぶようになった。
江戸時代の地誌、﹃筑前國続風土記﹄﹃筑前國続風土記附録﹄﹃筑前國続風土記拾遺﹄﹃犬鳴山古実﹄[10]にも上記の都市伝説に合致する記述はない。住民の代々の菩提所は犬鳴から数キロメートルほどの所にある浄土宗鎮西派の浄久寺︵宮若市大字乙野︶と曹洞宗の東禅寺︵宮若市大字湯原︶であるが、両寺の過去帳にも一般の檀家として記載してある。浄久寺の本堂内には犬鳴檀家の祖霊位牌が安置してある御霊屋がある。
福岡藩中老の加藤司書が1854年︵安政元年︶に犬鳴日原鉄山および多々羅鉄山、1865年︵慶応元年︶に有事の際の藩主の避難場所として犬鳴山御別館を建造させ[11]、福岡藩の要所の一つとしていた。
犬鳴日原鉄山にまつわる話によると、製鉄に従事するたたら職人を石見国から招き 福岡藩御譜代組足軽である犬鳴谷の住民との接触を禁じたが、住居や墓を犬鳴谷内に置いた。墓は金山と穴蔵口︵あなぐらぐち︶と言われるところの2か所にあり、この墓の中には1862年︵文久2年︶と翌1863年︵文久3年︶の年号銘や戒名が彫ってあるものがあり、子供の墓もある。犬鳴谷の住民達には旅人墓︵ロジン墓︶と呼ばれるその墓に近付くと祟りがあるとして怖れられていたという。
2020年には、都市伝説を題材としたホラー映画﹃犬鳴村﹄が映画監督の清水崇により制作、公開された[12][13]が、犬鳴村伝説をなぞった内容というよりは、旧犬鳴トンネルの持つ心霊スポット[14]として怪奇現象や心霊現象を描写した内容となっている[15]。
実在した犬鳴谷村について[編集]
詳細は「犬鳴」を参照
実在したといわれる犬鳴は、正式には犬鳴谷村という。現在の地名でいう宮若市犬鳴という場所に、かつて犬鳴谷村と呼ばれる集落があり、鞍手郡に属していた。1889年4月1日(明治22年)に町村制度が施行されるにあたり、周辺の4村(脇田・乙野・小伏・縁山畑)と合併して吉川村を発足させ、犬鳴谷村は吉川村の一集落となった。その後市町村合併が進められ、1955年3月1日(昭和30年)吉川村は若宮町と対等合併した。2006年2月11日(平成18年)の若宮町・宮田町の合併では「宮若市犬鳴」となり、現在も地名として残っている。
農林業などを主産業としていたが、産業を取り巻く事情の変化などにより廃れた。集落は犬鳴ダムの建設により、湖底に沈んだ。元居住者は一部遠方へ転住した家を除き、ほとんどが近隣の脇田地区に転住した。
先述の都市伝説の「犬鳴村と呼ばれる地域」とは全く関係がない。
ダム施工前に存在した犬鳴(吉川村)の集落は、国土地理院の過去の航空写真で確認可能となっている[16]。
事件・事故[編集]
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1988年12月9日に福岡県警は、田川郡方城町︵現福智町︶の犯行グループリーダーの少年︵19歳、行商手伝い︶を含めたグループ5人︵16-19歳︶を、殺人と逮捕監禁容疑で逮捕した。調べでは、2人の少年が同年12月6日夕方に、田川市内で帰宅途中の工員︵20歳、方城町︶の軽乗用車を見つけて、﹁車を貸してくれ﹂と頼んだ。しかし断られたため、それに腹を立てた犯人グループは工員の車を奪い、また工員も一緒に連れ去って仲間の家に監禁した。その後、少年グループら全員で、久山町の犬鳴隧道︵旧犬鳴トンネル︶へ連れ去って工員の手足を縛り、ガソリンをかけて焼殺した疑い[17]がある。1991年、主犯の無期懲役が確定した。
2000年には犬鳴ダムで死体遺棄事件が発生している。
峠周辺は交通の難所であり、冬場の積雪や路面凍結が多いため、交通事故も多く発生している。
周辺で見られる主な動植物[編集]
周辺で見られる稀種植物
犬鳴峠を題材とした作品[編集]
漫画
- 『犬鳴村〜行ってはいけない村』(kindle漫画) - アマテラスチャンネル (2019年12月13日)
映画
ゲーム
- 『犬鳴トンネル』 - Chilla's Art(2019年11月19日)
- 『犬鳴村〜残響〜』 ※上記の東映映画『犬鳴村』の公式ゲームソフト
- iOS/Android版 - ちゅらっぷす(2020年8月26日)
- Nintendo Switch版 - コーラス・ワールドワイド(2021年10月21日)
脚注[編集]
出典[編集]
(一)^ 新犬鳴トンネル付近。Google Earth Proによるおおまかな測定。※正確ではない事に留意
(二)^ 深町純亮﹁筑豊の峠みち﹂﹃エネルギー史研究 : 石炭を中心として﹄第20巻、九州大学石炭研究資料センター、2005年2月、139-155頁、CRID 1390572174716593920、doi:10.15017/13807、hdl:2324/13807、ISSN 0286-2050。
(三)^ 宮若市役所-旧若宮町のあゆみ︵年表︶
(四)^ 犬鳴 犬鳴川治水ダム関係文化財調査報告 1 p33
(五)^ ﹃鞍手郡誌﹄鞍手郡教育委員会、1972年4月1日。
(六)^ 旧道の久山側︵久山町久山役場と粕屋警察署による通行止、行政管理区域︶
(七)^ 旧道の宮若側︵法律、省令等により、関係者及び登山者以外の立入禁止︶
(八)^ http://sakotyan.cool.coocan.jp/yamaarukiax/nisiyamainunakiyama/image1.gif
(九)^ “山行記録: 西山、犬鳴山︵志しょ橋⇒藤七谷︶―閉塞される旧犬鳴トンネルを見る―︻福岡県、犬鳴山地︼”. ヤマレコ. 2023年6月3日閲覧。
(十)^ 犬鳴を含めた吉川庄の総社である日吉山王宮の大宮司職・国井内膳が1729年︵享保14年︶に記した
(11)^ ﹃若宮町誌 上巻﹄, p. 141-161.
(12)^ “清水崇監督×日本最凶心霊スポット! 映画﹁犬鳴村﹂2020年公開決定”. 映画.com. (2018年12月16日) 2018年12月17日閲覧。
(13)^ “映画化しても大丈夫?﹁呪怨﹂の監督が日本最凶心霊スポット“犬鳴村”に挑む”. Movie Walker. (2018年12月16日) 2018年12月17日閲覧。
(14)^ ““心霊スポット”で迷惑行為 映画公開の影響?旧犬鳴トンネル”. 西日本新聞me (西日本新聞社). (2020年6月1日) 2021年3月6日閲覧。
(15)^ “絶対に行っちゃダメ! 日本一怖い心霊スポット﹁旧犬鳴トンネル﹂のリアル恐怖体験が蘇るJホラー﹃犬鳴村﹄”. BANGER!!! (2020年2月4日). 2021年3月6日閲覧。
(16)^ 地図・空中写真 CKU881-C6B-20 - 国土地理院
(17)^ 毎日新聞メディア編成本部 毎日新聞戦後の重大事件早見表 1991年5月25日印刷 1991年6月10日発行 沢畠 毅 p.183 ISBN 4-620-30794-7
参考文献[編集]
●若宮町(福岡県), 若宮町誌編さん委員会﹃若宮町誌﹄若宮町、2005年。 NCID BA7372189X。全国書誌番号:20824479。関連文献[編集]
●山口敏太郎﹃本当にいる日本の﹁現代妖怪﹂図鑑﹄笠倉出版社、2007年。ISBN 9784773003659。全国書誌番号:21328145。 ●山口敏太郎﹃ホントにあった呪いの都市伝説﹄コスミック出版, コスミックインターナショナル(発売)︿コスミック・時代文庫﹀、2005年。ISBN 4774720313。全国書誌番号:20956243。関連項目[編集]
- 犬鳴
- 犬鳴御別館
- 犬鳴村 (映画) - 犬鳴村伝説を題材としたホラー映画。
- 犬鳴トンネル (ゲーム) - 犬鳴村伝説を題材としたホラーゲーム。
- 犬鳴川 (福岡県)
- 犬鳴山 (福岡県)
- 西山 (宮若市・古賀市)
- 犬鳴ダム
- 力丸ダム
- 吉川村 (福岡県)
- 猫峠(犬鳴峠の南東側にある峠)
- 福岡県道21号福岡直方線
- 日本の峠一覧
- 杉沢村伝説