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祝︵ほうり[1]︶は、神道において神に奉仕する人の総称。また、神主・禰宜︵ねぎ︶の次位にあって神に仕える者。祝子︵ほうりこ︶、祝部︵ほうりべ︶ともいう。
祝は古代以来神社に奉仕して祭祀に従事した神職のひとつである。初見では欽明天皇の時代に宇佐八幡宮を創建した大神比義が、日本で初めての祝職︵神職︶に任ぜられ、宇佐八幡宮初代大宮司となった[2][3][4][5][6][7]。
その語義に関しては、
(一)﹁ハラフ﹂の意味
(二)﹁ハ﹂は﹁羽﹂で、衣の袖を振り神前に舞を奏したことに起こる
(三)﹁匍匐在﹂として神前に﹁はひ侍ふ﹂という意味
などが唱えられる。
﹃日本書紀﹄仲哀天皇︵第14代天皇︶8年正月の条に、伊賀彦を祝として神を祀らせたとの記述がある。また、同書の神功皇后︵仲哀天皇の皇后︶の巻に、紀伊国小竹社の祝、天野社の祝などと記していることから見れば、当時すでに神を祀るものを指して祝と称していたと考えられる。
各地には、信濃国︵現・長野県︶の諏訪大社では、鎌倉時代の初期に大祝、権祝、擬祝、副祝などの職名があり、肥後国︵現・熊本県︶の阿蘇神社には一祝、二祝、三祝、四祝、五祝、六祝、七祝、八祝、九祝、十祝、国造祝、金凝祝があり、伊予国︵現・愛媛県︶の大山祇神社では大祝、常陸国︵現・茨城県︶の鹿島神宮、筑後国︵現・福岡県︶の高良大社︵高良玉垂神社︶等には古く祝の職が存在した。
古くは祝をも祝部︵ほうりべ︶と称したので﹃職員令﹄に定めがあり、﹃令義解﹄には﹁祝部︵謂為祭主賛辞者也︶其祝者、国司於神戸中簡定、即申太政官、若無戸人者、通取庶人也﹂[8]という記述がある。明治時代以降における祝部は、皇大神宮︵内宮︶および豊受大神宮︵外宮︶に存するので、両宮の摂社末社、所管社には祝部を置き、神社の守衛および御匙、御鑰︵みかぎ︶を保管し、かつその掃除を監督させると規定される。
奈良時代に編まれた﹃万葉集﹄には、大神神社︵奈良県桜井市︶の祝が幣︵ぬさ、御幣︶を奉じて祀る杉の木[9]を詠む旋頭歌が採録されている。
三幣帛取 神之祝我 鎮齊杉原 燎木伐 殆之國 手斧所取奴
訓読‥御幣︵みぬさ︶取り 三輪の祝︵はふり︶が 斎︵いは︶ふ杉原 薪︵たきぎ︶伐︵こ︶り ほとほとしくに 手斧︵てをの︶取らえぬ — 旋頭歌︵1403番︶、﹃万葉集﹄第七巻 雜歌
(一)^ 旧かな表記では﹁はふり﹂。
(二)^ 小川進一﹃宇佐神宮と大神氏﹄文芸社
(三)^ 國學院大學日本文化研究所﹃神道事典﹄
(四)^ 中野幡能﹃八幡信仰﹄P91、蘇我馬子と大神比義
(五)^ ﹃神岩清水文書﹄宝亀4年
(六)^ ﹃大神氏家伝﹄
(七)^ 弘仁官符に引用された、弘仁六年(815年)﹃大神清麻呂解状﹄
(八)^ 訓読‥祝部︹謂ふ、祭主︵まつりぬし︶となりて賛辞︵たたへごと︶する者をいふ。︺その祝は、国司、神戸︵かむべ︶の中にえらび定めて、即ち太政官に申せ。もし戸︵へ︶の人なくば、通じて庶人︵しょじん︶を取れ。
(九)^ ﹁大神神社の祝が祀る杉の神木を切り取ろうとしたら、あやうく手斧を取られかけた﹂と歌い、人妻に言い寄って危ない目に遭った様を描く。︵参照‥鴻巣盛広著﹃万葉集全釈﹄第2冊、489頁、広文堂書店、1930年-1935年。︶
●平凡社編﹃神道大辞典﹄第三卷、168頁﹁ハフリ﹂、平凡社、1941年。
●佐藤定義編﹃詳解古語辞典﹄、明治書院、1988年。
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