辰野隆
1955年(昭和30年) | |
人物情報 | |
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生誕 |
1888年3月1日 日本東京市 |
死没 | 1964年2月28日 (75歳) |
出身校 | 東京帝国大学 |
子供 | 辰野高司(薬学者) |
学問 | |
研究分野 | 文学(フランス文学) |
研究機関 | 慶應義塾大学・東京帝国大学 |
学位 | 文学博士 |
辰野 隆︵たつの ゆたか、1888年︵明治21年︶3月1日[1] - 1964年︵昭和39年︶2月28日[1]︶は、日本の仏文学者・随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。初めて本格的にフランス文学を日本に紹介した。
経歴[編集]
建築家の父・辰野金吾と母・秀子の長男として東京市に生まれる[1][2]。赤坂中之町小学校卒業後[1]、東京府立第一中学校[1]、第一高等学校を経て[1]、1908年に東京帝国大学法科大学仏蘭西法学科に入学し[1]、1913年に卒業[1]。文学研究を志し、1916年に東京帝国大学文科大学仏蘭西文科卒業[1]、卒業後は大学院へ進んで5年間学ぶ[1]。 1918年より慶應義塾大学文学部講師[1]、また同年より母校の東京帝国大学文科大学仏蘭西文学科副手[1]。翌1919年より早稲田大学文学部講師[1]。1920年には東京帝国大学文学部講師に昇進[1]、1921年には東京帝国大学助教授に昇進[1]︵東大仏文科初の日本人助教授︶。加えて、同年より研究のため2年間フランスに留学する[1]。1923年に帰国し[1]、1930年には文学博士号を取得[1]。1931年教授に昇任した[1]。定年退官するまで、フランス文学の主任教授を務めた[1]。この間、1932年より新設された明治大学文藝科でも講師︵非常勤︶で教えた。1948年、東京大学を定年退官し[1]、名誉教授[1]。東京大学退官後は中央大学専任講師となり[3][1]、仏文学専攻を創設し、1950年から教授を務めた[1]。また、晩年の1960年4月に、﹁ボオドレエルの態度﹂を東京大学に提出して文学博士号を取得。 戦時中は日本文学報国会理事。1948年に日本芸術院会員[1]となる。 墓所は新宿区常圓寺。受賞・栄典[編集]
●1962年‥文化功労者となった[1]。 ●1964年‥従三位、勲一等瑞宝章授与[1]。人となり[編集]
業績[編集]
●各・1922年︵大正11年︶に白水社で出版した、鈴木信太郎との共訳﹃シラノ・ド・ベルジュラック﹄と、初の著書﹃信天翁の眼玉﹄は日本初の本格的フランス文学紹介であり[1]、数々の学生がフランス文学に進むきっかけとなった。 ●﹃さ・え・ら﹄、﹃あ・ら・か・る・と﹄など軽妙な文芸エッセイでも知られた。漱石や谷崎らを取り上げた﹃忘れ得ぬ人々﹄は人物描写エッセイ︵ポルトレ︶の名著と評される。弟子・知人[編集]
●東大での教え子では、三好達治・渡辺一夫[1]・飯島正・伊吹武彦[1]・小林秀雄・田辺貞之助・今日出海・中島健蔵・井上究一郎・中村光夫・森有正・鈴木力衛・小松清[1]ら、早稲田大学の教え子からは佐藤輝夫[1]など、文学研究・文芸評論で活躍した人物が輩出した。 ●谷崎潤一郎とは府立一中以来の友人である。家族・親族[編集]
●父辰野金吾は建築家。東京駅(丸の内)・日本銀行本店などの設計で知られる近代日本を代表する建築家で、その長男である。 ●兄弟‥辰野保は陸上選手で、隆本人も学生時代は運動に打ち込み、体力には自信があった。父金吾は国技館︵初代︶の設計者でもあり、また大の相撲好きで、中学時代に隆を相撲部屋に入門させた。隆も1950年から終生、横綱審議委員を務めた。 ●妻‥辰野久子は江川英龍の孫。 ●息子‥辰野高司は薬学者。日本薬史学会副会長、理化学研究所名誉研究員。その他[編集]
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●1916年︵大正5年︶の辰野の結婚式に夏目漱石が出席した際、出されたピーナッツを漱石が食べて胃潰瘍を再発し、床に臥し没した。
●胸襟を開いた座談のことを﹁臥談会﹂と称していた[4]。
●戦後の1949年2月、サトウハチロー・徳川夢声と共に皇居へ参内。昭和天皇との会見録である﹁天皇陛下大いに笑う﹂が、文藝春秋に掲載され大いに反響を呼んだ。
●いち早くアイバンクに登録し死後、角膜献体をした[1]。
1937年︵昭和12年︶
著作[編集]
●﹃信天翁の眼玉﹄白水社, 1922年、三笠書房<三笠文庫>, 1951年 ●﹃佛蘭西文學の話﹄春陽堂, 1925年 ●﹃白葡萄﹄春陽堂, 1925年 ●﹃佛蘭西文藝閑談﹄聚芳閣, 1926年 ●﹃ボオドレエル研究序説﹄第一書房, 1929年、白水社, 1935年、全國書房, 1948年、酣燈社, 1951年 ●﹃さ・え・ら﹄白水社, 1931年 ●﹃え・びやん﹄白水社, 1933年 ●﹃南の風﹄白水社, 1933年 ●﹃ドンク﹄中央公論社, 1934年 ●﹃りやん﹄白水社, 1935年 ●﹃あ・ら・かると 評論・随筆﹄白水社, 1936年 ●﹃スポオツ閑談﹄昭森社, 1936年 ●﹃南の窓 佛蘭西翻案戯曲集﹄創元社, 1937年、白水社, 1952年 ●﹃書齋閑談﹄白水社, 1938年 ●﹃忘れ得ぬ人々﹄弘文堂書房, 1939年、角川文庫, 1950年/講談社文芸文庫︵新編︶, 1991年 ●﹃ルナアルを語る﹄白水社, 1939年 ●﹃印象と追憶﹄弘文堂書房, 1940年 ●﹃續 忘れ得ぬ人々﹄弘文堂書房, 1940年、角川文庫, 1950年 ●﹃ふらんす人﹄青木書店, 1941年/講談社文芸文庫︵新編︶, 1991年 ●﹃佛蘭西文學﹄︵上下︶ 白水社, 1943年 - 度々重版。新装版1954年・1975年ほか。 ●﹃谷崎潤一郎﹄イヴニング・スター社, 1947年/日本図書センター︵復刻版︶, 1992年 ●﹃河童随筆﹄酣燈社, 1947年 ●﹃青春回顧﹄酣燈社, 1947年 ●﹃酔眠巣雑記﹄生活社, 1947年 ●﹃佛蘭西演劇私観﹄酣燈社, 1948年 ●﹃フアブルの目﹄秀文館, 1948年 ●﹃辰野隆選集﹄︵全5巻︶ 改造社, 1948年-1950年/日本図書センター︵復刻版︶, 2004年 ●佛蘭西文學考︵上下︶ / ボオドレエル研究序説・ルナアルの日記 ●忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎︵新訂版・中公文庫, 2015年︶ / 信天翁の眼玉 ●﹃忘れ得ぬことども﹄朝日新聞社, 1948年 ●﹃曳尾庵随筆﹄要書房, 1948年 ●﹃燈前茶後﹄日本出版協同, 1949年 ●﹃閑人独語﹄洛陽書院, 1949年 ●﹃男女問答﹄要書房, 1950年 ●﹃老若問答﹄要書房, 1950年 ●﹃ひとりごと﹄河出書房, 1950年 ●﹃老書生独語﹄河出書房, 1951年 ●﹃フランス文學入門﹄要書房, 1951年 ●﹃老年期﹄要書房, 1951年 ●﹃えとせとら﹄三笠書房, 1953年 ●﹃独語と対話 青春と老後﹄実業之日本社, 1956年 ●﹃凡愚問答﹄角川新書, 1956年 ●﹃凡愚春秋﹄角川新書, 1957年 ●﹃現代知性全集14 辰野隆集﹄日本書房, 1959年/復刻版﹁日本人の知性19辰野隆﹂学術出版会, 2010年 ●﹃フランス革命夜話﹄朝日新聞社, 1958年/福武文庫, 1989年/中公文庫, 2015年 ●﹃おかめはちもく﹄河出書房新社, 1961年 ●﹃ボーマルシェーとフランス革命﹄筑摩書房, 1962年 ●﹃辰野隆随想全集﹄︵全5巻・別巻︶福武書店, 1983年 ●1.忘れ得ぬ人々、2.え・びやん、3.フランス文芸閑談 ●4.ふらんすとふらんす人、5.忘れ得ぬことども ●別巻﹁天皇陛下大いに笑う﹂ 対談・座談集共著[編集]
●﹃スポオツ随筆﹄辰野保共著 大畑書店, 1932年 ●﹃佛蘭西自然主義﹄本田喜代治共著 三省堂, 1936年 ●﹃モリエール﹄本田喜代治共著 創元選書, 1939年 ●﹃現代随想全集5辰野隆・内田百閒集﹄創元社, 1953年翻訳︵現行︶[編集]
●﹃シラノ・ド・ベルジュラック﹄ エドモン・ロスタン 鈴木信太郎共訳 白水社, 1922年︵のち岩波文庫︶。ISBN 400325631X/ISBN 978-4003256312 ●﹃孤客 ミザントロオプ﹄ モリエール、筑摩書房, 1947年︵のち岩波文庫︶。ISBN 4003251210/ISBN 978-4003251249 ●﹃女房学校 他2編﹄ モリエール、鈴木力衛共訳、岩波文庫。ISBN 4003251245/ISBN 978-4003251218 ●﹃フィガロの結婚﹄ ボーマルシェ、要書房, 1950年︵のち岩波文庫︶。ISBN 4003252217/ISBN 978-4003252215 ●﹃贋救世主アンフィオン 一名ドルムザン男爵の冒険物語﹄ アポリネール 鈴木信太郎・堀辰雄共訳 沖積舎、復刊2005年。ISBN 4806030473/ISBN 978-4806030478編著[編集]
●﹃酒談義﹄︵正・続︶ 日本交通公社, 1949-1950年 ●﹃近代日本の教養人﹄ 実業之日本社, 1950年 - 友人日夏耿之介の還暦記念論集 ●﹃大学生活第二﹄ 光文社, 1950年 ●﹃落第読本﹄ 鱒書房, 1955年評伝[編集]
●出口裕弘﹃辰野隆 日仏の円形広場﹄︵新潮社, 1999年/中公文庫, 2019年︶脚注[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadaeafag鈴木信太郎﹃辰野隆前曾長の思出 : 辰野隆博士著作目録・年譜﹄日本フランス語フランス文学会、1964年。doi:10.20634/ellf.5.0_1。2022年7月31日閲覧。
(二)^ 東京駅・辰野金吾家の人々宮島醤油会長コラム
(三)^ 退官後に勤務した中央大学は、敬愛した長谷川如是閑の母校で、父金吾が同校最初の新築校舎︵1888年英吉利法律学校︶及び同校の校長邸宅︵1911年増島六一郎、1906年菊池武夫︶を設計したという縁がある。
(四)^ ﹃世界文學﹄1947年12月号、p.1