織田信長(読み)オダノブナガ

デジタル大辞泉 「織田信長」の意味・読み・例文・類語

おだ‐のぶなが【織田信長】

 
15341582()()()()()()()()()  

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「織田信長」の意味・読み・例文・類語

おだ‐のぶなが【織田信長】

 

(一)()祿()退
 

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長【おだのぶなが】

 
15511560()1562()1567()157315701571()1575()1576()
西  

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長
おだのぶなが
(1534―1582)

戦国・安土桃山(あづちももやま)時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。

[脇田 修]

家系


()()()()()()()()()()154615()()1551()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

戦闘


15551()155715592()1560()()1567()15689()()()()()()15701()()()1571()()157315753()()()()()()1580()退()()()()()()()1582宿()()()西()()()1062西()()()()()()()

 

武家権力


()()()()()()宿()()()()()

 

朝廷・寺社との関係

信長は初め朝廷の官職を辞退したが、1575年(天正3)従三位(じゅさんみ)権大納言(ごんだいなごん)兼右近衛大将(うこんえだいしょう)となり、家督を信忠に譲り、その後、天下人として行動、安土城にいる。内大臣次いで1577年に従二位右大臣となるが、やがて辞官、最後まで辞退した。これは、天下平定ののち顕職につくとの理由であり、朝廷との関係では正親町天皇(おおぎまちてんのう)の東宮誠仁親王(さねひとしんのう)を猶子(ゆうし)(相続を目的としない養子)とし馬揃(うまぞろ)えを天皇にみせ、安土城(1576年着工、1579年完成)に行幸の間をつくるなどした。公家(くげ)・寺社とは、反抗した延暦寺などを焼討ちはしたものの、一般には、有力な寺社・公家が現に知行(ちぎょう)している土地や座の権益は安堵(あんど)し、徳政を行って知行の回復を図り、新地を進めるなど、一定の保護を行った。

[脇田 修]

経済政策


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

文化政策


()()()()()()()()()()()()()()()

 

歴史的位置


()

 

19661977

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長 (おだのぶなが)
生没年:1534-82(天文3-天正10)


15512055157592605西626567︿使68殿701退731宿758姿7677西777880宿826宿2

 1571818279697981使


︿

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長
おだのぶなが

 
[]3(1534).
[]10(1582).6.2. 
 20 (1551) 2 (1559) 駿 ( )  10 (1567) 112 (1571) 1 (1573) 3 (1575)  ( )  ( )  10 (1582) 62  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「織田信長」の解説

織田信長
おだのぶなが


1534.5.12/2882.6.2

1546(15)()()60(3)()6773()75()8082()

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「織田信長」の解説

織田信長
おだのぶなが

 
153482

 ()  () 1560駿 () '67'68 () '71'7338'82宿  

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「織田信長」の解説

織田信長 おだ-のぶなが

1534-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)3年生まれ。織田信秀の子。永禄(えいろく)2年尾張(おわり)(愛知県)を統一。3年桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を破る。徳川家康と同盟し,10年美濃(みの)を征服して岐阜を拠点とする。11年足利義昭を擁立して京都にはいるが,のち対立。天正(てんしょう)元年義昭を追放し,室町幕府をほろぼす。浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し,伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっき)を鎮圧,武田軍との長篠の戦いにも勝利。4年近江(おうみ)に安土城をきずく。天下統一を目前にして,明智光秀の謀反にあい,天正10年6月2日京都本能寺で自刃(じじん)した。49歳。尾張出身。幼名は吉法師,三郎。官名は上総介(かずさのすけ)。
【格言など】人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか(「信長公記」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「織田信長」の解説

織田信長

山岡荘八の長編歴史小説。1955年刊行。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の織田信長の言及

【安土宗論】より

…1579年(天正7),織田信長の命令で安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論。当時,信長の本拠だった新興都市の安土では,折伏(しやくぶく)の談義僧でならした普伝日門の布教によって法華宗が猛烈にのびていた。…

【安土城】より

…滋賀県蒲生郡,琵琶湖東岸安土山にある城址。織田信長が1576年(天正4)から築城を開始し,普請奉行には丹羽長秀があたった。石垣普請には11ヵ国から労働者を集め,坂本穴太(あのう)の石工らが動員された。…

【安土桃山時代】より

…織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年(永禄11)から,関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年(慶長5)までの約30年間を指し,織田・豊臣時代(織豊政権)ともいう。時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世(幕藩体制)にあたり,封建社会が成立・展開する時期である。…

【敦盛】より

…謡曲《敦盛》,《形見送(経盛)》(廃曲)も同材だが,本曲は発心譚的色彩が濃い。織田信長は田楽狭間の合戦に際し,本曲の一節〈人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり,云々〉を舞って出陣した(《信長公記》など)と伝えて有名。また,室町期の物語草子や古浄瑠璃に敦盛の遺児を主人公とする《小敦盛》があり,謡曲に《生田敦盛》がある。…

【石山本願寺一揆】より

…1570年(元亀1)から80年(天正8)まで織田信長と戦った一向一揆。石山合戦ともいうが,本願寺の所在地摂津国石山で11年間絶えまなく戦闘があったわけではない。…

【和泉国】より


4968(11) 

【一向一揆】より

… 戦国大名と一向一揆の全面的対決は,63年秋から翌年にわたって西三河で行われる。松平(徳川)家康は,桶狭間の戦以後今川氏の支配下から独立して織田信長と結び,矢作川流域の西三河の領国支配に着手した。このころこの地域は三河三ヵ寺(佐々木上宮寺,針崎勝鬘(しようまん)寺,野寺本証寺)や一家衆寺院の土呂本宗寺などを中心に,商工業・運輸業者,農民,武士たちの強力な門徒集団が形成されており,家康家臣団の中にも門徒武士が多かった。…

【延暦寺焼打】より

…1571年(元亀2)9月12日,織田信長が比叡山延暦寺の根本中堂,山王二十一社をはじめとする諸堂社をことごとく焼き払った事件。前年9月,三好三人衆,本願寺顕如に呼応して南近江に兵を進めた浅井・朝倉軍の一部は叡山に拠って信長に対抗した。…

【近江国】より


68(11)

【織田氏】より


(153255)

【織田神社】より


109,10

【尾張国】より

…現在瀬戸では500以上,常滑では1300以上の中世窯跡が確認されており,その製品は全国的に市場をもっていたことが,各地の発掘調査から知られている。【上村 喜久子】
【近世】
 織田信長は父信秀存生中の1549年(天文18)重要拠点の熱田8ヵ村に禁制を下した。信長時代の開幕である。…

【岐阜城】より


1509(6)()()1567(10)9

【堺[市]】より


 1568(11)()2

【下京】より

…この年の下京の状況を《耶蘇会士日本通信》は〈此等市街は,緞子其他の織物を製造加工し,又金属其他当地に用ひらるゝ品を作る商人の家及び事務所の在る所にして〉と記しており,当時の下京の産業がよくわかる。戦国時代の覇者である織田信長は1568年(永禄11)入京,京都を実力で圧迫しようと試み,さまざまな施策をとる。71年(元亀2)には禁裏に献上する費用を調達するため京中に貸米の制度を実施するが,それについて下京では中組,牛寅組,川ヨリ西組の3町組約50町が史料上にみえる。…

【織豊政権】より

…1568年(永禄11)織田信長の入京に始まり1603年(慶長8)江戸幕府の成立に至る安土桃山時代,戦国の争乱を統一し近世社会の基礎を築いた織田・豊臣両氏の安土,大坂を拠点とする武家政権。信長は室町幕府を滅ぼすとともに,畿内とその周辺の惣結合に基づく一揆勢力,とくに石山本願寺を中心とする一向一揆を徹底的に弾圧することにより,集権的権力を確立した。…

【信長公記】より

太田牛一が〈日記〉に基づいて記録した織田信長の軍記。16巻16冊。…

【戦国時代】より

…日本史時代区分の一つで室町後期に一致する。
[始期と終期]
 通常,応仁の乱の始まった1467年(応仁1)から,織田信長が足利義昭を奉じて入京した1568年(永禄11)までをさす。しかしこれには始期・終期ともに異説がある。…

【摠見寺】より



【建勲神社】より


︿

【天下】より

…全国,全国政権(あるいは中央政権)の所在地,全国(中央)政権,そしてその支配者個人という同心円状に重層した意味構造が成立したのである。例えば〈天下布武〉の印判を愛用した織田信長は,上洛後自分への協力は〈天下の為〉〈天下に対して大忠〉であると主張し,一方将軍義昭には〈天下の褒貶〉や〈執沙汰〉を論拠に非難を浴びせ,ついにはみずから〈天下を申し付くる〉と称するなど,天下の権威と多義性をしきりに利用している。 とくに最高権力者を端的に天下と呼ぶ用法は,おそらく,元来関白などを指す〈殿下〉の当て字としての天下とも交錯しつつ,足利時代以後しだいに広がった。…

【時桔梗出世請状】より

…1808年(文化5)7月江戸市村座初演。先行の浄瑠璃《祇園祭礼信仰記》《三日太平記》《絵本太功記》などに拠りながら武智光秀(明智光秀)が主君小田春永(織田信長)を本能寺で討つまでの経緯を主軸に脚色した作品(太閤記物)。序幕は祇園社拝殿から饗応仮御殿までの5場で,光秀が蜘蛛の振舞いを見て怪しむくだりは饗応仮屋の木戸前の場,春永が蘭丸に鉄扇で光秀の眉間を割らせるのが饗応仮御殿の場。…

【徳川家康】より

…60年大兵を率いて上洛を図った義元の先鋒として三河に入り,織田勢力の包囲に孤立していた大高城の兵糧入れに成功して初陣をかざった。 翌々日5月20日桶狭間の戦での義元の敗死を機に岡崎に入城して今川氏から自立し,61年織田信長と和睦(1563年1月尾張清須で信長と会見),63年7月名を家康と改めた。直後に譜代の家臣団をも巻きこんだ三河一向一揆が起きたが,翌年の春ごろにはこれを鎮定,結果として三河一国は家康によって統一されることになった。…

【髑髏】より

…近代にもどくろ杯を使用するアフリカの部族の例などがあり,チベットのラマ僧たちは今も宗教的儀式のおりにどくろ杯を用いているという。日本では,織田信長が浅井久政・長政父子や朝倉義景のどくろで酒を飲んだと伝えられている。 どくろには故人の霊や魔力がひそむと考えられたことから,さまざまな風習や伝承が生まれたが,それらはみなキリスト教布教以前か,その影響が及ばなかった地域のものである。…

【長篠の戦】より

…1575年(天正3)5月21日に織田信長,徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を三河の設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で破った合戦。武田信玄の没後,家康が長篠城を取り返したので,勝頼は前年に遠江高天神(たかてんじん)城を陥れた勢いに乗り,75年4月21日約1万(兵員数には諸説がある)の軍勢で長篠城を囲んだ。…

【長島一揆】より

…濃尾三川(木曾川,長良川,揖斐川)の下流域のいわゆる輪中地帯には,15世紀中葉以後真宗本願寺派の教線が進展し,1501年(文亀1)には蓮如の六男蓮淳を住職とする一家衆寺院長島願証(がんしよう)寺が創建された。70年(元亀1)本願寺顕如が諸国に反織田信長の蜂起を指令すると,尾張南西部,美濃南部,伊勢北部の門徒は反信長の武士と連合して願証寺を主将として蜂起し,11月に信長の弟信興を尾張小木江城に攻めて自殺させた。信長は翌年5月に5万の兵で3方面から攻撃したが,部将氏家卜全は戦死,柴田勝家も負傷して大敗した。…

【平手政秀】より

…戦国期の武家で,織田信秀の老臣。初名は清秀,中務丞と称した。1533年(天文2)公家飛鳥井雅綱・山科言継一行の勝幡(しよばた)城滞在中の接待に当たる。44年に信秀の命で上京,皇室に献金の役を果たす。このころ,林通勝らとともに那古野(なごや)の新城を与えられた信長に付けられて信長の育成に当たり,蔵入領支配を担当。47年の美濃大柿(大垣)攻撃後,斎藤道三の女と信長の婚約を献策し,成立させて和睦に導いた。…

【本能寺の変】より

…1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は,とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ,みずから近臣を伴って5月29日上洛した。…

【升∥枡】より

…それと同時に単位間の不規則累進にかわってしだいに十進法が復活し,〈十合斗〉と呼ばれる枡が京都,奈良を中心に多用されるようになった。1568年(永禄11),将軍足利義昭を奉じて入京した織田信長は,京都の経済を掌握するために,当時の京都において中心的な商業枡である十合斗を公定枡に指定した。十合枡は信長の後継者豊臣秀吉によって継承され,とくに太閤検地において石盛(こくもり)の基準枡に採用された関係から,その使用は全国に及んだ。…

【矢銭】より


25000

【楽市令】より


15,1610(1567)3(1572)13(1585)

※「織田信長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

五節舞

日本の上代芸能の一つ。宮廷で舞われる女舞。大歌 (おおうた) の一つの五節歌曲を伴奏に舞われる。天武天皇が神女の歌舞をみて作ったと伝えられるが,元来は農耕に関係する田舞に発するといわれる。五節の意味は...

五節舞の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android