谷崎潤一郎(読み)タニザキジュンイチロウ

デジタル大辞泉 「谷崎潤一郎」の意味・読み・例文・類語

たにざき‐じゅんいちろう〔‐ジユンイチラウ〕【谷崎潤一郎】

 
18861965()()西()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「谷崎潤一郎」の意味・読み・例文・類語

たにざき‐じゅんいちろう【谷崎潤一郎】

退西

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「谷崎潤一郎」の意味・わかりやすい解説

谷崎潤一郎
たにざきじゅんいちろう
(1886―1965)

小説家。明治19年7月24日東京・日本橋蠣殻(かきがら)町(現日本橋人形町)に生まれる。父は倉五郎、母は関。倉五郎は入り婿で、潤一郎の下に三男三女がある(すぐ下の弟が英文学者谷崎精二)。祖父久右衛門は一代で産をなした進取の気性の商人で、母の関は「美人絵双紙の大関にされてゐた」(『幼少時代』)という評判の美人であった。が、倉五郎は商売下手で失敗を繰り返し、幼時は大家の坊ちゃんとしてだいじに育てられながら、坂本小学校の高等科を卒業するころは、中学へも進めない状態になる。教師や伯父の配慮で、1901年(明治34)数え年16歳で府立一中(現日比谷(ひびや)高校)に入学、翌年、秀才の特典で飛び級をして3年生になる。同級に辰野隆(たつのゆたか)がいた。『学友会雑誌』に早くから作文や漢詩を発表して注目され、05年、一高英法科に入学、文芸部委員となり、『校友会雑誌』に小説『狆(ちん)の葬式』(1907)その他を発表。08年、一高英法科を卒業、「創作家にならうと云(い)ふ悲壮な覚悟をきめ」(『青春物語』)て、東京帝国大学国文科に進む。

大久保典夫

文壇にデビュー


1910439()()()()()()()19061011()12()7()1911退111111()()1912()1913()154()191519161917()19191920()


小田原事件


1917619()20211030523西192425()192830()192829()()


古典主義時代

1931年(昭和6)1月、『母を恋ふる記』(1919)以来の母性思慕の主題を深めた『吉野葛(よしのくず)』を発表。続いて9月『盲目物語』、10月から翌年11月にかけて『武州公秘話』、そして『蘆刈(あしかり)』(1932)を発表。しかし、「古典主義時代」といわれるこの期の最高傑作は、なんといっても33年の『春琴抄(しゅんきんしょう)』で、ここにみられる徹底した女性拝跪(はいき)は、そのまま根津松子(1935年結婚)への姿勢とつながるものだろう。

 潤一郎は、1933年、日本美の再発見に言及した『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』を書き、続いて、35年から、終生の仕事となった『源氏物語』の現代語訳に着手する。また、36年『猫と庄造(しょうぞう)と二人のをんな』を書き、37年には芸術院会員に推された。42年から『細雪(ささめゆき)』の執筆を始め、戦後の48年(昭和23)、大阪の船場(せんば)育ちの蒔岡(まきおか)家の四姉妹を描いたこの大作を完成、翌年、文化勲章を授与される。

[大久保典夫]

豊饒の戦後

敗戦の年、すでに59歳であった潤一郎は、高血圧症に悩まされながらも、なお旺盛(おうせい)な執筆活動を続け、『少将滋幹(しげもと)の母』(1949~50)、『鍵(かぎ)』(1956)、『夢の浮橋』(1959)、『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1961~62)と、積年のテーマの深化を図りながら一作ごとに新境地を示す話題作を書き続け、昭和40年7月30日、腎(じん)不全から心不全を併発し、神奈川県湯河原(ゆがわら)の新居で死去した。京都市左京区鹿(しし)ヶ谷(たに)法然院に葬られている。

[大久保典夫]

『『谷崎潤一郎全集』全28巻(1972~75・中央公論社)』『伊藤整著『谷崎潤一郎の文学』(1970・中央公論社)』『野村尚吾著『伝記谷崎潤一郎』(1974・六興出版)』『野口武彦著『谷崎潤一郎論』(1973・中央公論社)』『笠原伸夫著『谷崎潤一郎――宿命のエロス』(1980・冬樹社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「谷崎潤一郎」の意味・わかりやすい解説

谷崎潤一郎 (たにざきじゅんいちろう)
生没年:1886-1965(明治19-昭和40)


︿1911退355119102111121917︿1924-253︿1923西193119321933︿419354851949-50︿1956︿︿1961-62︿︿

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百科事典マイペディア 「谷崎潤一郎」の意味・わかりやすい解説

谷崎潤一郎【たにざきじゅんいちろう】

 
退19102()西()()19391941()()1949
 

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朝日日本歴史人物事典 「谷崎潤一郎」の解説

谷崎潤一郎

没年:昭和40.7.30(1965)
生年:明治19.7.24(1886)
明治から昭和の小説家。東京日本橋蠣殻町の生まれ。弟に作家谷崎精二がいる。府立一中(日比谷高校)時代から文才が知られ,一高から東京帝大国文科へと進むが,中退。しばらく模索の時期が続き,第2次『新思潮』(1910~)を出し,『刺青』(1910),『少年』(1911)を発表するにおよんで,永井荷風の絶賛を受けた。マゾヒズムや独特な美意識などその文学世界は,こうした初期作品にすでに顕著である。大正時代は「悪魔主義」と呼ばれる時代だが,作品世界を作り過ぎるきらいもある。また映画に興味を示したのもこのころであった。大正12(1923)年の関東大震災以後,関西へ移住,『痴人の愛』(1924~25),『卍』(1928~30)を得た。その間,千代子夫人と離婚,夫人を友人佐藤春夫に譲る出来事もあった。『蓼喰ふ虫』(1928~29)の背景が,それである。次第に創作方法や語りの文体がより磨かれ,『吉野葛』『盲目物語』(ともに1931年),『蘆刈』(1932),『春琴抄』(1933)などの名作がある。昭和10(1935)年に根津松子と結婚,終世の伴侶を得て作風も安定した。『陰翳礼讃』(1933)などの美学がまとまったのも,このころである。戦中は『源氏物語』の現代語訳を完成,大作『細雪』(1943~48)を書く。戦後も,『少将滋幹の母』(1949~50),『鍵』(1956),『瘋癲老人日記』(1961~62)など着実な歩みをみせ,海外でも評価は高まった。<著作>『谷崎潤一郎全集』全30巻

(中島国彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「谷崎潤一郎」の意味・わかりやすい解説

谷崎潤一郎
たにざきじゅんいちろう

 
[]1886.7.24. 
[]1965.7.30. 
 1908102退調 (1917) 西 ()  (2830)  (30)  (263538)  ()  ()  (4950)  ()  (61) 3749  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「谷崎潤一郎」の解説

谷崎潤一郎
たにざきじゅんいちろう

1886.7.24~1965.7.30

明治~昭和期の小説家。東京都出身。日本橋の商家に生まれるが,父が家業に失敗して苦学した。東京帝国大学在学中の1910年(明治43)第2次「新思潮」を創刊して「刺青(しせい)」などを発表,永井荷風に激賞された。完成された文体とマゾヒズムを中心とする大胆な官能性,自然主義に反旗をひるがえす豊かな物語性などにより,文壇に衝撃を与えた。関東大震災を機に関西に移住。「痴人の愛」が前期の総決算となる。その後西洋崇拝を脱し,日本の伝統や関西の風土の再発見から「春琴抄」「細雪(ささめゆき)」や「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」などを発表。「源氏物語」も口語訳した。晩年は「鍵」「瘋癲(ふうてん)老人日記」などで老人の性を描いた。49年(昭和24)文化勲章受章。「谷崎潤一郎全集」全30巻。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「谷崎潤一郎」の解説

谷崎潤一郎 たにざき-じゅんいちろう

1886-1965 明治-昭和時代の小説家。
明治19年7月24日生まれ。第2次「新思潮」発表の「刺青(しせい)」が永井荷風に激賞され,耽美(たんび)派作家として文壇に登場。関東大震災を機に関西にうつり,作風は「痴人の愛」に代表されるモダニズムから「吉野葛(くず)」「春琴抄」などの古典趣味に変貌した。戦時中は「源氏物語」の現代語訳にとりくみ,発禁となった「細雪(ささめゆき)」を執筆。晩年の作品に「鍵」「瘋癲(ふうてん)老人日記」など。昭和24年文化勲章。昭和40年7月30日死去。79歳。東京出身。東京帝大中退。
【格言など】これから小説を書かなければならない……。小説を……(臨終のことば)

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旺文社日本史事典 三訂版 「谷崎潤一郎」の解説

谷崎潤一郎
たにざきじゅんいちろう

1886〜1965
大正・昭和期の小説家
東京の生まれ。東大国文科中退。1910年発表の『刺青 (しせい) 』以来,永井荷風とともに耽美派の作家として活躍。官能の世界を追求し,濃艶に描写した。昭和期に入り日本古典の伝統美への志向を強めた。'49年文化勲章受章。代表作に『痴人の愛』『蘆刈』『春琴抄』『細雪 (ささめゆき) 』『鍵』や現代語訳『源氏物語』など。

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世界大百科事典(旧版)内の谷崎潤一郎の言及

【映画】より


︿() (1920)(1921)︿179︿213︿

【影】より

…古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい,日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった。 最後に,〈かげ〉を,かげり,くもり,くらがりとしてとらえ直し,そこにこそ日本伝統美が存在することを確かめようとした谷崎潤一郎の長編随筆《陰翳礼讃》(1933)のあることを忘れてはならないであろう。日本家屋(とくに厠),漆器,食物などが〈常に陰翳を基調とし,闇と云ふものと切れない関係にある〉と見る谷崎は,〈美と云ふものは常に生活の実際から発達するもので,暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は,いつしか陰翳のうちに美を発見し,やがては美の目的に添ふやうに陰翳を利用するに至った。…

【菊原琴治】より


 

【細雪】より

谷崎潤一郎の長編小説。1943年(昭和18)の《中央公論》誌上に最初の2回分が掲載されたが,軍部の圧力によって中断。…

【春琴抄】より

谷崎潤一郎の小説。1933年6月《中央公論》に発表。…

【推理小説】より




 ()(1920)(1922)(1925)(190281)

【痴人の愛】より

谷崎潤一郎の小説。1924年(大正13)から翌25年にかけて,前半が《大阪朝日新聞》,後半が雑誌《女性》に連載された。…

【日本映画】より


︿︿



 ︿︿︿1920()

【唯美主義】より

…これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。これは唯美主義の本質をつく言葉であり,ワイルドにも,またその影響が濃厚な《禁色》の作家三島由紀夫や,同じくワイルドの《謎をもたぬスフィンクス》を種本に短編《秘密》を書いた谷崎潤一郎にも当てはまる。 19世紀以来の唯美主義は観念的美の世界と悪魔的な官能美への惑溺,すなわちデカダンスdécadenceの二極を絶えず往復しているが,これはスウィンバーンに影響を与えたフランスの文学者ゴーティエボードレールに始まる。…

※「谷崎潤一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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