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[[1933年]]([[昭和]]8年)[[6月20日]]、モスクワで客死した[[クララ・ツェトキン]]の葬儀で、他の会葬者らと共に棺を担ぐ姿が新聞で報道。これが日本で確認できた生前最後の姿となった<ref>コミンテルン中央幹部、モスクワで死去『大阪毎日新聞』昭和8年11月7日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p56 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 |
[[1933年]]([[昭和]]8年)[[6月20日]]、モスクワで客死した[[クララ・ツェトキン]]の葬儀で、他の会葬者らと共に棺を担ぐ姿が新聞で報道。これが日本で確認できた生前最後の姿となった<ref>コミンテルン中央幹部、モスクワで死去『大阪毎日新聞』昭和8年11月7日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p56 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 |
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同年11月5日に入院先のモスクワ市内の病院で[[敗血症]]のため<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)8頁</ref>死去。[[享年]]75(満73歳没)。9日に行われた葬儀には15万人のソ連市民やコミンテルン指導者らが集まった。棺に付き添った14人には、[[ミハイル・カリーニン]]、[[ヨシフ・スターリン]]、[[ヴィルヘルム・ピーク]]、[[クン・ベーラ]]、[[野坂参三]]たちがいた。遺骨は[[クレムリンの壁墓所]]に他の倒れた同志たちと共に埋葬されたほか、脳は頭脳研究所の解剖学的材料にされた。なお、クレムリンの壁墓所に埋葬された日本人は潜が唯一である<ref>{{Cite book|title=レーニンの秘密(下)|date=|year=1995|publisher=日本放送出版協会|author=ドミトリー・ヴォルコゴーノフ}}</ref><ref>[https://jp.rbth.com/history/85931-mosukuwa-akanohiroba-nemuru-gaikokujin モスクワの赤の広場に眠る外国人] ロシア・ビヨンド(2021年12月28日)</ref>。 |
同年11月5日に入院先のモスクワ市内の病院で[[敗血症]]のため<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)8頁</ref>死去。[[享年]]75(満73歳没)。9日に行われた葬儀には15万人のソ連市民やコミンテルン指導者らが集まった。棺に付き添った14人には、[[ミハイル・カリーニン]]、[[ヨシフ・スターリン]]、[[ヴィルヘルム・ピーク]]、[[クン・ベーラ]]、[[野坂参三]]たちがいた。遺骨は[[クレムリンの壁墓所]]に他の倒れた同志たちと共に埋葬されたほか、脳は頭脳研究所の解剖学的材料にされた。なお、クレムリンの壁墓所に埋葬された日本人は潜が唯一である<ref>{{Cite book|title=レーニンの秘密(下)|date=|year=1995|publisher=日本放送出版協会|author=ドミトリー・ヴォルコゴーノフ}}</ref><ref>[https://jp.rbth.com/history/85931-mosukuwa-akanohiroba-nemuru-gaikokujin モスクワの赤の広場に眠る外国人] ロシア・ビヨンド(2021年12月28日)</ref>。[[青山霊園]](1ロ14-13,16)にも墓碑がある。 |
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== 親族 == |
== 親族 == |
2023年9月26日 (火) 12:05時点における版
片山 潜 | |
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![]() 1925年 | |
生年 | 1859年12月26日 |
生地 |
![]() 美作国久米南条郡羽出木村 |
没年 | 1933年11月5日(73歳没) |
没地 |
![]() |
思想 | マルクス・レーニン主義 |
活動 | 労働運動 |
母校 | 岡山師範学校(中退) |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/Katayama_Sen_25_years_old.jpg/220px-Katayama_Sen_25_years_old.jpg)
生涯
美作国久米南条郡羽出木村︵後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木︶に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎︵すがたろう︶。 1877年︵明治10年︶10月、神目村︵現在の久米南町神目中︶の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。安達清風の私塾で学んだのち、1880年︵明治13年︶に岡山師範学校︵現在の岡山大学教育学部︶に入学するが、翌1881年︵明治14年︶に退学して上京。攻玉社にて塾僕として勤務し、1884年︵明治17年︶、友人岩崎清七に続いてアメリカ合衆国へ渡る。岩崎とは、岡鹿門の私塾で塾僕をしていたときに知り合い、岩崎の故郷の森鴎村の塾僕を務めたり、潜に続いて岩崎も攻玉社で学ぶなど親しい間柄だった[2]。留学中も金欠の片山のためにイェール大学学友の大久保利武や松方幸次郎に寄付を頼んで仕送りするなど生涯にわたって支援した[2]。 サンフランシスコ郊外サンラフェールという村の小さな家塾で皿洗いをして働く。その後、サンフランシスコ下町の大工の家、ポノマの宿屋、アラメダの家庭にコックをして住み込む。アラメダで中国人のキリスト教会に通い英語とキリスト教を学ぶ[注釈 1]。そして、1886年11月組合教会の教会でキリスト教の洗礼を受ける[3]。その後、苦学してメリーヴィル大学、グリンネル大学、アンドーヴァー神学校、イェール神学校で学び社会的キリスト教の感化を受ける。また、プラトンやソフォクレスなどの原典を通じて、西洋古典学を修め[4]、学位を取得して1896年︵明治29年︶、帰国した。 帰国後、東京専門学校の英語学部の主任講師として英語を教えるも、3カ月で解職となる[5]。 1896年、﹃六合雑誌﹄明治29年10月15日号の社告によれば、189号から片山が編集員になった。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Sen_Katayama_in_1901.jpg/200px-Sen_Katayama_in_1901.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Sen_Katayama.jpg/220px-Sen_Katayama.jpg)
親族
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6e/Hara_Nobuko%2C_Iwasaki_Seiichiro%2C_Katayama_Yasuko_in_Milan_1929.jpg/220px-Hara_Nobuko%2C_Iwasaki_Seiichiro%2C_Katayama_Yasuko_in_Milan_1929.jpg)
脚注
注釈
出典
- ^ 『国民年鑑 昭和10年』国民新聞社、1934年、p.550
- ^ a b c d e f g 『欧米遊蹤』岩崎清七、アトリエ社、1933、p139-
- ^ 辻野功「片山潜」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、p297
- ^ Watanabe, A. (2008). “Classica Japonica: Greece and Rome in the Japanese Academia and Popular Literature”. Amphora 7: 6f.
- ^ 社会問題の顕在化と早稲田大学
- ^ 労働世界6号
- ^ 日本社会政策学会史 関谷耕一
- ^ 片山潜 隅谷三喜男
- ^ 日本労働運動史料1 労働運動史料委員会編
- ^ 東京朝日新聞1933年11月7日付
- ^ 社会主義者沿革 明治文献資料刊行会
- ^ 『官報』第55号、大正元年10月5日、p.141
- ^ コミンテルン中央幹部、モスクワで死去『大阪毎日新聞』昭和8年11月7日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p56 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)8頁
- ^ ドミトリー・ヴォルコゴーノフ (1995). レーニンの秘密(下). 日本放送出版協会
- ^ モスクワの赤の広場に眠る外国人 ロシア・ビヨンド(2021年12月28日)
- ^ a b c d 片山潜記念館(久米南町)津山瓦版、2017年09月21日
- ^ Aino Kuusinen (1974). Before and After Stalin. Michael Joseph