本項では、エジプトの歴史︵エジプトのれきし、History of Egypt、تاريخ مصر︶について解説する。
エジプトという歴史地理的空間を定義するのはほとんど降水がない砂漠地帯を貫流するナイル川である。元々は草原が広がっていたナイル川周辺の地域が気候変動によって乾燥するに従い、人々はナイル川流域に集まっていった。歴史時代のエジプトの人口はその大半がナイル川両岸の極狭い範囲に集中しており[1]、周囲のオアシスに僅かな人口があった[2]。ナイル川流域は川が分岐して扇状に広がるナイルデルタ地帯である北部の下エジプトと、川の両岸数キロ程度の範囲の可住地が線状に続く上エジプトに分けられる[3]。上エジプト南端部のエレファンティネ島︵アスワーン︶南にあるナイル川の第1急湍より上流ではナイル川流域の地質が急激に変わり、エジプトとは異なるヌビアと呼ばれる地方を形成していた。しかしヌビアもまたエジプトの住民の歴史的な活動の舞台でもある。
ナイル川流域では前5千年紀から前4千年紀には古代エジプト文明の萌芽となる様々な文化が誕生していた。前4千年紀末には上下エジプトを統一する王朝︵エジプト第1王朝︶が成立し、以降前30年のローマ帝国による征服まで、およそ30に分類される古代エジプト王朝が神格化された王を中心として国家を営んだ。古代エジプトの王は一般的にファラオと呼ばれる。古代エジプト王朝は大きく古王国︵前27世紀―前22世紀︶、中王国︵前21世紀-前18世紀︶、新王国︵前16世紀-前11世紀︶に分類される。エジプト文明の象徴的建造物であるギザの大ピラミッドがクフ王によって建造されたのは古王国の時代であり、黄金のマスクで知られるツタンカーメン︵トゥトゥアンクアメン︶王墓は新王国時代の遺構である。
ローマ時代の劇場︵アンフィテアトルム︶跡
新王国の崩壊後、エジプトではリビュア人やヌビア人など周辺諸国からの流入者による王朝が複数建てられた。やがて前671年にはメソポタミアで勢力を拡張するアッシリアの支配下に入り、以降ハカーマニシュ朝︵アケメネス朝︶、アレクサンドロス3世の帝国が順次エジプトを支配した。前305年にはアレクサンドロス3世の帝国を分割した後継者︵ディアドコイ︶の一人、プトレマイオス1世がプトレマイオス朝を建て、その首都アレクサンドリアは東地中海における学問の中心として栄えた。前30年にプトレマイオス朝の実質的な最後の王クレオパトラ7世がローマの執政官︵コンスル︶オクタウィアヌス︵アウグストゥス︶に敗れ、エジプトはローマ帝国に組み込まれた。以降、1000年近くにわたり、エジプトはより大きな帝国の一部としてその歴史を歩んだ。ローマ領となったエジプトは皇帝属州アエギュプトゥスとして、穀物を中心とした富を供給し、ローマ人のパンとサーカスを支えた。その後、ローマ帝国は恒常的に複数の皇帝に分割されるようになり、395年の最後のローマ帝国の分割の後、エジプトは東ローマ帝国の管轄下に入った。現在では東ローマ帝国は一般にビザンツ帝国と呼ばれる。この間、エジプトでは新たな宗教キリスト教が普及し、社会の中核を占めるようになっていった。550年にフィラエ島のイシス神殿が閉鎖され、古代エジプト文明時代の古い神々は忘れ去られた。
エジプトは618年にホスロー2世治世下のサーサーン朝によって征服された。ビザンツ帝国はその後エジプトの奪回に成功したが、間もなく新興宗教イスラームを奉じるアラブ人の共同体︵ウンマ︶によって646年までにエジプトが完全に征服され、以後完全にビザンツ帝国から離れてイスラーム圏に入った。正統カリフ︵ハリーファ︶時代、ウマイヤ朝、アッバース朝といった歴代のムスリム共同体によって重要な属州としてエジプトの支配は受け継がれたが、アッバース朝末期に入るとイスラーム世界は徐々に﹁地方化﹂が進み分裂していった。エジプトでも868年にトゥールーン朝が成立し、久方ぶりにエジプトに拠点を置く独立勢力が誕生した。その後エジプトの支配権はチュニジアで興ったファーティマ朝の手に渡ったが、ファーティマ朝は現在のカイロ︵アル=カーヒラ︶に拠点を遷し事実上エジプトの王朝としての歴史を歩んだ。12世紀に入ってファーティマ朝の内部紛争が激しくなると、西欧諸国による十字軍の侵入や権力者の争いの中で頭角を現したサラーフッディーン︵サラディン︶によって12世紀後半にアイユーブ朝が建てられた。エジプトはイスラーム世界における学問や経済の中心として栄えたが、それ故に外敵の攻撃にも晒され、特に13世紀には十字軍の主要な攻撃目標となった。
イブン・トゥールーン・モスク。エジプトに現存する最古のモスク︵イスラームの礼拝施設︶である。
アイユーブ朝では13世紀半ばにマムルーク︵奴隷軍人︶が政権を握り、新たにマムルーク朝が成立した。テュルク人やチェルケス人などの﹁白人﹂奴隷軍人によるこの政権はシリア地方も支配下に置き、モンゴル帝国の侵入も排して16世紀初頭までエジプトを支配した。マムルーク朝の支配は1517年にセリム1世率いるオスマン帝国の攻撃によって終焉を迎えた。以降、オスマン帝国の首都イスタンブルから派遣される総督がエジプトを支配したが、マムルークや有力軍人など在地の権力は強力であり、またエジプト自体も本国に対して高い政治的自立性を維持している期間が長かった。オスマン帝国が斜陽に入り、一方で西欧諸国が勢力を強めると、オスマン帝国のエジプト支配にも動揺が走った。1798年にフランスで権力を握ったナポレオンがエジプトに侵入した。フランスによるエジプト支配は成らなかったが、フランス軍撤退後の政治的混乱の中でオスマン帝国の軍人であったムハンマド・アリーが1805年にエジプトの支配権を掌握し、事実上の独立勢力を作り上げた。
エジプトを攻撃する第5回十字軍。
ムハンマド・アリーはオスマン帝国との数度の戦争によってその領土を蚕食し新たな帝国の形成を目指したが、これを国益上の障害と見たイギリスの軍事介入によって1840年にエジプト以外の全征服地を喪失し、代わりにエジプト総督位の世襲権を得た︵ムハンマド・アリー朝︶。多くの非西欧諸国で試みられたように、ムハンマド・アリー朝下でエジプトの近代化・西欧化が目指され、内政の改革やスエズ運河の建設などの開発政策が実施されたが、スエズ運河建設に伴う対外債務の負荷や、アフマド・オラービーによる﹁外来の王朝﹂に対する革命などの対応に追われる中で、名目的にはオスマン帝国の宗主権の下にありながら実質的にイギリスの植民地と化していった。1914年に第一次世界大戦が勃発するとエジプトは公式にイギリスの保護領とされ、オスマン帝国の宗主権から脱した。
イギリスはエジプトを完全に支配下に置いたものとみなしたが、第一次世界大戦後には激しい民族運動が沸き起こり、エジプト独立の父とも言われるサアド・ザグルールらが独立運動を主導した。結局イギリスはムハンマド・アリー朝の継続のもと、1922年にエジプト王国の独立を承認したが、エジプトへの駐兵を継続し、政治上の様々な留保をつけるなど、エジプトの独立は制限付きのものとなった。エジプトは辛抱強く主権の回復に向けて努力を続け、1936年にはスエズ運河地帯以外からのイギリス軍の撤兵にこぎつけ、1937年に国際連盟に加盟した。また、同年には猶予期間を置いての治外法権の撤廃も勝ち取った。
現代のエジプト、カイロ市街。
第二次世界大戦を契機にパレスチナにユダヤ人国家イスラエルが成立すると、エジプトはこれを認めず周辺のアラブ諸国と共に第一次中東戦争でパレスチナに侵攻したが敗れた。敗戦によってムハンマド・アリー朝は権威を失い、1952年には軍のクーデター︵エジプト革命︶によって王が追放され、翌年に公式に王制の終了が宣言された。共和制への移行後、ナーセル︵ナセル︶が大統領として主導権を握り、1956年には武力危機の末にスエズ運河の国有化︵スエズ動乱︶を実現した。アラブ民族主義の台頭の下、ナーセルが中核となって1958年にシリア、イエメンと合邦してアラブ連合共和国が成立した。しかしこの連合は上手く行かず、3年で解体した。1967年には第三次中東戦争でのイスラエルに対する敗北によってナーセルの権威は失墜し、1970年にはナーセルが死去した。
ナーセルの跡を継いだサーダート︵サダト︶は1979年にイスラエルとの和平︵キャンプ・デーヴィッド合意︶を実現したが、アラブ諸国との関係悪化を招き、さらに対イスラエル強硬派によって暗殺された。次いで成立したムバーラク︵ムバラク︶政権はエジプトの国際関係を再編し、アラブ諸国における主導権の回復を目指した。特に1990年のイラクによるクウェート侵攻を契機に始まった湾岸戦争ではアメリカ側に立って多国籍軍に参加し、国際的地位を大きく上昇させた。また、アメリカや湾岸諸国から莫大な経済援助を引き出し、これを梃子に経済開発に力を入れ、大きな成果を上げた。
しかし、2010年にチュニジアで始まった民衆運動は、ソーシャル・メディアなどを通じて瞬く間にアラブ諸国に波及し、エジプトでも大規模な反政府の抗議運動が発生した︵アラブの春︶。ムバーラク大統領は地位を追われ、その後ソーシャル・メディアなどを駆使して結成された複数の﹁青年勢力﹂、そしてムスリム同胞団や﹁イスラーム集団﹂、ジハード団などのイスラーム勢力が政治アクターとして存在感を増し、伝統的に大きな権力を持つ軍部なども交えて、新たな体制が模索されている。
おおナイルよ。この地よりいで、エジプトを生かさんがために来れるもの。その顕現の姿、隠されてあり[注釈1]、日中は暗黒、<詩人そのために歌う>。すべての子山羊を育てんがために、ラーのつくり給いし牧場に水そそぐかれ。砂漠や︵水︶遠き場所に飲む︵水︶を与えるかれ。そは天空より下りし、かれの露なり。
-ナイル讃歌§1[5]
エジプトはアフリカ大陸の北東端にある。土地のほとんどは広大なサハラ砂漠の一部を成す砂漠地帯であり、その中をナイル川が南から北へ向かって流れている。ナイル川は赤道に近いヴィクトリア湖の周辺から生じる白ナイル川とエチオピア高原に水源を持つ青ナイル川が、スーダンのハルトゥームで合流することによって形成され[6]、世界最長の川として知られる。ハルトゥームからエレファンティネ島︵アスワーン︶に至る地域で、岩盤層の変化によって谷幅の狭い6つの急湍︵急流︶が形成されており、エレファンティネ以北では谷幅が平均20キロメートルまで広がり、砂漠地帯と崖で区切られるようになる[7]。このような地勢はエレファンティネからカイロ周辺まで続き、カイロより北ではナイル川が分流して扇状に広がるデルタ地帯が広がっている[3]。古来より、急流によって水運が妨げられるエレファンティネ島南の第1急湍の存在によって、ここがエジプトの南の境とされており[7]、ここより南はヌビアと呼ばれていた。さらにカイロ以南の河谷地帯が上エジプト、カイロ以北のナイル・デルタ地帯が下エジプトと呼ばれ[7]、その自然環境の相違によって異なる生活文化が育まれた。
かつてのナイル川は夏に雨季を迎えるエチオピア高原の雨水で増水した青ナイル川や支流のアトパラ川の影響を受けて、毎年6月の夏至の頃から緩やかに増水し、9月から10月にかけて最高水位を迎えた[8]。渇水時と氾濫時の水位差は7メートルを超え、氾濫の後には上流から運ばれてくる養分に富んだ土が地表を覆った[8][9]。このナイル川の運ぶ﹁黒い土﹂の土地と、砂漠地帯の﹁赤い土﹂の土地の対比は極めて明快であり、古代エジプト時代にはエジプト人たちは自らの国を﹁ケメト︵黒い土地︶﹂と呼び、周辺の砂漠地帯を﹁デシェレト︵赤い土地︶﹂と呼んだ[8]。このナイル川の特性は冬作物であるムギ類の生態に非常に良く適合しており、毎年の洪水の後に播種を行い、収穫が終わった後に畑を放置しておけば再びナイル川の氾濫によって地力が回復した[10]。このことはエジプトの農業の基本的な姿を規定した。ナイル川の氾濫は非常に規則的ではあったが、毎年の水位は異なっていた。水に覆われる面積の大小がそのまま農地面積の大小に繋がり、またナイル川の増水サイクルが生活のサイクルを決定していたため、ナイル川の水位の管理や増水時期の把握は古代エジプト時代から20世紀に至るまで、政府機構の最も重要な関心事であった[11]。古代エジプトのナイル川沿いの神殿にはナイロメーターと呼ばれるナイル川の水位を計測する階段状の計測施設が設けられ、これはローマ時代やイスラーム以降を通じて使用された[12][注釈2]。また、増水時期を把握するための努力から一年を365日とする太陽暦が考案され、これは後にローマの執政官ユリウス・カエサルが導入するユリウス暦の原型となった[13]。エジプトの農業は無論、ただ自然に任せるものではなく、ナイル川の水を有効に利用するために、ベイスン灌漑︵貯留式灌漑︶と呼ばれる農法が発達した[14][10]。これは増水期に水路によって畑に水を導入し、水門を閉じて2か月弱放置した後、減水したナイル川に一気に排水することで肥えた土を畑に蓄えると共に塩分を除去して塩害を防止するものであった[10]。
このような農業は19世紀まで大きく変化することなく継続したが、技術の発達とともにナイル川の人間による管理が目指された。19世紀以降、西欧の技術導入によって、ナイル川流域の運河網の整備やダムの建設が進められた。運河は渇水時のナイル川から水を導入して夏作物︵綿・サトウキビなど︶の生産を行うためのもので、夏運河と呼ばれた[15][16]。また、ダムとそれに付随する水門の建設によってナイル川の水位を人工的に制御することが目指され、19世紀半ばにはデルタ・バラージュが、1902年にはアスワーン・ダムが建設された[17]。これらを通じてエジプトでは一年を通じて収穫が得られるようになっていった。そして1960年代にアスワーン・ハイ・ダムが建設されたことによって、ナイル川の水位は完全に人間の制御下に置かれることになった[18]。今日ではかつてのようにナイル川が氾濫することはもはや無い[18]。これは農業生産を飛躍的に増大させたが、旧来ナイル川によって解決されていた地力の低下や塩害の発生といった問題が生じ、肥料の大量投下が必要になるなどの問題ももたらしている[19]。
現在、エジプトと呼ばれる地域は第三紀末頃に地質運動の中で形成され、550万年前頃に原始ナイル川が形成された[20]。このナイル川流域での人類の足跡が初めて確認されるのは50万年前頃と言われる[20]。当時ナイル川流域を含む北アフリカのサハラ地方には広大なステップ地帯が広がっており、非常に温暖な気候であった[20]。
今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。それのみならずモエリス湖の上方(南方)遡行三日間に及ぶ地域もまた、前述の地方と同様な例といってよい[注釈 3]。
-ヘロドトス『歴史』第2巻§5[22]
前50000年から前30000年頃には、後期旧石器時代の現生人類がナイル河畔や周辺の湖沼沿い、オアシスを移動しながら大型獣を追い、原始的な狩猟採集生活を送っていたと見られる[20][23]。後期旧石器時代は石刃技法による石器製作技術の導入によって特徴付けられる[24]。1万年単位のスパンにおいてはナイル川流域・北アフリカの気候は大きく変動しており、後期旧石器時代には現在と同じように乾燥していて広大な砂漠が広がっていた[24]。このため、後期旧石器時代の遺跡はナイル川沿いの土地に集中している[24]。2003年現在、最も古い後期旧石器時代の遺跡は、紀元前31000年頃のものと見られるエジプト中部のナイル川西岸のナズレット・カタル遺跡︵英語版︶である[23]。
前19000年頃に入ると、上エジプト南部からスーダン北部にかけての地域に様々な石器文化が集中的に出現した[23]。これらの文化にはクッバニーヤ文化︵英語版︶︵ハルファン文化︶、セビル文化︵英語版︶、カダン文化︵英語版︶などと呼ばれるものがある[23]。人々はナマズ・貝類に代表されるナイル川の豊富な漁業資源や水鳥、植物に支えられてかなり安定した生活を営んでいた[25]。この後期旧石器時代のエジプトではアフリカ独自の穀物栽培が行われていたという説もあったが、研究の結果現在ではこれは否定されている[25]。
前12000年頃、アフリカ北東部は﹁第4湿潤期﹂と呼ばれる時期に入った。これは赤道アフリカのモンスーンを伴う降雨帯が南下し、スーダン北部からエジプト南部に至る地域に年間200mm程度の降雨がもたらされるようになった時期である[26]。第4湿潤期のエジプトも決して雨量豊富というわけではなかったが、砂漠地帯の景観は一変し、タマリスクやアカシア、ナツメヤシが繁茂し、ウサギ、ガゼル、オリックスなどが生息するようになった[26][27]。
この時代は考古学的には﹁終末期旧石器時代︵Terminal Palaeolithic︶﹂または﹁続旧石器時代︵Epipalaeolithic︶﹂に分類される時代にあたる[26]。緑化が進んだことで人々の生活圏はナイル川の両岸地帯から離れた地域にまで広がり、西方の元砂漠地帯に居住の痕跡が残されるようになった[26]。こうした居住の痕跡はエジプト南部のナブタ・プラヤ︵英語版︶遺跡やエジプト北部のシワ・オアシス、ファイユームなどに代表される[26]。人々の居住はとりわけ、夏季の降水が水たまりを作る低地や湧き水のあるオアシス近辺に集中していた[28]。ナブタ・プラヤ遺跡とその周辺からは小型の石刃、尖角器を含む石器や骨角器、ダチョウの卵で作られたビーズなどが見つかっている[27]。ナイル川流域においては、ナイル川中流域︵現‥スーダン中部︶に特に多数の居住痕跡が確認されており、﹁カルトゥーム中石器︵Khartoum Mesolithic︶﹂と呼ばれる文化が広がっていた[29]。現‥エジプト地域では南部のナイル川第2急湍付近にアルキン文化︵Arkinian︶とシャマルク文化︵Shamarkian︶が広がっていた。これらナイル川沿いの遺跡では魚類や貝類など、ナイル川の水産資源に著しく依存した生活が営まれていたことが発見された遺物からわかっている[28]。
水量の増したナイル川の水産資源は、未だ農耕を知らない終末期旧石器時代の生活文化においてもある程度の定住的生活を可能とした[28]。この頃にエジプトでは磨製石器や土器の使用が開始されたと見られる[30]。2003年時点において確認されている世界最古の土器は日本の縄文土器などを含む東アジアのそれであるが、エジプトにおける土器の使用はそれに次ぐ世界で最も早期のものであり、終末期旧石器時代の早い段階から確認されている[31]。ただし土器の使用は局地的であり、また発見例は断片ばかりで用途ははっきりしない[31]。終末期旧石器時代の後半にはアフリカ北東部全域に土器の使用が広まったが、それでもなお土器が全く出土しないこの時期の遺跡が多数ある[32]。また、前8千年紀には西アジアでムギ類の栽培が、さらに前7千年紀にはヤギの家畜化が始まったと見られているが[33]、エジプトでもこれと同時期かやや遅れて農耕と牧畜が始まった可能性がある[34]。エジプトの農耕と牧畜が西アジアから導入されたのか、独自に開始されたものなのかは多くの学者たちの関心の的であるが、はっきりとはしていない。ただし、特にウシの家畜化についてはエジプト︵スーダン︶地域で始まった可能性が高いと見られている[34]。確認可能なエジプト最古の穀物栽培の痕跡は前5000年頃に年代づけられるファイユーム出土のエンマーコムギである[33]。これは既に新石器時代の遺跡であるが、より古い時代にナブタ・プラヤ遺跡で栽培が行われた可能性も議論されている[35]。また、アフリカ原生の穀物であるソルガムやミレットが栽培されていた可能性もある[36]。
こうした磨製石器の使用、土器の導入、農耕・牧畜の開始は新石器時代を定義づける要素とされており、それらの導入が新石器時代の開始とみなされているが、全てが同時に、同じ場所で導入されていたわけではなく、新石器時代と旧石器時代の境界は明確ではない。考古学者高宮いづみは概説書において、説明上前6千年紀以降を新石器時代と位置付けている[30][注釈4]。
アフリカ大陸北東部の湿潤期は終了へと向かい、前6000年-前5000年頃から次第に乾燥化が進んだ[37]。次第に進む砂漠化によって、人々はナイル川流域へと集まっていった[37]。古代エジプト文明に繋がっていく様々な文化がこの人口が集中したナイル川流域において育まれた[37]。既に述べたファイユーム地方におけるエンマーコムギの栽培痕跡の登場を始め、この頃にナイル川流域における初の農耕・牧畜文化が登場する[37]。旧石器時代から新石器時代への文化の変遷を連続的に確認することができるのはナブタ・プラヤ遺跡のみであり、ナイル川に登場した農耕・牧畜文化とそれ以前のエジプトの文化の関係性については確実なことはわからない[38]。
前5千年紀に入ると、上下エジプト、更にスーダンで土器の使用や農耕・牧畜の確実な証拠を伴った文化︵新石器時代の文化︶が続々と登場する。最も早期と見られるのは上下エジプト結節点そばのファイユーム地方に登場したファイユーム文化︵Faiyumian︶であり、前5230年-前4230年頃にかけて存続した[39][注釈5]。この文化はナイル川流域における農耕・牧畜の導入の確実な痕跡を残す最古の文化である[47]。下エジプト︵ナイルデルタ︶においては前5000年頃[40]、または前4750年頃[41]にメリムデ文化が登場した。この地域ではナイル川流域最古の定住農耕村落遺跡が発見されている[48]。ファイユーム文化とメリムデ文化の終末期に平行する前5千年紀末にはオマリ文化︵Omari Culture︶が登場している[42]。
上エジプトでは終末期旧石器時代に上エジプトで初の土器を伴う文化であるターリフ文化︵Tafirian、前5200年頃︶が登場しており[49]、新石器時代に入り前5千年紀終わり頃にはバダリ文化︵Badarian culture︶で最古の農耕・牧畜の痕跡が確認される[43]。この文化の遺構では多数の副葬品を伴う集団墓地が営まれた。これはエジプトにおける副葬品を伴う墓地の最古の例であり、後の王朝時代の葬送習慣との関係においても重要である[50]。
他に、終末期旧石器時代に栄えたナブタ・プラヤ遺跡を始め、ファラフラ・オアシスやカルーガ・オアシスなど西部のオアシス地帯でも前6千年紀から前5千年紀にかけて新石器時代の遺跡が発見されており、またヌビア南部︵現‥スーダン中央部︶ではかつてのカルトゥーム中石器文化から発達したカルトゥーム新石器︵Khartoum Neolithic︶文化が普及した[45]。ヌビア北部では前6千年紀にカルトゥーム・ヴァリアント︵Khartoum Variant︶文化、前5千年紀にポスト・シャマルク文化︵Post-Shamarkian︶、前5千年紀から前4千年紀にかけてアブカン文化︵Abukan︶が登場する[45]。これらの文化においては土器の使用とウシを中心とした牧畜が生活の中枢となっていたことが確認されているが、ムギ類の栽培は確認されておらず、その他の農耕の痕跡もはっきりしたものは見つかっていない[45]。総じて、ナイル川上流域では牧畜に比べて農耕の導入は遅かったことが知られ、生活様式が異なっていたと考えられる[51]。
前4千年紀に入ると、下エジプトではマーディ・ブト文化︵Maadi culture︶、上エジプトではナカダ文化、そしてヌビアではヌビアAグループ文化が発達した[52][53]。これらの文化はメソポタミアなど周辺地域との密接な関係の中で発達し、またこの頃から銅製品が登場することから、初期青銅器時代に分類される[54][53]。
私は、描写を控え目にしたいが、つぎのような一都市を獲得した。私がそこで、四千の邸宅、四千の浴場、四万人の人頭税を払うユダヤ教徒、使用料を得られる四百ヶ所の遊興所を得たと述べるだけで、十分でしょう。
-アムル・ブン・アル=アースのアレクサンドリア征服報告[293]
ビザンツ帝国とサーサーン朝が共に戦争で疲弊する一方、アラビア半島ではメッカ︵マッカ︶のクライシュ族に生まれたムハンマドが610年頃、神︵アッラー︶の啓示を受け、次第に神の使徒としての自覚を深めたとされる[294]。彼に同調する人々はアラブ人の中に次第に増えていき、後にイスラームと呼ばれる宗教が形成されていった[294]。メッカで迫害を受けたムハンマドは622年7月16日にメディナ︵マディーナ︶へと遷った。これはヒジュラ︵聖遷︶と呼ばれ、この日はイスラーム暦の起点となっている[295]。ムハンマドが作ったアラブ人たちのイスラーム共同体︵ウンマ︶はメディナの支配権を握るとともに630年にはメッカを征服し[296]、632年にムハンマドが死んだ後はアブー・バクル︵在位‥632年-634年︶、次いでウマル・ブン・ハッターブ︵在位‥634年-644年︶がカリフ︵ハリーファ、代行者の意︶としてウンマの指導を引き継いでアラビア半島全域に支配を確立した[297]。イスラーム共同体は633年夏にはサーサーン朝の中枢部︵イラク、アル=イラーク︶に侵入を開始し、637年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝の軍勢を打ち破りこれを崩壊させた[298]。彼らは同時にビザンツ帝国領であったシリアにも襲い掛かり、641年のヤルムークの戦いの勝利によってビザンツ帝国からシリアを完全に奪い取った[299][300][301]。
アムル・ブン・アル=アース・モスク。フスタートに建設された、エジプトおよびアフリカ大陸における最初のモスク。ただし現在の建物は創建時のものではない。
シリア各地を転戦していたイスラームの司令官アムル・ブン・アル=アースは慎重意見を圧して639年に独断でエジプトへの侵攻を開始した[302][303]。シリアからエジプトへの入り口にあたるペルシウム︵アル=ファラマー︶の城塞はサーサーン朝との戦争の後修繕されておらず、1か月で陥落し[304]、641年4月には現在のカイロ南郊にあったバビロンがムスリムの攻撃を受けた[304][302]。アレクサンドリア主教キュロス︵英語版︶とビザンツ軍司令官テオドロスが救援に向かったが敗れ、キュロスはバビロン市内に封じ込まれテオドロスはアレクサンドリアへ後退した[304]。ビザンツ帝国における宗教対立はサーサーン朝との戦いの時と同じようにムスリムとの戦いにも影を落としていた。エジプトの反ビザンツ派︵反カルケドン派、コプト︶の主教ベニヤミン1世︵英語版︶はムスリムの軍隊を受け入れ、キリスト教徒たちは抵抗しないように事前に指示されていたと言われる[305][306][注釈20]。
キュロスはアラブ人たちへの貢納の支払いに同意し、ムスリム側と会談を行って、提示された和平条件を皇帝ヘラクレイオスに伝えるべくアレクサンドリアに赴いたが、反逆罪に問われ追放された[308]。まもなくバビロンは陥落し、周辺都市も制圧されて凄惨な殺戮と略奪が繰り広げられた[308]。同年にヘラクレイオスが死去し新たにコンスタンス2世︵在位‥641年-668年︶が即位するとキュロスが復帰したが、彼はエジプトの維持を諦めており、定額の貢納、ビザンツ軍の安全なエジプトからの撤退、エジプトの奪回を試みないことなどを約してムスリムと講和を結んだ[309]。同年中にアレクサンドリア︵アル=イスカンダリーヤ︶は引き渡され、ビザンツ帝国はエジプトを喪失した[309][302][310]。
アムル・ブン・アル=アースがバビロン近郊に構築した野営陣地がエジプトの新たな行政的中心として整備された。これはフスタート︵古カイロ、ミスル・アル=アティーカ︶と呼ばれ、その後300年余りにわたってエジプトの首都となった[305]。フスタートという名称は恐らく﹁野営地﹂を意味するギリシア語がアラビア語に転訛したものと考えられ、アラブ人たちの初期の入植地の性質を良く示している[311]。ムスリムはビザンツ帝国の行政機構を踏襲してエジプトから利益を得ようとしたが、アムルが十分な成果を上げていないと見たカリフ・ウマルはアムルを解任し、さらに644年に新たなカリフとなったウスマーン・ブン・アッファーン︵在位644年-656年︶はアムルをエジプトから召喚して乳兄弟のアブドゥッラーをエジプトの統括者に任命した[312]。
645年、ビザンツ皇帝コンスタンス2世はムスリムに反抗するアレクサンドリア市民の請願を受ける形で海路アレクサンドリアへ派兵し、エジプトの奪還を試みた。アルメニア人マヌエルが指揮する300隻の艦隊はアレクサンドリアを奪還したが、ムスリム側はこの事態にアムル・ブン・アル=アースを直ちに復帰させて対応した[313]。両軍は646年にニキウ︵現在のミヌーフィーヤ県にあった都市︶近郊で遭遇戦を戦い、ムスリム側が圧勝した︵ニキウの戦い︵英語版︶︶[313]。これによってビザンツ帝国のエジプト支配は完全に終了し、エジプトは現在に至るまでムスリムを中核とする政権の統治下に置かれている[注釈21]。
アラブ人たちのイスラーム共同体はエジプトから中央アジアに至る広大な地域を征服したが、ウスマーン治世中には征服活動が一段落した。そのためウスマーンは戦争に伴う戦利品の分配という伝統的な兵士たちへの報酬形態を改め、メディナから各地に徴税官を派遣して税を集め、その歳入からアラブ人兵士たちに一定の俸禄︵アター、`Aṭā'︶を支払うという改革を行った[314]。そしてこれを担当する官庁︵ディーワーン、Diwan ︶がメディナに設置された[314]。しかし、急激な制度変更には不満の声が強く、兵士たちは貢献度に見合った報酬の分配を求めて反抗の機運を高めた[314]。ウスマーンが自らの一族︵ウマイヤ家︶に要職を優先的に委ねていたことが不満をさらに増幅した。各地の急進派がメディナに向けて進発し、エジプトのフスタートにいた不平派も同じくメディナへと向かった[314][315]。彼らはウスマーンを殺害し、混乱の中で変わってアリー︵在位‥在位656年-661年︶がカリフ位についた[316]。しかし、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤはウスマーンの報復を誓い、アリーと衝突した。両者は衝突の後、講和を話し合ったが、これに不満を抱いたアリー軍の一部兵士たちが離脱し︵ハワーリジュ派︶、彼らによって661年にアリーが殺害された[317]。この一連の過程は第一次内乱と呼ばれ、アリーの殺害をもって正統カリフ時代の終わりとされる[317]。ウマイヤ家のムアーウィヤは既に660年に自らをカリフと宣言しており、アリーの死亡によってムスリムの大半にカリフとして認められた︵在位‥661年-680年︶[318]。彼は自らの拠点であるシリアのダマスカスに都を定め、以降自らの子孫にカリフ位を世襲させた。これをウマイヤ朝と呼ぶ[318][注釈22]。さらに746年にはウマイヤ家に反対するアッバース家が反乱に踏み切り、750年にはアブー・アル=アッバースがカリフとしてアッバース朝を建設した[321]。
イスラーム時代初期のエジプトはムスリムによる西方へさらなる拡大のための拠点となった[322]。既に第一次、第二次内乱以前から、ムスリムたちはエジプトを拠点にビザンツ帝国領北アフリカ︵イフリーキーヤ︶への遠征を行っていたが[323][324]、内乱終結後には本格化した[324]。また、アレクサンドリアの港はシリア︵レヴァント︶のそれとならんでムスリム艦隊の造船所及び拠点となり、ビザンツ帝国領への攻撃を支えた[325]。
第二次内乱を経てエジプト総督となったアブドゥルアズィーズ︵英語版︶は彼自身の功績と出自︵カリフ・マルワーン1世の息子であり、その次のカリフ・アブド・アルマリクの兄弟︶のために各地の総督の中でも特に強力であり、カリフの意のままにならない存在であった[326]。しかし、彼の死後にはカリフ権力はエジプトを統治する総督権力を分割することを試み、エジプトには軍指揮権を握る総督︵wālī、またはamīr︶と税務長官︵ṣaḥib al-ẖarāg、またはṣaḥib al-ẖarāgi-hā︶が別々に任命された[327]。このような処置は正統カリフ時代から各地で見られるものではあったが[325]、多くの場合それは一時的な処置であり、総督位と税務長官位の並立が長期にわたって継続したことはエジプトにおける大きな特徴である[327]。
ムスリム支配地の拡大に伴って外敵の脅威が和らぐ一方で、エジプト内部ではコプト人の蜂起や、アル=シャーム︵シリア︶・アル=イラーク︵イラク︶の中央政権の政治紛争と結びついた闘争が常態化した。コプト人の蜂起の理由は主として徴税に対する不満であった。エジプトの征服の際、初代総督アムルは比較的寛大な条件の税︵上納金︶の支払いと、それが将来に渡って増額されないことなどを約束してエジプトの民心を掴み迅速な支配の拡大に成功したと伝えられている[328]。エジプトの住民はほとんど全てキリスト教徒︵コプト教徒、コプト人︶であり、彼らはいわゆる契約の民︵ahl al-dhimma︶としてムスリムの﹁庇護下﹂に置かれ、人頭税︵ジズヤ︶と引き換えに自らの信仰を維持することを認められていた。こうした人々はズィンミー︵庇護民︶と呼ばれる[注釈23]。しかし、カリフの関心が主にエジプトの歳入にあったため時代とともに徴税強化・増税が押し進められていった[328][322]。ウマイヤ朝末期には人頭税の回避やアラブ遊牧民の植民増加、婚姻などを通じてイスラームへの改宗が増加し始めた[330]。しかし、アラブ人の統治者は人頭税の減少による税収減を嫌い、むしろイスラームへの改宗を抑制する場合すらあり、改宗者に対しても人頭税の納付を要求することも行った[322]。とはいえ、705年に行政言語がアラビア語に改められ、718年には徴税官吏がムスリムのみに認められるようになるなど、ムスリムの社会的優位は明らかであり[306]、ウマイヤ朝末期にはコプト社会に対するムスリム側の統制は本格化していった[331]。そして、相当数のアラブ人がエジプトに移住し定着したが、原住地との部族的紐帯を維持していたこれらのアラブ人たちの存在は中央政府の政争とエジプトを結び付けた[322]。このような状況を背景に、ウマイヤ朝末期からアッバース朝期にかけて、主に徴税に不満を持つ現地のエジプト人︵コプト人︶やアラブ人部族が反体制派として頻繁に蜂起した[322][332]。
アッバース朝ではカリフ、ハールーン・アッ=ラシード︵在位‥786年-809年︶が息子であるアミーン︵在位‥809年-813年︶とマアムーン︵在位‥813年-833年︶にアッバース朝の領土を分割相続させようとしたことを端緒として、この両者がカリフ位を争う内戦が発生した。エジプトのアラブ人たちも二派に分かれて争い、彼らはその過程で軍事的・政治的地位を上昇させていった[333]。マアムーンの勝利によって内乱が終わった後もエジプトの現地アラブ人たちは内戦中に手に入れた政治的地位を維持し続けた。9世紀初頭に総督位を得たアル=サリ・ブン・アル=ハカム︵英語版︶やアブドゥルアズィーズ・ブン・アル=ワズィール・アル=ジャラウィーなどがこのような人物の代表例である[333]。エジプトのアラブ人たちは徴税を拒否し、さらにアンダルス︵イベリア半島︶から到来したアラブ人︵アンダルス人︶たちがアレクサンドリアを襲うなどして、エジプトの統治機構は混乱した[333]。この一連の政治不安は、特に下エジプトにおいてコプト人社会に大きな打撃を与えた[333]。カリフ・マアムーンはエジプトの統制を回復すべく長期にわたる努力を続け、825/826年にマアムーンによって派遣されたイブン・ターヒル︵英語版︶が、アレクサンドリアのアンダルス人を放逐するとともに、数年がかりでエジプトの秩序回復に成功した[334]。コプト人たちはなお徴税に対する抵抗を続け、830年頃にはこうした抵抗運動の中で最大かつ最後となるバシュムール反乱︵英語版︶が発生したが、カリフ・マアムーン自らが率いた軍による苛烈な破壊によって鎮圧された[335]。
サラーフッディーンの息子たちによって分割されたアイユーブ朝は緩やかな連合国家を形成したが、相互の利害は必ずしも一致せず、十字軍国家も巻き込んでの政争が行われた[400]。そして、ヨーロッパから襲来する十字軍はこの時期、エジプトを主たる攻撃目標とした。1217年から始まった第5回十字軍はエジプトの重要な港湾都市ダミエッタ︵ディムヤート︶を1219年に占領した[401][402]。エルサレムに入城した第6回十字軍︵無血十字軍、1229年︶を経て、第7回十字軍︵1248年-1254年︶を主導したフランス王ルイ9世が1249年にダミエッタを再占領した[401][403]。
戦いの最中、アイユーブ朝のスルターンとしてカイロ政権を率いていたサーリフが陣中で病死︵1249年︶すると、妻のシャジャル・アッ=ドゥッルは軍の士気が崩壊するのを恐れ、夫が生きているかの如く振る舞って文書を発行し続けたという[404]。そしてメソポタミアからサーリフの前妻の息子トゥーラーン・シャー︵在位‥1249年-1250年︶が帰国し、スルターンとなった[404][401]。サーリフが購入し組織したマムルーク軍団︵バフリー・マムルーク軍団[注釈30]︶とそれを指揮するバイバルスらによってフランス軍︵第7回十字軍︶は撃破され外敵の脅威は除かれたが、トゥーラーン・シャーは継母シャジャル・アッ=ドゥッルと折り合いが悪く、またバフリー・マムルーク軍団出身のアミール︵将軍︶たちを次々と逮捕して軍団の弱体化を図った[407]。このためバイバルスらは1250年5月、クーデターを起こしトゥーラーン・シャーを殺害するとともに、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルターンに推戴した[408]。これがマムルーク朝の成立であり、バフリー・マムルーク軍団が政権中枢を占めた初期マムルーク朝時代はバフリー・マムルーク朝とも呼ばれる。またシャジャル・アッ=ドゥッルはイスラーム史上初の女性のスルターンとなった[408][409]。しかし、女性スルターンの誕生には広範な反発が巻き起こり、情勢不穏を感じ取ったシャジャル・アッ=ドゥッルはバフリー・マムルーク軍団の総司令官︵アター・ベグ︶イッズッディーン・アイバクと結婚し、即位から80日後にこの新たな夫にスルターン位を譲渡した[410]。
このマムルーク︵奴隷︶の政権に対しても、国土の正統な所有権を主張するアラブ遊牧民の反乱などが続き政権は安定しなかった[411]。最終的に転機が訪れたのは中央アジアから到来したフレグ率いるモンゴル軍がシリアに侵入した時であった。これを迎え撃つため、バイバルスの指揮でバフリー・マムルーク軍団がシリアに向かい、1260年9月にアイン・ジャールートの戦いで圧勝を収めた[411][412]。この勝利によってマムルーク朝は自らこそがイスラーム世界の真の防衛者であることを内外に強く印象付けることができた[411][412]。また、ファーティマ朝期から継続していたバグダードからの知識人や商人の流入により、マムルーク朝時代にはエジプトがアラブ世界の政治・文化をリードする中心地としての地位を確立していくこととなる。モンゴルに追われたアッバース朝のカリフもマムルーク朝に逃げ込みその庇護を受けた。これはイスラーム世界におけるバグダードからの重心の移動を象徴する出来事であった[413]。
紆余曲折を経つつも、マムルーク朝は血統原理による世襲ではなく、スルターン所有のマムルーク軍人の中から次代のスルターンを選抜するという特異な王位継承制度を発展させていった[414][415]。マムルークはその来歴やスルターン所有のマムルークかアミール︵将軍︶所有のマムルークか、といった要素によって区別された[414][415][416]。マムルークたちは幼い頃に奴隷商人を通じてスルターンやアミールに購入されて軍人養成所に入れられ、武芸学問の教育を受けた[414][415][416]。そして成人後には主人の下で軍人として職務についた[414][415][416]。彼らの養育費は全て主人の負担であり、主人とマムルークの関係は親子のようなものと見なされていた[414]。また、同じ軍人養成所を出た仲間たちは同窓意識︵フシュダーシーヤ︶を強く持ち、マムルーク軍人たちにとって同窓関係は強い意義を持った[414]。スルターン位を継ぐものは慣例としてスルターン所有のマムルークの中から選ばれ、たとえスルターンの子供であってもマムルークとして購入され軍人養成所を出たという経歴を持たないものはマムルーク軍団に入ることができず、スルターン位を継承することもできなかった[414]。このためスルターンの子弟は自由身分出身者やマムルーク子弟からなる格下のハルカ騎士団に所属するか、軍人以外の道を選ばなければならなかった[414]。
16世紀のヨーロッパの銅版画に描かれたマムルーク騎兵。
マムルーク朝の歴代スルターンはそれぞれに子飼いのマムルーク軍団を編成したため、時代の進展とともにマムルークとその子弟の人員は増大し13世紀末頃までにはイクターを付与する土地の枯渇が重大な問題として浮上するようになった[417]。13世紀末にアミールたちの傀儡として即位したスルターンのナースィル・ムハンマドをマンスール・ラージーン︵フサーム︶が排除し[418]、彼によって1298年に検知︵ラージーン検知、フサーム検知︶とイクターの再分配が試みられたが、スルターンのマムルーク軍団に著しく偏重した配分のために他のマムルーク軍団やハルカ騎士団の強い反発を受け、1299年にブルジー・マムルーク軍団の総司令官クルジー︵Saif al-Din Kirji︶らによって1299年にラージーンは殺害された[419]。ブルジー・マムルーク軍団は、スルターン・カラーウーン︵在位‥1279年-1290年︶が編成したマムルーク軍団である[420][注釈31]。その後、スルターン位を追われたナースィルが激しい権力闘争の中で玉座を奪還し、その後も退位と即位を繰り返して3度スルターンとなった。ナースィルもまたイクターの再分配を試み、史上名高いナースィル検知によって抜本的な税制改革を行うとともに、ジズヤ︵人頭税︶のイクターへの組み込みなどとあわせてバフリー・マムルーク朝の国家体制を一新した[421]。
ナースィルの改革によって統治は安定したが、14世紀半ばに入ると黒死病︵ペスト︶の記録的な流行がエジプトを襲った[422][423]。ペストはモンゴルによって中東地方に伝染したとも言われ、当時ユーラシア大陸の広い範囲で大流行となっていた。エジプトでも1347年の最初の流行以降、マムルーク朝の滅亡に至るまで、平均して8-9年に1度の割合でペストの流行が断続的に続き、総人口の4分の1から3分の1が失われたとされる[422][424]。激しい人口減は兵力の減衰、税収の低下という形でマムルーク朝の支配体制を揺さぶり、税収の分配をめぐってスルターンやアミール間での争いも激化した[425]。
ナースィルが1341年に死去した後、スルターン所有のマムルーク軍団から新スルターンを選定するというマムルーク朝の伝統は後退し、ナースィルの血族︵ナースィルの父カラーウーンの子孫︶がスルターン位に就くべきであるという意識が共有された[426]。しかし実態はスルターンは傀儡と化して実権は有力なアミールたちの手に握られるようになり[426]、やがて複数のアミールの合議による集団指導体制が形成された[427]。その後もアミールやマムルーク軍団たちの権力闘争はやむことはなく、クーデターや武力蜂起が繰り返された[428]。やがて、争いの中でブルジー・マムルーク軍団が優勢となり、その長バルクーク︵在位‥1382年-1389年、1390年-1399年︶がスルターンに推戴された[425]。これによりカラーウーンの子孫たちによるスルターン位の継承も終わり、以降の時代はブルジー・マムルーク朝と呼ばれる[425]。また、このブルジー・マムルーク軍団の主要構成員がチェルケス人奴隷であったことから、チェルケス朝とも呼ばれる[425]。
ブルジー・マムルーク朝の立役者となったバルクークが死去した後、マムルーク朝では再びクーデターと反乱が頻発し世相が安定しなかった[425]。バフリー朝時代からのペストの流行は変わらず猛威を振るっており、このことは政治・社会に大きな影響を与えた。スルターン・バルスバーイ︵在位‥1422年-1438年︶はペストの流行を人々の罪に対する神の罰と解釈し、異教徒への課税の強化や戒律の厳格な実践を要求する一方、イクターからの税収減を補うために様々な代替制度が準備された。既に、バフリー・マムルーク朝末期から、有力なアミールたちは減少するイクターの収入を補填するために国家がハラージュ︵地租︶を徴収する直轄地を﹁賃借地﹂として手中に収め、私有地も含めて私財の獲得にまい進していた[429]。スルターンもまた元来はアミールの一員であったことから、このような私財を蓄え、広大な私領を抱えていった[430]。また、バルスバーイは香辛料、砂糖、織物などの専売制を敷き、スルターン自身がこれらの商品をヨーロッパ商人に割高の価格で販売することを定めたことが知られている[431][432]。ブルジー朝期においては、アミール時代からの資産獲得活動の一環として、スルターンという地位を利用しての国家資産からスルターン私財への転用も頻繁に行われた[433]。しかし、スルターン私財の多くが国家資産の転用となったことで、スルターン私財と国家資産の区別は曖昧となり、やがてスルターン私財はスルターン就任者が直接掌握する地位に付属した財源に発展していった[433]。
マムルーク朝が財政難や様々な政治的混乱を乗り切るべく大きな変化を遂げている最中、中東ではオスマン帝国が急速に勢力を拡大し、政治地図を大きく塗り替えつつあった。オスマン・ベイ︵在位‥1299年-1326年︶率いる小集団から出発したオスマン帝国は、15世紀にはビザンツ帝国を滅ぼし︵1453年︶、アナトリア半島のテュルク系諸侯も次々と制圧するとともに、バルカン半島にも勢力を拡張していた。15世紀半ば以降、マムルーク朝支配下にあったシリアにオスマン帝国が侵入するようになり、その軍事的圧力はマムルーク朝の財政難を一層深刻化させた[434]。銃火器を多用するオスマン帝国軍に対抗するためにマムルーク朝でも銃砲の導入が進められたが、騎乗して戦うことを重視したマムルークたちがこれを忌避したため、新編の軍団や傭兵という形で銃砲を装備した歩兵軍団が整備された[435][434]。
また、マムルーク軍団は元来、軍事奉仕の引き換えに割り当てられたイクターによって武装を自弁するのが建前であったが、イクターによる収益の縮小はそれを不可能なものとし、この頃にはスルターンに集中した財政からの俸禄の支払いが重要になるとともに、軍事力は弱体化していた[436][437]。しかしこの俸禄も女性や子供を含む戦闘能力を持たないマムルーク子弟たちの間で単なる収入源として受給するものが増えていた[436]。スルターン、カーイトバーイ︵在位‥1468年-1496年︶の時代には、シリア周辺における相次ぐオスマン帝国との戦闘によって巨額の遠征費用と俸禄が必要とされたため、財政を回復させるべく俸禄の支給対象者の軍事能力審査などの改革を行われ、財政再建が図られた[436][438]。
しかし、最終的にマムルーク朝はオスマン帝国の圧力に対抗することはできなかった。スルターン・ガウリー︵在位‥1501年-1516年︶は1516年8月にシリアのアレッポ北方にあるマルジュ・ダービクの戦いでオスマン帝国のスルターン・セリム1世︵在位‥1512年-1520年︶に敗れて戦死し、次いで最後の抵抗を試みたトゥーマーンバーイ︵在位‥1516年-1517年︶もカイロ近郊で敗れ、1517年1月にオスマン帝国軍がカイロに入場した[437]。トゥーマーンバーイは逃亡を図ったが捕らえられて殺害され、ここにマムルーク朝が滅亡しエジプトはオスマン帝国の一属州となった[437]。
オスマン帝国による征服後、ハーイルバク︵英語版︶︵ハユル・ベイ︶がエジプト統治者として送り込まれたが[439]、ジャーニム・アル=サイフィー︵Jànım al-Sayfì︶とイーナール︵Inàl︶の反乱︵1522年︶、そして﹁反逆者︵al-Khà"in︶﹂ハイン・アフメト・パシャ︵A˙med Pasha︶の反乱︵1523年-1524年︶が相次いで発生した[440]。これを鎮圧した後に、スレイマン1世︵壮麗王︶によって派遣された大宰相パルガル・イブラヒム・パシャが1525年に規定したカーヌーン・ナーメ︵Qānūn Nāmeh、地方行政法令集︶により、諮問会議︵ディーワーン︶およびオスマン帝国軍と現地軍から支援を受けたパシャの称号を持つ総督︵ワーリー︶によってエジプトが統治されることが定められ、安定した[439][441][442][443]。
オスマン帝国によるエジプトの征服は、現地におけるマムルークたちの権力を失わせることはなかった。エジプトの行政機構はイスタンブル︵コンスタンティノープル︶から派遣された官吏によって率いられていたが、官・軍いずれにおいてもマムルークたちから供給された人員が入り込んだ[439]。ブルジー・マムルーク朝をリードしたチェルケス人のマムルークは、引き続きオスマン帝国が編成する現地エジプト軍の主要構成員の1つであり、軍人として高い地位を確保していた[439]。マムルーク朝時代の地方総督︵カーシフ[注釈32]︶による地方統治という基本的な構造はカーヌーン・ナーメの規定でも継承されていた。カーヌーン・ナーメには下エジプトから中部エジプトにかけてと、西部砂漠にカーシフが統治する13の県︵sub-province︶がリストアップされている[445]。アスユート以南の上エジプトではアラブ人のシャイフ、バヌー・ウマル︵Banū 'Umar︶が支配を維持しており、カーヌーン・ナーメの規定では下エジプトのカーシフたちと同じ権能を果たすことが期待されていた[445]。上エジプトの半自律的なアラブ部族の支配は1576年にオスマン帝国が上エジプトの支配者としてベイ︵有力者たちが用いた称号︶を任命するまで継続した[445]。
16世紀末になるとオスマン帝国の財政難やインフレーションの影響を受けて駐留軍への俸給に問題が生じ、不満を強めた兵士たちによる示威行動や騒乱が頻発するようになった[442]。1604年にはエジプト総督イブラヒム・パシャ︵英語版︶が蜂起した兵士たちによって殺害される事態となり[442][446]、1607年6月に新総督となったクルクラン・メフメト・パシャ︵英語版︶は状況を調査した上で、総督殺害に関与した者たちをカイロから追放し、その報酬を没収した[446]。その後の締め付けに対し、1609年1月には広範な反乱が発生し、反逆者たちは自分たちの中からスルターンの選出を行い、大軍を集めた[447]。メフメト・パシャは同年中にこの反乱軍を撃破し首謀者たちを処刑、または追放した[447][442]。この出来事は17世紀の年代記作家イブン・アビー・スルール︵アラビア語版︶によって﹁オスマン帝国による第2のエジプト征服﹂と呼ばれている[448]。
オスマン帝国の支配は再建されたが、17世紀に入ると、ベイと呼ばれる有力軍人たちがエジプト政治における発言権を増大させていった[442]。ベイの地位に就く軍人にはアナトリアやバルカン半島出身の自由身分の軍人や、チェルケス系マムルークらがおり、彼らはマムルーク軍人を中心としたフィカーリーヤと非マムルーク系軍人を中核としたカースィミーヤという2大派閥を形成していった[449]。この両派閥の対立は17世紀のエジプト政界の中核をなした。17世紀前半にはフィカーリーヤの有力者リドワーン・ベイが25年にわたってアミール・アル=ハッジ︵巡礼長官︶を務めて大きな権力を振るい、17世紀半ば以降はイスタンブルから送り込まれたボスニア系のアフマド・ベイがカースィミーヤを率いて優位に立った[449][450]。この間、オスマン帝国が任命するエジプト総督の権威は継続的に低下し続け、しばしば現地の反対によって就任が拒否されたり、現地が推す総督をイスタンブルが追認する事態も発生した。
アリー・ベイ・アル=カービル。
17世紀末になると、エジプトに駐留するオスマン帝国の歩兵軍であるイェニチェリとアザブがカイロの商工業者と結びついて勢力を拡大し、同時にアナトリアから流入した自由身分の兵士たちを吸収して軍事的にも影響力を拡大していった[451]。両軍はそれぞれにフィカーリーヤ、カースィミーヤと結びついて派閥抗争を繰り広げ、1711年には武力衝突の結果カースィミーヤとアザブ軍が勝利した[452]。エジプト総督はフィカーリーヤを支持していたが、この戦いの結果新任の総督に交代させられることとなり、オスマン帝国はこの﹁反乱軍﹂を黙認した[452]。主導権を握ったカースィミーヤでは間もなく内部対立が始まり、この争いに勝利したイスマーイール・ベイはオスマン帝国政府からシャイフ・アル=バラド︵カイロの長︶という称号を授与された[452]。以降、エジプトの政策決定には総督と並んでこのシャイフ・アル=バラドが重要性を増していくことになる[452]。その後、フィカーリーヤが盛り返し、1724年にフィカーリーヤのシルカス・ベイがシャイフ・アル=バラドに昇格したが、彼もまた間もなく地位を追われた。
両派の争いの中で、1730年代に入ると、イェニチェリ軍団内に登場した党派カーズダグリーヤがその勢力を増した。1736年にカーズダグリーヤの主導権を握ったイブラーヒーム・カトフダーは、派閥抗争に最終的な勝利を収めていたフィカーリーヤの勢力を一掃し、カーズダグリーヤによるエジプト支配体制が形成された[453]。イェニチェリ軍団内の派閥から発達したカーズダグリーヤはアナトリア系の自由身分兵士を中核としていたが、政権獲得以降にはその人員構成はチェルケス系マムルークを中心とするものに置き換わっていき、このチェルケス系のマムルーク・ベイたちがエジプトの支配者となった[453]。
18世紀後半、グルジア系のアリー・ベイ・アル=カービル︵英語版︶︵以下、アリー・ベイ︶がカーズダグリーヤの首領アブドゥッラフマーン・カトフダーから主導権を奪いエジプトの支配権を握った[454]。アリー・ベイは19世紀にエジプトの支配権を握るムハンマド・アリーの先駆者とも言われ[455]、1769年に露土戦争︵1768年-1774年︶に苦しむオスマン帝国の弱みを突いてエジプトの独立を図った[456][454]。ロシア帝国と呼応したアリー・ベイはパレスチナで同じように自立を目指していたアクレ総督ザーヒル・アル=ウマル︵英語版︶と結び、旗下の将軍を上エジプトやシリアに派兵して広大な地域を支配下に収めた[454]。しかし、アリー・ベイの構想はシリア遠征軍を任せていた将軍ムハンマド・アブー・アッ=ザハブ︵英語版︶の裏切りによって頓挫した。アブー・アッ=ザハブはオスマン帝国と密約を結んで自らの地位の保証を得ると、エジプトに戻ってアリー・ベイを攻撃し、1773年に完全にこれを打ち破った[457]。その後エジプトの支配者となったアブー・アッ=ザハブも1775年に急死し、その配下であったムラード・ベイとイブラーヒーム・ベイがエジプトの二頭支配体制を確立した[457]。
1786年、オスマン帝国本国で、露土戦争で海軍を率いて活躍した大宰相ジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャが有名無実化していたエジプトに対する中央政府の支配権を回復すべく行動を取った。ハサン・パシャはエジプトに遠征を行ってこれを平定し、一時的にオスマン帝国によるエジプト支配体制を再建することに成功した[458]。だが、露土戦争︵1787年-1791年︶が再び勃発するとハサン・パシャはエジプトを去ることを余儀なくされ、上エジプトに逃れていたムラード・ベイとイブラーヒーム・ベイが再び支配権を回復した[458]。両者は1798年のナポレオン・ボナパルトによるフランス軍のエジプト遠征までエジプトの支配者の地位に留まった。
第二次世界大戦後、エジプトは駐留英軍の撤退とスーダンの支配権を巡ってイギリスと交渉を重ねたが、実質的な進展を得られなかった。そして交渉の最中、新たな問題としてパレスチナ紛争が持ち上がった。
パレスチナ分割決議案におけるユダヤ人地域とアラブ人地域の境界。
20世紀前半のヨーロッパのユダヤ人の間ではパレスチナへの﹁帰還﹂を目指す運動が活発化していた︵シオニズム︶。ナチス・ドイツによる迫害も相まって、イギリスの委任統治下にあったパレスチナには第二次世界大戦前からユダヤ人の移民が相次ぎ、終戦後には独立したユダヤ人国家の創設が計画された[530]。しかしパレスチナではアラブ人が人口多数派を占めており、イギリスがこれを拒否すると、ユダヤ人たちは反英テロ活動を活発化させ、パレスチナは内戦状態に陥った[530]。1947年にはイギリスは自体の収拾を断念し、国際連合の介入を要請した。アメリカ大統領トルーマンらの介在によって1947年11月にパレスチナ分割決議が国連で成立し、パレスチナはユダヤ人地域とアラブ人地域に分割されることが決定された[530]。しかし、この分割案は人口比3割に過ぎないユダヤ人に6割の領土を割り振るという内容であり、アラブ人側が受け入れることは不可能なものであった[530]。
1948年5月14日、イスラエル初代大統領ダヴィド・ベン=グリオンが国連決議に基づいてイスラエル国家の建設を宣言すると、エジプト及び周辺のアラブ諸国︵シリア、ヨルダン、レバノン、イラク︶がイスラエルに宣戦布告し第一次中東戦争が勃発した。しかし、当時のアラブ側は全く戦争準備が整っておらず[531]、エジプトも首相ムハンマド・アル=ヌクラーシー︵英語版︶が準備不足を理由に参戦に反対したが、威信回復を必要としていたファールーク国王は強引に参戦を決めた[532]。だが、ファールークの期待に反してエジプト軍はイスラエル軍に敗退を繰り返し、逆侵攻を受けてシナイ半島を占領された[532]。1949年1月にイギリスがイスラエルに対してエジプト領内からの撤退を要求して最後通牒を突きつけたために、エジプトは領土喪失を回避することができたが、敗北は明らかであり、同年2月参戦諸国の中で最も早くイスラエルとの休戦に追い込まれた[532]。
この敗戦は既に失墜していたムハンマド・アリー朝の権威に回復不能の打撃を与えた。準備不足の中、劣悪な装備と補給体制[注釈35]での戦いを余儀なくされた兵士たちの間では、国王とその延臣たちが軍事費を懐に入れて私腹を肥やしているという噂が広まり、また実際にその種の汚職行為が行われてもいた[533]。戦時中のファールークの行状、特に男子が生まれなかったことを理由に人気の高かった王妃ファリーダと離婚したことや、荒淫を繰り返したこと、さらに終戦後にはユダヤ系女性との再婚を計画し、それが失敗した後には最終的に17歳の少女ナリマン・サディクと再婚して長期の新婚旅行に出たことなどが評判の悪化に拍車をかけた[534]。
第一次中東戦争で前線指揮を執ったガマール・アブドゥル=ナーセル︵ナセル︶などが作る自由将校団のメンバーたちは王制打倒を決意し準備を始めた[533]。同時に政情不安がエジプトを覆った。首相ムハンマド・アル=ヌクラーシーは1948年12月にムスリム同胞団︵1928年3月に小学校教師ハサン・アル=バンナーによって設立されたイスラーム社会の建設を目指す団体︶団員によって暗殺され、次いで首相となったイブラーヒーム・アブドゥル・ハディ︵英語版︶はムスリム同胞団の指導者を逆に暗殺するなどして治安を回復したが、国王周辺の兵器購入スキャンダル調査を行おうとしたために在任7か月でファールークによって解任された[535]。
その後ファールークはナッハースを首相に戻して経済状況の改善を目論んだがうまくいかなかった。支持を失っていたナッハースとファールークは1951年10月以降、スーダンの一方的併合宣言、イギリスとの同盟破棄、駐留イギリス軍に対する補給停止とイギリス製品ボイコットなど反英活動の呼びかけなどを次々に行うという賭けに出た。この反英活動は官民一体となって繰り広げられてエスカレートし、翌1952年にはイギリス軍とエジプト警官隊の間で武力衝突が発生した[536]。この衝突を切っ掛けにカイロでは激しい反英デモが繰り広げられ、やがて暴徒化して市の中心部が破壊された︵黒い土曜日事件︶[537][注釈36]。このデモの最中ですら、国王ファールークは息子の誕生パーティーを開き、そのために軍と警察を王宮の警備に集中させるなど当事者意識の欠如を露呈した[539]。このため国民の反英感情は急速に反国王感情に転じた。暴動翌日にファールークはナッハース首相を解任したが、その後王制下で安定した政権が組織されることはなかった[539]。
王制維持に悲観的になったファールークは資産の一部をスイスに移動させるとともに、軍への統制強化に乗り出した。そして危険分子と見なされた自由将校団のメンバーの一斉検挙を計画したが、これを事前察知した自由将校団は即座にクーデターに打って出た[540]。民衆はこのクーデターを歓迎し、1952年7月26日、王宮がクーデター部隊によって包囲された[541]。クーデター部隊は国民的人気のあったムハンマド・ナギーブ将軍の名前でファールークに同日中に国外へ退去するように最後通牒を突きつけた。ファールークはアメリカ・イギリスの介入を期待したが実現せず、退位書に調印してイタリアに亡命した[542][537]。1953年6月、ナギーブを首班とする革命評議会は正式に王制の廃止を宣言し、ファールーク亡命後暫定的に国王とされていたフワード2世が廃位され、エジプトは共和制に移行した︵エジプト革命︶[537]。
自由将校団は王制打倒では一致していたものの、もともとその統治は暫定的なものとされ、今後の展望について統一された見解を有していなかった[543][544]。ナギーブを首班とする革命評議会は政権獲得後、パシャやベイなどのオスマン帝国時代以来の称号の廃止、土地の所有上限面積を200フェッダン︵1フェッダンはおよそ4200平方メートル︶とする農地法の制定、農地法の規定を超える大地主の所有地の強制買い上げと零細農民への分配などの農地改革、小作料の大幅な引き下げなどを実施した[545][546]。だが、ワフド党をはじめ既存の政党や左翼勢力と方針を統一させることができず、自由将校団はムスリム同胞団を例外として既成政党を解散させ﹁解放機構﹂︵後に国民連合、次いでアラブ社会主義連合と改称︶と呼ばれる統一組織に統合した。同時に軍上級将校の人事一新、暫定憲法の制定も行いナギーブを大統領として、王制時代の体制を一新した[546][543]。
その後、自由将校団内でも、軍の政治関与を排し議会制民主主義による統治を目指したナギーブと軍主導の急進的改革を主張するナーセルが対立した。元々ナギーブの指導は自由将校団内では名目的なものに過ぎなかったが、以前からの個人的人気に加え、表向きの首班として国民的支持を獲得しており、実権を握るナーセルらにとの軋轢も増していた[547]。1954年2月末から3月にかけて、ナーセルはナギーブを大統領職から解任することを宣言したが、世論の強硬な反対を受け撤回に追い込まれた[547]。しかし、1954年10月、ナーセルは自分が代表を務めたイギリスとの交渉でイギリス軍の完全撤退の合意を獲得することに成功し、その祝賀集会で発生したナーセル暗殺未遂事件の対処にも成功したことで圧倒的な人気を獲得した[548]。また暗殺の実行犯がイギリス軍撤退の条件に不満を持つムスリム同胞団の団員であったため、ムスリム同胞団に対して容赦ない弾圧が加えられた。さらにナギーブは暗殺事件に関与したとして大統領職を追われ、自宅軟禁下に置かれた[549]。こうしてナーセル主導権を握り、1956年6月の国民投票︵エジプト史上初めて女性参政権が認められた選挙でもあった︶によって99.9パーセントの支持を受けたとしてナーセルが大統領に就任した[549]。
当時の世界情勢は既にアメリカを中心とする西側諸国とソヴィエト連邦を中心とする東側諸国の冷戦構造下にあった。アメリカ・イギリスは対ソ封じ込めの一環として1955年にイギリス、トルコ、パキスタン、イラン、そしてイラクによる集団防衛体制︵バグダード条約機構︶を組織した[550][551]。ナーセルはこれをヨーロッパによる中東・アラブ世界に対する新たな帝国主義体制と見なし、アラブ諸国中から最初に参加を表明したイラクに対し強い批判を展開した[552]。さらにバグダード条約機構が加盟交渉を進めていたシリアやヨルダンなどに働きかけてこれを阻止するなどしたため、西側との関係が悪化した[550]。同時期にエジプトとアメリカの関係悪化に付け込んだイスラエルがエジプトに武力攻撃と破壊活動を行い、1955年にはガザで大きな打撃を受けた[553]。
このため国防体制の強化・軍事力増強が急務となったが、アメリカからの武器支援を得られる見込みが立たなかったため、ナーセルは独自の道を模索した。大統領就任に先立つ1955年、バンドン会議︵アジア・アフリカ会議︶に出席して新興国のリーダーとしての存在を誇示するとともに、東側のチェコスロバキアからの武器購入︵事実上のソ連からの武器購入︶に合意し、中華人民共和国を承認した[554]。これに反発したアメリカは、エジプトが建設を進めていたアスワン・ハイ・ダムの建設資金融資を撤回した[555][556]。バグダード条約機構の問題、イスラエルとの問題、武器購入、そしてダム建設資金の問題は相互に関連しながら同時並行的に進んだ。そしてアスワン・ハイ・ダム建設資金融資停止はアメリカにとってエジプトに対して教訓を垂れる意図で実行されたものであった[556]。
第二次中東戦争におけるイスラエル軍の侵攻。
これに対しナーセルは1956年7月にスエズ運河国有化を宣言し、西側に従属する意図がないことを示した。スエズ運河はこの時もなお経済的にも政治的にも象徴的かつ重要な要衝であった。経済面では当時ヨーロッパで消費される石油の3分の2がこの運河を通過して運ばれており、政治的にはエジプトに残されていた最後の植民地支配の残滓であった[557]。ナーセルはこれを国有化することでアメリカ・イギリスに挑戦するとともに、年間1億ドル︵当時︶とも試算されたその収益をアスワン・ハイ・ダムの建設資金に充てようとした[557]。アラブ諸国の民衆はナーセルの決定に快哉を叫んだが、西側諸国は大きな衝撃を受け、エジプト資産を凍結した[557]。
スエズ運河に直接権利を持っていたのはイギリスとフランスであった。既にインドをはじめとした主要な植民地を喪失しつつあったイギリスと、同じくインドシナ戦争で苦戦を強いられていたフランスは、植民地帝国の凋落を決定的にするものと見て武力介入を検討した[558]。両国ではナーセルをヒトラーの再来と見なし、スエズ運河問題での妥協はヒトラーに対する宥和政策の轍を踏むものという議論が盛んに行われた[558]。エジプトの強大化を脅威と見なすイスラエルがこれに同調した。3国は秘密裏の交渉によってエジプト攻撃を決定し、1956年10月29日シナイ半島にイスラエル軍が侵攻した[559]。イギリス・フランス両国はイスラエルとエジプトに対して即座の戦闘停止を要求し、エジプトがそれに応じなかったという口実でエジプトへの空爆を開始した[560]。こうして始まった戦いは第二次中東戦争︵スエズ動乱、スエズ戦争︶と呼ばれる。エジプトは軍事的には対抗不能であったが、この戦争が謀略によるものであることは誰の目にも明らかであり、全世界的な批判がイギリスとフランスに対して向けられた。特にこれがアラブ諸国を西側から遠ざけることを懸念したアメリカ大統領ドワイト・アイゼンハワーが、事前通知を得ていなかったことの怒りも手伝い、ソヴィエト連邦とともにイギリス・フランス・イスラエルに対して撤兵を要求したことは各国に衝撃を与えた[561][560]。
3国は撤退に応じざるを得ず、この動乱は中東におけるイギリス・フランスの植民地帝国の終焉を象徴する事件となった[562][563]。エジプトは軍事的には大きな打撃を受けたものの政治的勝利を達成し、スエズ運河の﹁回収﹂という成果を得た。これによってナーセルはヨーロッパの大国と戦った英雄としてアラブ諸国の人々に熱狂をもたらした。ナーセルを熱狂的に信奉するナーセル主義者が各国に登場し、アラブ民族主義者と同調してアラブ統一を目指す動きが活発化していった[564][562]。
ナーセルの時代は現代エジプトの権威主義的政治体制の組織的枠組みが完成した時代と評され、ナーセルが採用した政策は﹁アラブ社会主義﹂とも呼ばれる[565][566]。﹁解放機構﹂は大統領を頂点として労働組合・農協・農民・労働者、村長等名望家、さらに官僚機構まで取り込んだ翼賛体制を形勢し、国政は大統領および革命評議会の軍人による執行部が決定した[566]。1956年に﹁解放機構﹂は国民連合に改称された。1960年代には社会の大半の公共組織に国民連合の構成員が配置され、主要企業の国有化・情報統制の強化・警察国家化が進み、政治的権利が制限される一方で公務員の大量採用や生活物資への補助金の増額などを通じて福祉を提供する権威主義的・社会主義的体制が構築された[567]。
第二次中東戦争の﹁勝利﹂によってアラブの英雄として名声を高めたナーセルは現状に不満を持つ各国のアラブ人たちの大きな期待を集め、外交的にはナーセル政権下のエジプトは中東政治の中心的存在であった[562]。一方で他のアラブ諸国の首脳部にとって国外から影響力を及ぼすナーセルの存在は脅威であり[注釈37]、イラク・ヨルダン・レバノンなどが鋭くエジプトと対立するとともに、その他の国々でもアラブの統一を志すアラブ民族主義者と保守主義者やキリスト教徒、既存の権力者などの勢力の間で紛争が激化した[569]。そして、ナーセルがソ連の影響下にあると判断したアメリカは反ナーセル的なアラブ諸国への支援を強化し、ナーセルを孤立させることを目論んだ[570]。
こうした中、独立間もないシリアでアラブ民族主義の理念の下、エジプトとの国家統合を求める世論が盛り上がった。シリアは独立の経緯から極めて人工的な国境線を持つ国家であり、国家を統合する求心力が弱かったこともこの世論を助長した[571][注釈38]。シリア政府は連邦制による統合を希望したが、不安定なシリア政府を抱え込んだままの政権運営を不可能と考えたナーセルは当初国家統合に否定的であった[573]。しかしバース党指導下のシリア政府が全面的に譲歩しエジプトとの完全統合に合意すると両国の統合が実現し、1958年2月1日アラブ連合共和国が建国された[574][575]。同年3月にはイエメンもこれに参加した[576]。この国家合同は周辺諸国に多大な影響を与え、特にシリアと歴史的に関係の深いレバノンではアラブ連合共和国への参加を求めるアラブ民族主義者とキリスト教徒などとの間で内戦状態となった︵レバノン危機︶[577]。イラクでも1958年にクーデターが勃発し、王制が廃止された︵7月14日革命/イラク革命︶[577]。イラクのアラブ連合共和国への参加が一時議題に上がったものの、政治的リスクが高いと判断したナーセルが消極的であったことや、イラク革命指導部とナーセルが対立したこともあってこれは実現しなかった[577]。それでも、この時期は概ねナーセルとアラブ民族主義の絶頂期であったが、統合された各国の歴史的な一体性の欠如や社会風土の相違は大きく、準備期間の不足もあってアラブ連合共和国の運営は困難を極めた[578]。
第三次中東戦争におけるイスラエルの占領地。
ナーセルによるシリア統治は実質的にエジプトによるシリア支配に他ならず、農地改革や主要企業の国有化といったエジプトと同様の政策は地主層から都市の中小商工業者に至るまで広範な反発を受けた[579][580]。主要企業国有化が発表された1961年7月から僅か2ヶ月後、シリア軍の一部が反乱を起こしシリアの首都ダマスカスを占領した。その後軍全体がこれに同調して新政権を打ち立て、1961年9月29日にアラブ連合共和国からの離脱を宣言した[580]。イエメンも間もなく離脱し、その後内戦に突入した。ナーセルはイエメンの親エジプト派を支援して軍を送ったが﹁エジプトのベトナム﹂と形容されるほど泥沼化し、5年にわたる派兵によってイスラエルとの戦争を凌駕する損害を出すに至った[581][580]。
ナーセルの社会主義政策はエジプトの経済においても成功しているとは言えず、農地改革はむしろ農業生産性を低下させ、企業の国有化は外国からの投資を遠ざける結果となり、イエメンでの戦費負担も加わって国民所得は減少した[582]。こうして緩やかに進展していたナーセルの指導力とアラブ民族主義の衰退は、1967年の第三次中東戦争によって一挙に進んだ。1967年5月、ナーセルはイスラエルとシリアの武力衝突に関連して、第二次中東戦争以来シナイ半島に駐留していた国連監視軍の撤退を要求するとともにイスラエル国境に大軍を展開しティラン海峡を封鎖した[582][583]。これに対しイスラエルは1967年6月5日、機先を制してエジプト軍を攻撃し、6日間のうちにシナイ半島全域を占領した[584]。エジプト軍は戦力の8割を喪失する完敗を喫し、同時に破られたシリア・ヨルダンと共に停戦に応じた[584]。
第三次中東戦争の敗北はナーセルの権威とアラブ民族主義に決定的な打撃を与え、エジプトの政策転換を迫った。ナーセルは東西冷戦から距離を置こうとしていたが、軍の再建が急務となり、ソ連に大きく依存することになった[585]。またイエメンへの軍事介入は終了し、アラブ諸国の保守勢力との対立は解消に向かった[585]。ただし、アラブの英雄としてのナーセルの立ち位置は損なわれたものの、彼はその後もアラブ諸国の重要な指導者の一人であり続け、第三次中東戦争の失地回復を目指しての政治的・軍事的な解決を模索し続けるとともに、1970年9月にはヨルダンとパレスチナ解放機構︵PLO︶間の武力紛争を調停し停戦合意を引き出すなどの業績を残した[586]。この停戦合意の翌日、ナーセルは心臓発作によって死亡した[587]。
ナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート︵サダト︶は、政権獲得直後に国内の親ソ連派を追放して主導権を握り、社会主義的経済政策の転換、西側諸国への接近など、ナーセル体制の切り替えを進めた[588]。アラブ民族主義の退潮傾向を受けて、シリアやイエメンが離脱した後も使用され続けていたアラブ連合共和国という国名はエジプト・アラブ共和国と改称された[589]。
サーダートは第三次中東戦争で占領されたシナイ半島の回復を目指し、再びイスラエルとの戦いに向かった。1973年10月、シリア軍と示し合わせてイスラエルに攻撃を開始し、停戦ラインとなっていたスエズ運河を渡河してイスラエル軍に大きな打撃を与えた︵第四次中東戦争︶[588]。さらに中東各国の支援を取り付けることに成功し、とりわけペルシア湾岸の産油国はイスラエルを支持する国への石油輸出を停止する処置をとったことで各国の経済に大きな影響を与えた︵第一次オイルショック︶[590]。その後イスラエルの反撃が始まり、エジプト・シリアは劣勢に立たされたが、アメリカ・ソ連の介入によって停戦がなされ、初戦での戦果を軸に政治的には一応の勝利を収めることに成功した[590][591]。第三次中東戦争以来閉鎖されていたスエズ運河の通航が再び可能となり、その収入は西側諸国からの外資導入とともに、エジプトの経済再建を後押しした[592]。
エジプト大統領サーダート︵中央︶とイスラエル大統領ベギン︵右︶
サーダートの政策は1960年代から1970年代のエジプト及びアラブ諸国の情勢変化に伴い、アラブ全体からよりエジプト単独の利益を指向したものへと変化した。情勢変化とはサウジアラビアの国力増強とシリアのハーフィズ・アル=アサド︵在任‥1971年-2000年︶政権の成立によって、エジプト以外のアラブ諸国の存在感が強まり、エジプトが主導的な役割を果たすことが難しくなっていたことや、アラブ各国の政権が安定しはじめ、アラブ統一のような超国家的な主張が力を持つのが難しくなり、アラブ民族主義がより緩やかな国際協調という形で表出するようになったことなどである[593]。特にエジプトでは、シリアやイラクのような第一次・第二次世界大戦によって枠組みが形成された人工的な国家︵これらの諸国ではアラブ民族主義は政権の正統性を高める要素でもあった︶と異なり、独立国家としての歴史的一体性が強固であったことが、アラブ民族主義と個別の領域的なナショナリズムとの関係を柔軟なものとした[593]。サーダートはイスラエルとの戦争の負担が大きいことや軍事上の劣勢を理解しており、和平に向けて大きく進路を変更した。
1977年11月、サーダートはイスラエルの国会に出向いて和平を呼び掛けるという行動に出て各国に大きな衝撃を与えた[592][590]。これを契機として実質的な和平交渉へ向けての準備が進められた。これを受けてアメリカ大統領カーターは1978年に両国の仲介を本格化させ、サーダートとイスラエル大統領メナヘム・ベギンをメリーランド州キャンプ・デーヴィッドに招聘し、和平交渉が行われた[591]。長期にわたる交渉の末、エジプト・イスラエル間の相互承認、戦争状態の終結、シナイ半島の返還、スエズ運河の自由航行などを合意した和平が結ばれた︵キャンプ・デーヴィッド合意︶[592]。この和平は中東の政治地図に決定的な影響を与えた。西側諸国はエジプトの決断を歴史的な成果として大きく評価する一方、アラブ諸国ではこれをエジプトの﹁裏切り﹂とみなし激しく非難した[594]。この結果、中東各国でエジプトとの断交や対エジプトの経済制裁が実施され、エジプトはアラブ連盟からも追放された[590]。またこの和平と親西側路線への転換によってエジプトはアメリカから巨額の経済・軍事援助を獲得した[594]。
アメリカからの支援を梃子に政治・経済的自由化を進めたサーダートの政策︵インフィターハ、門戸開放︶は、アラブ諸国からの投資も呼び込み、サービス業を中心に経済を活性化させたが、インフレーションと格差拡大、対外債務の膨張も進行した[595]。また、政治的自由化は形式的なものに留まった。エジプトでは1977年に複数政党制が導入され、アラブ社会主義連合を右派の社会主義自由党、左派の国民統一進歩党、中道派の社会主義アラブ・エジプト党︵英語版︶にそれぞれ改編されたが、翌1978年にサーダートが国民民主党︵NDP︶を組織し社会主義アラブ・エジプト党を吸収すると、アラブ社会主義連合が持っていた大衆動員機能はほとんど国民民主党が引き継ぐことになり、中央政権および地方の議席は実質的にはそれまでのアラブ社会主義連合と同じく、国民民主党が一党支配体制下を敷き続けた[596]。
サーダートに対しては、一族による政権私物化という批判が強まり、またイスラエルの和平には強硬派からの強い批判が続けられていた。そして1981年10月6日、イスラーム過激派のジハード団に所属していた陸軍士官によってサーダートは暗殺された[594][595]。
サーダート暗殺後、ホスニー・ムバーラク︵ムバラク︶が副大統領から大統領に昇格した。ムバーラクはサーダートの政策を継承し、対米協調路線を継続するとともに、破綻したアラブ諸国との関係回復を積極的に進めた[597]。1984年にヨルダン、モロッコとの国交を回復を達成したのを始めとして、シリア・イラクとも関係改善し、1989年までにはアラブ連盟に復帰するとともに、イラク、ヨルダン、北イエメンとともにアラブ協力会議︵ACC︶を結成した[597]。対外債務に圧される国内経済はひっ迫の度合いを強めており、石油価格の低迷の影響を受けて1989年には国家財政は破綻寸前にまで追い詰められた[598]。
1990年、イラク大統領サッダーム・フセインがクウェートに侵攻し、翌年湾岸戦争が勃発した。直前まで自制を求めてイラクに働きかけを行っていたムバーラクはメンツを潰された形となり、ACCも空中分解するなど外交的に大きな打撃を受けた[599]。このためムバーラクはアメリカを中心とする多国籍軍に加わって湾岸戦争に参戦した。戦中・戦後処理においてムバーラクは卓越した外交手腕を発揮し、西側諸国や湾岸諸国から149億ドルに上る債務免除を取り付け、アメリカからの大規模な財政支援・軍事支援も獲得した[599]。湾岸戦争後にはエジプトは中東諸国間やヨーロッパ諸国とアラブ諸国の仲介役として俄かに存在感を強め、アラブ諸国はこぞってエジプトに接近するようになった[599]。
戦争を通じて得た債務免除とアメリカからの支援は危機的状況にあったエジプトの経済問題を解決する切っ掛けとなった。ムバーラクは1991年国際通貨基金︵IMF︶と構造調整政策を導入することを合意し、財政の引き締め、為替の自由化、価格統制の削減、国有企業の民営化、自由貿易の推進と補助金の削減などを次々と推し進めた[600][598]。一連の政策は1990年代中目覚ましい成果を上げ、財政赤字問題をほぼ解決し、国民総生産をほぼ倍増させるなど、IMFからは模範事例として賞賛されるほどのエジプト経済の回復をもたらした[600]。
しかし一方で、これらを実現するために国有企業や国有地払い下げの際に政権に近い実業家に好条件で売却するという手法がとられたことによって、一部の実業家に利権が集中し腐敗が深刻化した[598]。ムバーラクの政策を通じて急成長した実業家たちは、財力を背景に国会議員となり始め、企業経営者の国政参入が進行した[601]。このことは全社会を覆う翼賛組織としての国民民主党の性格を変質させることとなった。実業家の進出によって国民民主党は次第に実業家の利益代表としての﹁ブルジョワ政党化﹂が進むとともに労働組合などが次第に国民民主党から離れていった[601]。2004年に実業家が複数入閣したアフマド・ナズィーフ︵ナジフ︶内閣が誕生すると、実業家自身が自らの企業経営に有利な政治を実施する﹁クローニーキャピタリズム︵取り巻き資本主義︶﹂が進展した[601]。ナーセル以来の翼賛的体制は、︵多分に実効性に問題がある場合はあったものの︶政治的権利の制限と引き換えに国が国民の福祉サービスを提供するという社会主義的な建前に基盤を置いていたが、政治的自由化が全く進展しない中での与党国民民主党のブルジョワ政党化はこうした建前を政府側から破壊するものでもあった[601]。そのため、国民の間で民主化を求めるデモなどが頻発するようになっていった[601][602]。
湾岸戦争の記憶も遠くなった2000年代にはまた、エジプトとアメリカの関係も次第に悪化した。これは中東和平の行き詰まりなどから、アメリカが中東におけるエジプトへの支援の効果に疑問を持ち始めたこと、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件に複数のエジプト出身者が関与していたことから、エジプトに対するアメリカ世論が悪化したことなどが背景にあった[602]。同時多発テロの余波として発生した2003年のアメリカによるイラク侵攻︵イラク戦争︶の際には、ムバーラクは戦争回避を目指して仲介に奔走したが成果はなく、エジプトの無力を内外に印象付ける結果となった[600]。
2000年代のムバーラクのもう一つの関心事は息子であるガマール・ムバーラク︵英語版︶への大統領職の継承であった[601]。ムバーラクは、ロンドンの投資銀行に勤務していたガマールを、2000年に突如、国民民主党指導部書記局委員に任命した[601]。そして有力な実業家であったアフマド・イッズ︵中東最大の鉄鋼会社、イッズ鉄鋼の経営者︶がガマールの側近となり党運営を統括するようになった[601]。彼らによって一層の市場経済化が推し進められた。これを象徴するのが2007年の憲法改正であり、既に形骸化していたナーセル以来の社会主義的理念が排除され、憲法中の﹁社会主義﹂という用語が全て削除された[603]。それが実現されていたかどうかは別として、このような社会主義的理念そのものはエジプト国民の間では広く共有されていたものであったため、憲法改正には批判的な世論が強まった[603]。
2011年9月の大統領選挙におけるガマールへの﹁世襲﹂がほぼ準備されていた状態となったが、これは2011年1月から始まった政変によって覆されることになる[603]。2010年末、アラブ諸国では大規模な民衆運動による政変が連鎖的に発生した。この一連の事件はアラブの春と呼ばれる。端緒となったのは2010年末にチュニジアで始まったジャスミン革命であり、長期政権を維持していたベン=アリー大統領が失脚に追い込まれた。チュニジアで発生した混乱はすぐにエジプトにも伝播した。
2011年1月25日のデモ。
中東調査会の金谷美紗の解説によれば、エジプトにおける﹁アラブの春﹂は2000年代後半の抗議運動の延長線上にあると言われる[604]。2008年には下エジプトにある工業都市マハッラ・クブラーで賃上げや労働条件の改善を求めてストライキを開始したのを切っ掛けとして、各地に労働争議が広まった[604]。この中で、労働運動に連帯を示す若者グループ︵青年勢力[注釈39]︶が国家の腐敗や政治的自由の抑圧に反対を叫ぶようゼネストの呼びかけを行い、これをきっかけに民主化を求める若者団体﹁4月6日運動﹂が結成された[604]。また2009年には税務局従業員が官製労働組合から分離して独自の労働組合を組織し[604]、警察によるハリード・サイードと言う名の青年への拷問事件を切っ掛けに、﹁われわれは皆ハリード・サイード﹂という抗議グループも形成された。これらの抗議運動を通じて国家統制に対して公然と異議・批判を行う空間が形成されていった[605]。このような状況を助長したのがインターネットの普及であり、抗議運動の組織化はFacebookなどのSNSを通じて広まった[605]。
2010年末のチュニジアの政権崩壊とその切っ掛けになった青年の焼身自殺と抗議活動が伝わると、翌2011年にエジプトでも﹁警察の日﹂にあたる1月25日に抗議運動の呼びかけが行われた[605]。この呼びかけを最初に行った人物は無名の若者であり、SNSを通じて急速に広まった。当初はエジプトにおける抗議運動はそれまでと同じように中小規模の集会に過ぎないと予想されていたが、カイロ各地で数百人規模のデモが行われている様子が衛星放送やSNSで拡散されると、既存の抗議グループやその他人々も参加して、瞬く間に全国的な抗議運動を誘発し参加人数が膨れ上がった[606]。やがて野党勢力が加わると共に、ムスリム同胞団が支持層の動員をかけてゼネストを開始し、エジプト政治・経済は麻痺状態に陥った[606]。事態の趨勢に決定的な影響を与えたのは軍であった。1月25日に抗議活動が始まった際、当初ムバーラクは警察に鎮圧を命じていた。だが、警察の統制力では対処不能の事態であることが判明すると軍に出動を命じた。だが軍は鎮圧行動をとらず、1月31日には軍報道官が軍は民衆に武力行使を行わないと述べた[607]。2月1日にはムバーラクは次期大統領選挙への不出馬と息子ガマールへの大統領職継承を断念することを宣言した[607]。そして2011年2月11日、ムバーラクが大統領を辞任することが発表された。それまでに846名の死者と6,400人以上の重軽傷者を出した︵エジプト革命︶[606]。この間の軍の行動はクーデターに類するものと見なされるが、軍がなぜ、またどの段階でムバーラクを見限ったのかは明らかではない[608]。
カイロ、タハリール広場のデモ。2011年2月8日。
ムバーラク体制の打倒のために一斉に行動した各派はその後、紛争・弱体化・影響力の低下の中で多くが雲散霧消していった。ムバーラク政権崩壊後、軍最高評議会︵SCAF︶がエジプトを暫定統治することになったが、若者グループは暫定統治の早期終了と民主化移行を求めて抗議運動を継続した[609]。その後、ムスリム同胞団が軍最高評議会に政治参加を要求し、ムスリム同胞団員のムハンマド・ムルスィーを大統領とする政権が発足したが、ムスリム同胞団のイスラーム主義的政策やイスラーム過激派との関係に批判が巻き起こり、度重なる衝突が発生した[610]。反ムルスィー派の若者グループはムルスィーの辞任を求める﹁タマッルド運動︵反乱運動︶﹂を結成した。2013年6月30日、タマッルド運動の抗議デモがカイロの市街を埋めつくし、軍がこれに支持を与えてクーデターを起こしたことでムルスィーは辞任に追い込まれた︵2013年エジプトクーデター︶[610]。しかし、軍の影響下にある暫定政権がムスリム同胞団の徹底弾圧を開始し、タマッルド運動がそれを支持する方向に向かうと、タマッルド運動で内部分裂が始まり、これを批判する﹁4月6日運動﹂など別の若者グループとの間でも対立が始まった[610]。結局タマッルド運動は空中分解し、さらに暫定大統領アドリー・マンスールを挟んで2014年にアブドルファッターフ・アッ=スィースィーが大統領となると﹁4月6日運動﹂も弾圧され非合法化された[610]。一方で政権側を支持する道を選んだ若者グループは概ね再び翼賛的体制を形成して政府に取り込まれる形となり、独自の政治勢力を形成するに至らなかった[610]。
エジプトにおけるアラブの春の波及と革命の勃発について、その原因や結果についての評価は定まっていない。エジプト革命の原因として、貧困、貧富の格差、社会的不公正[注釈40]、欧米諸国の動向、インターネットなど新たなメディアの普及、人口動静[注釈41]など様々な要因が研究者たちやジャーナリズムによって挙げられている。アラブの春はチュニジアにおいては民主化、シリアにおいては内戦など、それぞれの国に異なる影響を与えているが、エジプトにおいては一連の混乱を経て大統領となったスィースィーが再びナーセル以来の権威主義的体制を構築したと評されている[616]。革命とクーデターに参与した多くの派閥が明確な政治組織の形成に失敗したことに加え、この混乱が経済を混乱させ生活を圧迫したために、抗議運動への国民的支持が尻すぼみになったことがエジプトにおけるアラブの春の帰結をもたらしたとも考えられる[610]。2019年11月現在、エジプトではスィースィー政権が継続している。
(一)^ ナイル川が特定の祭祀場︵神殿︶を持たないことを言う[4]。
(二)^ 最も有名なナイロメーターの1つであるエレファンティネ島のナイロメーターは古代エジプト時代に建造されたものだが、今日残されている目盛りはローマ時代のものであり、1870年代にもムハンマド・アリー朝の副王イスマーイール・パシャによって修復が行われている[12]。
(三)^ エジプトはナイルの賜物というヘロドトスの記述は有名であるが、実際にはこのフレーズはヘロドトスに先立つヘカタイオスによるという[21]。またしばしばエジプトの富の源泉について語るフレーズとしても使用されるが、ヘロドトスの﹃歴史﹄においては、エジプトの国土の成り立ちを説明する地理的な文脈で使用されている。
(四)^ 高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いたジョン・ラボック︵19世紀後半︶による定義では打製石器と磨製石器の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が人類史上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている[30]。
(五)^ ファイユーム地方ではかつてファイユームA文化とファイユームB文化と呼ばれた2つの文化が見つかっていた。20世紀前半には、ファイユーム地方の中心であるカルーン湖の水位が時代とともに低下し続けていたという仮定の下、高地で検出されたファイユームA文化の方が古いと考えられていた。しかしその後、ファイユームB文化の方が終末期旧石器時代に位置付けられるより古い文化であることが判明し、さらにファイユームA文化よりも新しい新たな新石器時代の文化も発見された。このため、かつてのファイユームB文化をカルーン文化︵Qrunian︶、ファイユームA文化をファイユーム文化︵Faiyumian︶、もう1つの新しい新石器時代の文化をモエリス文化︵Moerian︶とする新しい区分が提案された[46]。ただし、ファイユームA文化という名称も今なお使用されている[38]。
(六)^ これらの時代区分の確実な定義、および年代を提示することはほとんど不可能である。現代においてこの問題について各学者個々人の分類が互いに完全に一致することはない。例示した分類はクレイトン[55]やスペンサー[56]、山花[57]、ドドソンおよびヒルトン[58]など、多数の学者が用いているもっとも一般的なものである。だが、それぞれの時代にどの王朝を位置付けるかについてはこれらの学者の間で一致しない。また編年についても時代が遡るほど年代設定の差は大きくなり、例えば初期王朝時代の開始は前3150年に置くクレイトン[59]やドドソン、ヒルトン[60]から、前3000年におく山花[61]まで多岐にわたる。そしてこれらの学者たち自身が編年について確実性がないことを付記するのが普通である。
(七)^ ノモスがいつ頃、どのような存在として整備されたのか、という問題は論争があり現在でも定説は無い。1つは先王朝時代の小規模な﹁国家﹂に原型を持つとするものであり、もう1つは初期王朝時代に王朝の行政組織として整備されたというものである[88]。詳細はノモスを参照。
(八)^ 古王国の期間について主だった見解は以下の通りである。前2686年-前2181年[55][91][92]、前2680年-前2190年頃[90]、前2686年-前2160年頃︵第8王朝まで︶[56]、ドドソンおよびヒルトンはこの時代について遥かに遅い年代を採用しており、第3王朝の開始を前2520年に置き[60]、第6王朝の終焉を前2117年とし、第8王朝の滅亡年は率直に不明とする[93]。
(九)^ いわゆる4.2kイベントによる4200年前の寒冷化は、エジプト固有のものではなく全地球規模のものであった。その程度をどのように評価するかについて差異はあるにせよ、日本の縄文時代[108]やメソポタミアなど[109]、各地における生活様式や集落形態の変化、政治的な変動などをこの出慣例化と結び付けるような研究が複数存在する。
(十)^ 第1中間期の期間と、その時期に属する王朝についても各学者間の想定年代は基本的に一致しない。王朝については大きく第7王朝から第11王朝が第10王朝を征服するまでとする分類と[55][90][111]、第9王朝から第11王朝が第10王朝を征服するまでとする分類[56][58]に大別される。他、第7、第8王朝の分類について特に言及しないような場合もある[89]。フィネガンは第7王朝から第10王朝までを第1中間期として章立てをしているが、大枠としては前者のそれと変わらない[91]。編年については仮に第7王朝からとした場合、概ね前22世紀半ばから前21世紀半ばまでのおおよそ100年強が一般的となる。具体的な編年としては、前2181-前2040年[55]、前2145年頃-前2040年頃[111]、前2190年頃-前2020年頃[90]、前2181年-前2040年[91]、などがある。第9王朝からとする分類としては、第1中間期の編年は前2160年頃-前2040年頃[56]、開始年代不明-前2040年頃などがある[58]。これらの分類・編年の中から﹁正しいもの﹂を提示することはできない。
(11)^ エジプト学における﹁アジア人﹂と言う用語は通常、パレスチナやレヴァント、シリアの住民を指す。
(12)^ アジア系の首長はエジプト人たちから﹁ヘカウ・カスウト︵異国の支配者たち︶﹂と呼ばれ、彼らがエジプトで作り上げた勢力を指すヒクソスという名称はこれに由来する
(13)^ プトレマイオス朝時代の神官で、今日でも使われる30あまりの古代エジプト王朝区分を確立したマネトは、﹃エジプト史﹄において第16王朝の王を﹁羊飼いたちの王32人﹂としており、このために第15王朝を大ヒクソス、第16王朝を小ヒクソスと表現して第16王朝もヒクソスの政権として扱われる場合もある[130]。ただし、マネトの﹃エジプト史﹄現存しておらず、引用によってのみ伝わり、セクストゥス・ユリウス・アフリカヌス︵英語版︶による引用では前述の通り﹁羊飼いたちの王32人﹂であるが、カエサレアのエウセビオスによる引用では﹁テーベの王5人﹂となっている。近年では第16王朝についてはテーベのエジプト第13王朝の後継政権であるとする説が唱えられており[135]、概説書においても第16王朝をテーベの政権とするようになっている[136]。詳細はエジプト第16王朝を参照。
(14)^ 新王国時代に入るとエジプトの編年情報はかなり増加し、学者間の時間的差異も数十年程度まで縮小する。新王国時代を築いたイアフメス1世の即位年としては、前1570年[55]、前1552年[111][91]、前1549年[58]などがある。
(15)^ ただし、近年では北レヴァントのルウィ語の象形文字碑文において﹁パリシュティン﹂などの地名が確認されており、語形の類似からペリシテ人の名を冠した地名であるとも考えられる[165]。
(16)^ 伝統的にプトレマイオス1世から3世までの時代をこの王朝の最盛期とし、プトレマイオス4世以降徐々に衰退と縮小を続けたとするのが一般的なプトレマイオス朝に対する認識である[213][214]。しかしこのような認識には疑問も呈されている[213]。詳細はプトレマイオス朝を参照。
(17)^ エジプト総督位が元老院議員ではなく騎士に委ねられた理由は不明瞭である。コルネリウス・タキトゥスやカッシウス・ディオらはローマ市の穀物供給におけるエジプトの重要性をその理由として説明しているが、エジプトがローマの主要穀物供給元になるのはウェスパシアヌス帝︵在位‥69年-79年︶時代のことであり、アウグストゥス時代に当てはまらない[232]。従ってこの説明はタキトゥスとディオが自分の生きた時代の状況を、およそ100年前のアウグストゥス時代に投影したものであると考えられる[232]。新保良明はこれについて、元老院議員の多くが属州勤務のためにローマ市外での勤務を余儀なくされる中、規模の大きなエジプト属州に元老院議員の総督や行政官を置くには人的資源に対する圧迫が大きかったためであると想像している[230]。ローマ帝国の官僚機構は帝政初期において極めて小規模で、2世紀半ばにおいても総人員数は300名に満たなかった[233]。この小規模な官僚組織による統治を可能としていたのが、周辺村落を従える現地の都市を行政単位として内政全般を担当させるという属州統治のあり方であったが、自律的な都市が未発達であったエジプトではこのような運営の在り方は不可能であったという[230]。
(18)^ ファラオの名を囲む枠
(19)^ 当時のキリスト教においては神がいかなる存在であるか、ということが重要な論争点であり、第1回ニカイア公会議以来の議論によって4世紀末までには父︵神︶と子︵キリスト︶は同質であり、父・子・聖霊は一つの神格の三つの位格が現れたものであり、その本質において同一であるとする三位一体説が正統教義として確立されつつあった[268]。しかし、神とキリストの同一性が確立された後も、﹃聖書﹄に現れるキリストの﹁神性﹂と﹁人性﹂をどのように理解するかを巡っての論争が継続していた。
(20)^ ビザンツ側はサーサーン朝との戦争の最中、キリスト教徒間の宗派的対立を解消すべく、新たにカルケドン信条と単性説を折衷させた単意論︵キリストは神性と人性を有するが一つの行動様式を有する︶を提唱してエジプトへの普及を図り、アレクサンドリア主教キュロスがその任務を委ねられていた。しかしエジプトの反カルケドン派の修道士たちは単意説をカルケドン信条と同一視してこれを拒否し、キュロスは厳しい弾圧によってこれに応じた[307]。キュロスの弾圧の過酷さのために、後世のコプト派キリスト教徒たちの伝承ではキュロスはキリスト教徒ではないとされた[305]。
(21)^ 杉村によれば、642年にはビザンツ帝国のエジプト支配は放棄されていたが、﹃テオファネス年代記﹄には653/654年の項までアレクサンドリア主教位の在任期間が記載されており、ビザンツ帝国がエジプトを断念して完全に放棄したのは655年であるという[310]。
(22)^ 683年にウマイヤ朝によるイスラーム共同体統治に反旗を翻したイブン・アッズバイルがカリフ位を宣言し、ムスリム支配地のほとんどの支配権を得たことで始まった第二次内乱︵683年-692年︶を経て、ウマイヤ家のマルワーン1世︵在位‥684年-685年︶とアブド・アルマリク︵在位‥685年-705年︶が支配権を確固たるものとし、以降のウマイヤ朝はマルワーンの子孫︵マルワーン家︶出身のカリフによって統治されていくことになる[319]。その後エジプトの支配はマルワーン1世の息子アブドゥルアズィーズ︵英語版︶に委ねられた[320]
(23)^ 厳密には、ジズヤ︵人頭税︶やハラージュ︵地租︶といった異教徒に対する課税がエジプト征服当初の段階で後世のように体系化されていたわけではない。初期イスラーム時代にはこれらの用語の定義はかなり曖昧で、﹁頭のハラージュ﹂や﹁土地のジズヤ﹂などの用語も見られ、単なる﹁貢納﹂という意味合いでも使用されていた[329]。さらにイスラームの征服後にギリシア語で書かれたエジプトの税務文書では、ジズヤのギリシア語訳としてディモウスタ︵δημόστα、国税/現金税︶という語が使用されており、このことからジズヤは物品税に対する﹁現金税﹂という意味でも使用されていたと見られる。こうした用法はウマイヤ朝期半ばまで継続しており、イスラーム法的なハラージュやジズヤの体形が整備されたのは8世紀以降となる[329]。ここでは簡単のため、こうした税体系の変遷は取り扱わない。
(24)^ ここでいう﹁白人﹂という用語は現代的な意味でのいわゆるヨーロッパ人の人種集団を指す白人という用語とは異なる。この﹁白人奴隷兵士﹂の出自は中央アジアのテュルク人︵トルコ人︶、モンゴル人や東欧のスラヴ人、ギリシア人らが含まれた。
(25)^ ここで言う﹁トゥルク︵Turk︶﹂は言語系統の分類による現代の学術用語であるテュルク人、あるいは﹁トルコ人﹂と完全に一致する概念ではない。当時のアラビア語文書において﹁トゥルク﹂という言葉は使用言語に関わらず中央アジア的な諸部族民を指して使用されていたと見られる[337]
(26)^ マムルーク、グラーム、アトラーク、それらと関わるマワーリーなど、イスラーム世界の奴隷軍人に関わる用語の厳密な定義、分類、用語法の問題は極めて複雑であるため、本項では白人奴隷軍人を便宜上全てマムルークと呼称する。この問題に関する詳細な整理・解説は関連する記事及び、佐藤 1991, 清水 2005を参照されたい。
(27)^ 同一の書籍内であるが、三浦 2002, p. 272ではムハンマド・ブン・トゥグジェ﹁イラン系﹂、私市 2002, p. 208ではイフシード朝は﹁トルコ系﹂と書かれている[351][352]。Britanicaによれば、ムハンマド・ブン・トゥグジェは中央アジアのソグディアナ出身の将軍であるが、イフシード朝は﹁Turkish dynasty from Fergana in Central Asia﹂と描写されているため、ここでは﹁テュルク﹂とした[353]。
(28)^ 当時のキリスト教徒︵コプト教徒︶はなお人口の40パーセントを占めていたとも言われる[359]。
(29)^ ファーティマ朝時代にもイクターの授与は行われており、既に軍人や官僚によるイクターの保有は一般化していた。しかし同一の名前で呼ばれてはいるものの、ファーティマ朝のイクター制はイラク地方で発達したそれとは運用体系を異にしており、質的に異なっている。またイクターの対象となった土地もエジプト全体の土地面積に対して小規模であった[392]。
(30)^ サーリフが購入した、主にテュルク人︵トルコ人︶とモンゴル人からなるマムルークの軍団はナイル川のローダ島に兵舎が遷された後、バフリーヤと呼ばれるようになった。これはナイル川を﹁バフル︵海︶﹂と呼んだことから来た名前である[405][406]。
(31)^ チェルケス人を主体として編成された軍団で、カイロの城塞︵ブルジュ︶の兵舎で育成されたことから﹁ブルジーヤ﹂と呼ばれた[420]。
(32)^ カーシフは武官職でありマムルーク朝から引き継がれた制度である。元来はジスル︵灌漑土手︶の管理を行ったが、マムルーク朝時代のうちにワーリー︵地方総督︶の職務であった治安維持や徴税も担当するようになっていた。オスマン帝国においてもジスルの管理、徴税、アラブ人部族の取り締まりなどがカーシフの職務であることがカーヌーン・ナーメによって規定されている[444]。
(33)^ ムハンマド・アリーの内政政策全般についてはムハンマド・アリーの記事を参照。また、簡潔にその全体像を描いているものとして、加藤 2013を参照されたい。
(34)^ オラービー革命によって解体されたエジプト軍はその後イギリスの主導で再建され、総司令官職はスーダン総督を兼任するイギリス軍人が担当するようになっていた[517]。
(35)^ エジプト軍は長期に渡り実質的にイギリス軍の管理下にあり、単独での実戦はマフディーの乱以来であった[533]。
(36)^ このデモの暴徒化は、あらかじめ火炎瓶や松明が支給されていたことから事前に準備されていたものであるといわれている。計画主体としてはムスリム同胞団やエジプトの共産化を図る東側諸国の諜報組織などの説があるが詳らかでない[538]。
(37)^ ロジャー・オーウェンはエジプト外のアラブ諸国首脳の懸念を次のように説明している。﹁当時、エジプトの経済力と軍事力はアラブ世界のなかで抜きん出ていたため、仮にアラブの統一が実現したとしても、それは不可避的にエジプト優位で進められることを意味していた。だが、これこそが他のアラブ諸国の指導者が懸念していた点であった。特に、エジプト政府が各国の指導者に配慮することなく各国の人々を動員しようとしたために、各国の指導者は懸念を強めていった[568]。﹂
(38)^ 歴史的にシリアと呼ばれる地域は元来現在のイスラエル、ヨルダン、レバノンなどを内包する広大な範囲であった。しかし第一次世界大戦後の戦後処理によって後にシリアとなる地域はフランスが、その他の地域はイギリスが統治することとなり、この時に引かれた人工的国境線を独立したアラブ諸国が引き継いでいた。加えて、オスマン帝国時代からシリアには全体を統合するような︵事実上エジプトの支配層を形成したマムルーク・ベイのような︶強力な政治主体が形成されていなかった[572]。
(39)^ この種の若者グループをどのように呼称するかは定まった用語がない。﹁青年勢力﹂﹁若者グループ﹂﹁若年層﹂などの用語で説明される。
(40)^ エジプト革命の原因として貧困と貧富の格差、社会的不公正は真っ先にあげられる要素である[611]。山口直彦はムバーラク政権下の貧富の格差について、人口の0.2パーセントが国富の8割を握っているという推計︵2003年︶を紹介し、富の集中は腐敗を糾弾されたムハンマド・アリー朝末期よりも進展していることになるという見解を出している[612]。一方で加藤博は世界銀行の統計をもとに、1990年代から2010年までエジプトは所得格差の小さい国であると評価している[613]。しかし同時にゲーテッドコミュニティの普及やアシュワラーヤと呼ばれる貧困層の﹁不法﹂住宅街の拡大などとの関連から、こうした統計データの信憑性に問題がある可能性のあることを指摘し、統計の分析から国民の実質生活水準は大半の層で低下傾向にあった可能性を示している[614]。
(41)^ エジプトは女性を含めて教育水準の向上した現在もなお出生率が高く、多くの若年人口を抱える国である︵特に上エジプトは出生率が高い︶。また、ナイル川の存在によって中東諸国の中でも特に多くの農村人口を持つ国でもある。こうした中、ムバーラク政権下の経済成長を大きく牽引したのが労働の非正規化が起こりやすいサービス業であったことや、カイロを中心とする製造業の雇用吸収能力が低下したことは、各地で教育水準の高い若年失業者の増大という社会問題を引き起こした[615]。
(一)^ 加藤 2008, p. 5
(二)^ 加藤 2008, pp. 84-89
(三)^ ab加藤 2008, p. 33
(四)^ ナイル讃歌, 屋形・杉訳, 注釈1 p. 617
(五)^ ナイル讃歌§1, 屋形・杉訳, pp. 616-619
(六)^ 屋形 1998, p. 373
(七)^ abc屋形 1998, p. 374
(八)^ abc屋形 1998, p. 377
(九)^ 加藤 2008, p. 35
(十)^ abc屋形 1998, p. 379
(11)^ 加藤 2008, p. 39
(12)^ ab古代エジプト百科事典, pp. 374-375, ﹁ナイロメーター﹂の項目より
(13)^ 近藤 1997, p. 5
(14)^ 加藤 2008, p. 41
(15)^ 加藤 2008, p. 43
(16)^ 屋形 1998, p. 380
(17)^ 加藤 2008, p. 44
(18)^ ab加藤 2008, p. 46
(19)^ 加藤 2008, pp. 47-49
(20)^ abcd古谷野 1998, p. 2
(21)^ ヘロドトス﹃歴史﹄, 松平訳, p. 414, 訳注4
(22)^ ヘロドトス﹃歴史﹄第2巻§8, 松平訳, p. 164
(23)^ abcd高宮 2003, p. 23
(24)^ abc高宮 2003, p. 22
(25)^ ab高宮 2003, p. 24
(26)^ abcde高宮 2003, p. 25
(27)^ ab近藤 1997, p. 34
(28)^ abc高宮 2003, p. 26
(29)^ 近藤 1997, pp. 37-39
(30)^ abc高宮 2003, p.29
(31)^ ab高宮 2003, p. 30
(32)^ 高宮 2003, p. 31
(33)^ ab高宮 2003, p. 32
(34)^ ab高宮 2003, pp. 32-38
(35)^ 高宮 2003, p.33
(36)^ 高宮 2003, p. 34
(37)^ abcd高宮 2003, p.39
(38)^ ab近藤 1997, p. 43
(39)^ ab高宮 2003, p. 41
(40)^ ab大城 2009, p. 17
(41)^ ab高宮 2003, p. 51
(42)^ ab高宮 2003, p. 52
(43)^ ab高宮 2003, p. 57
(44)^ 近藤 1997, p. 41
(45)^ abcd高宮 2003, p. 62
(46)^ 高宮 2003, p. 40
(47)^ 高宮 2003, p. 43
(48)^ 高宮 2003, p. 48
(49)^ 高宮 2003, p. 55
(50)^ 高宮 2003, p. 58
(51)^ 高宮 2003, pp. 62-63
(52)^ 高宮 2003, p. 64
(53)^ ab大城 2009, p. 23
(54)^ 高宮 2003, pp. 64-65
(55)^ abcdefghiクレイトン 1999
(56)^ abcdefgスペンサー 2009
(57)^ ab山花 2010
(58)^ abcdefドドソン, ヒルトン 2012
(59)^ abクレイトン 1999, p. 19
(60)^ abドドソン, ヒルトン 2012, p. 44
(61)^ 山花 2010, p. 9
(62)^ 高宮 2003, p. 80
(63)^ ab大城 2009, p. 30
(64)^ 高宮 2003, p. 72
(65)^ abcd大城 2009, p. 24
(66)^ 高宮 2003, p. 76
(67)^ ab高宮 2003, p. 199
(68)^ 近藤 2003, p. 218
(69)^ abcd高宮 2006, pp. 36-37
(70)^ ab馬場 2017, p. 70
(71)^ 大城 2009, pp. 48-49
(72)^ 馬場 2017, p. 69
(73)^ クレイトン 1999, pp. 21-23
(74)^ ab大城 2009, p. 50
(75)^ 大城 2009, p. 52
(76)^ 大城 2009, p. 53
(77)^ 大城 2009, p. 64
(78)^ フィネガン 1983, p. 204
(79)^ 高宮 2003, p. 244
(80)^ ab大城 2009, p. 78
(81)^ 近藤 1997, pp. 49-54
(82)^ 近藤 1997, p. 54
(83)^ フィネガン 1983, p. 218
(84)^ 古代エジプト百科事典, pp. 469-470, ﹁プタハ﹂の項目より
(85)^ 馬場 2017, p. 238
(86)^ 高宮 2006, pp. 49-52
(87)^ 馬場 2017, p. 80
(88)^ ab古谷野 2003, p. 260
(89)^ abc馬場 2017
(90)^ abcd高宮 2006
(91)^ abcdeフィネガン 1983
(92)^ 古代エジプト百科事典, pp. 181-183, ﹁古王国﹂の項目より
(93)^ ドドソン, ヒルトン 2012, p. 70
(94)^ 高宮 2006, pp. 170-173
(95)^ 畑守 1998, p. 216
(96)^ ab屋形 1998, pp. 394-395
(97)^ 屋形 1998, p. 398
(98)^ 高宮 2006, p. 145
(99)^ ab屋形 1998, p. 399
(100)^ 畑守 1998, pp. 217-218
(101)^ フィネガン 1983, p. 251
(102)^ 屋形 1998, p. 408
(103)^ ab畑守 1998, p. 229
(104)^ 屋形 1998, p. 414
(105)^ abc馬場 2017, p. 110
(106)^ フィネガン 1983, p. 255
(107)^ ab高宮 2006, p. 59
(108)^ 羽生 2016, p. 42
(109)^ 大沼 2013, p. 113
(110)^ ab屋形 1998, p. 423
(111)^ abcde屋形 1998
(112)^ 馬場 2017, p. 116
(113)^ スペンサー 2009, p. 44
(114)^ 馬場 2017, p. 118
(115)^ フィネガン 1983, p. 227
(116)^ abc古代エジプト百科事典, pp. 42-44, ﹁アムン、アムン=ラー﹂の項目より
(117)^ 屋形 1998, pp. 444-450
(118)^ フィネガン 1983, pp. 283-285
(119)^ 屋形 1998, pp. 424-427
(120)^ 近藤 1997, p. 96
(121)^ フィネガン 1983, p. 262
(122)^ abc屋形 1998, pp. 427-430
(123)^ ab近藤 1997, p. 98
(124)^ 馬場 2017, pp. 121-123
(125)^ 近藤 1997, p. 99
(126)^ 屋形 1998, p. 442
(127)^ 屋形 1998, pp. 436-442
(128)^ 近藤 1997, p. 116
(129)^ 近藤 1997, p. 117
(130)^ ab屋形 1998, p. 452
(131)^ ab近藤 1997, pp. 117-119
(132)^ 馬場 2017, pp. 126-130
(133)^ abc馬場 2017, pp. 130-131
(134)^ セーテルベルク 1973, pp. 149-150
(135)^ ドドソン, ヒルトン 2012, pp. 116, 285
(136)^ 馬場 2017, p. 132
(137)^ 馬場 2017, p. 133
(138)^ 屋形 1998, p. 454
(139)^ 屋形 1998, p. 455
(140)^ 屋形 1998, pp. 457-458
(141)^ 屋形 1998, p. 459
(142)^ 屋形 1998, p. 465
(143)^ クレイトン 1999, p. 140
(144)^ クレイトン 1999, p. 147
(145)^ 屋形 1998, pp. 480-497
(146)^ クレイトン 1999, p. 166
(147)^ クレイトン 1999, p. 197
(148)^ 屋形 1998, pp. 466-470
(149)^ 山花 2010, pp. 21-23
(150)^ 屋形 1998, pp. 505-509
(151)^ 山花 2010, pp. 58-61
(152)^ 前田ら 2000, p. 83
(153)^ クレイトン 1999, p. 244
(154)^ フィネガン 1983, pp. 302-305
(155)^ 山花 2010, p. 27
(156)^ クレイトン 1999, p. 151
(157)^ クレイトン 1999, p. 159
(158)^ 屋形 1998, p. 510
(159)^ 近藤 1997, p. 133
(160)^ 周藤 2005, p. 40
(161)^ クライン 2018, pp. 161-212
(162)^ 屋形 1998, p. 513
(163)^ ab屋形 1998, pp. 514-515
(164)^ 小川 1997, p. 48
(165)^ ab津本・小野塚 2017, pp. 61-63
(166)^ クレイトン 1999, p. 207
(167)^ 屋形 1998, p. 522
(168)^ 屋形 1998, p. 526
(169)^ ab山花 2010, p. 113
(170)^ スペンサー 2009, p. 55
(171)^ クレイトン 1999, p. 225
(172)^ ab馬場 2017, p. 170
(173)^ 山花 2010, p. 122
(174)^ abクレイトン 1999, p. 236
(175)^ 山花 2010, p. 124
(176)^ 山花 2010, p. 125
(177)^ 山花 2010, p. 126
(178)^ フィネガン 1983, p. 374
(179)^ 山花 2010, p. 127
(180)^ 山花 2010, p. 128
(181)^ 渡辺 1998, p. 349
(182)^ 渡辺 1998, p. 359
(183)^ ab渡辺 1998, p. 365
(184)^ 山花 2010, p. 135
(185)^ クレイトン 1999, p. 251
(186)^ ab山花 2010, p. 138
(187)^ 山花 2010, p. 140
(188)^ 山花 2010, p. 142
(189)^ クレイトン 1999, p. 254
(190)^ 小川 1997, p. 126
(191)^ フィネガン 1983, p. 386
(192)^ 山花 2010, pp. 142-143
(193)^ abクレイトン 1999, pp. 258-262
(194)^ 松本 1998, pp.18 , 42 , 98 , 138 , 278
(195)^ 森谷 2000, p. 7
(196)^ 桜井 1997, p. 191
(197)^ 森谷 2000, p. 6
(198)^ 山花 2010, p. 158
(199)^ 桜井 1997, p. 193_194
(200)^ ウォールバンク 1988, pp. 61-81
(201)^ シャムー 2011, pp. 59-95
(202)^ ウォールバンク 1988, p. 76
(203)^ 山花 2010, pp. 160-162
(204)^ 周藤 2014, pp. 136-145
(205)^ 山花 2010, p. 201
(206)^ 古代エジプト百科事典, p. 178-179,﹁交易﹂の項目より
(207)^ 山花 2010, p. 202
(208)^ シャムー 2011, pp. 507-509
(209)^ ワインバーグ 2016
(210)^ ワインバーグ 2016, p. 61
(211)^ ワインバーグ 2016, pp. 105-109
(212)^ ab山花 2010, pp. 174-178
(213)^ ab波部 2014, p. 18
(214)^ 山花 2010, p. 169
(215)^ シャムー 2011, p. 220
(216)^ クレイトン 1999, p. 276
(217)^ シャムー 2011, p. 224
(218)^ シャムー 2011, p. 225
(219)^ 山花 2010, p. 183
(220)^ シャムー 2011, p. 230
(221)^ 山花 2010, p. 186
(222)^ abクレイトン 1999, p. 278
(223)^ シャムー 2011, p. 232
(224)^ 山花 2010, p. 185
(225)^ クレイトン 1999, p. 279
(226)^ abタキトゥス﹃年代記﹄第2巻§59, 国原訳, p. 145
(227)^ abc高橋 2015, p. 27
(228)^ 高橋 2010, p. 323
(229)^ ab新保 2016, p. 25
(230)^ abc新保 2016, p. 26
(231)^ ab拓殖 1982, p. 37
(232)^ abc新保 2016, pp. 47-48, 注釈18番
(233)^ 新保 2016, p. 6
(234)^ 拓殖 1982, p. 38
(235)^ 新保 2016, pp. 37-38
(236)^ ab拓殖 1982, p. 39
(237)^ ロイ 2019, p. 34
(238)^ abc山崎 1997, p. 230
(239)^ 中村 1998, p. 305
(240)^ 中村 1998, p. 306
(241)^ ab拓殖 1982, p. 41
(242)^ ガーンジィ 1998, p. 291
(243)^ ガーンジィ 1998, pp. 284-290
(244)^ ガーンジィ 1998, p. 331
(245)^ ガーンジィ 1998, pp. 331-333
(246)^ ab戸田 2017, p. 26
(247)^ 松本 2009, p. 43
(248)^ 荒井 1982, p. 165
(249)^ 荒井 1982, p. 163
(250)^ abc戸田 2017, p. 27
(251)^ 三代川 2017, p. 20
(252)^ 松本 2009, p. 44
(253)^ ab戸田 2017, p. 28
(254)^ abc戸田 2017, p. 29
(255)^ 三代川 2017, p. 23
(256)^ 三代川 2017, p. 24
(257)^ 馬場 2017, p. 174
(258)^ ab屋形 1998, p. 531
(259)^ ショー 2014, pp. 199-200
(260)^ abcショー 2014, p. 202
(261)^ ショー 2014, p. 203
(262)^ ウィルキンソン 2002, p. 214
(263)^ 井上 2015, pp. 54-105
(264)^ 南雲 2016, pp. 155-187
(265)^ ab尚樹 1999, p. 107
(266)^ ab尚樹 1999, p. 108
(267)^ ウィルケン 2016, p. 11
(268)^ 金子 1983, pp. 58-63
(269)^ ウィルケン 2016, p. 13
(270)^ 尚樹 1999, p. 110
(271)^ ウィルケン 2016, p. 14
(272)^ ウィルケン 2016, pp. 15-16
(273)^ 尚樹 1999, p. 111
(274)^ ウィルケン 2016, p. 18
(275)^ ウィルケン 2016, pp. 19-24
(276)^ ウィルケン 2016, p. 25
(277)^ abcd戸田 2017, p. 30
(278)^ 杉村 1981, pp. 76-83
(279)^ ab杉村 1981, p. 97
(280)^ 尚樹 1999, p. 242
(281)^ Pourshariati 2008, pp. 140-141
(282)^ abc杉村 1981, p. 101
(283)^ 尚樹 1999, p. 317
(284)^ 杉村 1981, p. 102
(285)^ 尚樹 1999, p. 318
(286)^ 尚樹 1999, p. 322
(287)^ abcd尚樹 1999, p. 323
(288)^ abPourshariati 2008, p. 141
(289)^ Pourshariati 2008, p. 149
(290)^ ab尚樹 1999, p. 325
(291)^ Pourshariati 2008, pp. 152-153
(292)^ 尚樹 1999, p. 331
(293)^ イブン・アブド・アル=ハカム﹃エジプト征服﹄記載。ヒッティ 1982, p. 323より、孫引き
(294)^ ab佐藤 1997, pp. 45-51
(295)^ 佐藤 1997, pp. 56-57
(296)^ 佐藤 1997, pp. 59-66
(297)^ 佐藤 1997, pp. 67-73
(298)^ 佐藤 1997, pp. 73-74
(299)^ 佐藤 1997, pp. 76-77
(300)^ 杉村 1981, pp. 110-114
(301)^ ヒッティ 1982, pp. 301-302
(302)^ abc佐藤 1997, pp. 78-79
(303)^ ヒッティ 1982, pp. 317-318
(304)^ abcヒッティ 1982, pp. 318-319
(305)^ abcヒッティ 1982, p. 324
(306)^ ab辻 2016, p. 15
(307)^ 貝原 2017, pp. 43-44
(308)^ abヒッティ 1982, p. 321
(309)^ abヒッティ 1982, p. 323
(310)^ ab杉村 1981, pp. 114-116
(311)^ Encyclopedia Britanica, §Early Arab rule
(312)^ ヒッティ 1982, p. 325
(313)^ abヒッティ 1982, p. 326
(314)^ abcd佐藤 1997, pp. 81-84
(315)^ ヒッティ 1982, p. 345
(316)^ 佐藤 1997, p. 84
(317)^ ab佐藤 1997, p. 86
(318)^ ab佐藤 1997, p. 89
(319)^ 佐藤 1997, pp. 103-104
(320)^ 横内 2005, p. 582
(321)^ 佐藤 1997, pp. 123-129
(322)^ abcdeEncyclopedia Britanica, §Egypt under the caliphate
(323)^ 太田 2003a, pp. 34-35
(324)^ ab横内 2005, p. 583
(325)^ abヒッティ 1982, p. 327
(326)^ 横内 2005, pp. 585-590
(327)^ ab横内 2005, pp. 577-578
(328)^ ab太田 2003a, pp. 32-33
(329)^ ab森本 1975, pp. 61-170
(330)^ 辻 2016, pp. 15-16
(331)^ 太田 2003b, pp. 87-88
(332)^ 太田 2003b, pp. 90-91
(333)^ abcd太田 2003b, p. 92
(334)^ 太田 2003b, p. 93
(335)^ 太田 2003b, pp. 96-99
(336)^ イブン・ハルドゥーン﹃歴史序説﹄第3章§17。森本訳, pp. 476-478
(337)^ 清水 2005, p. 80
(338)^ ab清水 2005, p. 6
(339)^ 佐藤 1991, pp. 46-47
(340)^ abc佐藤 1991, p. 78
(341)^ abヒッティ 1983, p. 212
(342)^ abcdeEncyclopedia Britanica, §The Ṭūlūnid dynasty
(343)^ abヒッティ 1983, p. 213
(344)^ abヒッティ 1983, p. 214
(345)^ 清水 2005, p. 78
(346)^ abcヒッティ 1983, p. 215
(347)^ ヒッティ 1983, pp. 216-217
(348)^ abc私市 2002, pp. 204-206
(349)^ abcd佐藤 1997, p. 186
(350)^ abcd私市 2002, p. 207
(351)^ abcd私市 2002, p. 208
(352)^ abc三浦 2002, p. 272
(353)^ Encyclopedia Britanica, §The Ikhshīdid dynasty
(354)^ 太田 2003a, p. 47
(355)^ ab三浦 2002, p. 273
(356)^ 佐藤 1997, p. 185
(357)^ ヒッティ 1983, p. 535
(358)^ 三浦 2002, p. 274
(359)^ abcde菟原 2010, p. 9
(360)^ ヒッティ 1983, p. 537
(361)^ ヒッティ 1983, p. 536
(362)^ 三浦 2002, pp. 274-275
(363)^ 三浦 2002, pp. 275-276
(364)^ ヒッティ 1983, pp. 546-549
(365)^ ヒッティ 1983, p. 551
(366)^ コトバンク, ﹁アズハル大学﹂の項目より
(367)^ ヒッティ 1983, pp. 552-554
(368)^ 三浦 2002, p. 275
(369)^ abヒッティ 1983, p. 540
(370)^ 菟原 1982, p. 327
(371)^ ヒッティ 1983, p. 254
(372)^ ヒッティ 1983, p. 255
(373)^ ヒッティ 1983, p. 257
(374)^ abcヒッティ 1983, p. 541
(375)^ abcd三浦 2002, p. 297
(376)^ 三浦 2002, p. 290
(377)^ ab三浦 2002, p. 291
(378)^ 三浦 2002, p. 294
(379)^ 三浦 2002, pp. 291-293
(380)^ ヒッティ 1983, p. 263
(381)^ 松田 2015, p. 8
(382)^ abc三浦 2002, p. 298
(383)^ ヒッティ 1983, p. 543
(384)^ 松田 2015, p. 15
(385)^ 松田 2015, p. 16
(386)^ 松田 2015, p. 13
(387)^ abc三浦 2002, p. 299
(388)^ ヒッティ 1983, p. 583
(389)^ 松田 2015, p. 9
(390)^ ab松田 2015, p. 10
(391)^ 佐藤 1986, pp. 96-103
(392)^ ab佐藤 1986, p. 89
(393)^ 松田 2015, pp. 20-31
(394)^ 松田 2015, pp. 31-33
(395)^ 松田 2015, p. 47
(396)^ 松田 2015, p. 50
(397)^ ヒッティ 1983, p. 586
(398)^ ヒッティ 1983, p. 587
(399)^ ヒッティ 1983, p. 590
(400)^ abc三浦 2002, p. 300
(401)^ abc三浦 2002, p. 301
(402)^ ヒッティ 1983, p. 594
(403)^ ヒッティ 1983, p. 596
(404)^ ab佐藤 1991, p. 106
(405)^ 佐藤 1991, p. 104
(406)^ ヒッティ 1983, p. 637
(407)^ 佐藤 1991, p. 107
(408)^ ab佐藤 1991, p. 108
(409)^ ヒッティ 1983, p. 597
(410)^ 佐藤 1991, p. 109
(411)^ abc佐藤 1991, p. 110
(412)^ ab清水 1999, p. 223
(413)^ 佐藤 1991, pp. 113-121
(414)^ abcdefgh清水 1999, p. 224
(415)^ abcd三浦 2002, p. 315
(416)^ abc佐藤 1991, p. 122
(417)^ 佐藤 1991, p. 139
(418)^ 三浦 2002, p. 312
(419)^ 佐藤 1991, p. 140
(420)^ ab三浦 2002, p. 310
(421)^ 佐藤 1986, pp. 223-248
(422)^ ab三浦 2002, p. 321
(423)^ ヒッティ 1983, p. 642
(424)^ 五十嵐 2011, pp. 13-16
(425)^ abcde三浦 2002, p. 323
(426)^ ab五十嵐 2011, p. 22
(427)^ 五十嵐 2011, pp. 26-27
(428)^ 五十嵐 2011, pp. 28-35
(429)^ 五十嵐 2011, p. 96
(430)^ 五十嵐 2011, pp. 101-104
(431)^ 三浦 2002, p. 324
(432)^ ヒッティ 1983, p. 981
(433)^ ab五十嵐 2011, pp. 104-109
(434)^ ab五十嵐 2011, p. 125
(435)^ 三浦 1989, pp. 13-15
(436)^ abc五十嵐 2011, pp. 125-130
(437)^ abc三浦 2002, p. 327
(438)^ 三浦 2002, p. 326
(439)^ abcdEncyclopedia Britanica, §The Ottomans (1517–1798)
(440)^ Hathaway 2003, p. 397
(441)^ 長谷部、私市 2002, p. 330
(442)^ abcde長谷部 2017, p. 11
(443)^ 熊倉 2019, p. 239
(444)^ 熊倉 2019, p. 190
(445)^ abcHolt 1969, p. 51
(446)^ abHolt 1969, p. 74
(447)^ abHolt 1969, p. 75
(448)^ 長谷部 2017, p. 10
(449)^ ab長谷部、私市 2002, p. 337
(450)^ Holt 1969, pp. 81-82
(451)^ 長谷部、私市 2002, p. 340
(452)^ abcd長谷部、私市 2002, p. 341
(453)^ ab長谷部、私市 2002, p. 347
(454)^ abc長谷部、私市 2002, p. 348
(455)^ 加藤 2013, p. 22
(456)^ 加藤 2013, p. 23
(457)^ ab長谷部、私市 2002, p. 349
(458)^ ab長谷部、私市 2002, p. 350
(459)^ ヒッティ 1983, p. 728
(460)^ ab松浦 1996, p. 399
(461)^ abcd山口 2006, pp. 24-25
(462)^ 山口 2006, p. 29
(463)^ ab山口 2006, p. 34
(464)^ 山口 2006, p. 38
(465)^ 山口 2006, pp. 39-41
(466)^ 加藤 2002, pp. 398-400
(467)^ ab山口 2006, p. 42
(468)^ 山内 1984, p. 132
(469)^ 山口 2006, p. 45
(470)^ 村田 2005, p. 284
(471)^ 山口 2006, p. 47
(472)^ 山口 2006, p. 48
(473)^ 山口 2006, p. 56
(474)^ 山内 1984, pp. 40-41
(475)^ 山口 2006, p. 61
(476)^ ab山口 2006, p. 65
(477)^ 山内 1984, p. 44
(478)^ abc山口 2006, p. 67
(479)^ 山口 2006, p. 105
(480)^ 山口 2006, p. 110
(481)^ 山内 1984, p. 70_72
(482)^ 山口 2006, p. 113
(483)^ 山内 1984, p. 74
(484)^ 山口 2006, p. 114
(485)^ ab山内 1984, p. 75
(486)^ 山内 1984, p. 76
(487)^ 山口 2006, p. 119
(488)^ 山口 2006, p. 124
(489)^ 山内 1984, p. 354
(490)^ 山内 1984, pp. 355-370
(491)^ 山口 2006, p. 144
(492)^ ab山口 2006, p. 145
(493)^ 山口 2006, p. 147
(494)^ 山口 2006, p. 148
(495)^ 山口 2006, p. 149
(496)^ 山口 2006, p. 157
(497)^ 山口 2006, p. 161
(498)^ 山口 2006, p. 184
(499)^ 長谷部、私市 2002, p. 405
(500)^ abc山口 2006, p. 185
(501)^ 山口 2006, p. 186
(502)^ abc山口 2006, p. 215
(503)^ ab長谷部、私市 2002, p. 409
(504)^ 山口 2006, pp. 220_222
(505)^ ab山口 2006, p. 224
(506)^ 山口 2006, p. 229
(507)^ 山口 2006, p. 242
(508)^ ab山口 2006, p. 244
(509)^ abcd加藤 2002, pp. 410-411
(510)^ ab山口 2006, p. 246
(511)^ 山口 2006, p. 250
(512)^ 山口 2006, p. 251
(513)^ ab山口 2006, p. 253
(514)^ 山口 2006, p. 255
(515)^ ab山口 2006, p. 256
(516)^ 山口 2006, p. 260
(517)^ 山口 2006, p. 261
(518)^ 山口 2006, p. 263
(519)^ 山口 2006, p. 265
(520)^ 長沢 2002, p. 462
(521)^ abcde山口 2006, p. 269
(522)^ abc山口 2006, p. 270
(523)^ ab山口 2006, p. 272
(524)^ 山口 2006, p. 271
(525)^ ab山口 2006, p. 281
(526)^ abc山口 2006, p. 278
(527)^ ab山口 2006, p. 279
(528)^ 山口 2006, p. 280
(529)^ 山口 2006, p. 291
(530)^ abcd長沢 2002, p. 476
(531)^ 長沢 2002, p. 477
(532)^ abc山口 2006, p. 296
(533)^ abc山口 2006, p. 297
(534)^ 山口 2006, p. 299
(535)^ 山口 2006, p. 304
(536)^ 山口 2006, p. 305
(537)^ abc長沢 2002, p. 496
(538)^ 山口 2006, p. 306
(539)^ ab山口 2006, p. 307
(540)^ 山口 2006, p. 310
(541)^ 山口 2006, p. 311
(542)^ 山口 2006, pp. 312-313
(543)^ ab池田 2016, p. 31
(544)^ 山口 2006, p. 316
(545)^ 池田 2016, p. 30
(546)^ ab山口 2006, p. 315
(547)^ ab池田 2016, p. 34
(548)^ 池田 2016, pp. 37-38
(549)^ ab山口 2006, p. 317
(550)^ ab池田 2016, p. 41
(551)^ 山口 2006, p. 319
(552)^ 池田 2016, p. 42
(553)^ 池田 2016, p. 43
(554)^ 池田 2016, p. 44
(555)^ 池田 2016, p. 45
(556)^ ab山口 2006, p. 320
(557)^ abc山口 2006, p. 321
(558)^ ab山口 2006, p. 322
(559)^ 池田 2016, p. 48
(560)^ ab池田 2016, p. 49
(561)^ 山口 2006, p. 323
(562)^ abc池田 2016, p. 50
(563)^ 山口 2006, p. 324
(564)^ 山口 2006, p. 325
(565)^ 池田 2016, p. 67
(566)^ ab鈴木 2012, p. 22
(567)^ 鈴木 2012, p. 23
(568)^ オーウェン 2015, p. 112
(569)^ 池田 2016, p. 52
(570)^ 池田 2016, p. 53
(571)^ 池田 2016, p. 54
(572)^ Holt 1969, p. 102
(573)^ 池田 2016, p. 55
(574)^ 池田 2016, p. 56
(575)^ 山口 2006, p. 327
(576)^ 山口 2006, p. 328
(577)^ abc池田 2016, p. 60
(578)^ 池田 2016, p. 83
(579)^ 池田 2016, p. 85
(580)^ abc山口 2006, p. 329
(581)^ 池田 2016, p. 87
(582)^ ab山口 2006, p. 330
(583)^ 池田 2016, p. 91
(584)^ ab池田 2016, p. 94
(585)^ ab池田 2016, p. 95
(586)^ 池田 2016, p. 99
(587)^ 池田 2016, p. 100
(588)^ ab山口 2006, p. 332
(589)^ オーウェン 2015, p. 118
(590)^ abcd山口 2006, p. 333
(591)^ ab横田 2012, p. 103
(592)^ abc横田 2012, p. 104
(593)^ abオーウェン 2015, p. 116
(594)^ abc横田 2012, p. 105
(595)^ ab山口 2006, p. 334
(596)^ 鈴木 2012, p. 24
(597)^ ab山口 2006, p. 335
(598)^ abc鈴木 2012, p. 26
(599)^ abc山口 2006, p. 336
(600)^ abc山口 2006, p. 337
(601)^ abcdefgh鈴木 2012, p. 27
(602)^ ab山口 2006, p. 338
(603)^ abc鈴木 2012, p. 28
(604)^ abcd金谷 2018, p. 135
(605)^ abc金谷 2018, p. 136
(606)^ abc金谷 2018, p. 137
(607)^ ab鈴木 2012, p. 30
(608)^ 鈴木 2012, p. 31
(609)^ 金谷 2018, p. 139
(610)^ abcdef金谷 2018, p. 140
(611)^ 加藤、岩崎 2013, p. 103
(612)^ 山口 2006, p. 339
(613)^ 加藤、岩崎 2013, p. 106
(614)^ 加藤、岩崎 2013, pp. 106-109
(615)^ 加藤、岩崎 2013, p. 96
(616)^ 金谷 2018, p. 144