「トーマス・ジェファーソン」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
320行目: | 320行目: | ||
ジェファーソンは鳥にも興味があった。その作品『ヴァージニア覚書』の中には出身州で見つけた鳥のリストが入っているが、「間違いなくまだ書かれておらず分類されてもいない多くの種」がいるとしている。イギリス人自然科学者のマーク・ケーツビーが描いたバージニアの鳥の絵は「形やポーズに関しては、概して誇張されすぎている色使いよりも勝っている。」とも述べている。 |
ジェファーソンは鳥にも興味があった。その作品『ヴァージニア覚書』の中には出身州で見つけた鳥のリストが入っているが、「間違いなくまだ書かれておらず分類されてもいない多くの種」がいるとしている。イギリス人自然科学者のマーク・ケーツビーが描いたバージニアの鳥の絵は「形やポーズに関しては、概して誇張されすぎている色使いよりも勝っている。」とも述べている。 |
||
ジェファーソンは[[ワイン]]の熱烈な愛好者であり収集家であり、グルメだと言われた |
ジェファーソンは[[ワイン]]の熱烈な愛好者であり収集家であり、グルメだと言われた。フランス滞在中(1784年-1789年)、フランスやその他ヨーロッパのワイン生産地を贅沢に旅し、アメリカ合衆国にワインを送り返させた。「我々はアメリカ合衆国でヨーロッパで作られているのと同じくらい豊富な種類のワインを、まさに同じ種ではなく疑いも無く良いものとして作ることができるだろう」という大胆な発言をしたことでも知られている。モンティチェロには広範なブドウ園があったが、かなりの部分はヨーロッパの「[[ヨーロッパブドウ|ヴィティス・ヴィニフェラ]]」種のワイン用ブドウであり、アメリカ生まれのブドウの病気に対して生き残れなかった。 |
||
1801年、ジェファーソンは『議会運営マニュアル』を出版した<ref>[http://www.constitution.org/tj/tj-mpp.htm]</ref>。これは現在も使われている。1812年には第2版を出版した。 |
1801年、ジェファーソンは『議会運営マニュアル』を出版した<ref>[http://www.constitution.org/tj/tj-mpp.htm]</ref>。これは現在も使われている。1812年には第2版を出版した。 |
||
504行目: | 504行目: | ||
=== 奴隷のサリー・ヘミングスによるとされる子供達 === |
=== 奴隷のサリー・ヘミングスによるとされる子供達 === |
||
ジェファーソンはその奴隷の一人[[サリー・ヘミングス]]と長い間親密な関係にあったとされている |
ジェファーソンはその奴隷の一人[[サリー・ヘミングス]]と長い間親密な関係にあったとされている。サリーは4分の1だけ黒人の血を引いており、先妻とは異母姉妹だったと考えられている<ref name=autogenerated3>{{cite web |url=http://wiki.monticello.org/mediawiki/index.php/John_Wayles |title=''John Wayles Paternity'' |publisher=Wiki.monticello.org |date=2009-05-19 |accessdate=2009-09-02 |archiveurl=https://archive.is/20120722015323/http://wiki.monticello.org/mediawiki/index.php/John_Wayles |archivedate=2012年7月22日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。ジェファーソンが大統領在任中に、ジャーナリスト達がジェファーソンは妻の死後にヘミングスとの間に数人の子供をもうけたと主張した。20世紀の末に行われた[[DNA型鑑定]]では、ジェファーソンの血筋につながる1人の男性、おそらくはジェファーソンその人が、サリー・ヘミングスの子供達の少なくとも一人の父親だったことを示した。 |
||
[[1998年]]の[[DNA型鑑定]]は、サリーの息子エストン・ヘミングスとジェファーソンの男系との間にDNAの繋がりがあると結論付けた。ジェファーソンの[[子孫]]達数人からヘミングスの子供達の父親であると主張されたジェファーソンの甥であるカー兄弟は、エストンの父ではないということが分かった。同時にジェファーソンの男系とトマス・ジェファーソンの祖父の子孫であるトマス・ウッドソンの子孫との間にも繋がりが無いことが示された。この研究では、比較のために試験できる(ジェファーソンの正統の子孫から)直系の男性子孫がいなかったので、トーマス・ジェファーソン自身が[[先祖]]であるとは証明できなかった<ref>{{cite journal |last=Foster |first=EA, ''et al.'' |year=1998 |title=Jefferson fathered slave's last child|journal=[[ネイチャー]] |volume=396 |issue=6706 |pages=27-28 |pmid=9817200 |doi=10.1038/23835 |url=http://www.familytreedna.com/pdf/Jeffersons.pdf|format=PDF |month=Nov |last2=Jobling |first2=MA |last3=Taylor |first3=PG |last4=Donnelly |first4=P |last5=De Knijff |first5=P |last6=Mieremet |first6=R |last7=Zerjal |first7=T |last8=Tyler-Smith |first8=C |issn=0028-0836}}</ref>が、ジェファーソンの[[Y染色体]]は比較的珍しい型である'''[[:en:Haplogroup T (Y-DNA)|ハプログループT]]'''に属していることが明らかとなった<ref>{{cite web|url=http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpT08.html |title=ISOGG 2008 Y-DNA Haplogroup T |publisher=Isogg.org |date= |accessdate=2009-09-02}}※旧分類では、ハプログループK2に分類されていたが、現在はこの[[SNP]]を持つ[[ハプログループ]]はTに分類されている。</ref><ref>{{cite web|url=http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpT08.html |title=ISOGG 2008 Y-DNA Haplogroup T |publisher=Isogg.org |date= |accessdate=2009-09-02}}</ref>。 |
[[1998年]]の[[DNA型鑑定]]は、サリーの息子エストン・ヘミングスとジェファーソンの男系との間にDNAの繋がりがあると結論付けた。ジェファーソンの[[子孫]]達数人からヘミングスの子供達の父親であると主張されたジェファーソンの甥であるカー兄弟は、エストンの父ではないということが分かった。同時にジェファーソンの男系とトマス・ジェファーソンの祖父の子孫であるトマス・ウッドソンの子孫との間にも繋がりが無いことが示された。この研究では、比較のために試験できる(ジェファーソンの正統の子孫から)直系の男性子孫がいなかったので、トーマス・ジェファーソン自身が[[先祖]]であるとは証明できなかった<ref>{{cite journal |last=Foster |first=EA, ''et al.'' |year=1998 |title=Jefferson fathered slave's last child|journal=[[ネイチャー]] |volume=396 |issue=6706 |pages=27-28 |pmid=9817200 |doi=10.1038/23835 |url=http://www.familytreedna.com/pdf/Jeffersons.pdf|format=PDF |month=Nov |last2=Jobling |first2=MA |last3=Taylor |first3=PG |last4=Donnelly |first4=P |last5=De Knijff |first5=P |last6=Mieremet |first6=R |last7=Zerjal |first7=T |last8=Tyler-Smith |first8=C |issn=0028-0836}}</ref>が、ジェファーソンの[[Y染色体]]は比較的珍しい型である'''[[:en:Haplogroup T (Y-DNA)|ハプログループT]]'''に属していることが明らかとなった<ref>{{cite web|url=http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpT08.html |title=ISOGG 2008 Y-DNA Haplogroup T |publisher=Isogg.org |date= |accessdate=2009-09-02}}※旧分類では、ハプログループK2に分類されていたが、現在はこの[[SNP]]を持つ[[ハプログループ]]はTに分類されている。</ref><ref>{{cite web|url=http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpT08.html |title=ISOGG 2008 Y-DNA Haplogroup T |publisher=Isogg.org |date= |accessdate=2009-09-02}}</ref>。 |
||
755行目: | 755行目: | ||
* [http://www.librarything.com/profile/ThomasJefferson Online catalog of Thomas Jefferson's personal library], based on the catalog of books he sold to the Library of Congress in 1815 |
* [http://www.librarything.com/profile/ThomasJefferson Online catalog of Thomas Jefferson's personal library], based on the catalog of books he sold to the Library of Congress in 1815 |
||
*{{青空文庫著作者|1189}} |
*{{青空文庫著作者|1189}} |
||
* {{Kotobank|ジェファソン(Thomas Jefferson)}} |
* {{Kotobank|ジェファソン(Thomas Jefferson)}} |
||
* [https://www.bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/jefferson.html 美味求真.com 「トーマス・ジェファーソン」] |
|||
{{S-start}} |
{{S-start}} |
2024年4月11日 (木) 02:02時点における最新版
トーマス・ジェファソン Thomas Jefferson | |
任期 | 1801年3月4日 – 1809年3月4日 |
---|---|
副大統領 | アーロン・バー(1801年 - 1805年) ジョージ・クリントン(1805年 - 1809年) |
任期 | 1797年3月4日 – 1801年3月4日 |
大統領 | ジョン・アダムズ |
任期 | 1790年3月22日 – 1793年12月31日 |
大統領 | ジョージ・ワシントン |
任期 | 1783年11月1日 – 1784年5月7日 |
出生 | 1743年4月13日(ユリウス暦 4月2日) 13植民地・バージニア植民地シャドウェル |
死去 | 1826年7月4日 (83歳没) アメリカ合衆国・バージニア州シャーロッツビル |
政党 | 民主共和党 |
出身校 | ウィリアム・アンド・メアリー大学 |
配偶者 | マーサ・ジェファーソン |
子女 | マーサ・ワシントン・ジェファーソン ジェーン・ランドルフ 名前のない息子 メアリー・ジェファーソン・エプス ルーシー・エリザベス ルーシー・エリザベス |
署名 |
概要[編集]
アメリカ独立宣言︵1776年︶の主要な執筆者であり、アメリカ合衆国の共和制の理想を追求したことで最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人とされている。共和制を推進し、イギリスの帝国主義に対抗する偉大な﹁自由の帝国﹂[1]の陰にある力としてアメリカの姿を描いた。首都ワシントンD.C.で就任演説を行った最初の大統領である。 大統領就任中にはルイジアナ買収︵1803年︶やルイス・クラーク探検隊︵1804年 - 1806年︶を進め、在任中はイギリスのような強国との戦争を回避した。 政治哲学者として啓蒙時代の人物であり、イギリスやフランスの多くの知識人と知り合いだった。共和制の美徳の体現者としてヨーマン︵独立自営農民︶を理想化し、都市や金融家を信用せず、州の権限や厳しく制限された連邦政府に賛成した。ジェファーソンは政教分離原則を支持し[2]、バージニア信教の自由法︵1779年、1786年︶を起草した。ジェファーソン流民主主義の名祖であり、25年間アメリカ政界を牛耳った民主共和党の創設者かつ指導者だった。戦時のバージニアで知事︵1779年-1781年︶を務め、初代国務長官︵1789年-1793年︶および第2代アメリカ合衆国副大統領︵1797年-1801年︶も歴任した。 博学者であるジェファーソンは数ある得意分野の中でも園芸学者、政治指導者、建築家、考古学者、古生物学者、発明家およびバージニア大学の創設者として傑出していた。ジョン・F・ケネディは1962年にホワイトハウスへ49人のノーベル賞受賞者を招いた席で﹁私はこの今日お集まりいただいた皆様が、ホワイトハウスにかつて集められた最も秀逸な才能と知識の集大成だと思います. . . トーマス・ジェファーソンがここで一人で食事をした時を除いては﹂と挨拶した[3]。 2013年現在、2期を完全に務めたアメリカ合衆国大統領の中で、議会の法案に対し一回も拒否権を発動しなかった唯一の人物である。学者達によるアメリカ合衆国大統領の評価でも常に偉大な者の一人とされてきた。生涯[編集]
生い立ちと教育[編集]
ジェファソンは1743年4月2日に[注釈 1]、ピーター・ジェファーソン︵1708年3月29日 - 1757年8月17日︶およびジェーン・ランドルフ︵1720年2月20日 - 1776年3月31日︶の息子としてバージニア植民地に生まれた。両親は共にバージニア入植者の古い家系の出であり、バージニア植民地でも最も著名な人々と密接に関わりのある家庭だった。10人兄弟の3番目であり、兄弟のうち2人は夭折した[4]。母は、船長であり農園主を兼ねていたアイシャム・ランドルフの娘であり、ペイトン・ランドルフの従姉妹かつ富裕なイギリス系ジェントリの孫娘だった。父はアルベマール郡︵シャドウェル、当時はエッジヒル︶で農園主と測量士をしていたウェールズ人の子孫だった。父の古くからの友人であるウィリアム・ランドルフ大佐が1745年に死んだ時、父は遺言執行人となり、タッカホーにあったランドルフの地所と遺児のトマス・マン・ランドルフ・ジュニアの面倒を見た。この年ジェファーソン家はタッカホーに移転し、そこで7年間過ごした後にアルベマールの自宅に戻った。父はその後当時の重要な地位である郡の大佐の位に指名された[5]。教育[編集]
1752年、ジェファソンはスコットランド人の牧師ウィリアム・ダグラスが経営する地元の学校に通い始めた。9歳のとき、ラテン語、古代ギリシア語およびフランス語を学び始めた。1757年、14歳の時に父が死んだ。ジェファソンは約5,000エーカー (20 km2) の領地と数十人の奴隷を相続した。ジェファソンはそこに家を建て、それが後にモンティチェロと呼ばれるようになった。 父の死後、1758年から1760年まで学識のある牧師ジェイムズ・モーリーの学校で学んだ。この学校はフレデリックスビル郡のゴードンズビル近くにあり、シャドウェルからは12マイル (19 km) 離れていたので、ジェファーソンアモーリーズ家に下宿した。ここでは古典教育を受け、歴史や科学を学んだ。 1760年、16歳の時にウィリアムズバーグにある、名門ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、大学教育を2年間受け、1762年に優等賞を受けて卒業した。ウィリアム・アンド・メアリー大学では哲学科に入り、ウィリアム・スモール教授の下で数学、形而上学および哲学を学んだ。スモールは勉強熱心なジェファソンにジョン・ロック、フランシス・ベーコンおよびアイザック・ニュートンなどイギリス経験主義者の著作を紹介した。ジェファソンは彼らのことを﹁世界が生んだ中でも最も偉大な3人﹂と呼んだ[6]。ジェファソンはフランス語を極め、何処に行くにもギリシャ語の文法本を持ち歩き、ヴァイオリンを嗜み、タキトゥスやホメーロスの本を読んだ。感受性があり勤勉な学生であったジェファソンは、これら全ての分野および家風に貪欲な好奇心を示し、1日に15時間勉強することも多かった。親しい学友であるローズウェルのジョン・ページはジェファソンについて﹁一番の親友と別れてでも勉強のところに飛んで行ける﹂と述べている。 ジェファソンは大学時代にフラット・ハット・クラブ協会という秘密結社の会員になった。今日クリストファー卿のレン・ビルと呼ばれる大学の建物に寄宿し、大広間で共通の食事を摂り、レン礼拝堂で朝と夕の礼拝に参加した。バージニア総督フランシス・フォーキエの贅沢なパーティに出席することも多く、そこでヴァイオリンを演奏し、ワインをたしなむことを覚えた[7]。卒業後はジョージ・ワイスと共に法律を勉強し、1767年にバージニア法廷弁護士として認められた。大学卒業後[編集]
1765年10月1日、ジェファソンの長姉ジェーンが25歳で死んだ[8]。既に数年前に姉妹のメアリーがトマス・ボーリングに嫁ぎ、この年7月初頭にはマーサがダブニー・カーと結婚していた。姉妹達がいなくなった寂しさに姉の死は追い打ちをかけ、深い喪失感に陥ることとなった[8]。結婚した姉妹はどちらも夫の家に移っており、家庭には下の妹たちであるエリザベスとルーシーや2人の幼児がいるだけになった。エリザベスとルーシーは姉達のような知的刺激を与えてはくれなかったので、彼女達が居ても心の慰めにはならなかった[8]。 ジェファソンはバージニア植民地で弁護士として多くの事件を扱うことにし、1768年から1773年の間は一般裁判所だけで毎年100件以上の訴訟を扱う一方で数百の事例の相談に乗った[9]。ジェファソンの顧客リストには母の家系であるランドルフ家などバージニアの特権階級の家族員が含まれていた[9]。特に黒人の弁護活動に熱心であった。モンティチェロ[編集]
政歴︵1774年から1800年︶[編集]
独立に向かうころ[編集]
ジェファソンは法律実務を行う傍ら、1769年からアルベマール郡選出のバージニア植民地議会議員となった。1774年にイギリスの議会で耐え難き諸法が成立した後、それに反対する決議文を書き、それが拡大されて初めての出版物となる﹃イギリス領アメリカの権利に関する要約﹄に結実した。耐え難き諸法に対する当初の批判はそれが合法かつ合憲かということが焦点だったが、ジェファソンは植民地人は自分達を治める自然の権利があるという急進的な考えを提案した[14]。またイギリスの議会はイギリスでのみの議会であり、植民地において立法する権限は無いとも主張した[14]。ジョージア3世については、﹁王は人民の召使であり、主人ではない﹂と明言した[15]。 この文書は第一次大陸会議に向かうバージニア代表団のための指示書として意図されたものだったが、ジェファソンの考え方はあまりに急進的でその代表団には合わないことが分かった[14]。ジェファソンは実際には革命を提唱するまでには至っておらず、植民地を﹁英領アメリカ﹂と呼んでいるが[15]、それでも、この小冊子がアメリカ独立の理論的枠組みを作ることに貢献し、ジェファソンは最も思慮深い愛国的代弁者として注目された。独立宣言の起草[編集]
アメリカ独立戦争が始まった直後の1775年6月、ジェファソンは第二次大陸会議のヴァージニア代議員の一人になった[16]。出席した代表中2番目の若さだったにもかかわらず、大陸会議は彼に、イギリス首相フレデリック・ノース卿からの和解の提案に対する拒否など、いくつかの重要文書の起草を委任した[16]。 大陸会議が1776年6月にリチャード・ヘンリー・リーの独立決議案を審議し始めたとき、ジェファソンは決議案に伴う宣言を準備するための五人委員会委員に指名された。ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンを含むこの委員会は[16]、ジェファソンを、筆が立つとの評判があったために初稿執筆者に選任した。この役割は形式通りの作業に思われ、当時はそれが大きな責任を伴うものだとは誰も考えなかった[17]。ジェファソンは他の委員に相談し、自分が提案したバージニア憲法の草案やジョージ・メイソンが起草したバージニア権利章典など他の資料から引用した文章で初稿を書き上げた[18]。4ページからなるジェファーソンの独立宣言の草稿は、6月11日から書き始められた[16]。 ジェファソンがこの草稿を委員会に見せ、それが最終版になって、6月28日に大陸会議に提出された。7月2日に独立決議案が可決された後、大陸会議は宣言の方に注意を向けた。数日間の議論によって大陸会議は言葉遣いを修正し、全文の4分の1近くを削除した。削除された部分は大西洋奴隷貿易を批判したものであり、この修正にジェファソンは不満だった[19]。7月4日、アメリカ独立宣言が承認された。この宣言は結果としてジェファソンの名声を上げるものとなり、その雄弁な前文はその後の人権宣言の規範になった[19]。バージニア邦議会の議員[編集]
バージニア邦知事[編集]
ジェファソンは1779年から1781年までバージニア邦知事を務めた。1780年にはウィリアムズバーグにあった首都を邦の中心に近いリッチモンドに移すことを監督した。国内で初めて学生が管理する倫理規定など、ウィリアム・アンド・メアリー大学の教育改革を提唱し続けた。1779年、ジェファソンの命令で、ウィリアム・アンド・メアリー大学はジョージ・ワイスをアメリカの大学では初の法学教授に指名した。推進しようとし学制改革の進み方が遅いことに不満をつのらせ、後にはバージニア大学の設立者になった。この大学は高等教育が宗教的原理と完全に分離されたものとしてアメリカ合衆国では初の大学になった。 ジェファソンが知事を務めた期間にバージニアはイギリス軍に都合2度侵略された。まずはベネディクト・アーノルド、続いてチャールズ・コーンウォリスが指揮する部隊であった。1781年6月、ジェファソンはパトリック・ヘンリーやその他バージニアの指導者達と共に、イギリス軍の騎兵隊を指揮するバナスター・タールトン大佐によって危うく捕まりそうになった[21]。ジェファソンの業績を大衆が認めなかったためにその後の政治的栄達が遅れ、バージニアでは公職に再度選ばれることは無かった[22]。しかし、1783年には邦議会から大陸会議︵この時は連合会議︶代表に選出された。独立戦争[編集]
1780年リッチモンドが英軍に占領され、モンティチェロに避難した。大統領誕生以前、彼はイギリスから米国最大の実力者と目されていた。世論は、彼の敵前逃亡を非難した。連合会議代表[編集]
バージニア邦議会は1783年6月6日にジェファソンを連合会議代表に指名し、その任期は11月1日から始まった。ジェファソンは外国為替レートを設定する委員になり、アメリカの通貨は十進法に基づくべきことを推奨した。 また国務委員会すなわち連合会議が会期中に行政府として機能する組織の設定も提案した。 1784年5月7日、ジェファソンは全権公使に選出されたときに連合会議を離れ、1785年に駐フランス公使になった。駐フランス公使[編集]
国務長官[編集]
フランスからの帰国後は、初代大統領ジョージ・ワシントンのもとで初代国務長官をつとめた︵1790年-1793年︶。ジェファソンとアレクサンダー・ハミルトンは国家の財政政策、特に戦時負債の資金集めについて争論を始めた。ハミルトンは負債が各州で平等に負担されるべきものと考え、ジェファソンは各州がそれぞれに負った負債について責任があるものと考えた︵バージニア州は独立戦争の間に多くの負債を抱えてはいなかった︶。連邦党員とのさらなる争論の中で、共和制を脅かすトーリーや君主制主義者とハミルトンや連邦党の他の者達を同一視するようになった。連邦主義を王党主義に擬え、﹁ハミルトン支持者達は王冠、小冠および司教冠を待ち望み、欲しくて堪らないでいると指摘した[26]。ジェファソンとジェームズ・マディソンは民主共和党を設立し率いた。マディソンや選挙参謀であるジョン・J・ベックリーと共に全国的な共和主義者の同盟ネットワークを作るために動き、国中の連邦党支持者と戦った。このころ、アメリカの首都をニューヨークからワシントンに移転することが決められた。ジェファーソンは1793年にフランスとイギリスが開戦したときに強くフランスを支持した。歴史家のローレンス・S・カプランは、ワシントンがこの戦争にアメリカ合衆国は巻き込まれるべきではないと言っていることに同意しながらも、ジェファソンが﹁心情的にはフランス側を支持した﹂と述べている[27]。1793年に行動的なフランス公使エドモン=シャルル・ジュネが着任して、アメリカの中立を変えさせようと世論を操作し、大衆にアピールしようとした。これを危険視したジェファソンは阻止を図った。シャクナーに拠れば、ジェファソンは国内での政治的成功はヨーロッパでのフランス軍の成功に掛かっていると考えた[28]。公職を離れて[編集]
ジェファソンは1793年暮れに20数年ぶりにモンティチェロに戻り、そこでハミルトンやワシントンに対する反対運動を画策した。しかし、ハミルトンが主導した1794年のジェイ条約がイギリスとの和平と貿易復活をもたらし、一方ジェファソンから強く支持されていたマディソンは戦争をせずに﹁かつての母国と戦うことを﹂望んだ[29]。﹁﹃商業という武器﹄がアメリカ合衆国の選ぶ条件にイギリスを同意させるに足るというのが共和制推進者のあいだの信条になった﹂。公職を離れていたジェファソンは強くマディソンを後押しした[29]。 自宅を新築し、後にアメリカの住居としては唯一世界遺産に登録されている。また、ひたすら農業に従事し研究もした。現在、ホワイトハウスの農場には、この地の種子がまかれている。1796年の大統領選挙と副大統領[編集]
1800年の大統領選挙[編集]
大統領︵1801年から1809年︶[編集]
内閣[編集]
職名 | 氏名 | 任期 |
---|---|---|
大統領 | トーマス・ジェファーソン | 1801年 - 1809年 |
副大統領 | アーロン・バー | 1801年 - 1805年 |
ジョージ・クリントン | 1805年 - 1809年 | |
国務長官 | ジェームズ・マディソン | 1801年 - 1809年 |
財務長官 | サミュエル・デクスター | 1801年 |
アルバート・ギャラティン | 1801年 - 1809年 | |
陸軍長官 | ヘンリー・ディアボーン | 1801年 - 1809年 |
司法長官 | レヴィ・リンカーン | 1801年 - 1804年 |
ロバート・スミス | 1805年 | |
ジョン・ブレッキンリッジ | 1805年 - 1806年 | |
シーザー・オーガスタス・ロドニー | 1807年 - 1809年 | |
郵政長官 | ジョセフ・ハーバーシャム | 1801年 |
ギデオン・グレンジャー | 1801年 - 1809年 | |
海軍長官 | ベンジャミン・ストッダート | 1801年 |
ロバート・スミス | 1801年 - 1810年 |
指名した最高裁判所判事[編集]
- ウィリアム・ジョンソン - 1804年
- ヘンリー・ブロックホルスト・リヴィングストン - 1807年
- トーマス・トッド - 1807年
加盟させた州[編集]
- オハイオ州 - 1803年3月1日
大統領職後[編集]
大学の父[編集]
死去[編集]
|
|
墓碑銘の下にある別の銘板
|
|
人物[編集]
興味と行動[編集]
ジェファーソンは傑出した建築家であり、新パッラーディオ様式をアメリカ合衆国にもたらすことに特に影響を与えた。この様式はイギリスのホイッグ党貴族に人気があり、共和制の市民の美徳と政治的自由に関する啓蒙思想に関連していた。ジェファーソンはシャーロッツビル近くに自家モンティチェロを設計した。その近くにはバージニア大学があり、アメリカ合衆国大統領が設立した唯一の大学となっている。ジェファーソンはこの大学の最初の建物の構造や当初のカリキュラムおよび住居様式を設計した。モンティチェロとバージニア大学とを併せてアメリカ合衆国に4つしかない人工物の世界遺産に数えられている。 ジェファーソンはバージニア州リンチバーグに近いベドフォード郡にポプラ・フォレストを、その公的生活からの私的な待避所として設計した。ジェファーソンは、南フランスのニームにある古代ローマ神殿メゾン・カレをモデルにしたバージニア州議会議事堂の設計に貢献した。ジェファーソンの建築はアメリカでその後の連邦様式建築を流行させ始めることに力があった。 ジェファーソンは多くの小さな実用品を発明した。例えば回転式ブックスタンドや︵チャールズ・ウィルソン・ピールとの協業で︶原稿を書いたままに写しをつくる器械であるポリグラフについての多くの改良があった[44]。モンティチェロには自動ドアや最初の回転椅子などジェファーソンが発明した便利な装置があった。機械的に絵を描く装置として興味を持ったものにはフィシオグノトレースの利用があった。1802年、チャールズ・ウィルソン・ピールがこの道具の水彩画スケッチを詳細な説明書と共にジェファーソンに送った[45]。この絵は現在アメリカ合衆国議会図書館のジェファーソン文書の中に入っている。1804年、シャルル・フェブレ・ド・サン=メマンがフィシオグノトレースを使ってジェファーソンの長円形シルエット肖像画を制作した。これは当時最も良く知られたジェファーソンの肖像画になった[46]。 ジェファーソンが興味を抱いた中には当時まだ黎明期にあった考古学があった。彼は発掘技術の開発に果たした役割を認められて﹁考古学の父﹂と呼ばれることがあった。1784年にバージニアの領地内にあったインディアンのマウンドを調査したとき、何かが現れるまで単純に下に向かって掘り進むという当時の習慣を避けた。その代わりにマウンドを縦に切断して中に歩いて入れるようにし、中に入っているものの層を調べてそこから結論を引き出した。 ジェファーソンはモンティチェロにある釣り池を楽しんだ。それは深さが3フィート (1 m) あり、モルタルで壁面を覆っていた。その池は最近捕まえた魚を飼っておくためやウナギを新鮮に保つために使われた。この池は最近修復されて、モンティチェロの西側から見ることができる。 1780年、ベンジャミン・フランクリンのアメリカ哲学会に参加した。1797年から1815年までその会長を務めた。 ジェファーソンは鳥にも興味があった。その作品﹃ヴァージニア覚書﹄の中には出身州で見つけた鳥のリストが入っているが、﹁間違いなくまだ書かれておらず分類されてもいない多くの種﹂がいるとしている。イギリス人自然科学者のマーク・ケーツビーが描いたバージニアの鳥の絵は﹁形やポーズに関しては、概して誇張されすぎている色使いよりも勝っている。﹂とも述べている。 ジェファーソンはワインの熱烈な愛好者であり収集家であり、グルメだと言われた。フランス滞在中︵1784年-1789年︶、フランスやその他ヨーロッパのワイン生産地を贅沢に旅し、アメリカ合衆国にワインを送り返させた。﹁我々はアメリカ合衆国でヨーロッパで作られているのと同じくらい豊富な種類のワインを、まさに同じ種ではなく疑いも無く良いものとして作ることができるだろう﹂という大胆な発言をしたことでも知られている。モンティチェロには広範なブドウ園があったが、かなりの部分はヨーロッパの﹁ヴィティス・ヴィニフェラ﹂種のワイン用ブドウであり、アメリカ生まれのブドウの病気に対して生き残れなかった。 1801年、ジェファーソンは﹃議会運営マニュアル﹄を出版した[47]。これは現在も使われている。1812年には第2版を出版した。 米英戦争中の1814年8月、イギリス軍がワシントンD.C.とアメリカ議会図書館を焼いた後、ジェファーソンはその蔵書寄贈を国に提案した。1815年1月、議会はこの申し出を受け入れ、6,487冊の蔵書に23,950ドルを支払った。偉大な国立図書館のために基金が整えられた。今日、アメリカ議会図書館の連邦立法府情報のウェブサイトは、ジェファーソンに因んでトーマスと名付けられている[48]。2007年、ジェファーソンのコーラン1764年版2巻本が、ミネソタ州選出のアメリカ合衆国下院新人議員でイスラム教徒のキース・エリソンの宣誓に使用された[49]。政治哲学と見解[編集]
銀行と銀行家に関する見解[編集]
ジェファーソンは第二合衆国銀行の設立に激しく反対した。﹁私は貴方達と共に、この銀行を設立することは軍隊を維持することよりも危険だと心から思う。資金調達という名前で子孫が支払うことになる金を遣うという原則は、未来に大規模な詐欺行為を行うことである。[53]﹂それでもマディソンと連邦議会は米英戦争で生じた財政的混乱状態を見て、ジェファーソンの忠告を無視し、1816年に第二合衆国銀行を設立した。 ジェファーソンは同僚達に多くの手紙を書き、銀行に関する自分の見解を定義することが多かった。その中でも最もはっきりしているのが1816年5月28日付けジョン・タイラーに宛てた手紙であり、﹁...銀行制度は我々が同じくらいかつずっと非難してきたものである。私はそれが我々の組織全体に残された汚点と考え、それは保護されていなければ破壊に繋がるものであろうし、既に腐敗したギャンブラーに攻撃されており、我々市民の資産と道徳を吹き飛ばすことが進んでいる。﹂と書いていた[54]。個人の権利[編集]
ジェファーソンは個人個人が﹁ある不可分の権利﹂を持っていると信じた。﹁すなわち、これら権利は政府があろうとなかろうと存在する。人はそれらを作り出し、取りあげ、あるいは渡してしまうこともできない。﹂ジェファーソンが最も明確に説いたのは﹁自由﹂の権利である。﹁合法的な自由は他人の平等な権利によって我々の周りに引かれる制限内で我々の意思による妨げられることのない行動である。法は往々にして暴君の意思であり、それが個人の権利を侵犯する時は常にそうなので、私は﹁法の範囲内で﹂という言葉を付け加えない﹂と言って自由を規定している[55]。政府は自由の権利を﹁創り出せ﹂ないが、実際にそれを侵犯できるというのがジェファーソンの考えだった。個人の合法的自由の限界は法が述べていることではなく、単に他の個人が同じ自由を持つのを禁じる手前で思い留まることである。ジェファーソンにとっての適切な政府は、社会を構成する個人が他人の自由を侵すことを禁じるだけでなく、個人の自由を縮小しないよう﹁政府自体﹂を拘束するものだった。 平等ということに関するジェファーソンの関与は、バージニア州における最初に生まれた息子が全ての土地を相続するという長子相続制の廃止を成功させたことに現れていた[56]。 ジェファーソンは、人が他人と付き合う中で正しいことと間違っていることを見分ける生まれ付いての道徳観を持っている、すなわち人が自制することを選ぼうと選ぶまいと他人の自然権について既得の感覚をもっていると信じた。さらに無政府主義社会であってもそれがかなり小さければ、十分機能するに足るだけの道徳観があるとも考えた。幾つかの機会ではインディアンの部族内での生活様式を称賛してもいた[57] ジェファーソンは時として理性的な無政府主義者と見られることもある[58]。 ﹁カーリントン大佐に宛てた手紙﹂の中では、﹁私は︵インディアンのような︶政府無しで生活する社会がその全体集団で、ヨーロッパの政府の下で生活する人々よりも絶対的に大きな程度の幸福を享受すると確信する。﹂と言った。しかしジェファーソンは無政府主義が﹁大多数の人民とは共存できない﹂とも考えた[59]。それ故にアメリカのような広い範囲に及ぶ政府は﹁統治される者の同意﹂によって存在できると提唱した。 ジェファーソンが書いたアメリカ独立宣言初稿の前文では次のように書いていた。 我々は以下の真実が神聖であり否定できないものと考える。全ての人は平等かつ独立して創造され、平等に創造されたことから固有で不可分の権利を得られ、その中でも生命、自由および幸福の追求の権利が守られる。これらの目的を確実にするために政府は人々の中に作られ、治められる者達の同意からその権限を得られる。如何なる形態の政府もこれら目的の障害であるときはいつも、それを変更し、あるいは廃止し、新しい政府を樹立して、人民の安全と幸福を最も良く実現しそうな原則に基礎を置き、そのような形態で権限を作り上げるのが人民の権利である[60]。 ジェファーソンは﹁統治される者の同意﹂に大変固執したので、個人は前の世代の行動では道徳的に制限されえないと考えた。これには負債や法律も含まれた。﹁如何なる社会も永遠の憲法あるいは永遠の法律ですら作ることはできない。この大地は常に生きている世代に属している﹂と言った。さらに合法的革命の適切な繰り返しと考えられるものを予測すらした。﹁あらゆる憲法、さらにはあらゆる法律は19年間の後に自然消失する。さらに長く続くとすれば、力の行使であり権利の行使ではない。﹂ジェファーソンは平均余命に加えて、人が理性的な判断ができる﹁成熟﹂年齢と考えるものを考慮に入れて、19年という数字に辿りついた[61]。また国債は排除されるべきものと提唱した。現存する人々が前世代の負債を払う道徳的義務感を持てるとは信じなかった。そのような負債を払うことは﹁寛大さの問題であり、権利の問題ではない﹂と言った[62]。州の権限[編集]
特に1798年のケンタッキー州およびバージニア州決議でジェファーソンが州の権限を強く弁護したことは、連邦政府の権限拡大に対する敵意を始めさせた。しかし、ジェファーソンの外交政策の幾つかは政府の強化そのものだった。最も重要なことは1803年のルイジアナ買収であり、その広大な外国の領地とフランス人やインディアンの住人まですべて併合するために暗黙の権力を使った[63]。1807年の通商禁止法を執行したことは、外交政策では失敗したが、連邦政府が戦争に繋がるかもしれない貿易を統制することで地方レベルまでもその大きな力で干渉できることを示した。武器の携行について[編集]
ジェファーソンの自由への傾倒は個人の自由の多くの分野にまで及んだ。著作﹃当たり前の書﹄(Commonplace book) の中で、銃統制に関するチェーザレ・ベッカリーアの言葉を引いた。﹁武器携行を禁じる法は...犯罪を犯す恐れの無いあるいは犯さないと決めた者をのみ武装解除するのである。...そのような法は襲撃される者には悪く、攻撃者には良く機能する。武装していない人は武装した人よりも大きな確率で攻撃されるかもしれないので、殺人を防ぐよりも奨励する方に機能する。[64][65][66]﹂法人について[編集]
ジェファーソンは1816年にジョージ・ローガンに宛てて次のように書いた。 この点においてイギリスはその政府の不品行とその市民の高潔さの間の対照で、宇宙における最も注目すべき現象を示している。それ故に美徳と利益は不可分であるという金言の真実の例を証明している。それは予測されてきたようにその人民の破滅だが、この破滅は何世代にもわたって惨事の準備をしてきた世襲貴族制に落ちかかるべきものであって、最も重く落ちかかることになる。私はこの例から警告を受け取り、既にわれわれの政府に力を試そうと挑戦し、わが国の法に抵抗しようとする、我々の金を注ぎ込んだ法人の貴族制をその誕生のときから潰すことを期待している[67]。司法について[編集]
ジェファーソンは弁護士として鍛えられていたので、才分ある書き手だったが、話や弁護は下手で、法廷でも決して巧くはいかなかった。ジェファーソンは判事は専門分野のスペシャリストであるべきだが、政策に身を据えるべきではないと考えた。1803年の﹁マーベリー対マディソン事件﹂に関する最高裁判所判決が民主主義に対する侵犯であると非難したが、それを覆すための憲法修正を提案する連邦議会を十分に支持しなかった。違憲審査制の原理には反対を続け、次のように記した。 憲法に関するあらゆる疑念を究極的に判断する者としての判事を考えることは、実に大変危険な原理であり、われわれをして寡頭政治の独裁下におくようなものである。我々の判事は他の者と同じくらい正直であり、それ以上ではない。彼らは他の者と同じくらい党派、権力およびその所属団体の特権について熱情がある。かれらの金言は﹁良い裁判官は広い司法権である﹂(boni judicis est ampliare jurisdictionem) であり、彼らの権力は、彼らが終生その職にあり、選出されることで統制される他の役人よりも責任が無いことでより危険なものになる。憲法は、どのように信頼できるものであっても、時の経過と党派によって、その成員が暴君にもなりうることが分かっていて、そのような単一の裁判所を作ったのではない。あらゆる府が互いの中で共に平等であり主権を持ち合うよう賢明に作られたものである[68]。政府を縛り個人の権利を保持するための反逆について[編集]
独立戦争後、ジェファーソンは、個人の自由を守る為に必要なときは反逆や暴力で政府を拘束することを提唱した。1787年1月30日付けのジェームズ・マディソンに宛てた手紙で、﹁ここかしこの小さな反乱は良い事であり、物理的な嵐と同じくらい政治の世界では必要である。...それは政府の健康のために必要な薬である。﹂と書いた[69]。同様にアビゲイル・アダムズに宛てた1787年2月22日付けの手紙では、﹁政府に対する抵抗の精神はある状況下では大変貴重なので、私は常にそれを活動的にしておきたいと願う。それは間違ったときに行使されることも多いが、全くやらないよりも良いくらいである。﹂と記した[69]。シェイズの反乱について流血沙汰があったと聞いた後で、ジョン・アダムズの義理の息子であるウィリアム・S・スミスに宛てた1787年11月13日付けの手紙では、﹁1世紀か2世紀の間に何人かの命が失われることが重要であることか、自由の木は愛国者と暴政者の血で時から時を経て新しくされていかなければならない。それが自然の肥料である。﹂と書いた[70]。1787年にウィリアム・S・スミスに宛てた別の手紙では、﹁そしてどの国が、為政者が時から時を経て警告されなければ、人々が抵抗の精神を保つその自由を守ることができるだろうか? 彼らに武器を取らせよ。﹂と記した[69]。自己評価[編集]
1789年3月13日付けフランシス・ホプキンソン宛ての手紙では﹁私は政治や宗教で所有することを恐れるような意見を一度も持ったことは無い。このことに関してけちな留保はある人々から多くの評価を得たかもしれないが、自分にとっては評価できない。﹂と記した[71]。婦人の参政権[編集]
ジェファーソンは婦人の参政権について提唱する者ではなかった。著作家のリチャード・モリスは﹁アビゲイル・アダムズを例外として、ジェファーソンは知的な女性を嫌悪した。パリのサロンで女性たちの政治的なお喋りに悩まされ、家に宛てて﹃我々の良き婦人は...政治的な議論から苛立って帰ってくる夫の心を宥め落ち着かせることに心を配っている。﹄という期待を表明した。﹂と記した。ジェファーソンは大統領である間に、﹁女性を役職に就かせることは大衆が準備できていないような革新である。私も準備できていない。﹂と書いていた[72]。宗教観[編集]
トーマス・ジェファーソンの宗教観は当時の正統的キリスト教から離れ、広く多様化していた。その生涯を通じて神学、聖書研究および道徳に深く興味を抱いた[73]。最も密接に結びついたのが聖公会、理神論の宗教哲学およびユニテリアン主義だった。﹁大胆にも神の存在を問題にした。なぜなら神がいるのならば、盲目に抱かれる恐れの尊敬よりも理性の尊敬をもっと認めなければならないからである﹂と言ったと報告されている。対インディアン政策[編集]
﹁ルイス・クラーク探検隊﹂を組織し、西方のインディアン部族の文化・言語や風俗を集めてもいる。ジェファーソンはインディアンを﹁高貴な野蛮人﹂と呼び、白人とは異なった彼らの文化に対して畏敬の念を隠さなかった[要出典]。 一方でジェファーソンは、大統領としてインディアンの強制移住政策を公式に立案した最初の人物だった[74][75]。 ﹁インディアン民族の強制移住﹂という民族浄化は、アンドリュー・ジャクソンが始めたと誤認される向きが多いが、これはジャクソンが大統領就任中の1830年に連邦議会が﹁インディアン移住法﹂を成立させたからであり、またジャクソン自身が軍人として、また大統領として数多くのミシシッピ以東のインディアン民族に対する絶滅作戦に自ら関わったからだった[74]。しかしジャクソンは単に、ジェファーソンが1803年に始まる一連の私文書の中で立てた計画を法制化し実行しただけである︵例えばウィリアム・ヘンリー・ハリソンに当てた下記の手紙を参照︶[74]。 ジェファーソンが合衆国の植民地領土を拡大するために、始めて﹁インディアンの強制移住﹂を政策立案したのは1776年から1779年の間のことであり、これはチェロキー族やショーニー族といった連合国家を、その先祖伝来の土地からミシシッピ川以西へと強制的に追い出すというものである[74]。 ジェファーソンのインディアン絶滅政策の手始めは、ジョージア州でのチェロキー族国家をどう排除するかということで、これはもしジョージア州が西方に﹁発見﹂した﹁新しい土地﹂の公式な権利を手放すようなことになれば、米軍はジョージア州を全力で援助し、ジョージアからチェロキー族を強制的に追放するというものだった。当時チェロキー族は、アメリカ合衆国政府と彼らの領土権の保障条約を締結しており、ジェファーソンはジョージア州と結託してこれを犯したのである[74]。インディアンに対する同化政策[編集]
合衆国とインディアンとの国家間条約の第一号は1778年に、デラウェア族が合衆国独立に味方したとして、デラウェラ族を中心としたインディアン国家の組織を連邦認定するというものだった。ジェファーソンはインディアンとの連邦条約を積極的に行い、条約と込みになった保留地制度を推し進めた。﹁保留地﹂︵Reservation︶とは、将来すべての土地が合衆国のものとなるまで、内務省がインディアンのために﹁特別に取っておいた︵Reserve︶土地﹂のことで、インディアン部族に領土を与えることで、西方の白人のいない土地に移住させてしまうというものである。彼らが領土としている土地は白人入植者にとっては魅力的な肥沃な地であることが多く、植民地拡大のためにはインディアンたちにそこを立ち退かせ、﹁年金︵食糧︶と引き換えに遠方の保留地に定住させる﹂というこの計画は理想的解決法と見られた。 ジェファーソンの計画は、すべてのインディアンと条約を結び、﹁国家﹂として保留地に定住させ、その独自の文化、宗教および生活習慣を捨てさせて、合衆国が監督する﹁部族政府﹂を設立させ、白人文化、キリスト教、および定住農耕生活を強制するという同化政策だった[74][75]。この計画が完了するには、﹁1000年はかかるだろう﹂とジェファーソンは予測した。しかし現実にはインディアンとの条約締結は1868年で終了した。拡大する白人の入植は、ジェファーソンの予想よりもはるかに早くすさまじいものだった。 ジェファーソンの予測では、狩猟採集生活を送るインディアン達を農耕民として白人と同化させれば[76]、彼らは白人との交易に経済的に依存するようになり、広大な領土は必要なくなり、商品との交易あるいは未払いの負債を返すために土地を手放すようになるだろうというものだった[77]。 1803年、ジェファーソンはウィリアム・ヘンリー・ハリソンに宛てた手紙に次のように書き記している。 彼らは手放してもよいが、我々はどうしても欲しい﹁土地﹂と、我々は手放してもいいが彼らが欲しいというものを交換するというこの計画を促進するために、我々は﹁交易﹂を推し進めるだろう。そして、彼らがその交易品のおかげで借金が出来た時、彼らの中でも影響力のある個人がその借金で右往左往するのを見て喜ぶことになるだろう。何故なら我々は、その個人がこれらの借金を返せず、これを棒引きにするために土地を譲渡せざるをえなくなるのを見守ることになるからだ。...こうすれば我々の植民地は、次第にインディアンたちを取り囲み接近していくことになり、彼らは時が来れば合衆国の市民として取り込まれるか、もしくはミシシッピ川の向こう側に移住するということになる。前者は確かに彼らにとって最も幸福だった歴史の終わりである。しかし、この手順では、彼らの愛情を育むことが欠かせない。おそらく我々の強大さに対する弱さを彼らは怖れているだろうから、我々は彼らを叩き潰す手を止めているだけなのだということを、彼らは分からねばならない。それに我々の彼らに対する寛大さの全ては、純粋に人道的な動機から出ていることを分からせばならない。もし如何なるときにも彼ら部族が向こう見ずに﹁手斧 (the hatchet)﹂を振り上げるならば、和平の唯一の条件として、その部族の土地を全て取り上げミシシッピ川の向こうに追い遣ることが他の部族への見せしめになり、最終的な統合に向かうことになるだろう。[77]強制移住とインディアン絶滅政策[編集]
ジェファーソンはインディアンたちが同化政策に抵抗したならば、彼らをその領土から強制退去させ、白人のいない西部に強制定住させるべきだと考えていた[74]。ジェファーソンを始め、白人たちはインディアンの部族国家での酋長を独任制の首長と誤解し、彼らと条約を結べば全部族民がこれに従うものと捉えて、和平委員会を酋長たちと面会させ、数々の条約に署名させた。この﹁署名﹂とは、文字を持たないインディアンに﹁×印﹂を書かせる、というものであった。 インディアンの社会は基本的に合議制であり、﹁部族長﹂や﹁首長﹂は存在しない。白人たちが﹁指導者﹂だと思っている酋長は、単に部族の中の﹁調停者﹂、﹁世話役﹂あるいは﹁奉仕者﹂に過ぎず、彼らに部族民を﹁率いる﹂ような権限はなかった[78]。 だが白人たちは酋長たちの署名をすべての条約の承認と捉え、これに基づいて強制移住その他インディアン政策を推し進めた。部族の合議を経ていない力づくの﹁和平﹂は、部族を反発させるだけだった。﹁すべてのものを共有する﹂インディアン文化において、土地は誰のものでもなかった。﹁酋長が紙に×印を書いたから見たこともない遠くの土地へ引っ越せ﹂と強要されて、黙っているインディアン部族などなかった。白人の誤解は血みどろの﹁インディアン戦争﹂を生み、合衆国による民族浄化を激化させていった。 1807年、ジェファーソンは彼は陸軍長官のヘンリー・ディアボーン将軍︵インディアン問題のトップ閣僚︶にこう指示している。 インディアンの抵抗者とは﹁手斧 (the hatchet) で会う﹂︵殺し合う︶べきだ。そして、...我々はどんな部族だろうと、その部族が皆殺しにされるか、ミシシッピ川の向こうへ追い詰めるまで、我々は決してそれ︵手斧︶を置かないだろう。...戦争では、彼らは我々の一部を殺すだろう。我々は、彼らの全てを破壊するのだ。[79] 1812年、ジェファーソンは次の声明を出した。 アメリカ人はインディアンどもを、森のけだものと一緒にストーニー山脈の奥へ押し込まなければならない。 1813年、ジェファーソンはアレクサンダー・フォン・フンボルトに宛てて次の手紙を送った。 友よ、ご存知のように我々は我々の近くに居る原住民の幸福のために、ここで善意ある計画を追求している。我々は彼らとの平和を保つために何も出し惜しみしなかった。彼らに農業と最も必要な技術の基本を教えること、および彼らの間に別の資産を確立することで産業を奨励することだ。この方法で、彼らは中庸な規模の土地の所有で生計を立て、拡大していくことができるようになったはずだ。彼らは我々と血を混じらわせ、遠くない時点で我々と融合し、意気投合するはずだった。この戦争︵米英戦争︶を始めたときに、我々は彼らに和平と中立を保つよう圧力を掛けたが、イギリスの興味ある無節操な政策がこれら不幸な民を救うための我々の努力をすべて台無しにした。彼らは我々の近くにいる部族の大半を唆して我々に手斧を向けさせ、フロンティアにいる女性や子供を急襲して残酷な虐殺を行った。我々はインディアンどもの皆殺しを遂行すべきである。もしくは、我々の手の届く範囲の向こう側の新しい﹁席﹂に、彼らを追いやるべきだ。[80] ジェファーソンの執拗なインディアン絶滅政策について、優生学思想と関連付ける研究者も多い。歴史家のデビッド・スタンナードは、その著書でこう述べている[81]。 ジェファーソンの用いたこれらの同じ言葉が、1939年にドイツの指導者によって宣言されて、欧州のユダヤ人達に向けられたならば、これらは現代の記憶として刻み込まれるだろう。しかしこれらはアメリカの創立者のうちの1人によって発表されたので、...大半の歴史家にとっては、ジェファーソンの﹁知恵﹂と﹁人道性﹂に対する彼らのしつっこい称賛のなかで、都合よく無視されてしまっているのだ。奴隷制について[編集]
5セント硬貨に描かれた ジェファーソンの肖像 |
---|
記念[編集]
ジェファーソンに因んで名付けられた場所も参照。︵英文︶ ジェファーソンは、建物、彫刻および通貨など多くの方法で記念されてきた。切手の中のジェファーソン[編集]
トーマス・ジェファーソンの肖像を使った切手は1856年のものが最初だった。これは郵便局がワシントンとフランクリンの肖像を使って最初の2種の切手を出した9年後だった。ジェファーソンはワシントンと同じくらい人気があり有名ではあるがほんの幾つかの切手に使われているだけであり、ワシントンやフランクリンとは異なり、記念切手は1904年発行のもの1種だけである(本記事冒頭の切手)。他の切手は通常切手にのみ使われているが、唯一1903年発行の50セント切手だけは上記記念切手と同じ位見ごたえのあるものとなった[101]。
|
||||
|
結婚と家庭[編集]
奴隷のサリー・ヘミングスによるとされる子供達[編集]
ジェファーソンはその奴隷の一人サリー・ヘミングスと長い間親密な関係にあったとされている。サリーは4分の1だけ黒人の血を引いており、先妻とは異母姉妹だったと考えられている[102]。ジェファーソンが大統領在任中に、ジャーナリスト達がジェファーソンは妻の死後にヘミングスとの間に数人の子供をもうけたと主張した。20世紀の末に行われたDNA型鑑定では、ジェファーソンの血筋につながる1人の男性、おそらくはジェファーソンその人が、サリー・ヘミングスの子供達の少なくとも一人の父親だったことを示した。 1998年のDNA型鑑定は、サリーの息子エストン・ヘミングスとジェファーソンの男系との間にDNAの繋がりがあると結論付けた。ジェファーソンの子孫達数人からヘミングスの子供達の父親であると主張されたジェファーソンの甥であるカー兄弟は、エストンの父ではないということが分かった。同時にジェファーソンの男系とトマス・ジェファーソンの祖父の子孫であるトマス・ウッドソンの子孫との間にも繋がりが無いことが示された。この研究では、比較のために試験できる︵ジェファーソンの正統の子孫から︶直系の男性子孫がいなかったので、トーマス・ジェファーソン自身が先祖であるとは証明できなかった[103]が、ジェファーソンのY染色体は比較的珍しい型であるハプログループTに属していることが明らかとなった[104][105]。 このDNA型鑑定結果の出版に続いて、2000年と2001年に3つの研究成果が報告された。2000年にはモンティチェロを運営しているトマス・ジェファーソン財団が、博士達と1人の︵医学博士からなる9人の学際的組織内研究委員会を指名して、ヘミングスの子供達の父親に関する研究をおこなった。この委員会は﹁トマス・ジェファーソン以外のジェファーソン家の者が[ヘミングスの6人の]子供達の父親である可能性は大変少ない﹂という結論を出した[106]。 2001年トーマス・ジェファーソン遺産協会 (TJHS)[107] が独立した13人の学者から成る委員会にある研究を依頼した。この委員会はジェファーソンの父性の問題は説得力ある結論には成らないとした。2001年4月12日には報告書を提出した。この学者委員会の大半の結論は﹁ジェファーソンとヘミングスの関係は決して証明できない﹂というものだった。学者の多くはもっともありそうな仮説としてジェファーソンの弟であるランドルフがヘミングスの末っ子であるエストンの父であるというものだった。ランドルフがヘミングスの子供の父の候補者であるという仮説はこのときに初めて示唆された。 2001年後半、﹃全米系統学学会季刊誌﹄に系統学的視点から資料を照査した記事が掲載された。この記事の作者はトーマス・ジェファーソンとサリー・ヘミングスとの間を結びつけるデータは信憑性があり、その証拠の重要さと一貫していると結論付けた。トーマス・ジェファーソン遺産協会の報告書は、方法に問題があり、データに対する偏見があり、証拠の重要度を無視していると批判した[108]。論争の背景[編集]
サリー・ヘミングスが生んだ子供達のうち4人が成人した。ビバリー、ハリエット、マディソンおよびエストンの4人である。ジェファーソンはそのうちの2人については、彼等がほぼ21歳に達したときに解放した。ジェファーソンの娘は、ジェファーソンの死後にサリー・ヘミングスに﹁自由時間﹂を与えた。これは当時の比較的よくあった習慣として年長の奴隷に好きなように時間を過ごさせるものだったが、解放するという意味ではなかった。ヘミングスは法的に奴隷のままで死んだ[109]。 19世紀初期に、ジェファーソンがヘミングスとの間に子供達をもうけたという憶測が始まった。ジェファーソンは妻が死んだ時にまだ39歳であり、妻には再婚しないと約束していた。当時白人の奴隷所有者が奴隷の女性と性的関係を持つのはよくある話だった[110]。例えばジェファーソンの義父ジョン・ウェイルズは寡夫になってからエリザベス・ヘミングスと長い関係が続き、6人の子供をもうけた。その末っ子がサリー・ヘミングスだった[111]。特権階級の白人男性はそのような関係を否定または隠蔽したが、混血の子供達の存在がその事実を証明しており、南部奴隷所有者の妻で著名なメアリー・チェスナットはその﹃メアリー・チェスナットの日記﹄で、またファニー・ケンブルは﹃ジョージア・プランテーションでのある住宅の日記﹄でそのような実態を報告した。 ジェファーソンがヘミングスとの間に子供達をもうけたという主張は、問題の多いジャーナリスト、ジェイムズ・T・キャレンダーがバージニア州の新聞である﹁リッチモンド・リコーダー﹂1802年9月1日の版に記事を掲載する数年前から地元のゴシップの種になっていた。その記事では﹁︵ジェファーソンが︶奴隷の一人を愛人としており、これまでも長年そうだった。彼女の名前はサリーである﹂と記されていた。1800年にジェファーソンが大統領に当選した後、キャレンダーは自分を郵便局長にしてくれなければ、この記事を掲載するとジェファーソンを脅していた。新聞は他の証言も掲載しており、この話題は政治風刺漫画にもなった。ジェファーソンはこの問題について何も公言することは無かったが、その私文書ではヘミングスとの肉体的関係を否定していたと言われている[112][113]。 ジェファーソンは1814年に黒人と白人の結婚について、﹁白人と黒人の血の結合は、この国を愛する者も、人間性の素晴らしさを愛する者も何食わぬ顔では同意できない劣化を生むものである﹂と記した。歴史家の中にはジェファーソンがその書いたものと矛盾するような行動をするはずが無いと主張する者がいる[114]。20世紀の重要なジェファーソン伝記作者デュマ・マローンはジェファーソンがヘミングスとの間に子供達をもうけたという主張は信じられないものとして、ジェファーソンの述べている原則とは相容れないものであると主張した。しかし、その証拠や歴史的に行き渡っている意見はマローンの評価には対立している。 ヘミングスの子供達はジェファーソンがフランスから戻った後で生まれた。歴史家デュマ・マローンが別の目的で作成したジェファーソンの年譜は、子供達のそれぞれが出産されたときにジェファーソンがモンティチェロの居宅に居たことを示している。ただし、このころは政務のために長期間家を空けることが多かった。ヘミングスの子供達は特別の機会を与えられた。彼等の血は8分の7が白人であり、ジェファーソンの孫トーマス・ジェファーソン・ランドルフは全ての子供がジェファーソンに似ており、特に男の子の一人は﹁正にそっくりだった﹂と述べた[115]。 サリー・ヘミングスの子供達は次のとおりだった。 ●ハリエット・ヘミングス︵1人目︶1795年10月5日 - 1797年12月7日 ●ビバリー・ヘミングス、︵恐らくウィリアム・ビバリー・ヘミングスにちなんだ︶1798年4月1日 - 1873年以降 ●名付けられなかった娘、︵恐らくヘミングスの姉妹テニアにちなんでテニアと名付けられた︶1799年生まれ、新生児で死亡 ●ハリエット・ヘミングス︵2人目︶1801年5月22日 - 1863年以降 ●マディソン・ヘミングス、︵恐らくジェイムズ・マディソン・ヘミングスにちなんだ︶1805年1月19日 - 1877年 ●エストン・ヘミングス、︵恐らくトマス・エストン・ヘミングスにちなんだ︶1808年5月21日 - 1856年 歴史家のアネット・ゴードン=リードは﹁サリー・ヘミングスの子供達のうち一人を除く全てがジェファーソンおよびランドルフの家系につながる者の名前を与えられ、そのことはトーマス・ジェファーソンにつながっている。ランドルフ家の名前ではない子供は、ジェファーソンの親友の一人ジェームズ・マディソンにちなんでいる。﹂と記した[116]。マディソンとエストンは大工として訓練され、腕の高い叔父のジョン・ヘミングスの所で徒弟奉公した。男の子3人は全てヴァイオリンを弾くことを覚えた。ビバリーはモンティチェロの舞踏会で演奏を求められるほどになった。成人したエストンは音楽家として生きていけるだけのものを稼げるほど上達した[116]。ジェファーソンはヴァイオリンを好んだ。ハリエットは機織りを教わったが、奴隷の子の大半が働き始める年齢よりも遅い14歳で働き始めた。 1822年、ビバリーとハリエットはそれぞれモンティチェロ出身の成人として﹁逃亡﹂した。ジェファーソンは彼らの後を追わせようとはせず、見付けようともしなかった。民生委員がハリエットの旅行費用を提供した。ハリエットはジェファーソンが法的に解放した唯一の女奴隷だった[117]。ヘミングス家はモンティチェロを離れ法的あるいは﹁事実上﹂自由人として生きた唯一の家族だった[118]。 ジェファーソンはその遺志でマディソンとエストンを解放し、議会には彼等が州内に留まることを許すよう請願もした。サリー・ヘミングスは﹁自由時間﹂を与えられた後でモンティチェロを去ることを許された。彼女はシャーロッツビルで死ぬまでの数年間、息子のマディソンやエストンとは離れて暮らした。しかし、子供達のうちの2人と同様に奴隷という法的な身分は変わらなかった。法によってジェファーソンは自立できる奴隷のみを解放することができた[119][120][121]。1830年の国勢調査では調査員がヘミングス家のうちの3人を白人に分類した[122]。 ビバリーとハリエットは弟のマディソンに拠れば、﹁良家の﹂白人の相手と結婚し、白人社会に入ったと言われる。マディソンは1873年にS・F・ウェットモアによるインタビューを元に出版した回想記﹃パイク郡の共和主義者﹄でその他のことと共にこのことを回想した。マディソンは彼とその兄弟がトーマス・ジェファーソンの子供であり、ジェファーソンは母のサリー・ヘミングスに子供達が大きくなったら解放することに合意したと述べた。ヘミングスの回想記の批判者はその不正確さを指摘したが、﹁ヘミングスのコメントの圧倒的多数は外部資料で証明されることを認めた[123]﹂。 マディソンとエストンは混血の女性と結婚した。母の死後、家族と共にバージニアを離れ、オハイオ州チリコシーに移転した。そこには大きな解放黒人の社会があり、多くの白人の間にも奴隷制廃止にむけた強い感情があった。ウェットモアの記事が掲載される何年も前に兄弟のトーマス・ジェファーソンとの関係に関する地元での談話があり、1902年の記事に掲載された[124]。 数年後の1852年、エストンは家族と共にウィスコンシン州に移り、そこで姓をジェファーソンに変えた。同時に彼と家族は白人社会に入った。エストンの長男ジョン・ウェイルズ・ジェファーソンは南北戦争では白人士官として従軍し大佐の位まで進んだ。 対照的にマディソン・ヘミングスとその子孫の大半は自分たちをアフリカ系アメリカ人と認めた。息子の一人は南北戦争のときに有色人連隊に入り、アンダーソンビル捕虜キャンプで死んだ[121]。20世紀に入ってマディソンの孫の一人フレデリック・マディソン・ロバーツはカリフォルニア州議会で初のアフリカ系アメリカ人議員となり、西海岸の州では初の公職に就いた黒人となった。著作[編集]
●パリからフランス南部とイタリア北部に旅したときのメモ (Memorandums taken on a journey from Paris into the southern parts of France and Northern Italy, in the year 1787) ︵1787年︶ ●イギリス領アメリカの権利に関する要約 (A Summary View of the Rights of British America) ︵1774年︶ ●自叙伝︵1821年︶ ●武器を取って立ち上がることの大義と必要性の宣言 (Declaration of the Causes and Necessity of Taking Up Arms) ︵1775年︶ ●バージニア覚書 (Notes on the State of Virginia) ︵1781年︶﹃ヴァジニア覚え書﹄中屋健一訳 (岩波文庫) 1972 ●ジェファーソン聖書、ナザレのイエスの生涯と道徳 (Jefferson Bible) ︵英文︶ ●アメリカ合衆国上院で使われるための議会運営マニュアル (Jefferson's Manual) ︵1801年︶ ●﹃トマス・ジェファソンと議会法﹄後藤光男,北原仁 監訳, 森下史郎, 平岡章夫, 村山貴子, 秋葉丈志共訳. 成文堂, 2008.3 ●1フォンテヌブロー、一七八五年一〇月二八日 ジェイムズ・マディソンあて書簡 2パリ、一七八九年九月六日 ジェイムズ・マディソンあて書簡︵書簡2︶3ニューヨーク、一七九〇年二月四日 ジェイムズ・マディソンからジェファーソンあて書簡︵書簡3 4モンティセロ、一八一三年八月一三日 アイザック・マクファーソンあて書簡︵書簡4) 5モンティセロ、一八二四年六月五日 ジョン・カートライト少佐あて書簡︵書簡5︶ ﹃大地の用益権は生きている人々に属する﹄森村進訳、2006 ﹃リバタリアンはこう考える﹄森村進訳、信山社、2013脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Jefferson, Thomas". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 15 (11th ed.). Cambridge University Press.
一次史料[編集]
- Thomas Jefferson: Writings: Autobiography / Notes on the State of Virginia / Public and Private Papers / Addresses / Letters (1984, ISBN 978-0-940450-16-5) Library of America edition. There are numerous one-volume collections; this is perhaps the best place to start.
- Thomas Jefferson, Political Writings ed by Joyce Appleby and Terence Ball. Cambridge University Press. 1999 online
- Lipscomb, Andrew A. and Albert Ellery Bergh, eds. The Writings Of Thomas Jefferson 19 vol. (1907) not as complete nor as accurate as Boyd edition, but covers TJ from birth to death. It is out of copyright, and so is online free.
- Edwin Morris Betts (editor), Thomas Jefferson's Farm Book, (Thomas Jefferson Memorial: December 1, 1953) ISBN 1-882886-10-0. Letters, notes, and drawings-a journal of plantation management recording his contributions to scientific agriculture, including an experimental farm implementing innovations such as horizontal plowing and crop-rotation, and Jefferson's own moldboard plow. It is a window to slave life, with data on food rations, daily work tasks, and slaves' clothing. The book portrays the industries pursued by enslaved and free workmen, including in the blacksmith's shop and spinning and weaving house.
- Boyd, Julian P. et al., eds. The Papers of Thomas Jefferson. The definitive multivolume edition; available at major academic libraries. 31 volumes covers TJ to 1800, with 1801 due out in 2006.
- The Jefferson Cyclopedia (1900) large collection of TJ quotations arranged by 9000 topics; searchable; copyright has expired and it is online free.
- The Thomas Jefferson Papers, 1606-1827, 27,000 original manuscript documents at the Library of Congress online collection
- Jefferson, Thomas. Notes on the State of Virginia (1787), London: Stockdale. This was Jefferson's only book
- Shuffelton, Frank, ed., (1998) Penguin Classics paperback: ISBN 0-14-043667-7
- Waldstreicher, David, ed., (2002) Palgrave Macmillan hardcover: ISBN 0-312-29428-X
- online edition
- Cappon, Lester J., ed. The Adams-Jefferson Letters (1959)
- Howell, Wilbur Samuel, ed. Jefferson's Parliamentary Writings (1988). Jefferson's Manual of Parliamentary Practice, written when he was vice-President, with other relevant papers
- Melton, Buckner F.: The Quotable Founding Fathers, Potomac Books, Washington D.C. (2004).
- Smith, James Morton, ed. The Republic of Letters: The Correspondence between Thomas Jefferson and James Madison, 1776-1826, 3 vols. (1995)
伝記[編集]
- Meacham, Jon (2012). Thomas Jefferson: The Art of Power. Random House LLC. ISBN 978-0679645368.
- ジョン・ミーチャム『トマス・ジェファソン 権力の技法』森本奈理訳、白水社(上下)、2020年。ISBN 978-4560097434&ISBN 978-4560097434
学術研究[編集]
- Ackerman, Bruce. The Failure of the Founding Fathers: Jefferson, Marshall, and the Rise of Presidential Democracy. (2005)
- Adams, Henry. History of the United States of America during the Administrations of Thomas Jefferson (1889; Library of America edition 1986) famous 4-volume history
- Wills, Garry, Henry Adams and the Making of America (2005), detailed analysis of Adams' History
- Banning, Lance. The Jeffersonian Persuasion: Evolution of a Party Ideology (1978)
- Brown, Stuart Gerry (1954). The First Republicans: Political Philosophy and Public Policy in the Party of Jefferson and Madison
- Channing; Edward. The Jeffersonian System: 1801-1811 (1906), "American Nation" survey of political history
- Dunn, Susan. Jefferson's Second Revolution: The Election Crisis of 1800 and the Triumph of Republicanism (2004)
- Elkins, Stanley and Eric McKitrick. The Age of Federalism (1995) in-depth coverage of politics of 1790s
- Fatovic, Clement. "Constitutionalism and Presidential Prerogative: Jeffersonian and Hamiltonian Perspectives." : American Journal of Political Science, 2004 48(3): 429-444. Issn: 0092-5853 Fulltext: in Swetswise, Ingenta, Jstor, and Ebsco
- Ferling, John (2004). Adams vs. Jefferson: The Tumultuous Election of 1800
- Finkelman, Paul. Slavery and the Founders: Race and Liberty in the Age of Jefferson (2001), esp ch 6-7
- Hatzenbuehler, Ronald L. "I Tremble for My Country": Thomas Jefferson and the Virginia Gentry, (University Press of Florida; 206 pages; 2007). Argues that the TJ's critique of his fellow gentry in Virginia masked his own reluctance to change
- Hitchens, Christopher (2005). Author of America: Thomas Jefferson. HarperCollins
- Horn, James P. P. Jan Ellen Lewis, and Peter S. Onuf, eds. The Revolution of 1800: Democracy, Race, and the New Republic (2002) 17 essays by scholars
- Jayne, Allen. Jefferson's Declaration of Independence: Origins, Philosophy and Theology (2000); traces TJ's sources and emphasizes his incorporation of Deist theology into the Declaration.
- Roger G. Kennedy. Mr. Jefferson's Lost Cause: Land, Farmers, Slavery, and the Louisiana Purchase (2003).
- Knudson, Jerry W. Jefferson and the Press: Crucible of Liberty. (2006)
- Lewis, Jan Ellen, and Onuf, Peter S., eds. Sally Hemings and Thomas Jefferson: History, Memory, Civic Culture. (1999)
- McDonald, Forrest. The Presidency of Thomas Jefferson (1987) intellectual history approach to Jefferson's Presidency
- Matthews, Richard K. "The Radical Political Philosophy of Thomas Jefferson: An Essay in Retrieval," Midwest Studies in Philosophy, XXVIII (2004)
- Mayer, David N. The Constitutional Thought of Thomas Jefferson (2000)
- Onuf, Peter S. Jefferson's Empire: The Languages of American Nationhood. (2000). Online review
- Onuf, Peter S., ed. Jeffersonian Legacies. (1993)
- Onuf, Peter. "Thomas Jefferson, Federalist" (1993) online journal essay
- Perry, Barbara A. "Jefferson's Legacy to the Supreme Court: Freedom of Religion." Journal of Supreme Court History 2006 31(2): 181-198. Issn: 1059-4329 Fulltext in Swetswise, Ingenta and Ebsco
- Peterson, Merrill D. The Jefferson Image in the American Mind (1960), how Americans interpreted and remembered Jefferson
- Rahe, Paul A. "Thomas Jefferson's Machiavellian Political Science". Review of Politics 1995 57(3): 449-481. ISSN 0034-6705 Fulltext online at Jstor and Ebsco.
- Sears, Louis Martin. Jefferson and the Embargo (1927), state by state impact
- Sloan, Herbert J. Principle and Interest: Thomas Jefferson and the Problem of Debt (1995). Shows the burden of debt in Jefferson's personal finances and political thought.
- Smelser, Marshall. The Democratic Republic: 1801-1815 (1968). "New American Nation" survey of political and diplomatic history
- Staloff, Darren. Hamilton, Adams, Jefferson: The Politics of Enlightenment and the American Founding. (2005)
- Taylor, Jeff. Where Did the Party Go?: William Jennings Bryan, Hubert Humphrey, and the Jeffersonian Legacy (2006), on Jefferson's role in Democratic history and ideology.
- Tucker, Robert W. and David C. Hendrickson. Empire of Liberty: The Statecraft of Thomas Jefferson (1992), foreign policy
- Urofsky, Melvin I. "Thomas Jefferson and John Marshall: What Kind of Constitution Shall We Have?" Journal of Supreme Court History 2006 31(2): 109-125. Issn: 1059-4329 Fulltext: in Swetswise, Ingenta and Ebsco
- Valsania, Maurizio. "'Our Original Barbarism': Man Vs. Nature in Thomas Jefferson's Moral Experience." Journal of the History of Ideas 2004 65(4): 627-645. Issn: 0022-5037 Fulltext: in Project Muse and Swetswise
- Wagoner, Jennings L., Jr. Jefferson and Education. (2004).
- Wiltse, Charles Maurice. The Jeffersonian Tradition in American Democracy (1935), analysis of Jefferson's political philosophy
- PBS interviews with 24 historians
- シャノン・ラニア『大統領ジェファソンの子どもたち』千葉茂樹 訳、晶文社、2004年、241頁。ISBN 47949-660-8-3
- 明石紀雄「ジェファソンの黒人観」『同志社アメリカ研究』第7号、pp.22-39, 同志社大学アメリカ研究所、1970年12月25日
宗教[編集]
- Gaustad, Edwin S. Sworn on the Altar of God: A Religious Biography of Thomas Jefferson (2001) Wm. B. Eerdmans Publishing, ISBN 0-8028-0156-0
- Sanford, Charles B. The Religious Life of Thomas Jefferson (1987) University of Virginia Press, ISBN 0-8139-1131-1
- Sheridan, Eugene R. Jefferson and Religion, preface by Martin Marty, (2001) University of North Carolina Press, ISBN 1-882886-08-9
- Edited by Jackson, Henry E., President, College for Social Engineers, Washington, D. C. "The Thomas Jefferson Bible" (1923) Copyright Boni and Liveright, Inc. Printed in the United States of America. Arranged by Thomas Jefferson. Translated by R. F. Weymouth. Located in the National Museum, Washington, D. C.
日本語文献[編集]
●ジェファーソン︵辻重四郎、大雅堂、1948年︶ ●トーマス・ジェファーソン︵長守善 刀江書院、1950年︶ ●新世界への序曲 ジェファーソンの生涯とその思想 ︵ジェネヴィーヴ・H.リシツキー 佐伯三郎訳、緑園書房︵カルチュア選書︶ 1954年︶ ●ジエファーソン 米国民主制度の創始者︵フィリップス・ラッセル 三輪武久訳、時事通信社︵時事新書︶、1958年︶ ●ジェファソン アメリカ独立革命︵富田虎男、誠文堂新光社︵歴史の人間像︶、1961年︶ ●トマス・ジェファソンと﹁自由の帝国﹂の理念 アメリカ合衆国建国史序説︵明石紀雄、ミネルヴァ書房、1993年3月︶ ●大奴隷主・麻薬紳士ジェファソン アメリカ史の原風景︵山本幹雄、阿吽社、1994年11月︶ ●モンティチェロのジェファソン アメリカ建国の父祖の内面史︵明石紀雄、ミネルヴァ書房︵Minerva西洋史ライブラリー︶、2003年3月︶ ●世界を新たにフランクリンとジェファソン アメリカ建国者の才覚と曖昧さ︵バーナード・ベイリン、大西直樹、大野ロベルト訳、彩流社、2011年1月︶ ●トマス・ジェファソン 権力の技法︵ジョン・ミーチャム、森本奈理訳、白水社 上・下、2020年︶著作の訳[編集]
●講演書簡集︵斎藤眞訳、︵世界大思想全集 哲学・文芸思想篇25︶河出書房新社、1959年︶ ●ジェファソンの民主主義思想︵ソール・K.パドーヴァー編、富田虎男訳、︵アメリカ思想史叢書︶有信堂、1961年︶ ●世界の名著33︵中央公論社、1970年︶ 松本重治責任編集 ●イギリス領アメリカの諸権についての意見の要約︵松本重治、高木誠訳︶、独立宣言︵高木八尺訳︶、ヴァジニア覚書︵松本重治、日高明三訳︶、ヴァジニア信教自由法・大統領第一次就任演説︵松本重治訳︶、書簡選集︵松本重治、高木誠訳︶ ●ヴァジニア覚え書︵中屋健一訳、岩波文庫、1972年︶ ●トマス・ジェファソンと議会法︵後藤光男、北原仁監訳、森下史郎、平岡章夫、村山貴子、秋葉丈志共訳、成文堂︵翻訳叢書︶、2008年︶関連書籍[編集]
●長守善﹃トーマス・ジェファーソン﹄刀江書院, 1950 ●フィリップス・ラッセル﹃ジエファーソン 米国民主制度の創始者﹄三輪武久 訳 時事通信社﹁時事新書﹂, 1958 ●ソール・K.パドーヴァー 編﹃ジェファソンの民主主義思想﹄アメリカ思想史叢書 富田虎男 訳 有信堂, 1961 ●富田虎男﹃ジェファソン アメリカ独立革命 歴史の人間像﹄誠文堂新光社, 1961 ●明石紀雄﹃トマス・ジェファソンと﹁自由の帝国﹂の理念 アメリカ合衆国建国史序説﹄ミネルヴァ書房, 1993 ●山本幹雄﹃大奴隷主・麻薬紳士ジェファソン アメリカ史の原風景﹄阿吽社, 1994 ●西川秀和﹃トマス・ジェファソン伝記事典﹄﹁アメリカ歴代大統領大全 第1シリーズ 建国期のアメリカ大統領3﹂大学教育出版, 2014.1 ●ジョン・ミーチャム﹃トマス・ジェファソン 権力の技法﹄上下、森本奈理 訳 白水社, 2020.2 ●明石紀雄﹃モンティチェロのジェファソン アメリカ建国の父祖の内面史﹄ミネルヴァ書房﹁Minerva西洋史ライブラリー﹂, 2003.3関連項目[編集]
●1792年アメリカ合衆国大統領選挙 - 1796年アメリカ合衆国大統領選挙 - 1800年アメリカ合衆国大統領選挙 - 1804年アメリカ合衆国大統領選挙 ●モンティチェロ ●アメリカ独立宣言 - アメリカ合衆国建国の父 ●ケンタッキー州およびバージニア州決議 ●ルイジアナ買収 ●アメリカ合衆国の哲学 ●アメリカ合衆国の啓蒙思想 ●ジェファーソンディスク - ジェファーソンが発明した暗号機。36枚の円盤があり、円盤の縁には1枚ごとに26文字のアルファベットがランダムな順で刻まれている。この暗号機の原理は後に再発明されて米軍の暗号機 M-94 となった。 ●ジェファーソニア - 植物 ●モンティチェロ協会 ●植民地主義 - 奴隷 ●同化政策 - インディアン戦争 ●優生学 - 白人至上主義 ●ベンジャミン・バネカー - ジェファーソンの黒人劣等論に反駁したアフリカ系科学者。 ●ジェファソン・イン・パリ/若き大統領の恋 - ニック・ノルティ主演、ジェームズ・アイヴォリー監督。駐フランス公使のころを描いた1995年の映画。 ●アサシン クリード III - ユービーアイソフト販売のコンピュータゲーム。ダウンロードコンテンツ﹁ワシントン王の圧政﹂に登場。 ●ハミルトン (ミュージカル) - アレクサンダー・ハミルトンの半生をリン=マヌエル・ミランダがミュージカル化した作品。2016年トニー賞11冠に輝き、ジェファーソン役のラッパー ダヴィード・ディッグスは助演男優賞を受賞。 ●マカロニ・アンド・チーズ - 原型を考えたと言われる。 ●フレンチフライズ - 米国大使としてパリに駐在後、アメリカにて広めたと言われる。外部リンク[編集]
- The Thomas Jefferson Encyclopedia, for information on TJ's life and times, written and referenced by historians at Monticello
- バージニア大学
- The Papers of Thomas Jefferson - Digital Edition
- Biography on White House website
- アメリカ議会図書館
- Library of Congress: Jefferson exhibition
- Library of Congress: Jefferson timeline
- Thomas Jefferson: A Resource Guide from the Library of Congress
- アメリカ合衆国国立公園局
- Monticello - Home of Thomas Jefferson
- Poplar Forest-Thomas Jefferson's second home
- "Frontline: Jefferson's blood: Chronology: The Sally Hemings story (1977), PBS
- The Papers of Thomas Jefferson at the Avalon Project
- United States Congress. "トーマス・ジェファーソン (id: J000069)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- Notes on the State of Virginia from American Studies at the University of Virginia.
- トーマス・ジェファーソンの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Online catalog of Thomas Jefferson's personal library, based on the catalog of books he sold to the Library of Congress in 1815
- トーマス・ジェファーソン:作家別作品リスト - 青空文庫
- 『ジェファソン(Thomas Jefferson)』 - コトバンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 ジョン・アダムズ |
アメリカ合衆国大統領 1801年3月4日 - 1809年3月4日 |
次代 ジェームズ・マディソン |
アメリカ合衆国副大統領 1797年3月4日 - 1801年3月4日 |
次代 アーロン・バー | |
先代 ジョン・ジェイ (アメリカ合衆国外務長官として) |
アメリカ合衆国国務長官 Served under: ジョージ・ワシントン 1790年3月22日 - 1793年12月31日 |
次代 エドムンド・ランドルフ |
先代 パトリック・ヘンリー |
バージニア州知事 1779年 - 1781年 |
次代 ウィリアム・フレミング(代行) トーマス・ネルソン・ジュニア(選出) |
党職 | ||
新党結成 | 民主共和党大統領候補 17961, 1800, 1804 |
次代 ジェームズ・マディソン |
外交職 | ||
先代 ベンジャミン・フランクリン |
在フランスアメリカ合衆国全権公使 1785年 - 1789年 |
次代 ウィリアム・ショート |
注釈 | ||
1. 1804年の憲法修正第12条の通過前、それぞれの大統領選挙人は2票を投票し、最多得票者が大統領に、次点候補が副大統領となることになっていた。したがって、1976年の大統領選では民主共和党はジェファーソンを大統領候補としたが、次点となったため副大統領に就任した。 |
- トーマス・ジェファーソン
- アメリカ合衆国の大統領
- アメリカ合衆国の副大統領
- アメリカ合衆国国務長官
- アメリカ合衆国の考古学者
- アメリカ合衆国の政治哲学者
- アメリカ合衆国の発明家
- アメリカ合衆国の弁護士
- アメリカ合衆国の著作家
- アメリカ合衆国の共和主義
- 18世紀アメリカ合衆国の建築家
- 19世紀アメリカ合衆国の建築家
- 18世紀アメリカ合衆国の哲学者
- 19世紀アメリカ合衆国の哲学者
- バージニア州知事
- バージニア州下院議員
- 在フランスアメリカ合衆国大使
- 大陸会議代表
- アメリカ独立宣言署名者
- アメリカ芸術科学アカデミー会員
- アメリカ合衆国の理神論者
- 啓蒙思想家
- アメリカ啓蒙関係者
- アメリカ合衆国のユニテリアン
- 白人優越主義
- 北米植民地戦争
- アメリカ合衆国のレイシズム
- アメリカ合衆国の奴隷制
- アメリカ大陸の植民地化
- イングランド系アメリカ人
- ウェールズ系アメリカ人
- 宗教懐疑論の人物
- インディアン戦争の人物
- アメリカ独立戦争の人物
- アメリカ合衆国ドル紙幣の人物
- オランダ王立芸術科学アカデミー会員
- アメリカ哲学協会会員
- ウィリアム・アンド・メアリー大学出身の人物
- バージニア植民地の人物
- バージニア州アルベマール郡出身の人物
- 1743年生
- 1826年没