「北川博敏」の版間の差分
CommonsDelinker (会話 | 投稿記録) Krd によってCommonsから削除された OB-Hirotoshi-Kitagawa.jpg を除去。理由: No license since 18 March 2024. |
|||
(28人の利用者による、間の43版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{画像改訂依頼|ヘッダ画像|[[阪神タイガース]]コーチ時代 (2020-)|date=2022年5月|cat=野球選手}} |
|||
{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
||
|選手名 |
| 選手名 = 北川 博敏 |
||
|所属球団 |
| 所属球団 = 阪神タイガース |
||
|役職 |
| 役職 = 二軍打撃コーチ |
||
|背番号 |
| 背番号 = 91 |
||
| |
| 画像 = Kitagawa hirotoshi.jpg |
||
| |
| 画像説明 = オリックス・コーチ時代<br />(2016年5月17日 [[秋田県立野球場|こまちスタジアム]]にて。) |
||
|国籍 |
| 国籍 = {{JPN}} |
||
|出身地 |
| 出身地 = [[兵庫県]][[伊丹市]] |
||
|生年月日 |
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1972|5|27}} |
||
|没年月日 |
| 没年月日 = |
||
|身長 |
| 身長 = 180 |
||
|体重 |
| 体重 = 95 |
||
|利き腕 |
| 利き腕 = 右 |
||
|打席 |
| 打席 = 右 |
||
|守備位置 |
| 守備位置 = [[一塁手]]、[[三塁手]]、[[捕手]] |
||
|プロ入り年度 |
| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1994}} |
||
|ドラフト順位 |
| ドラフト順位 = ドラフト2位(逆指名) |
||
|初出場 |
| 初出場 = 1995年8月16日 |
||
|最終出場 |
| 最終出場 = 2012年10月7日(引退試合) |
||
| 経歴 = |
|||
|年俸 = |
|||
|経歴 = |
|||
* [[埼玉県立大宮東高等学校]] |
* [[埼玉県立大宮東高等学校]] |
||
* [[日本大学硬式野球部|日本大学]] |
* [[日本大学硬式野球部|日本大学]] |
||
26行目: | 26行目: | ||
* [[大阪近鉄バファローズ]] (2001 - 2004) |
* [[大阪近鉄バファローズ]] (2001 - 2004) |
||
* [[オリックス・バファローズ]] (2005 - 2012) |
* [[オリックス・バファローズ]] (2005 - 2012) |
||
|経歴補足題 |
| 経歴補足題 = コーチ歴 |
||
|経歴補足 |
| 経歴補足 = |
||
* オリックス・バファローズ (2013 - 2014, 2016) |
* オリックス・バファローズ (2013 - 2014, 2016) |
||
* [[東京ヤクルトスワローズ]] (2017 - 2019) |
* [[東京ヤクルトスワローズ]] (2017 - 2019) |
||
34行目: | 34行目: | ||
'''北川 博敏'''︵きたがわ ひろとし、[[1972年]][[5月27日]] - ︶は、[[兵庫県]][[伊丹市]]<ref name="jinmei">プロ野球人名事典 2003︵2003年、日外アソシエーツ︶、183ページ</ref>出身の元[[プロ野球選手]]︵[[内野手]]、[[捕手]]︶、[[プロ野球コーチ|コーチ]]。
|
'''北川 博敏'''︵きたがわ ひろとし、[[1972年]][[5月27日]] - ︶は、[[兵庫県]][[伊丹市]]<ref name="jinmei">プロ野球人名事典 2003︵2003年、日外アソシエーツ︶、183ページ</ref>出身の元[[プロ野球選手]]︵[[内野手]]、[[捕手]]︶、[[プロ野球コーチ|コーチ]]。
|
||
現役時代には、[[阪神タイガース]]、[[大阪近鉄バファローズ]]、[[オリックス・バファローズ]]でプレー。大阪近鉄時代の{{By|2001年}}、パ・リーグ公式戦対オリックス・ブルーウェーブ |
現役時代には、[[阪神タイガース]]、[[大阪近鉄バファローズ]]、[[オリックス・バファローズ]]でプレー。大阪近鉄時代の{{By|2001年}}、パ・リーグ公式戦対オリックス・ブルーウェーブ戦にて'''[[北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打|代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打︵釣銭無し︶]]'''を放ったことで知られる。
|
||
{{By|2012年}}に現役を引退してからは、オリックスで一軍<ref name="sponichi151015">{{Cite news |title=オリックス 新コーチングスタッフ発表 西村ヘッド、高橋打撃コーチら |date=2015-10-15 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/15/kiji/K20151015011325490.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>・二軍打撃コーチや事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)を務めた。{{By|2017年}}から{{By|2019年}}まで[[東京ヤクルトスワローズ]]の二軍打撃コーチを担当した後に、{{By|2020年}}から打撃コーチとして阪神に復帰。 |
{{By|2012年}}に現役を引退してからは、オリックスで一軍<ref name="sponichi151015">{{Cite news |title=オリックス 新コーチングスタッフ発表 西村ヘッド、高橋打撃コーチら |date=2015-10-15 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/15/kiji/K20151015011325490.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>・二軍打撃コーチや事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)を務めた。{{By|2017年}}から{{By|2019年}}まで[[東京ヤクルトスワローズ]]の二軍打撃コーチを担当した後に、{{By|2020年}}から打撃コーチとして阪神に復帰。 |
||
42行目: | 42行目: | ||
出生から小学6年生の時まで伊丹市内で過ごした後に、中学1年生から[[埼玉県]][[志木市]]へ転居。当初は父親のみ単身赴任するつもりだったが、北川がそれを嫌い号泣しながら引き留めたために一家揃って埼玉に引っ越した<ref name="datafile62">プロ野球データファイル([[ベースボール・マガジン社]])第62号</ref>。 |
出生から小学6年生の時まで伊丹市内で過ごした後に、中学1年生から[[埼玉県]][[志木市]]へ転居。当初は父親のみ単身赴任するつもりだったが、北川がそれを嫌い号泣しながら引き留めたために一家揃って埼玉に引っ越した<ref name="datafile62">プロ野球データファイル([[ベースボール・マガジン社]])第62号</ref>。 |
||
[[埼玉県立大宮東高等学 |
[[埼玉県立大宮東高等学校]]では3年時に主将を務め、夏の[[全国高等学校野球選手権埼玉大会|埼玉大会]]決勝戦では本塁打を放つなど、同校初となる[[第72回全国高等学校野球選手権大会|全国選手権]]出場に貢献{{R|jinmei}}。三塁手、捕手等どこのポジションでも守り、宗像宣弘監督に﹁こんなに助かる選手はいない﹂と重宝された{{R|datafile62}}。また、高校の2学年先輩に[[山口幸司 (野球)|山口幸司]]がいた。
|
||
卒業後、[[東都大学野球連盟]]所属の[[日本大学]]に進学し、1学年下の[[高根澤力]]と正捕手のポジションを争う。2年秋には[[門奈哲寛]]とのバッテリーで[[真中満]]主将の下でリーグ優勝を経験。捕手としてレギュラーに定着した3年の春季リーグ戦で打率.471の好成績を残し首位打者を獲得{{R|jinmei}}、ベストナインにも選ばれ、同年の[[日米大学野球選手権大会]]日本代表に選出された。4年時には主将を務め、日米大学野球日本代表に再選。リーグ通算75試合出場、244打数66安打、打率.270、4本塁打、33打点。
|
卒業後、[[東都大学野球連盟]]所属の[[日本大学硬式野球部|日本大学]]に進学し、1学年下の[[高根澤力]]と正捕手のポジションを争う。2年秋には[[門奈哲寛]]とのバッテリーで[[真中満]]主将の下でリーグ優勝を経験。捕手としてレギュラーに定着した3年の春季リーグ戦で打率.471の好成績を残し首位打者を獲得{{R|jinmei}}、ベストナインにも選ばれ、同年の[[日米大学野球選手権大会]]日本代表に選出された。4年時には主将を務め、日米大学野球日本代表に再選。リーグ通算75試合出場、244打数66安打、打率.270、4本塁打、33打点。
|
||
[[1994年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1994年度ドラフト会議]]にて[[阪神タイガース]]から2位指名を受け入団([[希望入団枠制度|逆指名]]){{R|jinmei}}。背番号は'''9'''となった。 |
[[1994年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1994年度ドラフト会議]]にて[[阪神タイガース]]から2位指名を受け入団([[希望入団枠制度|逆指名]]){{R|jinmei}}。背番号は'''9'''となった。 |
||
=== 阪神時代 === |
=== 阪神時代 === |
||
1年目の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスター]]でMVPを受賞するなど |
1年目︵1995年︶の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスター]]でMVPを受賞するなど打力のある捕手として期待されたが、当時チームには[[関川浩一]]・[[矢野燿大|矢野輝弘]]などが活躍しており、北川もセールスポイントの打撃も一軍では結果を出せなかった。1998年には[[岡田彰布]]が2軍助監督に就任し︵岡田は2010年にオリックスの監督となり北川と再会することになる︶、北川は打率.327をマーク、ファームで首位打者争いをしたが結果は3位に終わった。︵打率1位は近鉄の[[衣川幸夫]]、2位は広島・[[高山健一]]︶打順は[[濱中治|濱中]]、[[関本賢太郎|関本]]とクリーンアップを打つことが多かった。
|
||
{{By|2000年}}には[[野村克也]]監督の息子・[[野村克則|カツノリ]]が加入したこともあり、出場機会に恵まれず7打数無安打に終わった。北川はこの年、シーズンオフに[[湯舟敏郎]]・[[山﨑一玄]]と共に[[酒井弘樹]]・[[面出哲志]]・[[平下晃司]]との3対3の[[トレード]]で[[大阪近鉄バファローズ]]へ移籍し、背番号も'''46'''となった。
|
|||
⚫ |
野村は、後に出した著書の一冊である﹁ああ、阪神タイガース﹂に |
||
⚫ |
野村は、後に出した著書の一冊である﹁ああ、阪神タイガース﹂にて当時、阪神の中で[[定詰雅彦]]と北川は捕手としては論外であったと書いており、両者とも野村が監督の時は出場試合が少なく途中でチームを去っており、野村からの評価は低かった<ref>{{Cite news |title=つねに明るい…藤田監督が1軍に引き上げた性格 |date=2019-10-26 |newspaper=サンケイスポーツ |last=上田 |first=雅昭 |url=https://www.sanspo.com/article/20191026-3SBT3TEL6ZMCPFY2OQ6WT6LCAA/ |accessdate=2020-07-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kakaku.com/tv/channel=12/programID=60973/episodeID=1008349/ |title=﹁水曜エンタ﹂ 2016年11月2日︵水︶放送内容 |date= |accessdate=2020-07-08 |publisher=価格.com |work=テレビ紹介情報}}</ref><ref>{{Cite news |title=阪神・北川コーチ、﹁マスコミ戦略﹂でチームを変える? 現役時代﹁因縁﹂と言われた”ノムさんの息子”とは意外な関係性 |date=2019-10-29 |newspaper=リアルライブ |last=飯山 |first=満 |url=https://npn.co.jp/article/detail/72823307 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。一方で、二軍監督時代から[[ウエスタン・リーグ]]で北川と対戦していた当時近鉄の[[梨田昌孝]]監督は、その北川のバッティングを高く評価しており近鉄編成に強く訴えて獲得に漕ぎ着けたという<ref>{{Cite news |title=︻近鉄の“赤ユニ”が復活︼当時の梨田昌孝二軍監督が語る“赤ユニ時代”の出会い |date=2019-05-09 |newspaper=週刊ベースボール |last=喜瀬 |first=雅則 |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190509-110 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。
|
||
=== 近鉄時代 === |
=== 近鉄時代 === |
||
{{By|2001年}}は、この年の1月4日に[[藤井寺球場]]で自主トレを開始。北川も﹁こんなにバットを振ったことはないですね﹂とコメントするほど練習した。梨田に認められて一軍に定着し、4月28日にプロ初本塁打を記録した。5月27日は北川の29歳の誕生日だったが、生まれて初めて[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]安打を放ち、さらに[[お立ち台]]で涙を流した。北川はその後2週間後にもサヨナラ打を放ち、さらに9月24日の対西武戦では代打として出場、[[松坂大輔]]から本塁打を放ち勝利に貢献している<ref>﹃サヨナラ近鉄バファローズ﹄P50</ref>。これでチームは優勝へのマジックナンバーを1とした。そして9月26日の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]戦で北川はオリックスの |
{{By|2001年}}は、この年の1月4日に[[藤井寺球場]]で自主トレを開始。北川も﹁こんなにバットを振ったことはないですね﹂とコメントするほど練習した。北川は梨田監督に認められて一軍に定着し、4月28日にプロ初本塁打を記録した。5月27日は北川の29歳の誕生日だったが、生まれて初めて[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]安打を放ち、さらに[[お立ち台]]で涙を流した。北川はその後2週間後にもサヨナラ打を放ち、さらに9月24日の対西武戦では代打として出場、[[松坂大輔]]から本塁打を放ち、勝利に貢献している<ref>﹃サヨナラ近鉄バファローズ﹄P50</ref>。これでチームは優勝へのマジックナンバーを1とした。そして9月26日の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]戦で北川はオリックスの守護神・[[大久保勝信]]から代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、チーム12年ぶりのリーグ優勝を決めた︵﹁[[北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]﹂も参照。︶。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]との[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では1勝4敗に終わり、日本一を逃したものの全試合に出場して14打数7安打、打率.500の好成績を残した。シーズンでも本塁打は全て代打で放った。
|
||
{{By|2002年}}は[[オープン戦]]で負傷し、43試合・打率.266・1本塁打・8打点と精彩を欠いた。 |
{{By|2002年}}は[[オープン戦]]で負傷し、43試合・打率.266・1本塁打・8打点と精彩を欠いた。 |
||
{{By|2003年}}は |
{{By|2003年}}は5月25日の試合で不振の[[中村紀洋]]に代わって自身初の4番に座るなどして出場99試合、打率.309、13本塁打、50打点の成績を残した。
|
||
{{By|2004年}}は |
{{By|2004年}}は打撃を活かすため内野手へ転向。しかし、開幕前に[[吉岡雄二]]が負傷したこともあって北川も開幕スターティングメンバーに名を連ね、この年もアテネ五輪に出場した中村の代わりに4番に座っている<ref>﹃さらば大阪近鉄バファローズ﹄P33</ref>。この年、在籍する近鉄とオリックスとの球団合併問題が浮上。9月の[[プロ野球ストライキ|ストライキ]]のあった2試合を除く133試合にフル出場、打率.303・20本塁打・88打点の自己最高成績を収めて[[規定打席]]にも初めて到達した{{Efn2|同年のパ・リーグで全試合出場を果たしたのは、北川・[[中島裕之]]・[[川﨑宗則]]の3人だけだった。}}。シーズン最終戦だった9月27日の対オリックス戦では4回表に[[具臺晟]]からソロ本塁打を放ち、これが大阪近鉄バファローズ最後の本塁打・打点となった。北川もシーズン終了後、大阪近鉄の合併消滅に伴い発足した新球団・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]との[[プロ野球再編問題 (2004年)|選手分配ドラフト]]を経てオリックスに所属することとなり、背番号も'''23'''となった。
|
||
=== オリックス時代 === |
=== オリックス時代 === |
||
⚫ | |||
[[File:OB-Hirotoshi-Kitagawa.jpg|right|thumb|200px|現役時代(2008年6月8日、[[阪神甲子園球場]])]] |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | {{By|2006年}}も開幕から中軸打者として活躍したが、シーズン中盤の試合中にダイビングキャッチを試みた際に右肩を損傷。右肩関節唇損傷で選手生命を左右するほどの重傷と判明するが、8月13日の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦まで強行出場した。その後、一軍登録抹消されて同月17日に手術を受け、残りの試合は欠場した。 |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ |
{{By|2008年}}は |
||
⚫ |
{{By|2008年}}は春季キャンプ中に[[肉離れ]]をおこし、開幕二軍スタートとなった。4月29日の楽天戦より一軍に合流。[[グレッグ・ラロッカ|グレグ・ラロッカ]]の離脱に伴い、[[三塁手]]で起用されることとなった{{Refnest|本人のブログによると、三塁を守るのは約12年ぶりのことだった<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/hirotoshi-kitagawa/entry-10095844210.html |title=大敗…(+_+) |accessdate=2020-07-08 |publisher=Ameba |last=北川 |first=博敏 |date=2008-05-11 |website=[[アメーバブログ]] |work=オリックス・バファローズ北川博敏オフィシャルブログ﹁SMILEY DIARY﹂}}</ref>。|group=注}}。5月16日の対ロッテ戦では、[[渡辺俊介]]から2打席連続本塁打を放ち、自己最多の1試合6打点を記録した。しかし夏場以降は調子を落とし、復帰直後は5番だった打順も終盤は6・7番あたりに下げられるケースが多くなる。得点圏打率も.244と伸び悩み、規定打席にも2年ぶりに到達しないなど、自身にとって不本意なシーズンとなった。一方で2005年以来の2桁本塁打を放ち、2年連続で[[犠牲フライ]]数がリーグトップを記録した。
|
||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ |
{{By|2010年}}は |
||
|
|||
⚫ |
{{By|2010年}}は開幕戦を4番・DHのスタメン出場で迎えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2010/games/s2010032000089.html |title=2010年3月20日 ︻公式戦︼ 試合結果 ︵オリックスvs東北楽天︶ |access-date=2023-02-18 |publisher=NPB.jp 日本野球機構 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230218100417/https://npb.jp/bis/2010/games/s2010032000089.html |archive-date=2023-02-18}}</ref>。本職である一塁手は[[アレックス・カブレラ]]や[[T-岡田]]に奪われ、DHでの出場が多かったが、打撃ではハイアベレージを記録。6月2日の[[中日ドラゴンズ]]戦では、7点ビハインドの8回裏に3点返したあとの無死満塁の打席で、[[髙橋聡文]]から<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2010/games/s2010060200725.html |title=2010年6月2日 ︻公式戦︼ 試合結果 ︵オリックスvs中日︶ |access-date=2023-02-18 |publisher=NPB.jp 日本野球機構}}</ref>同点満塁本塁打を放ち、チームのサヨナラ勝ちに貢献した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/06/02/kiji/K20100602Z00001430.html |title=北川“あの日”以来9年ぶり満塁アーチ |access-date=2023-02-18 |date=2010年6月2日 |website=スポニチ Sponichi Annex 野球 |publisher=スポーツニッポン新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230218095849/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/06/02/kiji/K20100602Z00001430.html |archive-date=2023-02-18}}</ref>。その後も北川は主力打者として活躍し続けたが、8月13日から登録抹消はされなかったものの10試合を欠場した。これは7月14日のロッテ戦で左脛に自打球を当てた影響で、蜂窩(ほうか)織炎による発熱を発症したためであった。復帰後は9月に100本塁打、1000本安打と節目の記録を次々と達成した。最終的には119試合に出場して打率.306、12本塁打61打点の成績を収めた。
|
||
{{By|2011年}}は |
{{By|2011年}}はキャンプ中に左腓骨骨折と肉離れを併発する。その後震災の影響で開幕が遅れたこともあり、開幕戦の復帰には間に合ったものの、完治していない状態で強行出場することとなる。主に5番指名打者・代打で出場し、6月12日の巨人戦では8回裏に[[澤村拓一]]から決勝2点本塁打を放つ活躍も見せた。しかし6月26日にロッテ戦︵[[千葉マリンスタジアム]]︶で7回表に左翼線に安打を放ったものの、二塁への走塁中に左足を負傷したため、途中交代後にベンチ裏で応急処置を施された上で試合後に帰阪した<ref>{{Cite news |title=北川 左アキレス腱断裂か…27日に精密検査 |date=2011-06-27 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/27/kiji/K20110627001096490.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。診断の結果、全治6か月の[[アキレス腱断裂]]の大怪我であったため翌日縫合手術が行われた<ref>{{Cite news |title=北川、左アキレス腱断裂で手術…今季絶望に |date=2011-06-28 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/28/kiji/K20110628001102940.html |accessdate=2020-07-08}}</ref><ref>{{Cite news |title=オリ北川全治6カ月、アキレス腱断裂手術 |date=2011-06-28 |newspaper=日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20110628-796619.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。この結果、残りシーズンを棒に振った。
|
||
{{By|2012年}}も開幕一軍入りし、6月5日のヤクルト戦︵京セラドーム︶で8回裏に[[押本健彦]]からアキレス腱断裂後初の本塁打を放つ<ref name="daily20120606">{{Cite news |title=オリ北川、アキレス腱断裂から復活弾 |date=2012-06-06 |accessdate=2012-10-10 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304113319/http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archivedate=2016-03-04}}</ref><ref name="sponichi20120606">{{Cite news |title=北川 アキレス腱断裂から復帰後初本塁打﹁記憶に残る﹂ |date=2012-06-06 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/06/kiji/K20120606003404460.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。試合後のヒーローインタビューは﹁2対0からだったから﹂と辞退し{{R|daily20120606}}、報道陣が集まったことに対しては﹁まるで引退する時みたい。まだやめませんよ﹂とコメントしたが{{R|sponichi20120606}}、結果としてこれが現役最後の本塁打となった。7月16日に登録抹消され、この時﹁もう潮時かな﹂という気持ちになったことを引退試合後の会見時に述べている<ref>{{Cite web |
{{By|2012年}}も開幕一軍入りを果たし、6月5日のヤクルト戦︵京セラドーム︶で8回裏に[[押本健彦]]からアキレス腱断裂後初の本塁打を放つ<ref name="daily20120606">{{Cite news |title=オリ北川、アキレス腱断裂から復活弾 |date=2012-06-06 |accessdate=2012-10-10 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304113319/http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archivedate=2016-03-04}}</ref><ref name="sponichi20120606">{{Cite news |title=北川 アキレス腱断裂から復帰後初本塁打﹁記憶に残る﹂ |date=2012-06-06 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/06/kiji/K20120606003404460.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。試合後のヒーローインタビューは﹁2対0からだったから﹂と辞退し{{R|daily20120606}}、報道陣が集まったことに対して北川は﹁まるで引退する時みたい。まだやめませんよ﹂とコメントしたが{{R|sponichi20120606}}、結果としてこれが北川の現役最後の本塁打となった。7月16日に登録抹消され、北川はこの時﹁もう潮時かな﹂という気持ちになったことを引退試合後の会見時に述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2693.html |title=北川博敏選手、引退会見 |accessdate=2020-07-08 |publisher=オリックス・バファローズ |date=2012-10-07}}</ref>。10月3日に現役引退を発表し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2686.html |title=北川博敏選手 現役引退のお知らせ |accessdate=2020-07-08 |publisher=オリックス・バファローズ |date=2012-10-03}}</ref>、10月7日の本拠地最終戦の対西武戦︵京セラドーム︶を引退試合として5番・一塁として先発出場し、5回裏二死二塁の場面でレフトオーバー適時二塁打を放った<ref>{{Cite news |title=︻オリックス︼北川引退試合で適時打! |date=2012-10-07 |newspaper=日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121007-1029287.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。
|
||
=== 現役引退後 === |
=== 現役引退後 === |
||
{{By|2012年}}11月4日に |
{{By|2012年}}11月4日にオリックスの二軍打撃コーチへ就任することが球団から発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/2732.html |title=2013年度コーチングスタッフ発表のお知らせ |accessdate=2020-07-08 |publisher=オリックス・バファローズ |date=2012-11-04}}</ref>。{{By|2014年}}のシーズン終了まで務めた。
|
||
2014年11月1日付で、オリックスの事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)に転身。自身初のフロント業務で、少年野球の指導や、新規ファンの開拓に向けたPR、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]内の有料見学ツアー(ドームツアー)のガイドなどに携わっていた。球団では、北川のPM就任を機に |
2014年11月1日付で、オリックスの事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)に転身。自身初のフロント業務で、少年野球の指導や、新規ファンの開拓に向けたPR、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]内の有料見学ツアー(ドームツアー)のガイドなどに携わっていた。球団では、北川のPM就任を機にPMとしての北川の公式ブログ「PEI's TIME」を公式サイト内に開設。{{By|2015年}}のプロ野球シーズン中には、[[J SPORTS]]の球団主管試合中継や、[[東日本放送]]制作のオリックス戦中継で随時解説を担当した。同年4月から[[TwellV]]で放送を開始した球団情報番組「[https://www.twellv.co.jp/program/sports/orix.html オリックス日和]」では、元[[BsGirls]]リーダーでキッズチアインストラクターのKYOKOと共に、MCを務めていた。 |
||
{{By|2015年}}10月14日 |
{{By|2015年}}10月14日、オリックスの一軍打撃コーチへ就任することが球団から発表{{R|sponichi151015}}。自身2年ぶりの現場復帰を果たしたが、翌{{By|2016年}}3月までは、﹃オリックス日和﹄のMCも続けていた。同年10月2日付で退団した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buffaloes.co.jp/news/detail/5774.html |title=コーチ退団のお知らせ |accessdate=2020-07-08 |publisher=オリックス・バファローズ |date=2016-10-02}}</ref>後に、{{By|2017年}}から{{By|2019年}}まで、大学の先輩である真中監督率いるヤクルトで二軍の打撃コーチを担当<ref>{{Cite news |title=野口氏、20年ぶり燕復帰!二軍バッテリーコーチ就任で若手育成へ |date=2016-10-28 |newspaper=サンケイスポーツ |url=https://www.sanspo.com/article/20161028-4KMLULKOZNKUDMYSRAUMTXV66Q/ |page=1 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。コーチ2年目の{{By|2018年}}に[[九州学院高等学校]]から入団した[[村上宗隆]]を短期間で一軍の主力打者に育て上げた<ref name="sanspo20191017">{{Cite news |title=村上鍛えた男!北川氏が19年ぶり阪神復帰、二軍打撃コーチへ |date=2019-10-17 |newspaper=サンケイスポーツ |url=https://www.sanspo.com/article/20191017-IJGT4THZM5KS7C2R37CVAOACT4/ |accessdate=2020-07-08}}</ref>手腕を買われ、{{By|2020年}}に阪神の二軍打撃コーチへ招聘された{{R|sanspo20191017}}。阪神には現役選手時代以来19年ぶりの復帰で、背番号は'''80'''<ref>{{Cite news |title=阪神OBの北川氏が20年ぶりにタテジマ復帰 打撃コーチ就任会見で﹁プロ1年目と同じユニホームが着れる喜び﹂ |date=2019-10-25 |newspaper=サンケイスポーツ |url=https://www.sanspo.com/article/20191025-MRLZVPFUCZMEDM7VRJBOF7IQYE/ |accessdate=2020-07-08}}</ref><ref name="daily20191025">{{Cite news |title=北川新打撃コーチが就任会見で早速“スマイリー”19年ぶり縦じまに﹁喜び﹂ |date=2019-10-25 |newspaper=デイリースポーツ |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2019/10/25/0012819487.shtml |accessdate=2020-07-08}}</ref>。{{By|2021年}}シーズンからは一軍を担当していたが、2023年からは二軍打撃コーチで背番号は91に変更。
|
||
== プレースタイル == |
== プレースタイル == |
||
驚異的な勝負強さが魅力の強打者<ref>{{Cite web |
驚異的な勝負強さが魅力の強打者<ref>{{Cite web|和書|title=阪神北川コーチ﹁スパイス的要素に﹂井上1軍推薦も |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202011210001313.html |website=日刊スポーツ |date=2020-11-21 |accessdate=2022-04-15 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=週べが選んだ12球団コーチングスタッフ勝手にベストナイン!/ヤクルト編 {{!}} 野球コラム |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190319-01 |website=週刊ベースボールONLINE |date=2019-03-19 |accessdate=2022-04-15 |language=ja}}</ref>。勝負強さを引き出す秘訣として﹁思い切りの良さ、結果を気にしないこと、いかに平常心でいられるか﹂と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=︻’21虎キーマン直撃︼阪神・北川打撃コーチ掲げた井上1軍への3カ条 |url=https://www.sanspo.com/article/20201122-S2LVTOOJR5KGLFQUV67PHWZLEE/ |website=サンスポ |date=2020-11-22 |accessdate=2022-04-15 |language=ja |author=SANKEI DIGITAL INC}}</ref>。
|
||
[[バント]]は高校時代に猛練習をしたことから自信を持っており、実際に試合でも決めている<ref>{{Cite news |title=岡田マジックよ「5番にバント」 |date=2011-04-24 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |accessdate=2020-10-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111123153426/http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |archivedate=2011-11-23}}</ref>。 |
[[バント]]は高校時代に猛練習をしたことから自信を持っており、実際に試合でも決めている<ref>{{Cite news |title=岡田マジックよ「5番にバント」 |date=2011-04-24 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |accessdate=2020-10-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111123153426/http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |archivedate=2011-11-23}}</ref>。 |
||
近鉄時代の打撃コーチだった[[正田耕三]]は﹁︵北川は︶練習でやったことを試合で出せるタイプ。代打出場でも場面、対戦相手など頭に入れ冷静に準備ができる﹂と評している<ref>{{Cite web |
近鉄時代の打撃コーチだった[[正田耕三]]は﹁︵北川は︶練習でやったことを試合で出せるタイプ。代打出場でも場面、対戦相手など頭に入れ冷静に準備ができる﹂と北川を評している<ref>{{Cite web|和書|title=ミラクル男・北川博敏打撃コーチが﹁2021猛虎打線﹂のカギ握る – 東京スポーツ新聞社 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/212525 |website=東スポWeb |date=2020-11-14 |accessdate=2022-04-15 |language=ja}}</ref>。
|
||
元々のポジションである捕手は内野手転向後は守る機会が減った。ただし2004年に捕手を使い果たした試合で梨田 |
元々のポジションである捕手は内野手転向後は守る機会が減った。ただし、2004年に捕手を使い果たした試合で近鉄の梨田監督が﹁延長戦となったら北川を捕手で使うつもりだった。久々に北川の捕手が見られると思ったのに︵同点に追い付けず敗れて︶残念﹂と語っている<ref>2004年9月13日 サンケイスポーツ5面記事 他</ref>。
|
||
== 人物 == |
== 人物 == |
||
常に笑顔を絶やさず阪神時代から'''スマイリー'''の愛称を持ち{{R|daily20191025}}、顔が似ていることから'''[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]'''とも言われている<ref>{{Cite news |title=いてまえ魂や!阪神打撃コーチに北川博敏氏招へいへ |date=2019-10-17 |newspaper=日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910160000953.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。また自身のヒッティングマーチにもあるように近鉄時代の優勝を決めた[[サヨナラゲーム#代打逆転サヨナラ満塁釣り銭なし優勝決定本塁打|代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]のインパクトの強さから﹁奇跡を呼び込む男﹂と呼ばれていた︵具体的にはヒッティングマーチの歌詞がこの一打により、翌2002年から上記のフレーズが入ったものに変更になった。結果的に一振りで歌詞が変わってしまうという極めて稀なことが起こっている︶。
|
北川は常に笑顔を絶やさず、阪神時代から'''スマイリー'''の愛称を持ち{{R|daily20191025}}、顔が似ていることから'''[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]'''とも言われている<ref>{{Cite news |title=いてまえ魂や!阪神打撃コーチに北川博敏氏招へいへ |date=2019-10-17 |newspaper=日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910160000953.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。また自身のヒッティングマーチにもあるように近鉄時代の優勝を決めた[[サヨナラゲーム#代打逆転サヨナラ満塁釣り銭なし優勝決定本塁打|代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]のインパクトの強さから﹁奇跡を呼び込む男﹂と呼ばれていた︵具体的にはヒッティングマーチの歌詞がこの一打により、翌2002年から上記のフレーズが入ったものに変更になった。結果的に一振りで歌詞が変わってしまうという極めて稀なことが起こっている︶。
|
||
近鉄在籍時の2003年から兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で結成された[[NPO]]法人「[[伊丹アスリートクラブ]]」の理事としても活動<ref>{{Cite web |
近鉄在籍時の2003年から兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で結成された[[NPO]]法人「[[伊丹アスリートクラブ]]」の理事としても活動<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iac-npo.net/%E5%9B%A3%E4%BD%93%E6%A6%82%E8%A6%81/ |title=団体概要 |date= |accessdate=2020-07-08 |publisher=伊丹アスリートクラブ}}</ref>。オフシーズンには市内でイベントを開いている。オリックス時代にはシーズン中に「北川ホームラン基金」(本拠地への招待企画)を実施していた。 |
||
ひょうきんな性格で知られ近鉄時代の2003年から現役を引退するまで |
ひょうきんな性格で知られ、近鉄時代の2003年から現役を引退するまでは﹁[[逆転イッパツマン]]﹂︵[[タイムボカンシリーズ]]︶のオープニングテーマ曲を本拠地でのバッティングテーマ曲に用いていた︵球団合併後の2009年以降はチャンス時のみ。︶。2002年は﹁KC&ザ・サンシャイン・バンド﹂の﹁That's the way (I Like It) ﹂だった。
|
||
趣味は釣り・[[ザリガニ]]飼育でオフには自身のブログにその様子を掲載している。 |
趣味は釣り・[[ザリガニ]]飼育でオフには自身のブログにその様子を掲載している。 |
||
好きなアーティストは[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]で、オリックス移籍後の2009年から現役引退までスピッツの楽曲をバッティングテーマ曲に用いていた。またライブにも度々訪れている。メンバーの[[草野マサムネ]]とは交流も深くブログにも登場している。 |
好きなアーティストは[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]で、北川もオリックス移籍後の2009年から現役引退までスピッツの楽曲をバッティングテーマ曲に用いていた。またスピッツのライブにも度々訪れている。メンバーの[[草野マサムネ]]とは交流も深く、ブログにも登場している。
|
||
=== 代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打 === |
=== 代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打 === |
||
{{Main|北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ |
オリックスは8回途中から守護神・大久保勝信を送る。9回裏、近鉄は先頭の6番吉岡が出塁、続く7番川口が二塁打、8番[[ショーン・ギルバート]]のところで代打の[[益田大介]]が四球を選んで無死満塁とした。ここで最初から |
||
⚫ |
オリックスは8回途中から守護神・[[大久保勝信]]を送る。9回裏、近鉄は先頭の6番吉岡が出塁、続く7番川口が二塁打、8番[[ショーン・ギルバート]]のところで代打の[[益田大介]]が四球を選んで無死満塁とした。ここで最初から近鉄の梨田監督は、﹁アイツしかいない。今年のアイツは何かをやる﹂として<ref name="SN07828">{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_september/KFullNormal20070828150.html |title=︻9月26日︼2001年︵平13︶ 近鉄最後のV 決まり手は代打逆転サヨナラ満塁弾 |date= |accessdate=2012-10-11 |publisher=スポーツニッポン |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160308205114/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_september/KFullNormal20070828150.html |archivedate=2016-03-08 |deadlinkdate=2020-07}}</ref>、この試合3打席凡退だった[[古久保健二]]の代打として北川を打席に送る。
|
||
⚫ | 北川は |
||
⚫ | 北川は満塁となった状況、さらには元々7回の古久保の打順で代打に送られる予定が川口の本塁打で変更になったというタイミングもあり、「初球のど真ん中の直球にまったく動けなかった」という。そしてカウント0ボール2ストライクからの3球目を見送ったところで「球の見極めはできていると確信し、これで地に足がつきましたね」とコメントしている<ref>{{Cite news |title=史上初代打逆転サヨナラ満塁優勝決定HRを近鉄・北川振り返る |date=2013-10-01 |newspaper=週刊ポスト |url=https://www.news-postseven.com/archives/20131001_214357.html?DETAIL |accessdate=2020-07-08 |issue=2013年10月11日号}}</ref>。 |
||
⚫ | カウント1ボール2ストライクとなった4球目。大久保が「真っ直ぐ狙いのような気がした。[[スライダー (球種)|スライダー]]で打ち取ろうと思った」として投じたスライダーが真ん中に入り{{R|SN07828}}、北川は「(大久保の手から)球が離れた瞬間、これはと感じて素直に振りぬいた」「打った瞬間、野手の間は抜けると思ったが、本塁打になるとは思ってなかった」とした打球はバックスクリーン左横に飛びこむ、日米プロ野球初となる「'''釣銭無し'''{{Efn2|その本塁打でちょうど1点だけ勝ち越すことを表す俗語。}}」+「'''優勝決定'''」の「代打逆転サヨナラ満塁本塁打」になった。優勝決定に限定せず、「釣銭無しの代打逆転サヨナラ満塁本塁打」としても45年ぶり2人目。「代打逆転サヨナラ満塁本塁打」としては6人目、近鉄では{{By|1984年}}の[[柳原隆弘]]以来2人目<ref>週刊ベースボール 2011年11月7日号P96</ref>。最終的なスコアは6対5、チームのパ・リーグ優勝が決定した<ref>この節のここまでの出典は特記ない場合、日刊スポーツ出版社発行『サヨナラ近鉄バファローズ』P50-53、及び、ベースボール・マガジン社発行『さらば大阪近鉄バファローズ』『週刊ベースボール別冊』2004年冬季号)P32-33とする</ref>。 |
||
⚫ |
カウント1ボール2ストライクとなった4球目。大久保が﹁真っ直ぐ狙いのような気がした。[[スライダー (球種)|スライダー]]で打ち取ろうと思った﹂として投じたスライダーが真ん中に入り{{R|SN07828}}、北川は﹁︵大久保の手から︶球が離れた瞬間、これはと感じて素直に振りぬいた﹂﹁打った瞬間、野手の間は抜けると思ったが、本塁打になるとは思ってなかった﹂とした打球はバックスクリーン左横に飛びこむ、日米プロ野球初となる﹁'''釣銭無し'''{{Efn2|その本塁打でちょうど1点だけ勝ち越すことを表す俗語。}}﹂+﹁'''優勝決定'''﹂の﹁代打逆転サヨナラ満塁本塁打﹂になった。優勝決定に限定せず、﹁釣銭無しの代打逆転サヨナラ満塁本塁打﹂としても45年ぶり2人目。﹁代打逆転サヨナラ満塁本塁打﹂としては6人目、近鉄では{{By|1984年}}の[[柳原隆弘]]以来2人目となった<ref>週刊ベースボール 2011年11月7日号P96</ref>。最終的なスコアは6対5、チームのパ・リーグ優勝が決定した<ref>この節のここまでの出典は特記ない場合、日刊スポーツ出版社発行﹃サヨナラ近鉄バファローズ﹄P50-53、及び、ベースボール・マガジン社発行﹃さらば大阪近鉄バファローズ﹄﹃週刊ベースボール別冊﹄2004年冬季号︶P32-33とする</ref>。
|
||
打った側と打たれた側のそれぞれの監督である梨田と[[仰木彬]]はその年のオフ、両チームの監督を務めた経験もある[[西本幸雄]]を交えて対談しており、この時の状況について、仰木は「オリックスの勝ちペースで今日は梨田の胴上げを見ずに済む」と考えていたが、「8回から雲行きがおかしくなった」として、「9回に満塁になった時はもう完全に予測できるくらい(笑)」とコメントしている。また試合前には「おめでとう、胴上げされても泣くなよ」と梨田に言っており、梨田も「今日は勝たせてくれるのかな」と思ったとしているが、仰木は「心情的にはあったかもしれないけど、最後は本気になって勝ちにいった」とコメントしている。一方の梨田は「『北川にホームランが出たら代打逆転サヨナラ満塁本塁打で優勝だな』という気持ちがほんのちょっとあった」としつつ、「大部分は『頼むからダブルプレーだけは勘弁してくれ』という気持ちだった」としている。西本はこの試合をスタンドで仕事として観戦しており「あんな絵に描いたような奇跡は起こるわけがないと思ってた」とコメント、北川の起用については「何度かサヨナラ打を打っているラッキーボーイ的存在で、いい人選だった」としている<ref>『さらば大阪近鉄バファローズ』P100</ref>。 |
|||
2010年に[[日本野球機構]]が、﹁最高の試合﹂﹁名場面・名勝負﹂を選んだときにいずれでも、この時の試合が﹁総合﹂2位などに選ばれた<!-- この一文は意味がはっきりしない -->。ここで、北川の一打は﹁“特盛”の一打﹂と形容されている。打った北川のみならず、打たれた大久保や、北川を代打に出された古久保もこの場面に投票している<ref>{{Cite web |url=http://fan.npb.or.jp/slogan/2010/game/score/2001092601.html |title=2001年9月26日 大阪近鉄-オリックス26回戦 ︵大阪ドーム︶ |date= |accessdate=2012-06-21 |publisher=日本野球機構 |website=2010年NPBスローガン﹁ここに、世界一がある﹂スペシャルコンテンツ |work=﹁最高の試合﹂﹁名場面・名勝負﹂ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160430173032/http://fan.npb.or.jp/slogan/2010/game/score/2001092601.html |archivedate=2016-04-30 |deadlinkdate=2020-07}}</ref>。
|
|||
== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
||
296行目: | 295行目: | ||
* 1000安打:2010年9月21日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]23回戦([[札幌ドーム]])、9回表に[[武田久]]から中前適時打 ※史上261人目 |
* 1000安打:2010年9月21日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]23回戦([[札幌ドーム]])、9回表に[[武田久]]から中前適時打 ※史上261人目 |
||
; その他の記録 |
; その他の記録 |
||
* 代打逆転サヨナラ満塁本塁打:2001年9月26日、対オリックス・ブルーウェーブ26回戦([[大阪ドーム]])、9回裏、[[大久保勝信]]から中越サヨナラ満塁本塁打 ※史上6人目、優勝決定は史上初 |
|||
* [[全球団から本塁打]]:2008年6月23日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、9回表に[[林昌勇]]から左越ソロ ※史上14人目 |
* [[全球団から本塁打]]:2008年6月23日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、9回表に[[林昌勇]]から左越ソロ ※史上14人目 |
||
303行目: | 303行目: | ||
* '''23'''(2005年 - 2012年) |
* '''23'''(2005年 - 2012年) |
||
* '''85'''(2013年 - 2014年、2016年 - 2019年) |
* '''85'''(2013年 - 2014年、2016年 - 2019年) |
||
* '''80'''(2020年 - ) |
* '''80'''(2020年 - 2022年) |
||
* '''91'''(2023年 - ) |
|||
=== 登場曲 === |
=== 登場曲 === |
||
325行目: | 326行目: | ||
* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]] |
* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]] |
||
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]] |
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]] |
||
* [[北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]] |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
330行目: | 332行目: | ||
{{BASEBALLstats|brjpn=kitaga001hir|cube=Hirotoshi-Kitagawa}} |
{{BASEBALLstats|brjpn=kitaga001hir|cube=Hirotoshi-Kitagawa}} |
||
{{阪神タイガース}} |
{{阪神タイガースの選手・スタッフ}} |
||
{{阪神タイガース1994年ドラフト指名選手}} |
{{阪神タイガース1994年ドラフト指名選手}} |
||
{{Navboxes|title={{Flagicon|JPN}} 野球日本代表 |
|||
|titlestyle=background-color:#006;color:#fff; |
|||
|list1= |
|||
{{1993年日米大学野球選手権大会日本代表}} |
|||
{{1994年日米大学野球選手権大会日本代表}} |
|||
}} |
|||
{{デフォルトソート:きたかわ ひろとし}} |
{{デフォルトソート:きたかわ ひろとし}} |
||
[[Category:日本の野球選手]] |
[[Category:日本の野球選手]] |
||
341行目: | 348行目: | ||
[[Category:東京ヤクルトスワローズ関連人物]] |
[[Category:東京ヤクルトスワローズ関連人物]] |
||
[[Category:日本大学硬式野球部の選手]] |
[[Category:日本大学硬式野球部の選手]] |
||
[[Category:日米大学野球選手権大会日本代表選手]] |
|||
[[Category:埼玉県立大宮東高等学校出身の野球選手]] |
[[Category:埼玉県立大宮東高等学校出身の野球選手]] |
||
[[Category:兵庫県出身の人物]] |
[[Category:兵庫県出身の人物]] |
2024年3月26日 (火) 05:59時点における最新版
![]() |
阪神タイガース 二軍打撃コーチ #91 | |
---|---|
![]() オリックス・コーチ時代 (2016年5月17日 こまちスタジアムにて。) | |
基本情報 | |
国籍 |
![]() |
出身地 | 兵庫県伊丹市 |
生年月日 | 1972年5月27日(52歳) |
身長 体重 |
180 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、三塁手、捕手 |
プロ入り | 1994年 ドラフト2位(逆指名) |
初出場 | 1995年8月16日 |
最終出場 | 2012年10月7日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
出生から小学6年生の時まで伊丹市内で過ごした後に、中学1年生から埼玉県志木市へ転居。当初は父親のみ単身赴任するつもりだったが、北川がそれを嫌い号泣しながら引き留めたために一家揃って埼玉に引っ越した[3]。 埼玉県立大宮東高等学校では3年時に主将を務め、夏の埼玉大会決勝戦では本塁打を放つなど、同校初となる全国選手権出場に貢献[1]。三塁手、捕手等どこのポジションでも守り、宗像宣弘監督に﹁こんなに助かる選手はいない﹂と重宝された[3]。また、高校の2学年先輩に山口幸司がいた。 卒業後、東都大学野球連盟所属の日本大学に進学し、1学年下の高根澤力と正捕手のポジションを争う。2年秋には門奈哲寛とのバッテリーで真中満主将の下でリーグ優勝を経験。捕手としてレギュラーに定着した3年の春季リーグ戦で打率.471の好成績を残し首位打者を獲得[1]、ベストナインにも選ばれ、同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。4年時には主将を務め、日米大学野球日本代表に再選。リーグ通算75試合出場、244打数66安打、打率.270、4本塁打、33打点。 1994年度ドラフト会議にて阪神タイガースから2位指名を受け入団︵逆指名︶[1]。背番号は9となった。阪神時代[編集]
1年目︵1995年︶のジュニアオールスターでMVPを受賞するなど打力のある捕手として期待されたが、当時チームには関川浩一・矢野輝弘などが活躍しており、北川もセールスポイントの打撃も一軍では結果を出せなかった。1998年には岡田彰布が2軍助監督に就任し︵岡田は2010年にオリックスの監督となり北川と再会することになる︶、北川は打率.327をマーク、ファームで首位打者争いをしたが結果は3位に終わった。︵打率1位は近鉄の衣川幸夫、2位は広島・高山健一︶打順は濱中、関本とクリーンアップを打つことが多かった。 2000年には野村克也監督の息子・カツノリが加入したこともあり、出場機会に恵まれず7打数無安打に終わった。北川はこの年、シーズンオフに湯舟敏郎・山﨑一玄と共に酒井弘樹・面出哲志・平下晃司との3対3のトレードで大阪近鉄バファローズへ移籍し、背番号も46となった。 野村は、後に出した著書の一冊である﹁ああ、阪神タイガース﹂にて当時、阪神の中で定詰雅彦と北川は捕手としては論外であったと書いており、両者とも野村が監督の時は出場試合が少なく途中でチームを去っており、野村からの評価は低かった[4][5][6]。一方で、二軍監督時代からウエスタン・リーグで北川と対戦していた当時近鉄の梨田昌孝監督は、その北川のバッティングを高く評価しており近鉄編成に強く訴えて獲得に漕ぎ着けたという[7]。近鉄時代[編集]
2001年は、この年の1月4日に藤井寺球場で自主トレを開始。北川も﹁こんなにバットを振ったことはないですね﹂とコメントするほど練習した。北川は梨田監督に認められて一軍に定着し、4月28日にプロ初本塁打を記録した。5月27日は北川の29歳の誕生日だったが、生まれて初めてサヨナラ安打を放ち、さらにお立ち台で涙を流した。北川はその後2週間後にもサヨナラ打を放ち、さらに9月24日の対西武戦では代打として出場、松坂大輔から本塁打を放ち、勝利に貢献している[8]。これでチームは優勝へのマジックナンバーを1とした。そして9月26日のオリックス・ブルーウェーブ戦で北川はオリックスの守護神・大久保勝信から代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、チーム12年ぶりのリーグ優勝を決めた︵﹁北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打﹂も参照。︶。ヤクルトとの日本シリーズでは1勝4敗に終わり、日本一を逃したものの全試合に出場して14打数7安打、打率.500の好成績を残した。シーズンでも本塁打は全て代打で放った。 2002年はオープン戦で負傷し、43試合・打率.266・1本塁打・8打点と精彩を欠いた。 2003年は5月25日の試合で不振の中村紀洋に代わって自身初の4番に座るなどして出場99試合、打率.309、13本塁打、50打点の成績を残した。 2004年は打撃を活かすため内野手へ転向。しかし、開幕前に吉岡雄二が負傷したこともあって北川も開幕スターティングメンバーに名を連ね、この年もアテネ五輪に出場した中村の代わりに4番に座っている[9]。この年、在籍する近鉄とオリックスとの球団合併問題が浮上。9月のストライキのあった2試合を除く133試合にフル出場、打率.303・20本塁打・88打点の自己最高成績を収めて規定打席にも初めて到達した[注 1]。シーズン最終戦だった9月27日の対オリックス戦では4回表に具臺晟からソロ本塁打を放ち、これが大阪近鉄バファローズ最後の本塁打・打点となった。北川もシーズン終了後、大阪近鉄の合併消滅に伴い発足した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスとの選手分配ドラフトを経てオリックスに所属することとなり、背番号も23となった。オリックス時代[編集]
2005年は5番・一塁手として開幕スタメンに名を連ね、第2戦の対西武戦では7回表にオリックス・バファローズ第1号本塁打となる3点本塁打を長田秀一郎から放った。チームの主軸・ムードメーカーとしての期待に応え、成績は前年に比べて打率こそ落ち込んだものの、チームトップの打点を記録するなど主軸としての活躍を見せた。 2006年も開幕から中軸打者として活躍したが、シーズン中盤の試合中にダイビングキャッチを試みた際に右肩を損傷。右肩関節唇損傷で選手生命を左右するほどの重傷と判明するが、8月13日の福岡ソフトバンクホークス戦まで強行出場した。その後、一軍登録抹消されて同月17日に手術を受け、残りの試合は欠場した。 2007年は選手会長に就任し、故障も癒えて引き続き主軸として5番を任された。チームは3年ぶりの最下位と低迷したものの9本塁打を放ち、右肩の故障からの復活を果たした。 2008年は春季キャンプ中に肉離れをおこし、開幕二軍スタートとなった。4月29日の楽天戦より一軍に合流。グレグ・ラロッカの離脱に伴い、三塁手で起用されることとなった[注 2]。5月16日の対ロッテ戦では、渡辺俊介から2打席連続本塁打を放ち、自己最多の1試合6打点を記録した。しかし夏場以降は調子を落とし、復帰直後は5番だった打順も終盤は6・7番あたりに下げられるケースが多くなる。得点圏打率も.244と伸び悩み、規定打席にも2年ぶりに到達しないなど、自身にとって不本意なシーズンとなった。一方で2005年以来の2桁本塁打を放ち、2年連続で犠牲フライ数がリーグトップを記録した。 2009年はホセ・フェルナンデスの加入、ラロッカの復調により前年より更にスタメン出場が困難になった。主に右の代打を務めつつも、外国人4人が次々に戦線離脱したためシーズン最後までスタメンに名を連ねた。だが、打率以外のほとんどの面で前年の成績を下回り、本塁打は2本に終わった。 2010年は開幕戦を4番・DHのスタメン出場で迎えた[11]。本職である一塁手はアレックス・カブレラやT-岡田に奪われ、DHでの出場が多かったが、打撃ではハイアベレージを記録。6月2日の中日ドラゴンズ戦では、7点ビハインドの8回裏に3点返したあとの無死満塁の打席で、髙橋聡文から[12]同点満塁本塁打を放ち、チームのサヨナラ勝ちに貢献した[13]。その後も北川は主力打者として活躍し続けたが、8月13日から登録抹消はされなかったものの10試合を欠場した。これは7月14日のロッテ戦で左脛に自打球を当てた影響で、蜂窩(ほうか)織炎による発熱を発症したためであった。復帰後は9月に100本塁打、1000本安打と節目の記録を次々と達成した。最終的には119試合に出場して打率.306、12本塁打61打点の成績を収めた。 2011年はキャンプ中に左腓骨骨折と肉離れを併発する。その後震災の影響で開幕が遅れたこともあり、開幕戦の復帰には間に合ったものの、完治していない状態で強行出場することとなる。主に5番指名打者・代打で出場し、6月12日の巨人戦では8回裏に澤村拓一から決勝2点本塁打を放つ活躍も見せた。しかし6月26日にロッテ戦︵千葉マリンスタジアム︶で7回表に左翼線に安打を放ったものの、二塁への走塁中に左足を負傷したため、途中交代後にベンチ裏で応急処置を施された上で試合後に帰阪した[14]。診断の結果、全治6か月のアキレス腱断裂の大怪我であったため翌日縫合手術が行われた[15][16]。この結果、残りシーズンを棒に振った。 2012年も開幕一軍入りを果たし、6月5日のヤクルト戦︵京セラドーム︶で8回裏に押本健彦からアキレス腱断裂後初の本塁打を放つ[17][18]。試合後のヒーローインタビューは﹁2対0からだったから﹂と辞退し[17]、報道陣が集まったことに対して北川は﹁まるで引退する時みたい。まだやめませんよ﹂とコメントしたが[18]、結果としてこれが北川の現役最後の本塁打となった。7月16日に登録抹消され、北川はこの時﹁もう潮時かな﹂という気持ちになったことを引退試合後の会見時に述べている[19]。10月3日に現役引退を発表し[20]、10月7日の本拠地最終戦の対西武戦︵京セラドーム︶を引退試合として5番・一塁として先発出場し、5回裏二死二塁の場面でレフトオーバー適時二塁打を放った[21]。現役引退後[編集]
2012年11月4日にオリックスの二軍打撃コーチへ就任することが球団から発表[22]。2014年のシーズン終了まで務めた。 2014年11月1日付で、オリックスの事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー︵PM︶に転身。自身初のフロント業務で、少年野球の指導や、新規ファンの開拓に向けたPR、京セラドーム大阪内の有料見学ツアー︵ドームツアー︶のガイドなどに携わっていた。球団では、北川のPM就任を機にPMとしての北川の公式ブログ﹁PEI's TIME﹂を公式サイト内に開設。2015年のプロ野球シーズン中には、J SPORTSの球団主管試合中継や、東日本放送制作のオリックス戦中継で随時解説を担当した。同年4月からTwellVで放送を開始した球団情報番組﹁オリックス日和﹂では、元BsGirlsリーダーでキッズチアインストラクターのKYOKOと共に、MCを務めていた。 2015年10月14日、オリックスの一軍打撃コーチへ就任することが球団から発表[2]。自身2年ぶりの現場復帰を果たしたが、翌2016年3月までは、﹃オリックス日和﹄のMCも続けていた。同年10月2日付で退団した[23]後に、2017年から2019年まで、大学の先輩である真中監督率いるヤクルトで二軍の打撃コーチを担当[24]。コーチ2年目の2018年に九州学院高等学校から入団した村上宗隆を短期間で一軍の主力打者に育て上げた[25]手腕を買われ、2020年に阪神の二軍打撃コーチへ招聘された[25]。阪神には現役選手時代以来19年ぶりの復帰で、背番号は80[26][27]。2021年シーズンからは一軍を担当していたが、2023年からは二軍打撃コーチで背番号は91に変更。プレースタイル[編集]
驚異的な勝負強さが魅力の強打者[28][29]。勝負強さを引き出す秘訣として﹁思い切りの良さ、結果を気にしないこと、いかに平常心でいられるか﹂と語っている[30]。 バントは高校時代に猛練習をしたことから自信を持っており、実際に試合でも決めている[31]。 近鉄時代の打撃コーチだった正田耕三は﹁︵北川は︶練習でやったことを試合で出せるタイプ。代打出場でも場面、対戦相手など頭に入れ冷静に準備ができる﹂と北川を評している[32]。 元々のポジションである捕手は内野手転向後は守る機会が減った。ただし、2004年に捕手を使い果たした試合で近鉄の梨田監督が﹁延長戦となったら北川を捕手で使うつもりだった。久々に北川の捕手が見られると思ったのに︵同点に追い付けず敗れて︶残念﹂と語っている[33]。人物[編集]
北川は常に笑顔を絶やさず、阪神時代からスマイリーの愛称を持ち[27]、顔が似ていることからアンパンマンとも言われている[34]。また自身のヒッティングマーチにもあるように近鉄時代の優勝を決めた代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打のインパクトの強さから﹁奇跡を呼び込む男﹂と呼ばれていた︵具体的にはヒッティングマーチの歌詞がこの一打により、翌2002年から上記のフレーズが入ったものに変更になった。結果的に一振りで歌詞が変わってしまうという極めて稀なことが起こっている︶。 近鉄在籍時の2003年から兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で結成されたNPO法人﹁伊丹アスリートクラブ﹂の理事としても活動[35]。オフシーズンには市内でイベントを開いている。オリックス時代にはシーズン中に﹁北川ホームラン基金﹂︵本拠地への招待企画︶を実施していた。 ひょうきんな性格で知られ、近鉄時代の2003年から現役を引退するまでは﹁逆転イッパツマン﹂︵タイムボカンシリーズ︶のオープニングテーマ曲を本拠地でのバッティングテーマ曲に用いていた︵球団合併後の2009年以降はチャンス時のみ。︶。2002年は﹁KC&ザ・サンシャイン・バンド﹂の﹁That's the way (I Like It) ﹂だった。 趣味は釣り・ザリガニ飼育でオフには自身のブログにその様子を掲載している。 好きなアーティストはスピッツで、北川もオリックス移籍後の2009年から現役引退までスピッツの楽曲をバッティングテーマ曲に用いていた。またスピッツのライブにも度々訪れている。メンバーの草野マサムネとは交流も深く、ブログにも登場している。代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打[編集]
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | 阪神 | 13 | 21 | 16 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 1 | .125 | .263 | .125 | .388 |
1996 | 28 | 32 | 29 | 4 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .207 | .281 | .241 | .523 | |
1997 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1998 | 8 | 19 | 18 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .056 | .105 | .111 | .216 | |
1999 | 39 | 74 | 66 | 4 | 10 | 3 | 0 | 0 | 13 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | 0 | 1 | 10 | 2 | .152 | .188 | .197 | .385 | |
2000 | 10 | 8 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .125 | .000 | .125 | |
2001 | 近鉄 | 81 | 229 | 200 | 27 | 54 | 14 | 1 | 6 | 88 | 35 | 2 | 0 | 1 | 1 | 25 | 0 | 2 | 29 | 13 | .270 | .355 | .440 | .795 |
2002 | 43 | 99 | 94 | 7 | 25 | 7 | 1 | 1 | 37 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | 16 | 2 | .266 | .303 | .394 | .697 | |
2003 | 99 | 359 | 317 | 57 | 98 | 23 | 1 | 13 | 162 | 50 | 5 | 0 | 1 | 3 | 37 | 0 | 1 | 38 | 7 | .309 | .380 | .511 | .891 | |
2004 | 133 | 580 | 508 | 75 | 154 | 27 | 0 | 20 | 241 | 88 | 7 | 2 | 4 | 2 | 62 | 3 | 4 | 70 | 15 | .303 | .382 | .474 | .856 | |
2005 | オリックス | 127 | 487 | 444 | 57 | 115 | 28 | 1 | 16 | 193 | 67 | 3 | 3 | 1 | 2 | 36 | 2 | 4 | 64 | 11 | .259 | .319 | .435 | .754 |
2006 | 100 | 403 | 373 | 39 | 108 | 29 | 2 | 8 | 165 | 55 | 2 | 2 | 0 | 3 | 23 | 2 | 4 | 47 | 8 | .290 | .335 | .442 | .777 | |
2007 | 144 | 602 | 557 | 60 | 156 | 23 | 1 | 9 | 208 | 61 | 4 | 2 | 0 | 7 | 31 | 1 | 7 | 79 | 23 | .280 | .322 | .373 | .696 | |
2008 | 105 | 399 | 343 | 41 | 91 | 24 | 0 | 13 | 154 | 49 | 4 | 2 | 2 | 10 | 37 | 3 | 7 | 51 | 8 | .265 | .340 | .449 | .789 | |
2009 | 103 | 302 | 267 | 29 | 73 | 18 | 0 | 2 | 97 | 31 | 0 | 0 | 4 | 6 | 19 | 1 | 6 | 37 | 9 | .273 | .329 | .363 | .692 | |
2010 | 119 | 403 | 362 | 42 | 111 | 25 | 0 | 12 | 172 | 61 | 2 | 1 | 0 | 6 | 28 | 0 | 7 | 65 | 6 | .307 | .362 | .475 | .837 | |
2011 | 51 | 172 | 159 | 11 | 41 | 11 | 0 | 1 | 55 | 17 | 0 | 0 | 1 | 2 | 8 | 0 | 2 | 23 | 4 | .258 | .298 | .346 | .644 | |
2012 | 59 | 159 | 140 | 9 | 31 | 6 | 0 | 1 | 40 | 11 | 0 | 0 | 0 | 2 | 17 | 0 | 0 | 23 | 3 | .221 | .302 | .286 | .588 | |
通算:18年 | 1264 | 4350 | 3902 | 464 | 1076 | 240 | 7 | 102 | 1636 | 536 | 29 | 12 | 21 | 44 | 337 | 12 | 46 | 563 | 112 | .276 | .337 | .419 | .756 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績[編集]
- 内野守備
年 度 |
球 団 |
一塁 | 三塁 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1996 | 阪神 | - | 6 | 1 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | |||||
1999 | 4 | 25 | 5 | 0 | 3 | 1.000 | - | ||||||
2000 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
2001 | 近鉄 | 16 | 144 | 4 | 0 | 10 | 1.000 | - | |||||
2002 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||
2003 | 58 | 453 | 35 | 1 | 45 | .998 | - | ||||||
2004 | 133 | 1347 | 85 | 6 | 121 | .996 | - | ||||||
2005 | オリックス | 121 | 1070 | 71 | 8 | 104 | .993 | - | |||||
2006 | 76 | 706 | 62 | 0 | 60 | 1.000 | - | ||||||
2007 | 140 | 1307 | 84 | 3 | 104 | .998 | - | ||||||
2008 | 24 | 117 | 10 | 0 | 8 | 1.000 | 87 | 37 | 129 | 10 | 10 | .943 | |
2009 | 42 | 289 | 24 | 1 | 31 | .997 | 35 | 26 | 46 | 5 | 7 | .935 | |
2010 | 38 | 290 | 27 | 4 | 24 | .988 | - | ||||||
2011 | 6 | 41 | 0 | 0 | 5 | 1.000 | - | ||||||
2012 | 1 | 8 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | - | ||||||
通算 | 663 | 5800 | 408 | 23 | 516 | .996 | 128 | 64 | 176 | 15 | 18 | .941 |
- 捕手守備
年 度 |
球 団 |
捕手 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
捕 逸 |
守 備 率 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 | ||
1995 | 阪神 | 13 | 43 | 5 | 1 | 0 | 0 | .980 | 13 | 11 | 2 | .154 |
1998 | 7 | 20 | 3 | 1 | 0 | 0 | .958 | 2 | 1 | 1 | .500 | |
1999 | 23 | 89 | 11 | 0 | 4 | 3 | 1.000 | 12 | 6 | 6 | .500 | |
2000 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | - | |
2001 | 近鉄 | 55 | 211 | 8 | 2 | 3 | 2 | .991 | 30 | 25 | 5 | .167 |
2002 | 18 | 35 | 2 | 4 | 0 | 0 | .902 | 12 | 12 | 0 | .000 | |
2003 | 15 | 40 | 4 | 0 | 1 | 0 | 1.000 | 9 | 6 | 3 | .333 | |
通算 | 132 | 439 | 33 | 8 | 8 | 5 | .983 | 78 | 61 | 17 | .218 |
表彰[編集]
- JA全農Go・Go賞(最多二・三塁打賞:2006年8月)
- ジュニアオールスターMVP(1995年)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2008年)
記録[編集]
- 初記録
- 初出場:1995年8月16日、対ヤクルトスワローズ23回戦(明治神宮野球場)、9回裏に捕手として出場
- 初安打:1995年8月27日、対読売ジャイアンツ23回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に槙原寛己から
- 初先発出場:1995年8月20日、対横浜ベイスターズ17回戦(横浜スタジアム)、6番・捕手として先発出場
- 初打点:1996年8月16日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤ球場)、9回表に中山裕章から
- 初本塁打:2001年4月28日、対福岡ダイエーホークス5回戦(福岡ドーム)、7回表に斉藤和巳から左越ソロ
- 初盗塁:2001年6月20日、対西武ライオンズ16回戦(西武ドーム)、6回表に二盗(投手:青木勇人、捕手:田原晃司)
- 節目の記録
- 1000試合出場:2009年8月6日、対東北楽天ゴールデンイーグルス13回戦(京セラドーム大阪)、5番・三塁手として先発出場 ※史上432人目
- 100本塁打:2010年9月11日、対東北楽天ゴールデンイーグルス23回戦(クリネックススタジアム宮城)、9回表に小山伸一郎から左越ソロ ※史上262人目
- 1000安打:2010年9月21日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、9回表に武田久から中前適時打 ※史上261人目
- その他の記録
- 代打逆転サヨナラ満塁本塁打:2001年9月26日、対オリックス・ブルーウェーブ26回戦(大阪ドーム)、9回裏、大久保勝信から中越サヨナラ満塁本塁打 ※史上6人目、優勝決定は史上初
- 全球団から本塁打:2008年6月23日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、9回表に林昌勇から左越ソロ ※史上14人目
背番号[編集]
- 9(1995年 - 2000年)
- 46(2001年 - 2004年)
- 23(2005年 - 2012年)
- 85(2013年 - 2014年、2016年 - 2019年)
- 80(2020年 - 2022年)
- 91(2023年 - )
登場曲[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考資料[編集]
- サヨナラ近鉄バファローズ(2004年、日刊スポーツ出版社発行)ISBN 4817252413
- さらば大阪近鉄バファローズ(『週刊ベースボール別冊』2004年冬季号。ベースボール・マガジン社発行)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 北川博敏 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
![]() |
---|