「吉植庄亮」の版間の差分
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{{Infobox 作家 |
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| name = 吉植 庄亮<br />(よしうえ しょうりょう) |
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| image = Yosiue Shōsuke.jpg |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[1884年]]、[[千葉県]][[印旛郡]] |
[[1884年]]、[[千葉県]][[印旛郡]]︵現・[[印西市]]︶の農家に、父[[吉植庄一郎|庄一郎]]、母とくの長男として生まれる。当時、この地の農家は繰り返される[[印旛沼]]の氾濫に悩まされていた。[[1892年]]、父の庄一郎が[[埜原村|埜原︵やわら︶村]]の村民47戸を率いて、妻とともに[[北海道]][[石狩国]][[雨竜郡]]に移住。開墾し、雨竜村和︵やわら︶︵現・[[北竜町]]字和︶を創立する。両親の北海道移住以来、庄亮は東京の祖父︵庄之輔︶、祖母のもとで育てられた。[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]]法科[[経済学科]]を[[1916年]]に卒業。1921年に父の経営する[[中央新聞]]に文芸部長として入社する。のちに[[政治部]]に転属となり政治記者を務めた。1924年に退社。<ref>田辺弥太郎﹃房総歌人伝﹄、660-664頁</ref>
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=== 歌人として === |
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[[1936年]]の[[第19回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に[[立憲政友会]]から出馬し、当選して[[衆議院議員]]となる。戦後[[公職追放]]を受け、[[農地改革]]により所有する農園を失った。[[1949年]]には農村を現地視察した[[カール・シャウプ]]を案内し、[[シャウプ勧告]]に実情が反映されたという<ref>読売新聞、1998年12月22日付朝刊、P.17</ref>。その後、印旛沼・[[手賀沼]]の土地改良区設立運動に携わった<ref name="mieda_1022"/>。[[1951年]]に追放解除を受け、[[1958年]][[12月7日]]に[[食道癌]]のため[[NTT東日本関東病院|関東逓信病院]]で逝去<ref>読売新聞、1958年12月8日付朝刊、P.9</ref>。[[正五位]][[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]が追贈された。[[1973年]]には、郷土を代表する歌人として[[千葉県文化会館]]に[[歌碑]]が建立された<ref>朝日新聞、1999年10月10日付朝刊、千葉地方面</ref>。
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[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]在学中に﹃[[明星 (文芸誌)|明星]]﹄や﹃新声﹄といった文芸誌を知り、作歌を始める。﹃新声﹄で短歌の選者を務めていた[[金子薫園]]に師事。1903年、金子薫園の白菊会創設に参加し、[[土岐善麿]]、[[田波御白]]、[[平井晩村]]ら新進の歌人と知り合う。当時は愛剣と号していた。[[1906年]]に入学した[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]時代には、[[谷崎潤一郎]]や[[和辻哲郎]]と交流を持った。1921年、初の短歌集﹃寂光﹄︵序文‥金子薫園︶を上梓。この歌集が賞賛を集め、庄亮は歌壇に認められ、[[北原白秋]]や[[古泉千樫]]ら当時の第一線の歌人たちと交流を深めた。<ref>田辺弥太郎﹃房総歌人伝﹄、660-662頁</ref>
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[[1922年]]に歌誌﹃橄欖﹄を[[鈴木康文]]、[[伊藤公平]]らとともに創刊、主宰者となる。[[1924年]]、[[北原白秋]]、[[前田夕暮]]、[[土岐善麿]]、[[古泉千樫]]、[[石原純]]、[[釈迢空]]、[[木下利玄]]らとともに歌誌﹃日光﹄を創刊︵[[1927年]]終刊︶。北原白秋とは特に交流が深く、1924年8月には[[鉄道省]]主催の[[樺太]]観光団にともに参加している。<ref>田辺弥太郎﹃房総歌人伝﹄、664-665頁</ref>
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歌誌『橄欖』は1923年の夏から翌年の夏まで一年ほど休刊したが、その後も刊行を続けた。<ref>田辺弥太郎『房総歌人伝』、665頁</ref> |
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[[1940年]]に「大日本歌人協会」の解散勧告を[[太田水穂]]、[[斎藤瀏]]と連名で出し、以後は大政翼賛へとなだれ込んだ。 |
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=== 開墾者として === |
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[[東京大学|東京帝国大学]]卒業後の数年間、祖母︵1920年逝去︶とともに[[印旛郡]]で過ごした<ref name="mieda_1022">三枝昭三﹁吉植庄左衛門とその子孫たち﹂﹃農業土木学会誌﹄53巻11号、P.1022、1985年</ref>時期もあったが、基本的には東京で暮らしていた。1924年秋、30年ほど過ごした東京生活を終え、郷里の印旛郡に戻る。[[1925年]]から10年間で[[印旛沼]]周辺に60[[町_(単位)|町歩]]︵595,041m<sup>2</sup>︶の土地を開墾した<ref>読売新聞、1954年11月8日付夕刊、P.2</ref>。このころの生活を詠った歌は、第五歌集﹃開墾﹄︵[[1941年]]︶にまとめられている。当時としては画期的な大型[[トラクター]]導入による農業の機械化や有畜農業を進めた<ref name="mieda_1022"/>。またこの間、開墾を進めることを目的として、印旛郡[[本埜村]]の村会議員に出馬し、当選している。<ref>田辺弥太郎﹃房総歌人伝﹄、662, 665-671頁</ref>
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=== 政治家として === |
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[[1936年]]、[[第19回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に千葉県第2区︵印旛郡、[[香取郡]]、[[海上郡]]、[[匝瑳郡]]︶から出馬し、当選して[[立憲政友会]]の[[衆議院議員]]となる。選挙委員として選挙戦を支えたのは庄亮に師事した歌人・[[鈴木康文]]や[[尾崎孝子]]であり、演説会で尾崎孝子が庄亮の開墾の短歌を朗詠するなど、歌人としての業績、開墾者としての業績を前面に出した選挙戦であった。<ref>田辺弥太郎﹃房総歌人伝﹄、676-679頁</ref>
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戦後、[[農地改革]]により所有する農地の面積は大幅に縮小となり、1948年には[[公職追放]]となる<ref>田辺弥太郎﹃房総歌人伝﹄、684頁</ref>。[[1949年]]には農村を現地視察した[[カール・シャウプ]]を案内し、[[シャウプ勧告]]に実情が反映されたという<ref>読売新聞、1998年12月22日付朝刊、P.17</ref>。その後、印旛沼・[[手賀沼]]の土地改良区設立運動に携わった<ref name="mieda_1022"/>。[[1951年]]に追放解除となる。
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=== 晩年 === |
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1958年7月、庄亮は右手が不自由になっていたが、親戚の歌人・[[吉植亮]]︵1917年生まれ<ref>﹁吉植亮﹂[[荒川法勝]]編﹃房総文学事典﹄︵東京学芸館、1983年︶、146頁。</ref>︶の協力を受け、第11歌集﹃霜ぶすま﹄を上梓する。庄亮の最大の協力者であった妻の梅子は前年に亡くなっており、そのことによる庄亮の憔悴と衰えは大きかったという。<ref>田辺弥太郎﹃房総歌人伝﹄、686-687頁</ref>
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[[1958年]][[12月7日]]に[[食道癌]]のため[[NTT東日本関東病院|関東逓信病院]]で逝去<ref>読売新聞、1958年12月8日付朝刊、P.9</ref>。没後、[[正五位]][[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]が追贈された。歌誌﹃橄欖﹄は[[鈴木康文]]が代表を引き継いだ。[[1973年]]には、郷土を代表する歌人として[[千葉県文化会館]]に[[歌碑]]が建立された<ref>朝日新聞、1999年10月10日付朝刊、千葉地方面</ref>。
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==著書== |
==著書== |
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=== 歌集 === |
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*寂光 短歌研究会 1921 (橄欖叢書) |
*寂光 短歌研究会 1921 (橄欖叢書) |
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*くさはら 橄欖社 1928 (橄欖叢書) |
*くさはら 橄欖社 1928 (橄欖叢書) |
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*大陸巡遊吟 改造社 1939 |
*大陸巡遊吟 改造社 1939 |
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*開墾 歌集 甲鳥書林 1941 のち短歌新聞社文庫<ref>今昔秀歌百撰 80 選ばれてわれは来にけり田渋つくおもて正して大君に向ふ,[[滝沢幸助]]撰 </ref> |
*開墾 歌集 甲鳥書林 1941 のち短歌新聞社文庫<ref>今昔秀歌百撰 80 選ばれてわれは来にけり田渋つくおもて正して大君に向ふ,[[滝沢幸助]]撰 </ref> |
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*大稜威 八雲書林 1942 |
*大稜威 八雲書林 1942 |
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*海嶽 歌集 八雲書林 1942 (新作短歌) |
*海嶽 歌集 八雲書林 1942 (新作短歌) |
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*風景 歌集 天理時報社 1943 |
*風景 歌集 天理時報社 1943 |
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*光の如し 金星堂 1944 |
*光の如し 金星堂 1944 |
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*稲の花粉 八雲書林 1945 |
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;没後に編纂された歌集 |
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=== 随筆集 === |
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*稲に祈る 愛宕書房 1944 |
*稲に祈る 愛宕書房 1944 |
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*百姓記 講談社 1946 |
*百姓記 講談社 1946 |
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== 脚注 == |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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* [[田辺弥太郎]]『房総歌人伝』(単独舎、1989年)、「吉植庄亮」(660-692頁) |
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*新潮日本人名辞典 |
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2023年1月9日 (月) 00:17時点における最新版
吉植 庄亮 (よしうえ しょうりょう) | |
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誕生 |
1884年4月3日[1]![]() |
死没 |
1958年12月7日(74歳没) 東京都品川区 |
職業 | 歌人、政治家 |
言語 | 日本語 |
教育 | 東京帝国大学法科経済学科卒業[2] |
文学活動 | 歌誌『橄欖』創刊(1922年) |
デビュー作 | 歌集『寂光』(1921年) |
影響を受けたもの
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吉植 庄亮 | |
---|---|
所属政党 | 立憲政友会 |
親族 | 父:吉植庄一郎 |
選挙区 | 千葉県第2区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1936年2月20日 - 1945年12月18日 |
経歴[編集]
1884年、千葉県印旛郡︵現・印西市︶の農家に、父庄一郎、母とくの長男として生まれる。当時、この地の農家は繰り返される印旛沼の氾濫に悩まされていた。1892年、父の庄一郎が埜原︵やわら︶村の村民47戸を率いて、妻とともに北海道石狩国雨竜郡に移住。開墾し、雨竜村和︵やわら︶︵現・北竜町字和︶を創立する。両親の北海道移住以来、庄亮は東京の祖父︵庄之輔︶、祖母のもとで育てられた。開成中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学法科経済学科を1916年に卒業。1921年に父の経営する中央新聞に文芸部長として入社する。のちに政治部に転属となり政治記者を務めた。1924年に退社。[3]歌人として[編集]
開成中学校在学中に﹃明星﹄や﹃新声﹄といった文芸誌を知り、作歌を始める。﹃新声﹄で短歌の選者を務めていた金子薫園に師事。1903年、金子薫園の白菊会創設に参加し、土岐善麿、田波御白、平井晩村ら新進の歌人と知り合う。当時は愛剣と号していた。1906年に入学した第一高等学校時代には、谷崎潤一郎や和辻哲郎と交流を持った。1921年、初の短歌集﹃寂光﹄︵序文‥金子薫園︶を上梓。この歌集が賞賛を集め、庄亮は歌壇に認められ、北原白秋や古泉千樫ら当時の第一線の歌人たちと交流を深めた。[4] 1922年に歌誌﹃橄欖﹄を鈴木康文、伊藤公平らとともに創刊、主宰者となる。1924年、北原白秋、前田夕暮、土岐善麿、古泉千樫、石原純、釈迢空、木下利玄らとともに歌誌﹃日光﹄を創刊︵1927年終刊︶。北原白秋とは特に交流が深く、1924年8月には鉄道省主催の樺太観光団にともに参加している。[5] 歌誌﹃橄欖﹄は1923年の夏から翌年の夏まで一年ほど休刊したが、その後も刊行を続けた。[6] 1940年に﹁大日本歌人協会﹂の解散勧告を太田水穂、斎藤瀏と連名で出し、以後は大政翼賛へとなだれ込んだ。開墾者として[編集]
東京帝国大学卒業後の数年間、祖母︵1920年逝去︶とともに印旛郡で過ごした[7]時期もあったが、基本的には東京で暮らしていた。1924年秋、30年ほど過ごした東京生活を終え、郷里の印旛郡に戻る。1925年から10年間で印旛沼周辺に60町歩︵595,041m2︶の土地を開墾した[8]。このころの生活を詠った歌は、第五歌集﹃開墾﹄︵1941年︶にまとめられている。当時としては画期的な大型トラクター導入による農業の機械化や有畜農業を進めた[7]。またこの間、開墾を進めることを目的として、印旛郡本埜村の村会議員に出馬し、当選している。[9]政治家として[編集]
1936年、衆議院選挙に千葉県第2区︵印旛郡、香取郡、海上郡、匝瑳郡︶から出馬し、当選して立憲政友会の衆議院議員となる。選挙委員として選挙戦を支えたのは庄亮に師事した歌人・鈴木康文や尾崎孝子であり、演説会で尾崎孝子が庄亮の開墾の短歌を朗詠するなど、歌人としての業績、開墾者としての業績を前面に出した選挙戦であった。[10] 戦後、農地改革により所有する農地の面積は大幅に縮小となり、1948年には公職追放となる[11]。1949年には農村を現地視察したカール・シャウプを案内し、シャウプ勧告に実情が反映されたという[12]。その後、印旛沼・手賀沼の土地改良区設立運動に携わった[7]。1951年に追放解除となる。晩年[編集]
1958年7月、庄亮は右手が不自由になっていたが、親戚の歌人・吉植亮︵1917年生まれ[13]︶の協力を受け、第11歌集﹃霜ぶすま﹄を上梓する。庄亮の最大の協力者であった妻の梅子は前年に亡くなっており、そのことによる庄亮の憔悴と衰えは大きかったという。[14] 1958年12月7日に食道癌のため関東逓信病院で逝去[15]。没後、正五位勲三等瑞宝章が追贈された。歌誌﹃橄欖﹄は鈴木康文が代表を引き継いだ。1973年には、郷土を代表する歌人として千葉県文化会館に歌碑が建立された[16]。著書[編集]
歌集[編集]
- 寂光 短歌研究会 1921 (橄欖叢書)
- くさはら 橄欖社 1928 (橄欖叢書)
- 煙霞集 紅玉堂書店 1928 (新歌集叢書)
- 大陸巡遊吟 改造社 1939
- 開墾 歌集 甲鳥書林 1941 のち短歌新聞社文庫[17]
- 大稜威 八雲書林 1942
- 海嶽 歌集 八雲書林 1942 (新作短歌)
- 風景 歌集 天理時報社 1943
- 光の如し 金星堂 1944
- 稲の花粉 八雲書林 1945
- 霜ぶすま 歌集 白玉書房 1958 (橄欖叢書)
- 没後に編纂された歌集
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- 吉植庄亮全歌集 柏葉書院 1970
随筆集[編集]
- 馬の散歩 羽田書店 1939
- お米談義 実業之日本社 1942
- 米の貌 随筆 羽田書店 1942
- 雨耕抄 農村随筆 時代社 1944
- 稲に祈る 愛宕書房 1944
- 百姓記 講談社 1946
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 田辺弥太郎『房総歌人伝』(単独舎、1989年)、「吉植庄亮」(660-692頁)
- 新潮日本人名辞典