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「嘉喜門院」の版間の差分

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嘉喜門院を天皇の生母とする説は、『嘉喜門院集』『[[新葉和歌集]]』に収録された和歌・[[詞書]]の解釈に拠るところが大きい。すなわち、嘉喜門院と当時の[[今上天皇]](『嘉喜門院集』の「内の御方」、『新葉和歌集』の「[[御製]]」)とが睦まじくしばしば贈答歌を交わしていることから、両者は母子関係であろうと推定されたのである。近世から明治に至って、両歌集の今上天皇は後亀山であるとの見解が支配的だったため、この時期に書かれた系図や史書は全て、嘉喜門院を後亀山の生母としていた。

嘉喜門院を天皇の生母とする説は、『嘉喜門院集』『[[新葉和歌集]]』に収録された和歌・[[詞書]]の解釈に拠るところが大きい。すなわち、嘉喜門院と当時の[[今上天皇]](『嘉喜門院集』の「内の御方」、『新葉和歌集』の「[[御製]]」)とが睦まじくしばしば贈答歌を交わしていることから、両者は母子関係であろうと推定されたのである。近世から明治に至って、両歌集の今上天皇は後亀山であるとの見解が支配的だったため、この時期に書かれた系図や史書は全て、嘉喜門院を後亀山の生母としていた。




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なお、先述の『満済准后日記』の記事からは、後亀山の[[東宮]](皇太弟)である[[護聖院宮]]([[惟成親王]]か)も嘉喜門院の所生であったと推定されている。

なお、先述の『満済准后日記』の記事からは、後亀山の[[東宮]](皇太弟)である[[護聖院宮]]([[惟成親王]]か)も嘉喜門院の所生であったと推定されている。


2015年3月22日 (日) 17:25時点における版


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A.B.C.D.4[4]

ABC[5]ABC3
醍醐寺本帝系図(国立歴史民俗博物館蔵)
摂関家 「福恩寺前関白内大臣」
(嘉喜門院との続柄)
嘉喜門院の父 主な論者
近衛家 近衛経家(兄または弟) A.近衛経忠 谷森善臣ほか
二条家 二条師基(父)か教基 B.二条師基 八代国治ほか
一条家 一条内嗣(弟) C.一条経通 芝葛盛

AAB31028CB[6]

D[7]DD






[8][9]



  1920NDLJP:960761

 8011 197911NCID AN00087221

  2 1979NCID BN008141861937

  3 1983ISBN 9784642005036

  1984ISBN 97843051018151962

   1987ISBN 9784625410796

  7  1989ISBN 9784040201726

 135860 200810NCID AN00353573



(一)^ 71346221136612513703213731114137532413691211

(二)^ 1290

(三)^  42 1976NCID AN00093257

(四)^ 

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(六)^ 

(七)^   1  1983NCID BN027811461946

(八)^ 711911

(九)^  

関連項目

嘉喜門院御廟所(右奥)

外部リンク