「大御食神社」の版間の差分
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* {{Cite book |和書 |author=下中邦彦|authorlink=下中邦彦 |title=[[日本歴史地名大系]] 20 長野県の地名 |publisher=[[平凡社]] |year=1979 |ref=harv }} |
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* {{Cite book |和書 |url={{NDLDC|992105/37}} |title=日本古代文字考 2巻 上 |author=落合直澄 |publisher=吉川半七 |year=1888 |ref=harv }} |
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2022年6月9日 (木) 09:25時点における版
大御食神社 | |
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![]() 大御食神社正面 | |
所在地 | 長野県駒ヶ根市赤穂11475(市場割)[1][注 1] |
位置 | 北緯35度43分25秒 東経137度56分55秒 / 北緯35.72361度 東経137.94861度座標: 北緯35度43分25秒 東経137度56分55秒 / 北緯35.72361度 東経137.94861度 |
主祭神 | 日本武尊・五郎姫神・誉田別尊[3][4] |
社格等 | 郷社[3][4] |
創建 | 不明[5][4][注 2] |
本殿の様式 | 三間社流造[3] |
別名 | 美女ヶ森[1][3] |
例祭 | #祭事参照 |
主な神事 | #神事参照 |
地図 |
祭神
●日本武尊 - 伝承によると景行天皇41年[7]、日本武尊は東征の帰路の途中で当地を通過する際、杉の木の下で当地の首長であった赤須彦のもてなしを受ける。この杉を﹁御蔭杉﹂︵日の御蔭杉、月の御蔭杉とも︶といい、側にあって日本武尊が手を掛けたとされる石を﹁御手掛石﹂という。景行天皇58年、御蔭杉の下に神殿を建て、日本武尊を祀る[4][注 3]。 ●五郎姫神︵いついらつひめのみこと[3]︶ - 宮簀媛。伝承には美夜須姫とも。応神天皇8年7月に尾張国より勧請したもので、﹁美女ヶ森﹂の名の由来とされる[4]。 ●誉田別尊 - 八幡大神[9]。元慶3年︵879年︶3月15日 (旧暦)、石清水八幡宮より勧請したという[4]。 神紋は﹁八花形﹂である[9]。代々当社宮司を務める社家の阿智祝部︵阿智氏︶の支族・赤須氏は、出自が不明であるが、八意思兼神に始まる神の系譜に繋がるという系図も存在する[10]。阿智神社が破損した際、改築のため大御食社大足葦津彦が派遣されたという記録から、阿智神社とは古くからの深いつながりがあったとされる[11]。 かつての赤須村6地区の総氏神で、各地区持ち回りで祭事の中心を務める[4]。﹃全国神社名鑑﹄︵1977年刊︶によると氏子4,500戸、崇敬者15,000人[9]。北は太田切川から南は片桐︵上伊那郡中川村︶まで氏子が広く分布していた時期もあったという[12]。歴史
沿革
その沿革は、明治5年︵1872年︶に﹁由緒明らかならず﹂として郷社に留まっているため、不明である[13][14]。 大御食神社には﹁神代文字社伝記﹂と呼ばれるいわゆる﹁神代文字﹂で記された社伝記が存在している。これを解読したのは﹁神代文字﹂肯定派の平田篤胤の影響を受けたとされる落合直澄であるが、彼の兄であり同じく平田篤胤の影響を受けていた落合直亮が後に伊勢神宮で和歌等を神代文字で書かせて保存させ偽物騒ぎを起こした人物のため、この神字社伝も捏造された偽書であるとされた[15]。 在野の歴史家・伴崎史郎が駒ヶ根市の市史編纂室において、大御食神社の社伝記に言及したところ、編纂室の﹁K氏﹂は﹁神代文字は、皇国史観の産物であり、信用できない﹂と社伝記の真実性を否定している[16]。 以下は﹁神代文字社伝記﹂を参考に記したものである。境内
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