「尊王攘夷」の版間の差分
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[[1854年]]︵[[嘉永]]7年︶、それまでの[[異国船打払令|異国船無二念打払令]]︵[[1825年]]︵[[文政]]8年︶︶に取って代わり、[[下田]]と[[箱館]]を開港地とする[[日米和親条約]]などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、[[食料]]、[[石炭]]、その他の便宜を与えることとなる。
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[[1854年]]︵[[嘉永]]7年︶、それまでの[[異国船打払令|異国船無二念打払令]]︵[[1825年]]︵[[文政]]8年︶︶に取って代わり、[[下田]]と[[箱館]]を開港地とする[[日米和親条約]]などの和親条約が米英露と締結される。この和親条約により、日本は諸外国に薪水、[[食料]]、[[石炭]]、その他の便宜を与えることとなる。
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その後、[[安政の大獄]]・[[公武合体運動]]・[[和宮親子内親王|和宮]][[降嫁]]・[[第一次長州征伐]]・[[長幕戦争]]に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を[[鎖国]]下に置いたまま、[[1858年]]([[安政]]5年)の[[不平等条約]](「[[安政五カ国条約]]」)による5港の屈服開港を[[朝廷|京都朝廷]]と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、[[下田港|下田]] → [[横浜港|神奈川(横浜)]]、[[函館港|箱館]]、[[長崎港|長崎]]、[[神戸港|兵庫(神戸)]]、[[新潟港|新潟]]であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。 |
その後、[[安政の大獄]]・[[公武合体運動]]・[[和宮親子内親王|和宮]][[降嫁]]・[[長州征討|第一次長州征伐]]・[[長州征討|長幕戦争]]に見られるように、江戸幕府は弾圧と懐柔により、諸藩を[[鎖国]]下に置いたまま、[[1858年]]([[安政]]5年)の[[不平等条約]](「[[安政五カ国条約]]」)による5港の屈服開港を[[朝廷|京都朝廷]]と諸藩に承諾させようとし続けることになる。この5港は、[[下田港|下田]] → [[横浜港|神奈川(横浜)]]、[[函館港|箱館]]、[[長崎港|長崎]]、[[神戸港|兵庫(神戸)]]、[[新潟港|新潟]]であり、いずれも不平等条約による本格的な交易のための開港地であった。 |
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このような[[徳川幕府]]に対して、根本的な幕政改革を要求する[[薩摩藩]]や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な[[開国]]による[[攘夷]]を要求する[[長州藩]]が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった(和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した[[島津久光]]、幕政の主導権を握ろうとして[[四賢候会議]]を企画・周旋した[[小松清廉|小松帯刀(小松清廉)]]・[[西郷隆盛|西郷吉之助(西郷隆盛)]]・[[大久保利通|大久保一蔵(大久保利通)]]、1858年(安政4年/安政5年)の時点で[[欧米]]への[[留学]]を希望していた[[吉田松陰|吉田寅次郞(吉田松陰)]]・[[木戸孝允|桂小五郎(木戸孝允)]]、[[1861年]]([[文久]]元年)に建白によって[[航海遠略策]]を幕府に認めさせた[[長井雅楽]]、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた[[木戸孝允|桂小五郎(木戸孝允)]]・[[久坂玄瑞|久坂義助(久坂玄瑞)]]など)。 |
このような[[徳川幕府]]に対して、根本的な幕政改革を要求する[[薩摩藩]]や、諸藩連合による新たな全国統治を画策しつつ全面的な[[開国]]による[[攘夷]]を要求する[[長州藩]]が朝廷政治と幕政の両方に大きな影響力を持つ存在となっていった(和宮降稼に協力して京で警護を行ない幕政改革を要求した[[島津久光]]、幕政の主導権を握ろうとして[[四賢候会議]]を企画・周旋した[[小松清廉|小松帯刀(小松清廉)]]・[[西郷隆盛|西郷吉之助(西郷隆盛)]]・[[大久保利通|大久保一蔵(大久保利通)]]、1858年(安政4年/安政5年)の時点で[[欧米]]への[[留学]]を希望していた[[吉田松陰|吉田寅次郞(吉田松陰)]]・[[木戸孝允|桂小五郎(木戸孝允)]]、[[1861年]]([[文久]]元年)に建白によって[[航海遠略策]]を幕府に認めさせた[[長井雅楽]]、京都朝廷と諸藩への周旋活動を行ない続けた[[木戸孝允|桂小五郎(木戸孝允)]]・[[久坂玄瑞|久坂義助(久坂玄瑞)]]など)。 |
2021年5月5日 (水) 13:26時点における版
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概要
国家存在の根拠としての尊王思想と、侵掠者に対抗する攘夷思想が結びついたものである。﹁王を尊び、夷を攘う︵はらう︶﹂の意。古代中国の春秋時代において、周王朝の天子を尊び、領内へ侵入する夷狄︵中華思想における異民族。ここでは南方の楚を指す。︶を打ち払うという意味で、覇者が用いた標語を国学者が輸入して流用したものである。斉の桓公は周室への礼を失せず、諸侯を一致団結させ、楚に代表される夷狄を討伐した。その後、尊王攘夷を主に唱えたのは、宋学の儒学者たちであった。周の天子を﹁王﹂のモデルとしていたことから、元々﹁尊王﹂と書いた。 日本でも鎌倉時代、室町時代は天皇を王と称する用例も珍しくなかったが、江戸時代における名分論の徹底により、幕末には﹁尊皇﹂に置き換えて用いることが多くなった。 なお幕末期における﹁尊王攘夷﹂という言葉の用例は、水戸藩の藩校弘道館の教育理念を示した徳川斉昭の弘道館記によるものがもっとも早く、少なくとも幕末に流布した﹁尊王攘夷﹂の出典はここに求められる[2]。弘道館記の実質的な起草者は、藤田東湖であり、東湖の﹁弘道館記述義﹂によって弘道館記の解説がなされている。幕末尊王攘夷論は、水戸学による影響が大きい。尊王論
攘夷論
脚注
関連項目
- 会沢正志斎 - 尊王攘夷論について体系的にまとめた『新論』を著した。
- 安政の大獄
- 開国
- 勤王
- 公武合体論
- 国学
- 鎖国
- 佐幕
- 佐幕開国
- 三条教則
- 攘夷論
- 宋 - 尊王論は、特に北部を金に征服された南宋で朱子学の発展とともに盛んになったとされる。
- 尊王斥覇
- 尊王論
- 討幕運動
- 日本外史
- 水戸学
- 水戸の三ぽい
- 幕末の四大人斬り
- 乙丑の獄
- 尊攘堂
- ナショナリズム