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{{日本の歴史|Heijo City (Year 710) map.jpg|画像説明=平城京地図}} |
{{日本の歴史|Heijo City (Year 710) map.jpg|画像説明=平城京地図}} |
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[[File:220325 One-thousandth scale model of Heijo Kyo.jpg|thumb|356px|平城京の復元模型([[奈良市役所]]の展示物)。南側から見る]] |
[[File:220325 One-thousandth scale model of Heijo Kyo.jpg|thumb|356px|平城京の復元模型([[奈良市役所]]の展示物)。南側から見る]] |
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'''平城京'''︵へいじょうきょう/へいぜいきょう/ならのみやこ︶は、[[奈良時代]]の[[日本]]の[[日本の首都|首都]]。[[藤原京]]から[[遷都]]するにあたり、[[ |
'''平城京'''︵へいじょうきょう/へいぜいきょう/ならのみやこ︶は、[[奈良時代]]の[[日本]]の[[日本の首都|首都]]。[[710年]]に[[藤原京]]から[[遷都]]するにあたり、[[唐]]の[[都]][[長安城]]を[[模倣]]して[[大和国]]に[[建造物|建造]]された[[都城]]。[[現在]]の[[奈良県]][[奈良市]]、[[大和郡山市]]に[[存在]]する。
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中央北域に宮城・[[平城宮]]︵[[大内裏]]︶を置き、東西8坊 (約 4. |
中央北域に宮城・[[平城宮]]︵[[大内裏]]︶を置き、東西8坊 (約 4.3 [[キロメートル|km]]) の面積をもち、中央を南北に走る[[朱雀大路]]によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって[[碁盤]]の目のように整然と区画され、全域が72坊に区画設定されていた。
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[[大阪湾]]や[[淡路島]]︵[[八島]]のひとつ︶にも近い奈良盆地︵[[奈良県]][[奈良市]]の西部の一部、中心部及び[[大和郡山市]]北部︶には、5世紀中頃にはすでに[[天皇陵]]である[[佐紀盾列古墳群]]が作られ、またのちには[[大神神社]]、7世紀には[[興福寺]]も建立されているが、京となった8世紀には、[[東大寺]]や巨大な仏像である[[奈良大仏|東大寺盧舎那仏像]]、[[法華寺]]などが建立された。[[本州]]の[[政治]]・[[文化]]の中心地となるに至って |
[[大阪湾]]や[[淡路島]]︵[[八島]]のひとつ︶にも近い[[奈良盆地]]︵[[奈良県]][[奈良市]]の西部の一部、中心部及び[[大和郡山市]]北部︶には、5世紀中頃にはすでに[[天皇陵]]である[[佐紀盾列古墳群]]が作られ、またのちには[[大神神社]]、7世紀には[[興福寺]]も建立されているが、京となった8世紀には、[[東大寺]]や巨大な仏像である[[奈良大仏|東大寺盧舎那仏像]]、[[法華寺]]などが建立された。[[本州]]の[[政治]]・[[文化]]の中心地となるに至って外京︵げきょう︶に位置した[[門前町]]が、今に続く奈良の町を形成する中心となった。
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==歴史== |
== 歴史 == |
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[[藤原京]]から平城京への[[遷都]]は[[文武天皇]]在世中の[[慶雲]]4年︵[[707年]]︶に審議が始まり、[[和銅]]元年︵[[708年]]︶には[[元明天皇]]により遷都の詔が出された。しかし、和銅3年︵[[710年]]︶[[3月10日 (旧暦)]]に遷都された時には、[[内裏]]と[[大極殿]]、その他の官舎が整備された程度と考えられており{{efn|平城宮の施設が遷都の時点でどの程度整備されたかについては、その直前の和銅3年の元旦の儀式が工事中の平城宮の大極殿で開かれたか、現時点の宮殿である藤原宮で開かれたかの論争がある<ref>市大樹﹁平安遷都直前の元旦朝賀と賜宴﹂吉村武彦 編﹃日本古代の国家と王権・社会﹄塙書房、2014年 {{ISBN2|978-4-8273-1268-3}}</ref>。}}、[[寺院]]や邸宅は、[[山城国]]の[[長岡京]]に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。[[恭仁京]]や[[難波京]]への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、[[745年]]︵天平17年︶には、再び平城京に遷都され、その後[[784年]]︵延暦3年︶、[[長岡京]]に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは'''南都'''︵なんと︶とも呼ばれた。
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[[藤原京]]から平城京への[[遷都]]は[[文武天皇]]在世中の[[慶雲]]4年︵[[707年]]︶に審議が始まり、[[和銅]]元年︵[[708年]]︶には[[元明天皇]]により遷都の詔が出された。しかし、和銅3年︵[[710年]]︶[[3月10日 (旧暦)]]に遷都された時には、[[内裏]]と[[大極殿]]、その他の官舎が整備された程度と考えられており{{efn|平城宮の施設が[[遷都]]の時点でどの程度整備されたかについては、その直前の和銅3年の元旦の儀式が工事中の平城宮の[[大極殿]]で開かれたか、現時点の宮殿である藤原宮で開かれたかの論争がある<ref>市大樹﹁平安遷都直前の元旦朝賀と賜宴﹂吉村武彦 編﹃日本古代の国家と王権・社会﹄塙書房、2014年 {{ISBN2|978-4-8273-1268-3}}</ref>。}}、[[寺院]]や邸宅は、[[山城国]]の[[長岡京]]に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。[[恭仁京]]や[[難波京]]への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、[[745年]]︵天平17年︶には、再び平城京に遷都され、その後[[784年]]︵延暦3年︶、[[長岡京]]に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは'''南都'''︵なんと︶とも呼ばれた。
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[[弘仁]]元年([[810年]])[[9月6日]]、[[平城天皇|平城上皇]]によって[[平安京]]を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し[[嵯峨天皇]]が迅速に兵を動かし、[[9月12日]]、平城上皇は剃髪した([[薬子の変]])。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。 |
[[弘仁]]元年([[810年]])[[9月6日]]、[[平城天皇|平城上皇]]によって[[平安京]]を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し[[嵯峨天皇]]が迅速に兵を動かし、[[9月12日]]、平城上皇は剃髪した([[薬子の変]])。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。 |
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薬子の変以後平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、9世紀末に[[宇多天皇|宇多上皇]] |
薬子の変以後平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、9世紀末に[[宇多天皇|宇多上皇]]の南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされるが<ref>坂上康俊著、﹃平城京の時代﹄、岩波書店、2011年。</ref><ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC-128958|title=コトバンク - 平城京|accessdate=2019-9-6}}</ref>、[[大和国]]は江戸時代まで存続している。
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==名称== |
== 名称 == |
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平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。 |
平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。 |
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戦後の学校の教科書において、平城京には﹁へいじょうきょう﹂と振り仮名が振られていた<ref name="kyokasho" />。その後、少なくとも1980年代には﹁へいじょうきょう﹂とともに﹁へいぜいきょう﹂の併記が、一部の出版社に見られるようになる<ref name="kyokasho">[ |
戦後の学校の教科書において、平城京には﹁へいじょうきょう﹂と振り仮名が振られていた<ref name="kyokasho" />。その後、少なくとも1980年代には﹁へいじょうきょう﹂とともに﹁へいぜいきょう﹂の併記が、一部の出版社に見られるようになる<ref name="kyokasho">[https://www.excite.co.jp/news/article/E1263828899143/ ﹁平城京の読み方って﹁へいぜいきょう﹂だったっけ?﹂]︵東京書籍株式会社の話︶ Excite Bit コネタ 2010年1月22日︵ただし小学校では、学習上の混乱を避け、﹁へいじょうきょう﹂だけになっているものもある︶。</ref>。これは[[平城天皇]]が﹁へいぜい﹂と読むことや、[[漢字]]音で﹁平﹂が[[漢音]]の“へい”と[[呉音]]の“ひょう”、﹁城﹂が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、この音を漢音に統一すると“へいぜい”になることによるものと見られている<ref name="kyokasho" />。ただし﹁京﹂を“きょう”と読むのは呉音である<ref name="kyokasho" />。
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研究者を中心に﹁へいぜい﹂の読みが見受けられ{{efn|歴史学者の[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]も﹁ヘイゼイ﹂が古来の読み方であることを強調している<ref>﹃史書を読む﹄中公文庫、1987年、15頁。</ref>。}}<ref name="kyokasho" />、﹃[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]﹄の見出しも﹁へいぜいきょう﹂であるが<ref>﹃国史大辞典﹄︵吉川弘文館、第12巻、1991︶。</ref>、一般には﹁へいじょう﹂が普及しており、奈良県の進める[[平城遷都1300年記念事業]]も﹁へいじょう﹂と発音されている。
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研究者を中心に﹁へいぜい﹂の読みが見受けられ{{efn|歴史学者の[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]も﹁ヘイゼイ﹂が古来の読み方であることを強調している<ref>﹃史書を読む﹄中公文庫、1987年、15頁。</ref>。}}<ref name="kyokasho" />、﹃[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]﹄の見出しも﹁へいぜいきょう﹂であるが<ref>﹃国史大辞典﹄︵吉川弘文館、第12巻、1991︶。</ref>、一般には﹁へいじょう﹂が普及しており、奈良県の進める[[平城遷都1300年記念事業]]も﹁へいじょう﹂と発音されている。
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このように、平城京は現代においては[[音読み]]で﹁へいじょうきょう﹂または﹁へいぜいきょう﹂と読むが、かつては奈良京︵寧楽京、ならのみやこ︶と呼ばれた。[[762年]]の[[正倉院文書]]の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から﹁奈良京﹂と書かれた木簡が発掘されている |
このように、平城京は現代においては[[音読み]]で﹁へいじょうきょう﹂または﹁へいぜいきょう﹂と読むが、かつては奈良京︵寧楽京、ならのみやこ︶と呼ばれた。[[762年]]の[[正倉院文書]]の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から﹁奈良京﹂と書かれた木簡が発掘されている<ref>{{Cite news
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|title=遷都当初から「奈良」でした 平城京跡で記載木簡 |
|title=遷都当初から「奈良」でした 平城京跡で記載木簡 |
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|newspaper=47NEWS |
|newspaper=47NEWS |
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|publisher=共同通信社 |
|publisher=共同通信社 |
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|date=2015/04/30 |
|date=2015/04/30 |
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|archivedate=2015/04/30}}</ref>。 |
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==都市計画== |
== 都市計画 == |
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===都市計画の概要=== |
=== 都市計画の概要 === |
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[[ファイル:Heijokyo.jpg|right|400px|平城京 条坊図。]] |
[[ファイル:Heijokyo.jpg|right|400px|平城京 条坊図。]] |
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平城京は南北に長い長方形で、中央の[[朱雀大路]]を軸として[[右京]]と[[左京]]に分かれ、さらに左京の傾斜地に[[外京]] |
平城京は南北に長い長方形で、中央の[[朱雀大路]]を軸として[[右京]]と[[左京]]に分かれ、さらに左京の傾斜地に[[外京]]が設けられている<ref>外京は現在の奈良県庁周辺に相当する。</ref> |
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東西軸には一条から九条大路(十条については後述)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された[[条坊制]]の都市計画である。各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。 |
東西軸には一条から九条大路(十条については後述)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された[[条坊制]]の都市計画である。各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。 |
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平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する[[大和の古道]][[大和の古道#下 |
平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する[[大和の古道]][[大和の古道#下ツ道|下ツ道]]・[[大和の古道#中ツ道|中ツ道]]を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路︵ただし少しずれる︶に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。
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市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める12町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、8町の宅地を占有した藤原不比等、4町を占有した長屋王、藤原仲麻呂の邸が集まっていた<ref>{{Cite web |
市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める12町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、8町の宅地を占有した藤原不比等、4町を占有した長屋王、藤原仲麻呂の邸が集まっていた<ref>{{Cite web|和書|date=2019-07-19 |url= https://mainichi.jp/articles/20190719/k00/00m/040/479000c|title=奈良・平城京跡の邸宅 有力貴族の屋敷か 敷地6万1000平方メートル |publisher=毎日新聞 |accessdate=2019-07-20}}</ref>。土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。
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唐の都の[[長安]]を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし、先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
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唐の都の[[長安]]を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし、先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
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===平城京の建築物=== |
=== 平城京の建築物 === |
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[[ファイル:181103 Heijo Palace Daigokuden Nara Japan05n.jpg|thumb|大極殿(再建)]] |
[[ファイル:181103 Heijo Palace Daigokuden Nara Japan05n.jpg|thumb|大極殿(再建)]] |
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[[平城宮]]︵[[内裏]]︶は[[朱雀大路]]の北端に位置し、そこに[[朱雀門]]が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった[[大極殿]]は[[740年]]の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側︵壬生門の北︶に再建された。朱雀大路の南端には[[羅城門]]があり、九条大路の南辺には京を取り囲む[[羅城]]があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。
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[[平城宮]]︵[[内裏]]︶は[[朱雀大路]]の北端に位置し、そこに[[朱雀門]]が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった[[大極殿]]は[[740年]]の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側︵壬生門の北︶に再建された。朱雀大路の南端には[[羅城門]]があり、九条大路の南辺には京を取り囲む[[羅城]]︵都城の周囲に造られた城壁<ref>{{Cite web|和書|title=羅城(らじょう)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%BE%85%E5%9F%8E-17901 |website=コトバンク |access-date=2023-09-22 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,山川 日本史小辞典 改訂新版,デジタル版 |last=日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典内言及}}</ref>︶があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。
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寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、[[大安寺]]、[[薬師寺]]、[[興福寺]]、[[元興寺]]︵以上を四大寺と称した︶で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。[[東大寺]]は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって[[天平勝宝]]4年︵[[752年]]︶に創建、[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年︵765年︶に創建された。これらに[[法隆寺]]を加えて七大寺︵[[南都七大寺]]︶と称する。この他、[[海龍王寺]]、[[法華寺]]、[[唐招提寺]]、[[菅原寺]]︵[[喜光寺]]︶、[[新薬師寺]]、[[紀寺]]︵子院が残る︶、[[西隆寺]]︵廃寺︶などがあった。
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寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、[[大安寺]]、[[薬師寺]]、[[興福寺]]、[[元興寺]]︵以上を四大寺と称した︶で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。[[東大寺]]は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって[[天平勝宝]]4年︵[[752年]]︶に創建、[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年︵765年︶に創建された。これらに[[法隆寺]]を加えて七大寺︵[[南都七大寺]]︶と称する。この他、[[海龍王寺]]、[[法華寺]]、[[唐招提寺]]、[[菅原寺]]︵[[喜光寺]]︶、[[新薬師寺]]、[[紀寺]]︵子院が残る︶、[[西隆寺]]︵廃寺︶などがあった。
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[[2006年]][[3月10日]]、[[大和郡山市]][[教育委員会]]らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、[[羅城]]︵城壁︶跡の一部が発見されたことに依る。この羅城は中国の[[都城]]の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。羅城から十条大路推定域までが、新たに平城京南方遺跡として周知の遺跡に指定されている。
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[[2006年]][[3月10日]]、[[大和郡山市]][[教育委員会]]らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、[[羅城]]︵城壁︶跡の一部が発見されたことに依る。この羅城は中国の[[都城]]の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。羅城から十条大路推定域までが、新たに平城京南方遺跡として周知の遺跡に指定されている。
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==発掘・調査== |
== 発掘・調査 == |
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{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}} |
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}} |
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[[北浦定政]]が、自力で平城京の推定地を調査し、[[水田]]の[[畦]]や[[道路]]に街の痕跡が残ることを見つけ、[[1852年]]︵嘉永5︶﹃平城宮大內裏跡坪割之図﹄<ref name="kitaura">{{cite book|和書|title = 平城宮大内裏跡坪割之図 (写)| url = |
[[北浦定政]]が、自力で平城京の推定地を調査し、[[水田]]の[[畦]]や[[道路]]に街の痕跡が残ることを見つけ、[[1852年]]︵嘉永5︶﹃平城宮大內裏跡坪割之図﹄<ref name="kitaura">{{cite book|和書|title = 平城宮大内裏跡坪割之図 (写)| url = https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_01175/index.html|author = 北浦定政|others = 嘉永5年考正の写|accessdate = 2017-10-13 }}黒川家旧蔵。黒川真道蔵書、表装に黒川真前の印。軸装、彩色、一部朱書きあり。101.0×68.8cm (外装150.0×74.0cm)。</ref>にまとめた。
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1897年(明治30年)には[[地理学者]]の[[河田羆]]が中心となって編集された『沿革考証日本読史地図』にも図が掲載された{{sfn|河田羆他|1897}}。 |
1897年(明治30年)には[[地理学者]]の[[河田羆]]が中心となって編集された『沿革考証日本読史地図』にも図が掲載された{{sfn|河田羆他|1897}}。 |
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さらに[[関野貞]]は、[[大極殿]]の基壇を見つけ、[[平城宮]]の復元研究を深めて、その成果を﹃平城宮及大内裏考﹄として1907年︵明治40年︶に発表した<ref>{{cite journal|和書|title =平城宮及大内裏考| author=関野貞|publisher = 東京帝国大学| year = 1907| work = 東京帝国大学紀要 ; 工科第3冊| url =https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993848| accessdate =2017-10-13}}</ref>。
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さらに[[関野貞]]は、[[大極殿]]の[[基壇]]を見つけ、[[平城宮]]の復元研究を深めて、その成果を﹃平城宮及大内裏考﹄として1907年︵明治40年︶に発表した<ref>{{cite journal|和書|title =平城宮及大内裏考| author=関野貞|publisher = 東京帝国大学| year = 1907| work = 東京帝国大学紀要 ; 工科第3冊| url =https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993848| accessdate =2017-10-13}}</ref>。
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[[棚田嘉十郎]]によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から[[平城宮]]の発掘調査が行われた。 |
[[棚田嘉十郎]]によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から[[平城宮]]の発掘調査が行われた。 |
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1959年以降は、[[奈良国立文化財研究所]]が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。 |
1959年以降は、[[奈良国立文化財研究所]]が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。 |
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[[大内裏]]に相当する辺りは現在の[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄奈良線|奈良線]][[大和西大寺駅]]と[[新大宮駅]]の中間にあり、[[1922年]]には[[史跡]]に指定、[[1952年]]には[[特別史跡]]︵'''[[平城宮跡]]'''︵へいじょうきゅうせき︶︶として保存されている。
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[[大内裏]]に相当する辺りは現在の[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄奈良線|奈良線]][[大和西大寺駅]]と[[新大宮駅]]の中間にあり、[[1922年]]には[[史跡]]に指定、[[1952年]]には[[特別史跡]]︵'''[[平城宮跡]]'''︵へいじょうきゅうせき︶︶として保存されている。
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[[1961年]]に初めて木簡が出土<ref>奈良文化財研究所・編著、﹃木簡 古代からの便り﹄、岩波書店、2020年、27頁。</ref>し、[[1967年]]には、平城宮東の張り出し部分に奈良時代の庭園が発見された。東西70メートル、南北100メートルにわたるもので、その中に、池を掘り、橋をかけ、建物を建てていた。﹁[[続日本紀]]﹂にある﹁東院の玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす﹂という記事のとおり、釉薬をかけた瓦がまとまって出土した。このことから、発見された庭園は、平城宮東院庭園と呼ばれ国の特別名勝の指定を受けている<ref name="shitei">{{ |
[[1961年]]に初めて木簡が出土<ref>奈良文化財研究所・編著、﹃木簡 古代からの便り﹄、岩波書店、2020年、27頁。</ref>し、[[1967年]]には、平城宮東の張り出し部分に奈良時代の庭園が発見された。東西70メートル、南北100メートルにわたるもので、その中に、池を掘り、橋をかけ、建物を建てていた。﹁[[続日本紀]]﹂にある﹁東院の玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす﹂という記事のとおり、釉薬をかけた瓦がまとまって出土した。このことから、発見された庭園は、平城宮東院庭園と呼ばれ国の特別名勝の指定を受けている<ref name="shitei">{{Cite web|和書|url = http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1225868740461/index.html#4|title = 国指定 史跡・名勝・天然記念物一覧|publisher = 奈良市|accessdate = 2017-10-13}}</ref>。
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さらに1978年に宮域外ではあるが平城京左京三条二坊宮跡庭園が1978年に国の特別史跡、および1992年に[[特別名勝]]<ref name="shitei"/><ref name="teien">{{ |
さらに1978年に宮域外ではあるが平城京左京三条二坊宮跡庭園が1978年に国の特別史跡、および1992年に[[特別名勝]]<ref name="shitei"/><ref name="teien">{{Cite web|和書|url = http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1159403572341/|title = 平城京左京三条二坊宮跡庭園|publisher = 奈良市|accessdate = 2017-10-13}}</ref>、また朱雀大路の一部︵二条-三条あたり︶は1984年に史跡に指定されている<ref name="shitei"/>。
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平城宮のすぐ東南、宮跡庭園の北に隣接する左京三条二坊に、敷地4町の長屋王の邸宅があった。﹁[[奈良そごう]]﹂︵当時︶建設に際した発掘調査で1988年に出土した木簡<ref>{{cite journal|和書|editor = 奈良文化財研究所|title = 平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告―長屋王邸・藤原麻呂邸の調査︵本文編︶︵図版編︶|work = 奈良国立文化財研究所学報 |number = 54|year =1995}}</ref><ref>{{cite journal |和書|title = 平城京木簡一―長屋王家木簡一 |editor = 奈良文化財研究所|work = 奈良国立文化財研究所史料 | number = 41|year = 1995}}</ref><ref>{{ |
平城宮のすぐ東南、宮跡庭園の北に隣接する左京三条二坊に、敷地4町の長屋王の邸宅があった。﹁[[奈良そごう]]﹂︵当時︶建設に際した発掘調査で1988年に出土した木簡<ref>{{cite journal|和書|editor = 奈良文化財研究所|title = 平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告―長屋王邸・藤原麻呂邸の調査︵本文編︶︵図版編︶|work = 奈良国立文化財研究所学報 |number = 54|year =1995}}</ref><ref>{{cite journal |和書|title = 平城京木簡一―長屋王家木簡一 |editor = 奈良文化財研究所|work = 奈良国立文化財研究所史料 | number = 41|year = 1995}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = http://hiroba.nabunken.go.jp/home/tenji04_01_05.html|title = 木簡ひろば・遺構|publisher = 奈良文化財研究所|accessdate = 2017-10-13}}</ref>は3万点を超える数であり、その解読の結果、長屋王家の生活が明らかになった。米を管理する大炊司、氷を貯蔵する氷室の管理をする水取司などの[[家政機関]]や使用人の居住区、倉庫などがあった。倉庫には、米・麦・鮑など、さまざまな物資が運び込まれていた。また、木簡から、当時の皇族や貴族が食べたという乳製品である蘇︵そ︶も長屋王家の食卓にあがっていたことが分かっている。
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== 近鉄奈良線 |
== 近鉄奈良線== |
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[[File:HeijokyoWithNaraline.JPG|thumb|平城宮跡内を横切る近鉄奈良線(2010年12月)]] |
[[File:HeijokyoWithNaraline.JPG|thumb|平城宮跡内を横切る近鉄奈良線(2010年12月)]] |
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[[大阪電気軌道]]が[[1914年]]に現在の[[近鉄奈良線]]を開業した際には平城京の正確な範囲は明らかとなっていたが{{sfn|河田羆他|1897}}、世間の注目も薄く([[新聞紙法]]などの言論検閲もあり)、結果的に平城宮の中を走行するようになった。 |
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==その他== |
== その他 == |
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{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}} |
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}} |
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*遷都の年号の語呂合わせは﹁奈(7)良、唐(10)にならって平城京﹂、﹁奈良の710︵納豆︶平城京﹂。もしくは﹁710︵なんと︶○○平城京﹂︵﹁なんと﹂は感嘆詞の“何と”または“南都”、○○には“きれいな”“大きな”“素敵な”“立派な”“美しい”などの言葉が入る︶などがある。
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*遷都の年号の語呂合わせは﹁奈(7)良、唐(10)にならって平城京﹂、﹁奈良の710︵納豆︶平城京﹂。もしくは﹁710︵なんと︶○○平城京﹂︵﹁なんと﹂は感嘆詞の“何と”または“南都”、○○には“きれいな”“大きな”“素敵な”“立派な”“美しい”などの言葉が入る︶などがある。
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==ギャラリー== |
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181103 Heijo Palace Daigokuden Nara Japan01bs.jpg|平城宮跡、第1次大極殿(復元) |
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181103 Heijo Palace Daigokuden Nara Japan06s3.jpg|第1次大極殿(復元)内部 |
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Heijokyo Suzakumon 05.JPG|朱雀門(復元) |
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Suzakumon Heijokyo1.jpg|[[ライトアップ]]された朱雀門 |
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Miniature Model of Heijo Palace Daigokuden.jpg|平城宮の復元模型 |
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Daigoku-den_at_Heijō_Palace_under_repair_2010.jpg|再建工事中の第1次大極殿(写真中央)。背後に[[東大寺]]大仏殿や[[若草山]]がみえる(2010年1月) |
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140531 Heijo-kyo Nara Japan01bs.jpg|平城京跡 |
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== アクセス == |
== アクセス == |
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近鉄奈良線[[大和西大寺駅]]または[[新大宮駅]]より徒歩。 |
近鉄奈良線[[大和西大寺駅]]または[[新大宮駅]]より徒歩30分又は車で5分。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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==関連項目== |
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{{commons|Category:Heijō-kyō}} |
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{{Wikinews|平城京、九条大路南側400mに道路遺構}} |
{{Wikinews|平城京、九条大路南側400mに道路遺構}} |
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*[[日本の首都]] |
* [[日本の首都]] |
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*[[古都奈良の文化財]] |
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*[[奈良時代]] |
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*[[平城遷都1300年記念事業]] |
* [[平城遷都1300年記念事業]] |
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*[[平城宮]] |
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*[[木簡]] |
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*[[二行八門制]] |
* [[二行八門制]] |
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*[[京奈和自動車道]]・大和北道路 |
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== 参考文献 == |
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* [[角川日本地名大辞典]] 29 奈良県 |
* [[角川日本地名大辞典]] 29 奈良県 |
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* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] |
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* {{Cite book| 和書| editor=| translator=| |
* {{Cite book| 和書| editor=| translator=|author=河田羆他|authorlink=河田羆| year=1897| title=[{{NDLDC|2387691/13}} 沿革考証日本読史地図 : 附・略説]| publisher=[[富山房]]| location =| page=9|section=| quote=| isbn=| ref=harv}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[https://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/histry/what.html 国土交通省 国営飛鳥歴史公園事務所 国営平城宮跡歴史公園] - 平城京とは?(リンク先の図で「写真で見る」で切り替えると現代の航空写真が表示) |
* [https://www.kkr.mlit.go.jp/asuka/heijo/histry/what.html 国土交通省 国営飛鳥歴史公園事務所 国営平城宮跡歴史公園] - 平城京とは?(リンク先の図で「写真で見る」で切り替えると現代の航空写真が表示) |
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*[http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/index.html 平城宮跡資料館] - 奈良文化財研究所 |
* [http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/index.html 平城宮跡資料館] - 奈良文化財研究所 |
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* [https://sitereports.nabunken.go.jp/ja 全国遺跡報告総覧]- 奈良文化財研究所 |
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*[http://www.kashikoken.jp/fukyu/iseki/quiz_rist/ 平城京100の疑問] - 奈良県立橿原考古学研究所 |
* [http://www.kashikoken.jp/fukyu/iseki/quiz_rist/ 平城京100の疑問] - 奈良県立橿原考古学研究所 |
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*[https://web.archive.org/web/20070917073803/http://www3.ocn.ne.jp/~nsih2001/ 奈良世界遺産市民ネットワーク] |
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日本の歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東京奠都以降を東京時代(1868年 – )とする説もある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各時代の始期・終期は諸説ある。各記事を参照のこと。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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歴史[編集]
藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の慶雲4年︵707年︶に審議が始まり、和銅元年︵708年︶には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、和銅3年︵710年︶3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており[注釈 1]、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年︵天平17年︶には、再び平城京に遷都され、その後784年︵延暦3年︶、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都︵なんと︶とも呼ばれた。 弘仁元年︵810年︶9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した︵薬子の変︶。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。 薬子の変以後平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、9世紀末に宇多上皇の南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされるが[2][3]、大和国は江戸時代まで存続している。名称[編集]
平城を﹁へいじょう﹂と読むか、﹁へいぜい﹂と読むかについては議論がある。 戦後の学校の教科書において、平城京には﹁へいじょうきょう﹂と振り仮名が振られていた[4]。その後、少なくとも1980年代には﹁へいじょうきょう﹂とともに﹁へいぜいきょう﹂の併記が、一部の出版社に見られるようになる[4]。これは平城天皇が﹁へいぜい﹂と読むことや、漢字音で﹁平﹂が漢音の“へい”と呉音の“ひょう”、﹁城﹂が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、この音を漢音に統一すると“へいぜい”になることによるものと見られている[4]。ただし﹁京﹂を“きょう”と読むのは呉音である[4]。 研究者を中心に﹁へいぜい﹂の読みが見受けられ[注釈 2][4]、﹃国史大辞典﹄の見出しも﹁へいぜいきょう﹂であるが[6]、一般には﹁へいじょう﹂が普及しており、奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も﹁へいじょう﹂と発音されている。 このように、平城京は現代においては音読みで﹁へいじょうきょう﹂または﹁へいぜいきょう﹂と読むが、かつては奈良京︵寧楽京、ならのみやこ︶と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から﹁奈良京﹂と書かれた木簡が発掘されている[7]。都市計画[編集]
都市計画の概要[編集]
平城京の建築物[編集]
発掘・調査[編集]
近鉄奈良線[編集]
その他[編集]
ギャラリー[編集]
アクセス[編集]
近鉄奈良線大和西大寺駅または新大宮駅より徒歩30分又は車で5分。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 角川日本地名大辞典 29 奈良県
- 旧高旧領取調帳データベース
- 河田羆他『沿革考証日本読史地図 : 附・略説』富山房、1897年、9頁。
外部リンク[編集]
- 国土交通省 国営飛鳥歴史公園事務所 国営平城宮跡歴史公園 - 平城京とは?(リンク先の図で「写真で見る」で切り替えると現代の航空写真が表示)
- 平城宮跡資料館 - 奈良文化財研究所
- 全国遺跡報告総覧- 奈良文化財研究所
- 平城京100の疑問 - 奈良県立橿原考古学研究所
- 奈良世界遺産市民ネットワーク
- 『平城京』 - コトバンク
先代 藤原京 |
日本の首都 710年 - 740年 |
次代 恭仁京 |
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日本の首都 745年 - 784年 |
次代 長岡京 |