「歌舞伎座」の版間の差分
Koshukaido20 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
|||
117行目: | 117行目: | ||
}} |
}} |
||
'''歌舞伎座'''(かぶきざ)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]4-12- |
'''歌舞伎座'''︵かぶきざ︶は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]4-12-15︵[[東銀座駅|東銀座]]︶にある[[歌舞伎]]専用の[[劇場]]である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。
|
||
歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり([[新富座]]、[[中村座]]など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」とはもともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の対極にある権威ある大芝居の劇場を意味していた」{{sfn|今尾哲也|2000|p=173}}。現在の歌舞伎座設立にあたり「その普通名詞を、[[福地源一郎|福地桜痴]]は固有名詞として天下に示したのである」{{sfn|今尾哲也|2000|p=173}}。しかしこれは間違いで普通名詞としての用法はなかったという説もある{{要出典|date=2013年12月}}。<!-- |
歌舞伎座は1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり([[新富座]]、[[中村座]]など)、「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」とはもともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の対極にある権威ある大芝居の劇場を意味していた」{{sfn|今尾哲也|2000|p=173}}。現在の歌舞伎座設立にあたり「その普通名詞を、[[福地源一郎|福地桜痴]]は固有名詞として天下に示したのである」{{sfn|今尾哲也|2000|p=173}}。しかしこれは間違いで普通名詞としての用法はなかったという説もある{{要出典|date=2013年12月}}。<!-- |
||
124行目: | 124行目: | ||
現在の歌舞伎座は、[[明治座]]や中村座などと同様の[[固有名詞]]である。一部の事典に「歌舞伎座」を普通名詞として(「歌舞伎劇を演ずる一座および劇場」の意味で)説明しているものがあるが、東京の歌舞伎座から転用(誤用)されたものと考えられる。明治時代までこうした用法はなく、歌舞伎事典の類にもこの用法は記述されていない。--> |
現在の歌舞伎座は、[[明治座]]や中村座などと同様の[[固有名詞]]である。一部の事典に「歌舞伎座」を普通名詞として(「歌舞伎劇を演ずる一座および劇場」の意味で)説明しているものがあるが、東京の歌舞伎座から転用(誤用)されたものと考えられる。明治時代までこうした用法はなく、歌舞伎事典の類にもこの用法は記述されていない。--> |
||
歌舞伎座は[[大正]]時代から[[松竹]]の直営で経営を行ってきた。4度建て直されており、2014年現在のものは5代目のものである。「'''株式会社歌舞伎座'''」({{Lang-en-short|Kabuki-Za Co.,Ltd.}}<ref>株式会社歌舞伎座 定款 第1章第1条</ref>)が劇場を所有している。 |
歌舞伎座は[[大正]]時代から[[松竹]]の直営で経営を行ってきた。4度建て直されており、2014年現在のものは5代目([[歌舞伎座タワー]])のものである。「'''株式会社歌舞伎座'''」({{Lang-en-short|Kabuki-Za Co.,Ltd.}}<ref>株式会社歌舞伎座 定款 第1章第1条</ref>)が劇場を所有している。 |
||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
2024年5月15日 (水) 03:08時点における最新版
歌舞伎座 (第5期) Kabuki-za | |
---|---|
情報 | |
完成 | 2013年2月26日 |
開館 | 2013年4月2日 |
開館公演 |
歌舞伎座新開場 杮葺落四月大歌舞伎 |
収容人員 | 1,964人 |
設備 | 売店・飲食店 |
用途 | 歌舞伎 |
運営 | 株式会社歌舞伎座 |
所在地 |
〒104-0061 東京都中央区銀座四丁目12番15号 |
位置 | 北緯35度40分10.3秒 東経139度46分4.8秒 / 北緯35.669528度 東経139.768000度座標: 北緯35度40分10.3秒 東経139度46分4.8秒 / 北緯35.669528度 東経139.768000度 |
アクセス |
東京メトロ日比谷線・都営地下鉄浅草線東銀座駅すぐ上 東京地下鉄各線銀座駅徒歩10 - 15分 |
外部リンク | 歌舞伎座ホームページ |
歌舞伎座定紋「鳳凰丸」 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査役会設置会社 |
市場情報 | |
本社所在地 |
日本 〒104-0061 東京都中央区銀座四丁目12番15号 北緯35度40分10.3秒 東経139度46分4.8秒 / 北緯35.669528度 東経139.768000度 |
設立 | 1949年11月21日 |
業種 | サービス業 |
事業内容 |
演劇、演芸、映画その他各種の興行及び食堂、売店、運動又は娯楽施設の経営 不動産の賃貸、管理、売買及び駐車場の経営 他 |
代表者 | 我孫子正(代表取締役社長)[1] |
資本金 |
|
発行済株式総数 |
|
売上高 |
|
営業利益 |
|
経常利益 |
|
純利益 |
|
純資産 |
|
総資産 |
|
従業員数 |
|
決算期 | 2月末日 |
会計監査人 | 新創監査法人[2] |
主要株主 | |
主要部門 |
連結:不動産賃貸業 単独:不動産賃貸業、食堂・飲食事業、売店事業 |
主要子会社 | 歌舞伎座サービス株式会社(連結子会社) 100% |
外部リンク | https://www.kabuki-za.co.jp/ |
歴史[編集]
近代劇場として開設[編集]
歌舞伎座は、明治の演劇改良運動の流れを受けて開設された。この運動の提唱者の一人でジャーナリストの福地源一郎︵福地桜痴︶と金融業者の千葉勝五郎の共同経営で、1889年︵明治22年︶、東京市京橋区木挽町に開設された︵第1期︶。 それまで最も大きな劇場は新富座で、舞台の間口が8間あったが、歌舞伎座は13間と大きく広がった。また照明には当時最新技術だった電灯を採用するなど、それまでの劇場をはるかにしのぐ近代劇場となり、これを危惧した新富座・中村座・市村座・千歳座が﹁四座同盟﹂を結成して開場当初の歌舞伎の興行に掣肘を加えたことがあった。 福地はまもなく借金問題が浮上したことにより経営から離れ、歌舞伎座の座付作者として活歴物や新舞踊劇の脚本を多数執筆した。そしてそれらを演じた九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立つ歌舞伎座は、いわゆる﹁團菊左﹂の明治の歌舞伎黄金時代をもたらして文字通り歌舞伎の殿堂となった。 1896年︵明治29年︶に歌舞伎座株式会社として株式組織化、皆川四郎が社長、井上竹次郎が副社長に就任した[5]。大河内輝剛が社長を務めていた1907年︵明治40年︶春に、内外を修繕改築している。 1911年︵明治44年︶3月には、開場した帝国劇場に対抗するため劇場の純和風化改修工事を行い、同年11月に再開した︵第2期︶。この間に経営陣が分裂し、関西から東京進出を狙っていた松竹による株の買収が行われた。役員の田村成義がいったん株を買い戻したものの、1913年︵大正2年︶に病気のためやむなく手を引き、松竹の大谷竹次郎が経営を握った。一方の田村は二長町の市村座の経営に専念、これが後に﹁二長町時代﹂と呼ばれる大正の歌舞伎全盛時代に繋がった。 1921年︵大正10年︶10月、歌舞伎座は漏電により焼失した。大谷は田村成義の後継者・田村寿二郎の好意により市村座を借りて興行を継続しつつ、直ちに歌舞伎座の再建工事を行うことにした。1923年︵大正12年︶9月には建物躯体が完成したところで関東大震災に遭い、積み上げてあった内装用の桧材が全焼、工事は中断した。その後工事を再開し、1924年︵大正13年︶12月に竣工した。 ﹁歌舞伎座﹂ 福地源一郎︵1841 - 1906 号は桜痴︶が演劇改良の場として、明治22年︵1889︶11月21日に開場させた劇場。興行師の千葉勝五郎︵1834 - 1903︶が出資したが、29年︵1896︶に売却され株式組織となった。市川団十郎︵九世、1838 - 1903︶、尾上菊五郎︵五世、1844 - 1903︶らが常に出演し、歌舞伎のひのき舞台として格式を守り続けた。歌舞伎座の座紋﹁鳳凰丸﹂が描かれていて、﹁明治22年11月23日 歌舞伎座﹂と記された紙片が書き写されている。 — 清水晴風著﹃東京名物百人一首﹄明治40年8月﹁歌舞伎座﹂より抜粋[6]-
歌舞伎座の櫓
-
歌舞伎座内観(第1期)
歌舞伎の殿堂として[編集]
特色[編集]
かつては多くの小都市にも芝居小屋があったが、時代の流れとともにその数は少なくなってしまった。近年になって、文化財保護や町おこし、村おこしなどの目的で、古くからある歌舞伎劇場の維持・整備に力を入れている自治体もでてきた。それでも、都市部では、客席数1,000人を超える大劇場は、単独施設ではなく規模の異なる複数のホールを併せ持つ複合ホール、またはホテルやビジネスビルなど複合施設に入居する形式が主流となっており、歌舞伎座は単独の施設としての大劇場という点で、今日では稀な存在である。定紋[編集]
鳳凰丸 原形は法隆寺の宝物﹁鳳凰円文螺鈿唐櫃﹂の文様[8][9]。また松竹の興行宣伝などでは松竹マークが代用される。 歌舞伎座では毎年11月の顔見世興行の際に正面入り口上の破風の上に櫓が上がるが、この櫓を囲う布には、正面に定紋の﹁鳳凰丸﹂が、側面には﹁木挽町きやうげんづくし︵狂言尽くし︶歌舞伎座﹂の文言がそれぞれ染め抜かれている。歌舞伎座再生計画[編集]
2000年代に入ると歌舞伎座も老朽化が目立つようになり、また耐震性の問題や段差解消の必要性なども指摘されるようになっていった。そこで2005年︵平成17年︶から建て替えの検討に入り、早稲田大学特任教授︵当時︶の伊藤滋を座長とした歌舞伎座再生委員会が、﹁建て替え+超高層オフィス棟﹂という草案を導き出した[注 2]。しかしその一方で、歌舞伎座は2002年︵平成14年︶に国の登録有形文化財に登録されており、銀座の主要なランドマークとして親しまれていることから、保存の要望も出された。 松竹社内に社長迫本淳一の直轄部署として歌舞伎座開発準備室が設置され、室長に取締役︵当時︶の武中雅人が任命された。東京都に都市再生特区計画を申請、結局建て替えの実施は2008年︵平成20年︶10月に正式に発表され、翌年8月26日には松竹と歌舞伎座により、建て替えの具体的な計画が発表された。 2009年︵平成21年︶から1年余りに渡って行われた﹁さよなら公演﹂の後、2010年︵平成22年︶4月30日に閉場式が行われた。 2013年2月26日に、オフィスビルと併設された歌舞伎座の建て替えが完了した[10]。3月27日・28日の2日に渡って開場式が行われ[11]、4月2日から1年間、こけら落とし興行が行われた。第5期歌舞伎座[編集]
外観・設備等[編集]
第5期歌舞伎座の外観は意匠設計・隈研吾 低層で和風桃山様式を採用。4階建て全1,964席[12][注 3]で通常の1等席~3等席以外に桟敷席と一幕見席︵後述︶を配置。 高層オフィスビル﹁歌舞伎座タワー﹂︵高さ145メートル、軒高135メートル。地下4階地上29階建て︶と地下広場﹁木挽町広場﹂を併設。歌舞伎座タワーは5階[13]のみ一般に開放。タワー5階と木挽町広場は劇場外という扱いなので、チケットなしで出入りできる。 タワー5階には歌舞伎に使用する衣装や小道具等が展示されている歌舞伎座ギャラリー︵有料︶、第4期歌舞伎座の瓦や河竹黙阿弥の石燈籠等が展示されている屋上庭園︵無料︶等がある。木挽町広場にはシンボルとなる巨大な提灯が設置されている他、土産や弁当の販売等を行っている。 主な設備は以下のとおりである‥ ●劇場内 ●喫茶室︵1階︶、ドリンクコーナー︵1階、2階、3階︶ ●お食事処︵2階、3階︶ ●お土産処︵1階︶、座・のれん街︵=お土産や甘味等を販売、3階︶ ●ロッカー︵地下一階︶、トイレ︵各階︶ ●劇場正面 ●切符[注 4]預かり所︵正面右︶、一幕見席︵後述︶の切符売り場︵正面左︶ ●歌舞伎座タワー ●お土産処、歌舞伎座ギャラリー、屋上庭園、木挽町ホール等︵いずれも5階︶ ●木挽町広場 ●切符売り場、お土産処、弁当売り場、コンビニ、シンボルとなる巨大な提灯等 ●歌舞伎座場外 ●歌舞伎そば[14]︵歌舞伎座裏︶︵2023年4月30日閉店︶ 木挽町広場は地下鉄東銀座駅と地下で直結する。観客はここから直接客席へ行くことはできず、一旦エスカレーターで地上へ出て正面玄関から入る形をとっている[15]。 歌舞伎座と歌舞伎座タワーを併せて﹁GINZA KABUKIZA﹂という名称が定められ、キャッチコピー﹁イザ、ギンザ、カブキザ。﹂や、シンボルマークも制定された。 歌舞伎座は耐震性が特に重視されたうえ、銀座地区の防災拠点と帰宅困難者一時避難場所としても機能するように設計されている。-
切符預かり所
-
一幕見席入口
-
歌舞伎座ギャラリー
(2019年撮影) -
屋上庭園
(2019年撮影) -
地下2階、木挽町広場
(2018年5月24日撮影) -
歌舞伎そば
(2021年3月15日撮影)
一幕見席と桟敷席[編集]
観劇[編集]
歌舞伎座での興行はひと月を単位とし、月毎に演目が変わる。各月の興行は月末の数日を除いた25日間であり、通常興行中に休演日は無い。 基本的に2部制︵3部制のときもある︶で、午前の部と午後の部からなる。 各部は複数の演目から構成されている場合も多いが、観劇の料金は部単位であり、これら演目の料金をセットで支払う必要がある︵前述の一幕見席は例外︶。 午前の部は午前11時から午後4時頃まで、午後の部は午後4時半から午後9時頃までである。 ︵終了時間は公演内容によって異なる。︶ したがって午前の部では昼食、午後の部では夕食の時間をはさむ事になるが、食事をするには幕間︵最大30分︶に内部の食堂を利用するか、弁当を持参する︵もしくは木挽町広場等で買う︶必要がある。 歌舞伎座内では歌舞伎鑑賞の助けとして﹁筋書﹂の販売や、﹁イヤホンガイド﹂と﹁字幕ガイド﹂の貸し出し︵いずれも有料︶を行っている。 ﹁筋書﹂は各演目の︵上演する場面の︶あらすじを書いた冊子︵プログラム︶である[注 6]。﹁イヤホンガイド﹂は上演中にイヤホンを用いて﹁あらすじ・配役・衣裳・道具・独特な約束事など﹂[19]を聞く事ができる。また各演目は人気場面のみの上演となる︵いわゆる見取り方式︶が、イヤホンガイドは幕間に上演場面の前後のあらすじの解説も行う。﹁字幕ガイド﹂は役者がしゃべっている台詞を字幕で表示してくれる。第4期との違い[編集]
第5期の外観は第4期に似せて作られているが、両者の主な違いは以下の通りである‥ ●歌舞伎座タワーと木挽町広場の併設 ●バリアフリー化、エスカレーターとエレベーターの設置。 ●3階に﹁座・のれん街﹂を設置。 ●チケット売り場とお弁当売り場を地下2階に移動。 ●併設されているお食事処の変更。 ●トイレの数が増加。略年表[編集]
建物の変遷[編集]
第1期︵1889年竣工︶ 木造、外観は西洋風の劇場。設計‥高原弘造、施工‥大倉組。1907年、修繕改築。 ︵煉瓦積み?︶外観は洋風で、総建坪は外郭を除いて457坪︵のちに528坪︶、間口は15間、奥行30間、主要部の軒高は30尺、棟まで60尺。用材はすべてヒノキで、3階建。舞台は間口13間、奥行16間、高さ17尺、廻り舞台は蛇の目回しで、外回り直径は9間、内回り7間。チョボ床は東西に分けて2箇所に設けたのは新しかった。観客席は3層で、1層は13間×10間、東西向こう正面ともに桟敷で、土間は6間ずつに分けて縦横に通行の渡り板を設け、両花道から高土間へも通路を作って、桟敷は洋装の観客を考慮して上げ蓋式で、これを取れば腰掛けになり、天井は繁骨の傘状形に張って、中央に当時最新式の16燭光の小球36個を束ねた吊り電灯が下がり、3階の一幕見席の後ろには運動場を作り、ここに食品、小間物などの売店があり、2階に洋室3間を設けて観客休憩所に充当した。観客定員は1700名余。 第2期︵1911年竣工︶ 第1期の建物の骨組みを用いて大幅に改造、純洋風の帝国劇場に対抗して純和風の外観とした。設計施工‥志水正太郎。1921年10月、漏電事故により焼失。 第3期︵1924年12月竣工、1925年1月開場︶ 破風屋根が目立つ桃山様式風の外観。設計‥岡田信一郎、施工‥大林組。1945年に戦災を受ける。 鉄骨鉄筋コンクリート造。瓦葺き、本館1階910坪、2階480坪5合、3階428坪3合9勺、4階194坪、地階881坪強。楽屋は1階152坪3合、2階433坪。舞台は間口15間、高さ3間2尺、奥行11間、必要に応じてさらに5~6間深まった。廻り舞台は蛇の目、外回り直径10間、内回り7間2尺。両花道。奈落の深さは3間。天井高さは10間。観客席は4階、1~2階︵東西桟敷︶は145席、大部分は椅子席。観客定員は2500人余り。 第4期︵1950年12月竣工、1951年1月開場︶ 戦災を受けた第3期の躯体・デザインを生かして修築。吉田五十八が担当、施工‥清水建設。 歌舞伎座は間口15間、奥行11間の舞台を有し、収容人員は1950年の開場時に2,600人で、その後1982年の改修時に、ゆとりを持たせるため座席数を減らし、2,017人となった。 ●建屋‥4階建︵一部5階︶ ●構造‥鉄骨鉄筋コンクリート造 ●建築面積‥3,787m2 第5期︵2013年2月竣工、2013年4月開場︶ 第4期のデザインを継承して新築。複合ビルと構成されている。設計‥隈研吾・三菱地所設計、施工‥清水建設。 舞台間口‥27.5メートル(15間︶、奥行20メートル︵11間︶、高さ6.36メートル[21]。 廻り舞台の直径は60尺︵18.18m︶[22] 1階から3階までの座席数は1,808、4階の一幕見席は座席数96、立見数60で計156[23]。歌舞伎座テレビ室[編集]
歌舞伎座には一時期、テレビドラマ︵主に時代劇︶の制作を主体としたセクション、いわゆる﹁歌舞伎座テレビ室﹂︵略して﹁歌舞伎座テレビ﹂とも︶が置かれており[要出典]、古くは﹃日本怪談劇場﹄や﹃弥次喜多隠密道中﹄、末期では﹃斬り捨て御免!シリーズ﹄や﹃眠狂四郎無頼控︵片岡孝夫主演版︶﹄等と言った数多くの名作を世に送り出した。おすぎが在籍していたことでも知られる。 詳細については当該項目を参照の事。 ●日本怪談劇場 ●絵島生島 ●弥次喜多隠密道中 ●愛染かつら︵1974年版︶ ●宮本武蔵︵1975年版︶ ●お耳役秘帳 ●斬り捨て御免!シリーズ ●お命頂戴! ●眠狂四郎円月殺法 ●眠狂四郎無頼控 など。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●今尾哲也﹃歌舞伎をみる人のために﹄玉川大学出版部、1993年3月。ISBN 978-4472094415。 ●今尾哲也﹃歌舞伎の歴史﹄岩波書店︿岩波新書﹀、2000年3月。ISBN 978-4004306610。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 歌舞伎座ホームページ
- 歌舞伎座 - 松竹の公式ウェブサイト