ダグラス・マッカーサー
ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur | |
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フィリピンにて(1945年8月2日) | |
生誕 |
1880年1月26日 アメリカ合衆国・アーカンソー州リトルロック |
死没 |
1964年4月5日(84歳没) アメリカ合衆国・ワシントンD.C. |
所属組織 | アメリカ陸軍フィリピン陸軍 |
軍歴 | 1903年6月 - 1964年4月 |
最終階級 | |
指揮 | |
除隊後 | レミントンランド会長 |
墓所 | アメリカ合衆国・バージニア州ノーフォーク |
署名 |
略歴[編集]
1880年にアメリカ合衆国アーカンソー州で生まれ、1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した[2]。 1918年に第一次世界大戦に参戦し、師団参謀長として13の勲章を受勲した[3]。1919年には史上最年少で同士官学校の校長に就任、1925年には最年少でアメリカ軍の少将に就任、1930年には最年少でアメリカ軍参謀総長に就任した[3]。 1935年にフィリピン軍の創設に携わり[3]、翌1936年にはフィリピン軍の元帥となった[2]。第二次世界大戦では大日本帝国からフィリピンを奪還し、1944年にアメリカ陸軍元帥に就任した[3]。 第二次世界大戦後、1945年から1950年まで連合国軍最高司令官︵GHQ︶として各種の占領政策を行って[2]民主化を進めたほか、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に影響を与えた[3]。 1950年には朝鮮戦争における国際連合軍総司令官として仁川上陸作戦を成功させたが、中華人民共和国の人民解放軍との戦いに劣勢がみられ、北部のピョンヤン制圧から38度線まで撤退した。その後核を使うなどと全面戦争を主張したことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年に解任された[2]。 退任後は1952年の大統領選挙に出馬することを試みたが、支持が集まらずに断念した。製造企業レミントンランド社の会長に就任し、1964年に84歳で死去した[3]。経歴︵青年期まで︶[編集]
生い立ち[編集]
陸軍入隊[編集]
経歴(第一次世界大戦〜戦間期)[編集]
第一次世界大戦[編集]
戦間期[編集]
陸軍参謀総長[編集]
1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、一時的に大将に昇進した[注釈 2]。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付き、マッカーサーとアイゼンハワーの長くて有名な関係が始まった。アイゼンハワーはウェストポイントを平均的な成績で卒業していたが、英語力に極めて優れており、分かりやすく、構成のしっかりした、印象的な報告書を作成することに長けていた。アイゼンハワーはパーシングの回顧録記述の手伝いをし、第一次世界大戦におけるアメリカ陸軍の主要な公式報告書の多くを執筆した。マッカーサーはこうしたアイゼンハワーの才能を報告書を通じて知ると、参謀本部の年次報告書などの重要な報告書作成任務のために抜擢したのであった[57]。マッカーサーはアイゼンハワーが提出してきた報告書に、自らが直筆した称賛の手紙を入れて返した。アイゼンハワーはその手紙に感動して母親に見せたが、母親はさらに感激してマッカーサーの手紙を額に入れて飾っていた[58]。 前年の﹁暗黒の木曜日﹂に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を﹁平和主義者とその同衾者﹂と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた[59]。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、ポルトガル陸軍やギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった[60]。フィリピン生活[編集]
1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬[注釈 3] という破格の条件から、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している[66][67]。 フィリピンには参謀総長時代から引き続いて、アイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており﹁参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した﹂と感じたと後に語っている[68]。 フィリピン行きの貨客船﹁プレジデント・フーバー (S.S. President Hoover) ﹂には2番目の妻となるジーン・マリー・フェアクロスも乗っており、船上で2人は意気投合して、2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている[69]。 1936年2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ設けられたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは、存在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが、聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった[70]。しかし肝心の軍事力整備は、主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の魚雷艇、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、1941年には100万ドルになっていた[71]。 軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級︵薔薇十字高級階級結社︶に異例昇進した[72]。 1937年12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出て、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。1938年1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。1939年に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった[73]。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた。経歴(太平洋戦争)[編集]
現役復帰[編集]
開戦[編集]
フィリピン脱出[編集]
反攻[編集]
I shall return.[編集]
マッカーサーの危機[編集]
マニラへの帰還[編集]
主導権争い[編集]
ダウンフォール作戦[編集]
経歴(連合国軍最高司令官)[編集]
厚木飛行場に進駐[編集]
横浜に移動[編集]
その後マッカーサー一行は日本側が準備した車両でホテルニューグランドに向かった。ニューグランドは1937年にマッカーサーがジーンとニューヨークで結婚式を挙げたのち、任地のフィリピンに帰る途中に宿泊した思い出のホテルであった[247]。 厚木から横浜までの道路の両側には30,000名を超す日本軍の兵士が銃剣をつけた小銃を構えて警護にあたっていたが、兵士はマッカーサーらの車列に背を向けて立っていた。これまでは、兵士が行列に顔を向けないのは天皇の行幸のときに限られており、明確にアメリカに恭順の意を示している証拠であったが、幕僚らは不測の事態が起こらないか神経を尖らせているなかで、マッカーサーだけがこの光景を楽しんでいた[244]。戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式[編集]
日本占領方針[編集]
戦争犯罪の追及[編集]
昭和天皇との初会談[編集]
GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらが主導権をとったかは不明であるが[注釈 12]、天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は﹁天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる……私は待とう、そのうち天皇の方から会いに来るだろう﹂と考えていたということで[284]、マッカーサーの要望どおり昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった[285]。しかし日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの吉田茂が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに﹁モジモジ﹂していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている[286]。 1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており︵#昭和天皇との会談を参照︶、詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった[287]。 その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日、29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人斎藤茂吉は、その日の日記に﹁ウヌ!マッカーサーノ野郎﹂と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見どおり、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった[288]。ちなみにその写真を撮影したのは、ジェターノ・フェーレイスである[289]。 連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では﹁マッカーサー将軍の命により﹂という言葉が流行った。﹁天皇より偉いマッカーサー﹂と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院︵現横浜市立大鳥小学校︶に入院している際にマッカーサーが見舞いに訪れ、後に東條は重光葵との会話の中で﹁米国にも立派な武士道がある﹂と感激していたという[290]。報道管制[編集]
連合軍占領下の日本[編集]
大統領選[編集]
連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび﹁日本の占領統治は非常にうまく行っている﹂﹁日本が軍事国家になる心配はない﹂などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。 1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には﹁マ元帥を大統領に﹂という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。 マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に[295]、シカゴ・トリビューン社主のロバート・R・マコーミックや、同じく新聞社主のウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。﹃ニューヨーク・タイムズ﹄紙もマッカーサーが有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士のうちでマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に﹁いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない﹂と釘を刺している。しかしマッカーサーは、そのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかった[296]。 6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞﹃フィラデルフィア・インクワイアラー﹄の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第1回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第2回で7票、第3回で0票という惨敗を喫し、結局第1回投票で434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された[297]。 日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝えることができなかった。﹃タイム﹄誌は﹁マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい﹂と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であったアーサー・ヴァンデンバーグやロバート・タフトの影は急激に薄くなっていった、などと事実と反する報道がなされていた[298]。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た﹃ニューヨーク・タイムズ﹄は﹁日本人の驚きは多分、一段と大きかったことだろう。……日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。そのため、マッカーサー元帥にはほとんど反対がいないのだという印象が与えられた﹂と報じている[299]。 大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。経歴(朝鮮戦争)[編集]
第二次世界大戦後の極東情勢[編集]
北朝鮮による奇襲攻撃[編集]
第二次世界大戦後に南北︵韓国と北朝鮮︶に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍︵北朝鮮軍︶が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。 当時マッカーサーは、中央情報局︵CIA︶やマッカーサー麾下の諜報機関︵Z機関︶から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、﹁朝鮮半島では軍事行動は発生しない﹂と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍が侵攻してきた6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、マッカーサーは全く慌てることもなく﹁これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる﹂と来日していたジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問らに語っている[309]。事態が飲み込めないマッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオがアメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、﹁撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない﹂と苦言を呈している。ダレスら国務省の面々には韓国軍の潰走の情報が続々と入ってきており、あまりにマッカーサーらGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行していた国務省のジョン・ムーア・アリソンはそんなマッカーサーらのこの時の状況を﹁国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう﹂と呆れて回想している[310]。 6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察を片腕で処理すると自信満々で語っていたときと変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で﹁朝鮮全土が失われた。われわれが唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ﹂と語ったが、ダレスとアリソンはその風貌の変化に驚き﹁わたしはこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない﹂と後にアリソンは回想している[311]。 6月28日にソウルが北朝鮮軍に占領された。わずかの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは、6月29日に東京の羽田空港より専用機の﹁バターン号﹂で水原に飛んだが、この時点で韓国軍の死傷率は50%に上ると報告されていた。マッカーサーはソウル南方32kmに着陸し、漢江をこえて炎上するソウルを眺めたが、その近くを何千という負傷した韓国軍兵士が敗走していた。マッカーサーは漢江で北朝鮮軍を支えきれると気休めを言ったが、アメリカ軍が存在しなければ韓国が崩壊することはあきらかだった[312]。マッカーサーは日本に戻るとトルーマンに、地上軍本格投入の第一段階として連隊規模のアメリカ地上部隊を現地に派遣したいと申し出をし、トルーマンは即時に許可した。この時点でトルーマンはマッカーサーに第8軍の他に、投入可能な全兵力の使用を許可することを決めており、マッカーサーもまずは日本から2個師団を投入する計画であった[313]。7月7日、国際連合安全保障理事会決議84[314] により、北朝鮮に対抗するため、アメリカが統一指揮を執る国連軍の編成が決議され[315]、7月8日に、マッカーサーは国連軍司令官に任命された[316]。国連軍︵United Nations Command、UNC︶には、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍など16か国の軍が参加している。仁川上陸作戦[編集]
トルーマンとの会談[編集]
中国人民志願軍の参戦[編集]
更迭[編集]
帰国[編集]
フーヴァーの忠告どおり直接帰国することとしたマッカーサーは、4月16日にリッジウェイに業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰めかけ、﹃毎日新聞﹄と﹃朝日新聞﹄はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。マッカーサーも感傷に浸っていたのか、沿道の見送りを﹁200万人の日本人が沿道にびっしりと並んで手を振り﹂と自らの回顧録に誇張して書いている[394]。しかし、沿道に並んだ学生らは学校からの指示による動員であったという証言もある[395]。 首相の吉田茂は﹁貴方が、我々の地から慌ただしく、何の前触れもなく出発されるのを見て、私がどれだけ衝撃を受けたか、どれだけ悲しんだか、貴方に告げる言葉もありません﹂という別れを悲しむ手紙をマッカーサーに渡し、4月16日には衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、東京都議会や日本経済団体連合会も感謝文を発表している[396]。 マッカーサーは空港で日米要人列席の簡単な歓送式の後に、愛機バターン号で日本を離れた。同乗していたマッカーサーと一緒に辞任したコートニー・ホイットニー前民政局局長へ﹁日本をもう一度見られるのは、長い長い先のことだろうな﹂と語ったが[397]、実際にマッカーサーが再度日本を訪れたのは1961年にフィリピンから独立15周年の記念式典に国賓として招かれた際、フィリピンに向かう途中で所沢基地に休憩に立ち寄り、帰りに横田基地で1泊した時であったので、11年後となった[398]。しかしセレモニーもなく、ほとんどの日本人が知らないままでの再来日︵最後の来日︶であった。マッカーサーと副官らの49トンにも達する家具、43個の貨物、3台の自動車はアメリカ海軍の艦船が公費で東京からマンハッタンに輸送している[399]。 マッカーサーが帰国した後も、5月に入って吉田内閣は、マッカーサーに﹁名誉国民﹂の称号を与える﹁終身国賓に関する法律案﹂を閣議決定し、政府以外でも﹁マッカーサー記念館﹂を建設しようという動きがあった。マッカーサーにこの計画に対する考えを打診したところ、ホイットニーを通じて﹁元帥はこの申し出について大変光栄に思っている﹂という返事が送られている[400]。経歴(退任後)[編集]
退任[編集]
大統領選挙への意欲[編集]
晩年[編集]
マッカーサーはホテルウォルドルフ=アストリアに永住することにした。ホテル側も通常は1日133ドルするスイートルームを月額450ドルで提供している[399]。そのスイートルームには巨大な屏風を始めとして、日本統治時に贈られた物品が大量に飾られていたが、中にはマニラホテルで日本軍に一時奪われた、父アーサーが明治天皇から送られた銀の菊花紋章入りの花瓶も飾られてあった[415]。マッカーサーは、アメリカ陸軍元帥として終生に渡って年俸19,541ドルを受け取っていた他、移動の際は鉄道会社が大統領待遇並みの特別列車を準備し、地方に遊説に行けばその土地の最高級ホテルがスイートルームを何部屋も準備しているなど、優雅な生活ぶりであった[399]。 1952年にマッカーサーはレミントンランド社︵タイプライター及びコンピュータメーカー︶の会長に迎えられた。その後、レミントンランドはスペリー社に買収されたが、マッカーサーはスペリー社の社長に迎えられた[416]︵その後ユニシスとハネウェルになる︶。スペリ―社の主要取引先はペンタゴンであり、マッカーサー招聘は天下りの意味合いも強く、年俸は10万ドルと高額ながら日常業務には何の役割も持たされず、週に3 -4日、4時間程度出社し国際情勢について助言するだけの仕事であった。その為時間に余裕があったが、関心ごとは野球やボクシングなどのスポーツ観戦に限られていた[417]。 1955年のミズーリ号での降伏式典と同じ日に、日本から外相の重光葵がマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは感傷的に日本占領時代を回想し、昭和天皇との初会談の様子を話し、極東国際軍事裁判は失敗であったと悔やんでいる[418]。1960年には勲一等旭日桐花大綬章が贈られ﹁最近まで戦争状態にあった偉大な国が、かつての敵司令官にこのような栄誉を与えた例は、私の知る限り歴史上他に例がない﹂と大げさに喜んでみせた[412]。 1961年にはフィリピン政府が独立15年式典の国賓としてマッカーサーを招待した。すっかり過去の人となり余生を過ごしていたマッカーサーにとって、自らがセンチメンタルジャーニーと名付けたように感傷旅行となった[419]。フィリピン政府はマッカーサーをたたえて国民祝祭日を宣し、お祝いの行事が1週間続いた。すっかり涙もろくなっていたマッカーサーは、フィリピン陸軍の中隊点呼にマッカーサーの名前が残っていることを知って目元に涙を浮かべた[420]。再建されたマニラホテルでの昼食会では、誰ともなしに﹃ レット・ミー・コール・ユー・スウィート・ハート﹄の大合唱となったが、それを聞いたマッカーサーは感激のあまり、普段は家族の前でしかやらないジーンとの抱擁を公衆の面前で行った[421]。その後、マッカーサーはマニラ中央にあるルネタ公園で多数の観衆の前で演説を行ったが、耐えがたい気持ちで別れの言葉を告げた。﹁歳月の重荷に耐えかねて、わたしはもう二度と、あの誓いは果たせそうにありません。﹃I shall return﹄あの誓いを﹂実際にこれが最後のフィリピン訪問となった[420]。 トルーマン、アイゼンハワー両政権はマッカーサーに対し冷淡な態度に終始したが、第35代大統領ジョン・F・ケネディもマッカーサーに好意を抱いておらず、むしろ尊大で過大評価された存在との認識であった。太平洋戦争時、ケネディはマッカーサーが率いた連合軍南西太平洋方面軍に所属した魚雷艇PT109の艇長で、マッカーサーの配下であった。ケネディはかつての上官マッカーサーと1961年4月にニューヨークで会談したが、その席でケネディのマッカーサーに対する見方が大きく変わり、1961年7月にはエアフォースワンを派してマッカーサーをホワイトハウスの昼食会に招待している[422]。その席でケネディとマッカーサーは意気投合し、昼食が終わった後、3時間も話し込んでいる。特に泥沼化しつつあったベトナム情勢での意見交換の中で、マッカーサーはロバート・マクナマラ国防長官らケネディ側近が主張しているドミノ理論をせせら笑い[423]﹁アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は頭の検査でもしてもらった方がいい﹂と自分が朝鮮半島で失敗した苦い経験を活かした忠告を行ったが、その的を射た忠告は顧みられることはなく、ケネディは﹁軍事顧問団﹂と名付けられた正規軍の派遣を増強するなどベトナム戦争への介入を進め、さらにケネディの暗殺後、後任のリンドン・B・ジョンソン大統領はそのままベトナムの泥沼にはまり込んでいった[424]。死去[編集]
マッカーサーの日本占領統治手法[編集]
昭和天皇との会談[編集]
マ元帥人気[編集]
占領当時、マッカーサーは多くの日本国民より﹁マ元帥﹂(新聞記事、特に見出しではスペースの節約のためにこうした頭文字による略称を採る場合があり、それが読者の口語にも移植したものと考えられる)と慕われ、絶大な人気を得ていた。GHQ総司令部本部が置かれた第一生命館の前は、マッカーサーを見る為に集まった多くの群衆で賑わっていた[449][注釈 18]。敗戦によりそれまでの価値観を全て否定された日本人にとって、マッカーサーは征服者ではなく、新しい強力な指導者に見えたのがその人気の要因であるとの指摘や[450]、﹁戦いを交えた敵が膝を屈して和を乞うた後は、敗者に対して慈愛を持つ﹂というアメリカ軍の伝統に基づく戦後の食糧支援などで、日本国民の保護者としての一面が日本人の心をとらえた、という指摘があるが[451]、自然発生的な人気ではなく、自分の人気を神経質に気にするマッカーサーの為に、GHQの民間情報教育局︵CIE︶が仕向けたという指摘もある[452]。 マッカーサーとGHQは戦時中の日本軍捕虜の尋問などで、日本人の扱いを理解しており、公然の組織として日本のマスコミ等を管理・監督していたCIEと、日本国民には秘匿された組織であった民間検閲支隊︵CCD︶を巧みに利用し、硬軟自在に日本人の思想改造・行動操作を行ったが、もっとも重要視されたのがマッカーサーに関する情報操作であった[453]。CIEが特に神経をとがらせていたのは、マッカーサーの日本国民に対するイメージ戦略であり、マッカーサーの存在を光り輝くものとして日本人に植え付けようと腐心していた。例えばマッカーサーは老齢でもあり前髪の薄さをかなり気にしていたため、帽子をかぶっていない写真は﹁威厳を欠く﹂として新聞への掲載を許さなかった。また、執務室では老眼鏡が必要であったが、眼鏡をかけた姿の撮影はご法度であった[454]。 写真撮影のアングルに対しては異常に細かい注文がつき、撮影はできればマッカーサー自身が、その風貌に自信がある顔、姿の右側からの撮影が要求され、アメリカ軍機関紙・星条旗新聞のカメラマンはひざまずいて、下からあおって撮影するように指示されていた[455][454]。 日本人によるGHQ幹部への贈答は日常茶飯事であったが、マッカーサーに対する贈答についての報道は﹁イメージを損ねる﹂として検閲の対象になることもあった。例えば、﹁埼玉県在住の画家が、同県選出の山口代議士と一緒にGHQを訪れ、マッカーサーに自分の作品を贈答した﹂という記事は検閲で公表禁止とされている[456]。 マッカーサーへの非難・攻撃の記事はご法度で、時事通信社が﹁マッカーサー元帥を神の如く崇め立てるのは日本の民主主義のためにならない﹂という社説を載せようとしたところ、いったん検閲を通過したものの、参謀第2部︵G2︶部長のチャールズ・ウィロビーの目に止まり、既に50,000部印刷し貨車に積まれていた同紙を焼却するように命じている[457]。 一方で賛美の報道は奨励されていた。ある日、第一生命館前で日本の女性がマッカーサーの前で平伏した際に、マッカーサーはその女性に手を差し伸べて立ち上がらせて、塵を払ってやった後に﹁そういうことはしないように﹂と女性に言って聞かせ、女性が感激したといった出来事や、同じく第一生命館で、マッカーサーがエレベーターに乗った際に、先に乗っていた日本人の大工が遠慮して、お辞儀をしながらエレベーターを降りようとしたのをマッカーサーが止め、そのまま一緒に乗ることを許したことがあったが、後にその大工から﹁あれから一週間というもの、あなた様の礼節溢れるご厚意について頭を巡らしておりました。日本の軍人でしたら決して同じことはしなかったと思います﹂という感謝の手紙を受け取ったなど些細な出来事が、マッカーサー主導で大々的に報道されることがあった。特に大工の感謝状の報道については、当時の日本でマッカーサーの目論見どおり、広く知れ渡られることとなり、芝居化されたり、とある画家が﹃エレベーターでの対面﹄という絵画を描き、その複製が日本の家庭で飾られたりした[458]。 しかし賛美一色ではアメリカ本国や特派員から反発を受け、ゆくゆくは日本人からの人気を失いかねないと認識していたマッカーサーは、過度の賛美についても規制を行っている。日本の現場の記者らは、その微妙なバランス取りに悩まされる事となった[459]。そのうちに日本のマスコミは、腫れ物に触らずという姿勢からか自主規制により、マッカーサーに関する報道はGHQの公式発表か、CIEの先導で作られた外国特派員協会に所属する外国のメディアの記者の配信した好意的な記事の翻訳に限ったため、マッカーサーのイメージ戦略に手を貸す形となり、日本国民のマッカーサー熱を大いに扇動する結果を招いた[457]。 GHQはマッカーサーの意向により、マッカーサーの神話の構築に様々な策を弄しており、その結果として多くの日本国民に、マッカーサーは天皇以上のカリスマ性を持った﹁碧い目の大君﹂と印象付けられた。その印象構築の手助けとなったのは、昭和天皇とマッカーサー初会談時に撮影された、正装で直立不動の昭和天皇に対し、開襟の軍服で腰に手を当て悠然としているマッカーサーの写真であった[460]。マッカーサーへの50万通の手紙[編集]
マッカーサーのところに送られてくる日本の団体・個人から寄せられた手紙は全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部が保存されていた[461]。 その手紙の一部の内容が袖井林二郎の調査により明らかにされた。ただし手紙の総数については、連合軍翻訳通信班︵ATIS︶の資料︵ダグラス・マッカーサー記念館所蔵︶で1946年5月 -1950年12月までに受け取った手紙が411,816通との記載があり、袖井は終戦から1946年4月までに受け取った手紙を10万通と推定して合計50万通としているが[462]、CIEの集計によれば、終戦から1946年5月末までに寄せられた手紙は4,600通に過ぎず、合計しても50万通には及ばない[463]。また手紙の宛先についても、マッカーサー個人宛だけではなく、GHQの各部局を宛先とした陳情・請願・告発・声明の他に、地方軍政を司った地方軍政部[464] を宛先とした手紙も相当数に上っている[463]。 マッカーサーやGHQ当局への日本人の投書のきっかけは、1945年8月の終戦直後に東久邇宮稔彦王総理大臣が国民に向けて﹁私は国民諸君から直接手紙を戴きたい、嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でも何でも宜しい。私事でも結構だし公の問題でもよい…一般の国民の皆様からも直接意見を聞いて政治をやっていく上の参考としたい﹂と新聞記事を使って投書を呼び掛けたことにあった。その呼び掛けにより、東久邇宮内閣への投書と並行して、マッカーサーやGHQにも日本人からの手紙が届くようになった。しかし、当初はマッカーサーやGHQに届く手紙の数は少なく、1945年末までは800通足らずに過ぎなかった。しかし、11月頃には東久邇宮内閣に対する投書が激増し、ピーク時で一日1,371通もの大量の手紙が届くようになると、マッカーサーとGHQへの手紙も増え始め、東久邇宮内閣が早々に倒れると、日本政府に殺到していた手紙がマッカーサーやGHQに送られるようになった[465]。マッカーサーやGHQに手紙が大量に届くような流れを作ったのは東久邇宮稔彦王であるが、日本国民はマッカーサーやGHQの意向で早々と倒れる日本の内閣よりも、日本の実質的な支配者であったマッカーサーやGHQを頼りとすることとなったのである。 マッカーサーやGHQへの投書の内容は多岐に渡るが、未だ投書が少なかった1945年10月の投書の内容について、東京発UP電が報じている。報道によれば﹁マ元帥への投書、戦争犯罪人処罰、配給制度改訂等、1か月余りに300通﹂その内﹁日本語で書かれたものは100通﹂であり、﹁反軍国主義28通﹂﹁連合軍の占領並びにマ元帥への賛意25通﹂から﹁節酒と禁酒の熱望2通﹂まで、内容はおおまかに21通りに分れていた[466]。中でもGHQがもっとも関心を寄せた投書が天皇に関する投書であり、﹃ヒロヒト天皇に関する日本人の投書﹄という資料名を付され、極東国際軍事裁判の国際検察局︵IPS︶の重要資料として管理・保管されており、1975年まで秘密文書扱いであった[467]。昭和天皇が人間宣言を行った以降は、日本国民の間で天皇制に対する関心が高まり、1945年11月から1946年1月までのGHQへの投書1,488通の内で、もっとも多い22.6%にあたる337通が天皇制に関するものであった。投書を分析したCIEによれば、天皇制存続と廃止・否定の意見はほぼ二分されていた、ということであったが、CIEは﹁このような論争の激しい主題については、体制を変革しようとしている方︵天皇制廃止主張派︶が体制を受け入れる方︵存続派︶より盛んに主張する傾向がある﹂と冷静に分析しており[468]、1946年2月に天皇制の是非について世論調査をしたところ、支持91% 反対9%で世論は圧倒的に天皇制存続が強かった[469]。手紙も存続派の方が長文で熱烈なものが多く、中には﹁アメリカという国の勝手気儘さに歯を喰いしばって堪えていたが、もう我慢ができない﹂や﹁陛下にもし指一本でもさしてみるがいい、私はどんな危険をおかしてもマッカーサーを刺殺する﹂という過激なものもあった[470]。 天皇制が日本国憲法公布により一段落すると、もっとも多い手紙は嘆願となり、当時の時代相をあらわした種々の嘆願がなされた[471]。その内容は﹁英語を学びたい娘に就職を斡旋してほしい[472]﹂﹁村内のもめごとを解決してほしい[473]﹂﹁アンゴラウサギの飼育に支援を[474]﹂﹁国民体位の維持向上のため日本国民に糸引納豆の摂取奨励を[475]﹂などと内容は数えきれないほど多岐に渡ったが、1946年後半から復員が本格化すると、その関連の要望・嘆願が激増した。1947年以降は復員関連の要望・嘆願の手紙が全体の90%にも達している[476]。特にソ連によるシベリア抑留については、この頃より引き揚げ促進の為に全国にいくつもの団体が組織され[477]、団体が抑留者の家族に対して﹁親よ、妻よ、兄弟よ、起ち上がりましょう。日本政府は当てになりません。占領軍総司令官マッカーサー元帥の人類愛に縋り、援助を要請する他はありません。﹂などと組織的にマッカーサーに対して投書を行うよう指示しており、特に児童から大量の投書が行われている[478]。このような動きは満州や朝鮮半島に取り残された元居留民の家族でも行われており、福岡共同公文書館には大分県の国民学校の生徒からマッカーサーに送られた﹁北鮮や満州のお父さんやお母さんや妹や皆な1日でも早く早く内地へかへして下さいたのみます﹂という投書が展示されている[479]。 また、外地で進行していたBC級戦犯裁判の被告や受刑者の家族による助命・刑の軽減嘆願や、消息の調査要請などの投書も多く寄せられている[480]。 従って、一部で事実誤認があるように、GHQに一日に何百通と届く手紙はマッカーサー個人へのファンレター[455]だけではなく、占領軍の組織全体に送られた日本人の切実な陳情・請願・告発・声明が圧倒的だったが、ルシアス・D・クレイが統治した西ドイツでは限定的にしか見られなかった現象であり、マッカーサーの強烈な個性により、日本人に、マッカーサーならどんな嘆願でも聞き入れてくれるだろうと思わせる磁力のようなものがあったという指摘もある[481]。マッカーサー個人宛てに送られていた手紙には、﹁マッカーサー元帥の銅像をつくりたい﹂﹁あなたの子供をうみたい︵ただし原書は存在せず︶﹂﹁世界中の主様であらせられますマッカーサー元帥様﹂﹁吾等の偉大なる解放者マッカーサー元帥閣下﹂と当時のマッカーサーへの熱烈な人気や厚い信頼をうかがわせるものもあり[482]、他の多くの権力者と同様に、自分への賛美・賞賛を好んだマッカーサーは[461]、そのような手紙を中心に、気に入った自分宛ての手紙3,500通をファイルし終生手もとに置いており、死後はマッカーサー記念館で保存されているが[483]、前述のとおり、そのような手紙は全体としては少数であった。マッカーサーは送られてきた手紙をただ読むのではなく、内容を分析し、世論や民主化の進行度を測る手段の一つとして重要視し占領政策を進めていくうえでうまく活用している[484]。マッカーサー人気の終焉[編集]
逸話︵マッカーサーは江戸時代の黒船来航を参考にしたのか?︶[編集]
敗戦後[編集]
真珠湾攻撃におけるペリー提督の意識[編集]
なお、降伏前の1941年12月7日︵日本時間8日︶、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の際に、ホワイトハウスに31州の星条旗を掲げた。これはペリーのように再び日本を開国させるという意味合いである。家族[編集]
母親[編集]
その他[編集]
兄のアーサー・マッカーサー3世はアメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大佐に昇進したが、1923年に病死した。弟マルコムは1883年に死亡している。兄アーサーの三男であるダグラス・マッカーサー2世は駐日アメリカ合衆国大使となった。 1938年にマニラで妻ジーンとの間に出来た長男がいる。マッカーサー家は代々、家長とその長男がアーサー・マッカーサーを名乗ってきたが、兄アーサー・マッカーサー3世の三男がダグラス・マッカーサー2世になり、三男であるダグラスの長男がアーサー4世になっている。 そのアーサー・マッカーサー4世は、日本在住の時にはマッカーサー元帥の長男として日本のマスメディアで取り上げられることもあった。マッカーサーとジーンは父親らと同様に軍人になることを願ったが、父の功績により無試験で入学できた陸軍士官学校には進まず、コロンビア大学音楽科に進み、ジャズ・ピアニストとなった。マッカーサーはアーサーの選択を容認したが、そのことについて問われると﹁私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった﹂と答えたという[510]。それでもマッカーサーという名前はアーサーにとっては負担でしかなかったのか、マッカーサーの死後は名前と住所を変え、グリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーの一人になったと言われている[511]。マッカーサーのアメリカ議会証言録[編集]
総司令官解任後の1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は﹁マッカーサーの解任の是非﹂と﹁極東の軍事情勢﹂についてであるが、日本についての質疑も行われている。日本が戦争に突入した目的は主として安全保障︵security︶によるもの[編集]
質問者より朝鮮戦争における中華人民共和国︵赤化中国︶に対しての海空封鎖戦略についての意見を問われ、太平洋戦争での経験を交えながら下記のように答えている。STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR II [512]
— p.170、General Macarthur Speeches & Reports: 1908-1964[513]
- Senator Hicknlooper. Question No.5: Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?
- (ヒックンルーパー上院議員・第5質問:赤化中国に対する海空封鎖というあなたの提案は、アメリカが太平洋において日本に勝利したのと同じ戦略ではありませんか?)
General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we by-passed them. We closed in. …
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.
The raw materials -- those countries which furnished raw materials for their manufacture -- such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on -- they, with the advantage of preparedness and surprise, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.
In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.
We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.
●︵マッカーサー将軍‥はい。太平洋において、我々は、彼らを回避して、これを包囲しました。︵中略︶…日本は産品がほとんど何もありません、蚕︵絹産業︶を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障︵security︶の必要に迫られてのことでした。原材料、すなわち、日本の製造業に必要な原材料、これを提供する国々である、マレー、インドネシア、フィリピンなどは、事前準備と奇襲の優位により日本が占領していました。日本の一般的な戦略方針は、太平洋上の島々を外郭陣地として確保し、我々がその全てを奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占領地から原材料を確保することを我々に黙認させる、というものでした。これに対して、我々は全く新規の戦略を編み出しました。日本軍がある陣地を保持していても、我々はこれを飛び越していきました。我々は日本軍の背後へと忍び寄り、忍び寄り、忍び寄り、常に日本とそれらの国々、占領地を結ぶ補給線に接近しました。︶
日本人は12歳[編集]
公聴会3日目は5月5日の午前10時35分から始まり[518]、午前12時45分から午後1時20分まで休憩を挟んだ後に[519]、マッカーサーの日本統治についての質疑が行われた。マッカーサーはその質疑の中で、人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外としてジュリアス・シーザーの占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調したが、質問者のロング委員よりヴァイマル共和政で民主主義を手にしながらナチズムに走ったドイツを例に挙げ、質問を受けた際の質疑が下記のとおりである[520]。RELATIVE MATURITY OF JAPANESE AND OTHER NATIONS
— p.312、Military situation in the Far East. Corporate Author: United States.(1951)[521]
- Senator Long.(ロング上院議員)
Germany might be cited as an exception to that, however. Have you considered the fact that Germany at one time had a democratic government after World War I and later followed Hitler, and enthusiastically apparently at one time.
- (しかしドイツはそれに対する例外として挙げられるかも知れません。ドイツは一度、第一次世界大戦の後に民主主義の政府を有したのに、その後、一時は熱狂的にヒトラーの後を追ったという事実をあなたは考慮しましたか?)
- General MacArthur. (マッカーサー元帥)
Well, the German problem is a completely and entirely different one from the Japanese problem. The German people were a mature race. If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature.
The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.
Like any tuitionary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.
The German was quite as mature as we ware. Whatever the German did in dereliction of the standards of modern morality, the international standards, he did deliberately.
He didn't do it because of a lack of knowledge of the world. He didn't do it because he stumbled into it to some extent as the Japanese did. He did it as a considered policy in which he believed in his own military might, in which he believed that its application would be a short cut to the power and economic domination that he desired.
Now you are not going to change the German nature. He will come back to the path that he believes is correct by the pressure of public opinion, by the pressure of world philosophies, by his own interests and many other reasons, and he, in my belief, will develop his own Germanic tribe along the lines that he himself believes in which do not in many basic ways differ from our own.
But the Japanese were entirely different. There is no similarity. One of the great mistakes that was made was to try to apply the same policies which were so successful in Japan to Germany, where they were not quite so successful,to say the least.
They were working on a different level.
●︵まぁ、ドイツの問題は日本の問題と完全に、そして、全然異なるものでした。ドイツ人は成熟した人種でした。アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、我ら︵アングロサクソン︶が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事ができます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙に近く、柔軟性もありました。ドイツ人は我々と全く同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の国際的な規範や道徳を放棄したときは、それは故意によるものでした。ドイツ人は国際的な知識が不足していたからそのような事をしたわけではありません。日本人がいくらかはそうであったように、つい過ってやったわけでもありません。ドイツ自身の軍事力を用いることが、彼等が希望した権力と経済支配への近道であると思っており、熟考の上に軍事力を行使したのです。現在、あなた方はドイツ人の性格を変えようとはしないはずです。ドイツ人は世界哲学の圧力と世論の圧力と彼自身の利益と多くの他の理由によって、彼等が正しいと思っている道に戻っていくはずです。そして、我々のものとは多くは変わらない彼等自身が考える路線に沿って、彼等自身の信念でゲルマン民族を作り上げるでしょう。しかし、日本人はまったく異なりました。全く類似性がありません。大きな間違いの一つはドイツでも日本で成功していた同じ方針を適用しようとしたことでした。控え目に言っても、ドイツでは同じ政策でも成功していませんでした。ドイツ人は異なるレベルで活動していたからです。︶
その他[編集]
この委員会では、他にも﹁過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう﹂と述べ、アジアにおける共産勢力の脅威を強調している[411]。 ラッセル・ロングからは﹁連合国軍総司令部は史上類を見ないほど成功したと指摘されている﹂と水を向けられたが、﹁そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ﹂﹁交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない﹂と答えている。また、別の上院議員から広島・長崎の原爆被害を問われると、﹁熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった﹂と答えて、原爆投下の指示を出したトルーマンを暗に批判している[411]。マッカーサー記念館[編集]
人物評[編集]
マッカーサーとアイゼンハワー[編集]
マッカーサーを最もよく知る者の1人が7年間に渡って副官を勤めたアイゼンハワーであった。アイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、﹁マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた﹂﹁任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた﹂﹁将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた﹂と賞賛している[552]。アイゼンハワーは参謀総長副官としての公務面だけでなく、マッカーサーが、元愛人イザベルに和解金として15,000ドルを支払ったときには、同じ副官のトーマス・ジェファーソン・デービス大尉と代理人となってイザベル側と接触するなど、公私両面でマッカーサーを支えている[553]。 しかしアイゼンハワーは、マッカーサーの側近として長年働きながら、﹁バターン・ギャング﹂のサザーランドやホイットニーのように、マッカーサーの魅力に絡めとられなかった数少ない例外であり、フィリピンでの副官時代は、﹁バターン・ギャング﹂の幕僚らとは異なり、マッカーサーとの議論を厭わなかった[554]。 アイゼンハワーのマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーがリテラリー・ダイジェスト という雑誌の記事を鵜呑みにし、1936年アメリカ合衆国大統領選挙でルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーは逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。この日以降、アイゼンハワーはマッカーサーの下で働くのに辟易とした素振りを見せ、健康上の理由で本国への帰還を申し出たが、アイゼンハワーの実務能力を重宝していたマッカーサーは慌てて引き留めを図っている[555]。両者の関係を決定づけたのは、この後に起こった、マッカーサー独断でのフィリピン軍によるマニラ行進計画がケソンの怒りを買ったため、アイゼンハワーら副官に責任転嫁をした事件であり︵#フィリピン生活︶、アイゼンハワーはこの事件で﹁決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった﹂と回想している[556]。 この後、連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に﹁会ったところじゃないですよ、奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました﹂と総括したとも伝えられている[557][454]。 ただ、当時のアメリカの一部マスコミが報じていた程は両者間に強い確執はなかったようで、アイゼンハワーは参謀総長在任時に何度もマッカーサーに意見を求める手紙や、参謀総長退任時には、マッカーサーとアイゼンハワーの対立報道を否定する手紙を出すなど、両者は継続して連絡を取り合っていた[558]。しかし、アイゼンハワーが第34代アメリカ合衆国大統領に着任すると、その付き合いは表面的なものとなり、アイゼンハワーがマッカーサーをホワイトハウスに昼食に招いた際には、懸命に助言を行うマッカーサーに耳を貸すことはなかったため、マッカーサーは昼食の席を立った後に、記者団に対して﹁責任は権力とともにある。私はもはや権力の場にはいないのだ﹂と不機嫌そうに語っている[559]。エピソード[編集]
日本での生活[編集]
●日本滞在時のマッカーサーの生活は、朝8時に起床、家族と遅い朝食をとって10時に連合国軍最高司令官総司令部のある第一生命館に出勤、14時まで仕事をすると、昼休みのために日本滞在中の住居であったアメリカ大使公邸に帰宅し、昼食の後昼寝、16時に再度出勤し、勤務した後20時ごろ帰宅、夕食の後、妻ジーンや副官とアメリカから取り寄せた映画を観る、というのが日課だった。好きな映画は西部劇であった。マッカーサーはこのスケジュールを土日もなく毎日繰り返し、休みを取らなかった。日本国内の旅行は一切せず、遠出は厚木や羽田に重要な来客を迎えに行くときだけで、国外へも朝鮮戦争が始まるまでは、フィリピンと韓国の独立式典に出席した時だけだった[560]。しかし例外として、ミズーリ艦上での降伏文書調印式を終えた後に鎌倉の鶴岡八幡宮を幕僚とともに参拝したことが、1945年9月18日の﹃読売報知﹄で報じられている。マッカーサーにとって40年ぶりの訪問だったといわれる。 ●連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサーの執務室にあるデスクは足が4本あるだけのダイニングテーブルみたいなもので、引き出しが全くないものであった。これは第一生命の社長であった石坂泰三の﹁社長たるべき者は、持ち込まれた会社の問題は即決すべきで、引き出しの中に寝かせるべきでない﹂という思想から、あえて引き出しがないデスクを使用していたものであったが、その話を聞いたマッカーサーは石坂の思想に大いに共鳴して﹁最高の意思決定はまさにそうあるべきだ。自分もそのようにするので、このデスクをそのまま使うことにする﹂と言って、石坂が使用していたデスクを2,000日に及ぶ日本統治の期間内使用し続け、退庁する時にはデスクの上には何も残していかなかった[561]。 ●日本での住居は、ホテルニューグランドとスタンダード・オイル日本支社長邸宅を経て[247]、駐日アメリカ合衆国大使館公邸となったが、来日前は第8軍司令官アイケルバーガーに﹁私は皇居に住むつもりだ﹂と興奮して語っていた[562]。大使公邸は1930年に当時の大統領フーヴァーがアメリカの国力を日本に誇示する為、当時の金額で100万ドルの巨費等投じて建築した耐震構造の頑丈な造りであり、空襲でも全壊はしなかったが、爆弾やその破片が屋根を貫通し室内は水浸しになって家具類は全滅していた。修理のために多くの日本人の職人が集められて修繕工事が行われたが、テーブルクロス・カーテンはハワイ、揺り椅子はブリスベンなど世界中から家具や室内装飾を取り寄せ、また宝石をちりばめた煙草入れや銀食器などの高級小物も揃えられた。また長男アーサーの玩具にマッカーサー愛用のコーンパイプを模した銀のパイプや象牙で作った人形なども揃えられた。コレヒドールからの脱出に同行した中国人使用人のアー・チュも引き続き使用人として一緒に来日したほか、マニラ・ホテルでボーイをしていたカルロスも呼び寄せ、日本人召使もクニとキヨという女性を含め数名が雇用されたが、日本人召使はアメリカの紋章が刺繍された茶色の着物をユニホームとして着せられていた。アメリカから実情調査にやってきたホーマー・ファガ―ソン上院議員は、このようなマッカーサーの豪勢な生活ぶりを見て﹁この素晴らしい宮殿はいったい誰のものかね?﹂と皮肉を言ったため、GHQのウィリアム・ジョセフ・シーボルド外交局長がフォローしている[537]。 ●マッカーサーは財布を持ち歩く習慣がなかったため、買い物は妻のジーンが全て行っていた。ジーンは最高司令官の妻にもかかわらず、自ら銀行口座を開設に行って家計を管理し、PXの長い行列に並んでいた。PXのマネージャーはそんなジーンを見て﹁日本にいる将軍の夫人の中で、特別待遇をお求めにならないのは貴方だけです﹂と感心している。マッカーサーが出先で買い物をする必要があったときは、副官が立て替えて、後にジーンが副官に支払っていた[413]。 ●マッカーサー一家の“もてなし”を主に行っていたのが、宮内府であったが、なかでも﹁天皇の料理番﹂と呼ばれた主厨長秋山徳蔵は﹁ここまで来れたのはお上︵天皇︶のおかげ﹂と少しでも天皇処遇に好影響を与えられるよう、陣頭に立ってマッカーサー一家やGHQ高官らを接待した。マッカーサー記念館には、秋山が作ってマッカーサー公邸に届けた魚料理や鴨料理、長男アーサーに送ったプレゼント︵提灯︶に対して、マッカーサーが命じてGHQが秋山に送ったお礼状が残されている。昭和天皇からもマッカーサー一家への贈り物として、GHQからのお礼状が残っているものだけで、﹁マッカーサー夫妻への鮮やかな鉢植えの菊の花﹂﹁マッカーサー夫妻及び長男アーサーにクリスマスプレゼントとして贈った見事な木彫り﹂が贈られている。秋山はフランス語は堪能であったが、英語は不得意であったのにもかかわらず、GHQの高官やその夫人たちに好かれていた。ある夜、頭に真っ赤な口紅をつけて帰ってきたので、家族が驚いていると、秋山は﹁これは酔っぱらったジーン夫人につけられた﹂と言ったという。秋山がここまでやった理由について、侍従長の入江相政は﹁︵アメリカは︶今でも大嫌いですよ。しかし、日本は降伏したのだから、アメリカさんのご機嫌をとらなければ...陛下のためならどんなことでもしますよ﹂と秋山が述べたのを聞いている[563]。 ●マッカーサーが日本人と会うことはほとんどなく、定期的に会っていたのは昭和天皇と吉田茂ぐらいであった。他は不定期に閣僚や、女性参政権により初当選した35名の女性議員や、水泳の全米選手権出場の古橋広之進ら日本選手団などを招いて会う程度であった[564]。古橋らと面談したマッカーサーは﹁これ︵パスポート︶に私がサインすると出られるから、行ってこい。その代わり、負けたらだめだ。負けても卑屈になってはいけない。勝ったからといっておごってはだめだ。行く以上は頑張れ。負けたら、ひょっとして帰りのビザは取り消しになるかもわからない﹂と冗談を交えながら選手団を励ましている[565]。 ●マッカーサーは日本滞在中に2回だけ病気に罹っている。一度目は歯に膿瘍ができ抜歯したときで、もう一度が喉にレンサ球菌が感染したときであるが、マッカーサーは医者嫌いであり、第一次世界大戦以降にまともに身体検査すらしていなかったほどであった。熱が出たため軍医がペニシリンを注射しようとしたところ、マッカーサーは注射を恐れており﹁針が身体に刺さるなんて信じられない﹂と言って注射を拒否し、錠剤だけを処方してもらったが、さらに症状は悪化し40度の高熱となったため、仕方なく注射を受けて数日後に回復した[566]。 ●日本滞在中、マッカーサーは秋田犬のウキ、柴犬とテリアの雑種のブラウニー、アメリカン・コッカー・スパニエルのブラッキー、スパニエル系のコーノの4匹の犬を飼っていた。その内でマッカーサーの一番のお気に入りはアメリカン・コッカー・スパニエルのブラッキーであった[567]。また、栃木県在住の医師からカナリアを贈られて飼っていたが、1年後に更迭されて帰国することとなったため、そのカナリアは大使公邸でチーフ・コックをしていた林直一に下げ渡され、林は故郷に連れて帰って飼育した[568]。 ●朝鮮戦争が開始されてからも、朝鮮戦争の指揮を任された総司令官にもかかわらず、朝鮮半島を嫌ったマッカーサーは一度も朝鮮に宿泊することがなかった。言い換えれば指揮や視察で、朝鮮を訪れても常に日帰りで[569]、必ず夜には日本に戻っていた。その為に戦場の様子を十分に把握することができず、中国義勇軍参戦による苦戦の大きな要因となった。 ●連合軍総司令部︵GHQ︶主催によるパーティーに、招待された佐賀県出身の名陶工酒井田柿右衛門が、佐賀県の瀬頭酒造の﹁東長﹂を持参しマッカーサー元帥が飲んだところ気に入られ、その日本酒は連合軍総司令部︵GHQ︶の指定商品になったとか、洋菓子のヒロタ創業者廣田定一がマッカーサーにバースデーケーキを送り、それに感動したマッカーサーが感謝状を贈ったとか[570]、マッカーサーがアメリカ兵に食べさせたいので海老名市でレタスの栽培を奨励し、日本全国にレタスが普及したなど[571]、日本各地の名産品にマッカーサーと関連付けられたものが多く存在する。目玉焼き事件[編集]
マッカーサー元帥杯スポーツ競技会[編集]
●関西の実業家池田政三がスポーツにより日本の復興に寄与しようと、全国規模でのスポーツ大会の開催を計画した。池田はマッカーサーを敬愛していたことから、大会名を﹃マッカーサー元帥杯競技﹄とすることを望み、知人のアメリカ人実業家ウィリアム・メレル・ヴォーリズを通じマッカーサーと面会する機会を得て、自費で作成した大会のカップを持参し競技会開催を直談判した結果、マッカーサーより大会開催とマッカーサーの名前を大会名とすることを許可された[580]。 ●大会の種目は、池田との関係が深かった軟式テニス、硬式テニス、卓球の3種目となった。池田は私財から100万円の資金と、マッカーサーのサイン入りの3つの銀製カップを準備したが、﹃マッカーサー元帥杯﹄と冠名があっても、GHQは運営面での支援はせず、1948年8月開催の第一回の西宮大会の運営費24万円の内20万円は池田からの支援、残りは大会収入で賄われた[581]。 ●当時の日本では、GHQにより全体的行進、宗教的行動、国歌斉唱、国旗の掲揚などが禁止されており、京都で開催された第1回国民体育大会の開会式は音楽もなく、選手宣誓と関係者挨拶の質素なものであったが、マ元帥杯は特別に入場行進も許可され、アメリカ軍の軍楽隊による演奏、マッカーサー、総理大臣、文部大臣︵いずれも代理︶による祝辞等、敗戦間もない当時としては、スポーツ大会らしからぬ絢爛豪華な開会式となった。競技会には男子271名女子120名合計391名が参加し盛大に行われた[582]。優勝者には銀製カップの他にマッカーサーの横顔が刻印されたメダルと賞状も授与された[583]。 ●マッカーサーが直接許可した大会であったためか、第2回目の東京大会は特別に皇居内で開催された。これは2016年時点で皇居内で行われた唯一の全国規模のスポーツ大会となる[584]。その後は大会を主導していた日本体育協会の尽力もあり、第6回の長崎大会まで各地方都市で開催され、地方都市でのスポーツ振興に貢献することとなった。しかし、マッカーサーが更迭され、日本人は12歳発言で日本での人気が収束すると、﹃マッカーサー元帥杯﹄という大会名を見直そうという動きが始まり、第7回岡山大会では﹃マッカーサー記念杯全国都市対抗﹄という大会名に改称、第9回大会の開催地会津若松市からは﹁マ元帥杯﹂という名前は困るとの申し出があるに至り[585]、1955年の第9回の会津若松市での大会は﹃全国市長会長杯﹄とマッカーサーの名前を一切排した大会名に改称され、﹃マッカーサー元帥杯﹄は8年で幕を下ろす事となった。その後もこの大会は形式や名称を変え最後は﹃全国都市対抗三競技大会﹄という名称となり、1975年の第30回大会︵福岡市︶まで継続された[586]。その後、硬式テニスの全国大会のみが、翌1976年から開始された全日本都市対抗テニス大会に引き継がれている[587]。軍装[編集]
コーンパイプ[編集]
日本キリスト教国化[編集]
マッカーサーは占領は日本におけるキリスト教宣教の﹁またとない機会﹂であるとして、記者発表や個人的書簡を通じて、日本での宣教を奨励した[597][598]。マッカーサーはキリスト教を広めることが日本の民主化に役立つと考えていた[599]。中でも南部バプテスト連盟ルイ・ニュートンへの書簡が知られている[600][598]。 マッカーサーはキリスト教聖公会の熱心な信徒であり[24]、キリスト教は﹁アメリカの家庭の最も高度な教養と徳を反映するもの﹂であり、﹁極東においてはまだ弱いキリスト教を強化できれば、何億という文明の遅れた人々が、人間の尊厳、人生の目的という新しい考えを身に付け、強い精神力を持つようになる﹂と考えていた[601]。そのような考えのマッカーサーにとって、日本占領は﹁アジアの人々にキリスト教を広めるのに、キリスト生誕以来の、比類ない機会﹂と映り[602]、アメリカ議会に﹁日本国民を改宗させ、太平洋の平和のための強力な防波堤にする﹂と報告している[603]。日本の実質最高権力者が、このように特定の宗教に肩入れするのは、マッカーサー自身が推進してきた信教の自由とも矛盾するという指摘が、キリスト教関係者の方からも寄せられることとなったが、マッカーサーはCIEの宗教課局長を通じ﹁特定の宗教や信仰が弾圧されているのでない限り、占領軍はキリスト教を広めるあらゆる権利を有する﹂と返答している[604]。民間情報教育局(CIE)宗教課長ウィリアム・バンスは占領軍の政策がキリスト教偏重になっているような印象を与えないようにと努力した[605]。マッカーサーは当初CIEにはかることなくキリスト教を支援するような発言をすることがあったが、後にそれを表立って行うことは控えるようになった[605]。 マッカーサーは、国家神道が天皇制の宗教的基礎であり、日本国民を呪縛してきたものとして、1945年︵昭和20年︶12月15日に、神道指令で廃止を命じた[606]。神道を国家から分離︵政教分離︶し、その政治的役割に終止符を打とうとする意図に基づく指令であった[24]。 マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された[607]。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた[608]。また日本での活動を望むポケット聖書連盟のために書いた推薦状の中で、聖書配布の活動を1000万冊規模に増強するよう要望した[609]。︵実際には11万冊を配布した[610]。︶ 1947年にキリスト教徒で日本社会党の片山哲が首相になる︵片山内閣︶と、﹁歴史上実に初めて、日本はキリスト教徒で、全生涯を通じて長老派教会の信徒として過ごした指導者によって、指導される﹂として、同じくキリスト教徒であった中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハスと並ぶ者として片山を支持する声明を出した[597]。しかしマッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9か月で瓦解した[611]。 ジョン・ガンサーが伝えるところによると、マッカーサーは﹁今日の世界でキリスト教を代表する二人の指導的人物こそ、自分と法王だとさえ考え﹂ていた[602]。米国キリスト教会協議会もマッカーサーに対し﹁極東の救済のために神は“自らの代わり”として、あなたを差し向けたのだと、我々は信ずる﹂と賞賛していたが[612]、マッカーサーが、布教の成果を確認する為に、CIEの宗教課に日本のキリスト教徒数の調査を命じたところ、戦前に20万人の信者がいたのに対し、現在は逆に数が減っているということが判明し、その調査結果を聞いた宗教課局長は﹁総司令はこの報告に満足しないし、怒るだろう﹂と頭を抱えることになった。マッカーサーらはフィリピンとインドシナ以外のアジア人は、当時、キリスト教にほとんど無関心で[613]、大量に配布された聖書の多くが、読まれることもなく、刻みタバコの巻紙に利用されているのを知らなかった[614]。 局長から調査報告書を突き返された宗教課の将校らは、マッカーサーを満足させるためには0を何個足せばいいかと討議した挙句、何の根拠もない200万人というキリスト教徒数を捏造して報告した。マッカーサーもその数字を鵜呑みにして、1947年2月、陸軍省に﹁過去の信仰の崩壊によって日本人の生活に生じた精神的真空を満たす手段として…キリスト教を信じるようになった日本人の数はますます増え、既に200万人を超すものと推定されるのである﹂と報告している。結局、マッカーサーが日本を去った1951年時点でキリスト教徒は、カトリック、プロテスタントで25万7,000人と、戦前の20万人と比較し微増したが、占領下に注がれた膨大な資金と、協会や宣教師の努力を考えると、十分な成果とは言えなかった。﹁占領軍の宗教﹂とみなされ、他の宗教に比べて圧倒的に有利な立場にあったにもかかわらず、マッカーサーの理想とした﹁日本のキリスト教国化﹂は失敗に終わった[615]。国際基督教大学[編集]
キリスト教の精神に基づき、宗派を越えた大学を作るといった構想がラルフ・ディッフェンドルファー宣教師を中心に進んでおり、1948年に﹁国際基督教大学 財団﹂が設立されたが、マッカーサーはこの動きに一方ならぬ関心を示し、同大学の財団における名誉理事長を引き受けると、米国での募金運動に尽力した[616]。ジョン・ロックフェラー2世にも支持を求めたが、その際に﹁ここに提案されている大学は、キリスト教と教育のユニークな結合からして、日本の将来にとってまことに重要な役割を必ずや果たすことでありましょう﹂と熱意のこもった手紙を出している。大学設置はマッカーサーが解任されて2年後の1953年であった[232]。その他[編集]
1946年に特使の立場で、訪日したハーバート・フーヴァーと会談し﹁フランクリン・ルーズベルトはドイツと戦争を行うために日本を戦争に引きずり込んだ﹂と述べたことを受け、マッカーサーも﹁ルーズベルトは1941年に近衛文麿首相が模索した日米首脳会談をおこなって戦争を回避する努力をすべきであった﹂の旨を述べている[617][618]。 占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジ︵Manila Lodge No.1︶に所属しており、32位階の地位にあったとされる[619][620]。 韓国でのマッカーサーの評価は、毀誉褒貶相半ばするものがあり、2005年には仁川市自由公園にあるマッカーサーの銅像撤去を主張する団体と銅像を保護しようとする団体が集会を開き対峙、警官隊ともみ合う事件も起きた[621]。また、2018年にはマッカーサー像に火刑と称して像の周囲で可燃物を燃やす放火事件も発生している[622]。マッカーサーを扱った作品[編集]
- 映画
- 『マッカーサー』 MacArthur (1977年 監督:ジョセフ・サージェント マッカーサー役:グレゴリー・ペック)
- 『インチョン!』 Inchon! (1982年 監督:テレンス・ヤング マッカーサー役:ローレンス・オリヴィエ)
- 『小説吉田学校』(1983年 監督:森谷司郎 マッカーサー役:リック・ジェイソン)
- 『太陽』 Солнце(2005年 監督:アレクサンドル・ソクーロフ マッカーサー役:ロバート・ドーソン)
- 『日輪の遺産』 (2010年 監督:佐々部清 マッカーサー役:ジョン・サヴェージ)
- 『終戦のエンペラー』 Emperor (2012年 監督:ピーター・ウェーバー マッカーサー役:トミー・リー・ジョーンズ)
- 『オペレーション・クロマイト』 인천상륙작전 (2016年 監督:イ・ジェハン マッカーサー役:リーアム・ニーソン)
- 『日本独立』(2020年 監督:伊藤俊也 マッカーサー役:アダム・テンプラー)
- テレビドラマ(一部)
- 『日本の戦後第9集 老兵は死なず マッカーサー解任』(1978年 NHK特集シリーズ マッカーサー役:ドナルド・ノード)
- 『白洲次郎』(2009年 NHK マッカーサー役:TIMOTHY HARRIS)
- 『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』(2012年 NHK土曜ドラマスペシャル マッカーサー役:デヴィッド・モース)
- 宝塚歌劇
- 演劇
- 漫画
- 『どついたれ』(手塚治虫)
- 『天下無双 江田島平八伝』(宮下あきら)
- 『はだしのゲン』(中沢啓治)
- 『Mの首級(しるし) マッカーサー暗殺計画』(リチャード・ウー・池上遼一)
- 『ゴールデンカムイ』(野田サトル)
- 『疾風の勇人』(大和田秀樹)
- 『昭和天皇物語』(能條純一)
- 『週刊マンガ日本史50号 マッカーサー-戦後日本を導いた男-』(本そういち)
階級[編集]
アメリカ合衆国陸軍における階級[編集]
工兵少尉, 連邦常備陸軍(Regular Army), 1903年6月11日 | |
工兵中尉, 連邦常備陸軍, 1904年4月23日 | |
工兵大尉, 連邦常備陸軍, 1911年2月27日 | |
工兵少佐, 連邦常備陸軍, 1915年12月11日 | |
歩兵大佐, 合衆国陸軍(National Army), 1917年8月5日 | |
准将, 合衆国陸軍, 1918年6月26日 | |
准将, 連邦常備陸軍, 1920年1月20日 | |
少将, 連邦常備陸軍, 1925年1月17日 | |
大将, 一時的階級(temporary rank), 1930年11月21日 | |
少将, 連邦常備陸軍, 1935年10月1日 | |
大将, 退役者リスト, 1938年1月1日 | |
少将, 連邦常備陸軍(現役復帰), 1941年7月26日 | |
中将, 合衆国陸軍(Army of the United States)1941年7月27日 | |
大将, 合衆国陸軍, 1941年12月22日 | |
元帥, 合衆国陸軍, 1944年12月18日 | |
元帥, 連邦常備陸軍, 1946年3月23日 |
その他の国における階級[編集]
栄典[編集]
アメリカ国内[編集]
名誉勲章[注釈 19] | |
殊勲十字賞5回 | |
シルバースター7回 | |
殊勲飛行十字章 | |
ブロンズスターメダル | |
パープルハート章 | |
エア・メダル |
アメリカ国外[編集]
旭日章︵勲一等旭日桐花大綬章ほか︶ バス勲章 レジオンドヌール勲章 ポーランド復興勲章 武功勲章 ●宝鼎勲章 他多数関連図書[編集]
当時の文献 ●ダグラス・マッカーサー ﹁陸海軍省併合及空軍独立論に対する米軍参謀総長の意見﹂ ︵﹃隣邦軍事研究の参考 第四号﹄︶、偕行社編纂部発行、1933年︵昭和8年︶ ●﹃吉田茂=マッカーサー往復書簡集﹄ 袖井林二郎編訳・解説、法政大学出版局、2000年/講談社学術文庫︵改訂版︶、2012年 ●コートニー・ホイットニー ﹃日本におけるマッカーサー 彼はわれわれに何を残したか﹄︵抄訳︶ 毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社、1957年 ●チャールズ・ウィロビー[注釈 20] ﹃マッカーサー戦記﹄ 大井篤訳、時事通信社︵全3巻︶、1956年/朝日ソノラマ文庫︵全2巻︶、1988年 ●ジョン・ガンサー ﹃マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東﹄ 木下秀夫・安保長春訳、時事通信社、1951年 ●ラッセル・ブラインズ[注釈 21] ﹃マッカーサーズ・ジャパン 米人記者が見た日本戦後史のあけぼの﹄︵抄訳︶ 長谷川幸雄訳、中央公論社、1949年/朝日ソノラマ、1977年 ●ウィリアム・シーボルド ﹃日本占領外交の回想﹄ 野末賢三訳、朝日新聞社、1966年 伝記研究 ●ロジャー・エグバーグ ﹃裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言﹄ 林茂雄・北村哲男共訳、図書出版社、1995年 ●﹃戦後60年記念 別冊歴史読本18号 日本の決断とマッカーサー﹄ 新人物往来社、2005年 ●リチャード・B・フィン﹃マッカーサーと吉田茂﹄︵上下︶、同文書院インターナショナル、1993年/角川文庫︵巻末の書誌索引は省略︶、1995年 ●半藤一利 ﹃マッカーサーと日本占領﹄ PHP研究所、のちPHP文庫 ●榊原夏 ﹃マッカーサー元帥と昭和天皇﹄ 集英社新書、2000年、主に写真での案内 ●河原匡喜 ﹃マッカーサーが来た日8月15日からの20日間﹄ 新人物往来社、1995年/光人社NF文庫、2005年、ISBN 476982470X、写真多数 ●児島襄 ﹃日本占領﹄︵文藝春秋 のち文春文庫︶ ●同 ﹃講和条約﹄︵新潮社 のち中公文庫︶、﹃昭和天皇 戦後﹄︵小学館︶ ●三好徹 ﹃興亡と夢 戦火の昭和史5﹄︵集英社 のち集英社文庫︶ ●田中宏巳﹃消されたマッカーサーの戦い 日本人に刷り込まれた︿太平洋戦争史﹀﹄吉川弘文館、2014年 ●谷光太郎 ﹁ハート アジア艦隊司令官﹂﹃米軍提督と太平洋戦争﹄より 学習研究社、2000年 ●川島高峰 ﹃敗戦 占領軍への50万通の手紙﹄ 読売新聞社 1998年 ●伴野昭人 ﹃マッカーサーへの100通の手紙﹄ 現代書館 2012年 ●D. クレイトン.ジェームズ﹃The Years of MacArthur, Volume 1: 1880-1941﹄ホートン・ミフリン・ハーコート、1970年 その他 ●本間富士子﹁悲劇の将軍・本間雅晴と共に﹂﹃文藝春秋﹄昭和39年11月号 ●重光葵 ﹁巣鴨日記﹂﹃文藝春秋﹄昭和27年8月号 - 昭和28年に文藝春秋︵正・続︶。新版・吉川弘文館、2021年 ●デービッド・ハルバースタム ﹃ザ・フィフティーズ﹄ 峯村利哉訳︵ちくま文庫 全3巻、2015年︶ ●多賀敏行 ﹃﹁エコノミック・アニマル﹂は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史﹄ 新潮新書 2004年 ●五百旗頭真 ﹃日米戦争と戦後日本﹄講談社学術文庫 2005年 ●ジョン・ダワー﹃敗北を抱きしめて﹄ ︵上・下︶、三浦陽一ほか訳、岩波書店 2001年、改訂版2004年 ●ハンソン・ボールドウィン﹃勝利と敗北 第二次大戦の記録﹄朝日新聞社、1967年。 以下は英語原本 ●オマール・ブラッドレー﹃A General's Life: An Autobiography﹄サイモン&シュスター 1983年 ●ブルース・カミングス﹃Origins of the Korean War, Vol. 1: Liberation and the Emergence of Separate Regimes, 1945-1947﹄プリンストン大学、1981年 ●ジーン・エドワード・スミス﹃Lucius D. Clay: An American Life﹄ヘンリーホルトコーポレーション、1990年 ●ハリー・S・トルーマン﹃Off the Record: The Private Papers of Harry S. Truman﹄ロバート・H・フェレル編、ミズーリ大学、1997年 ●ペーター・ライオン﹃アイゼンハワー﹄ボストン社 1974年 ●ディーン・アチソン﹃Among friends: Personal letters of Dean Acheson﹄ドッド・ミード社 1980年 ISBN 0396077218脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
- 人物
- 出来事
外部リンク[編集]
- Douglas MacArthur's biography at the Official U.S. Army website
- The MacArthur Memorial - The MacArthur Memorial at Norfolk, Virginia
- MacArthur Museum Brisbane - The MacArthur Museum at Brisbane, Queensland, Australia
- MacArthur - a site about MacArthur from PBS.
- Killing the Budda - Red Flags and Christian Soldiers - about MacArthur's effort and vision to establish International Christian University
- アメリカ占領下の日本 第2巻 最高司令官マッカーサー - 科学映像館
- 『マッカーサー』 - コトバンク
先代 チャールズ・P・サマーオール |
アメリカ陸軍参謀総長 第10代:1930年11月21日 - 1935年10月1日 |
次代 マリン・クレイグ |
先代 - |
連合軍最高司令官(SCAP) 初代:1945年8月14日 - 1951年4月16日 |
次代 マシュー・リッジウェイ |
- ダグラス・マッカーサー
- 昭和天皇
- 連合国軍最高司令官総司令部の人物
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- 第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人
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- 朝鮮戦争の人物
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- 陸軍名誉勲章受章者
- レジオンドヌール勲章受章者
- ポーランド復興勲章受章者
- 勲一等旭日桐花大綬章受章者
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- 19世紀アメリカ合衆国の人物
- 20世紀アメリカ合衆国の人物
- 1880年生
- 1964年没
- 国葬された人物