「結縄」の版間の差分
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[[File:Inca Quipu.jpg|thumb|300px|右|南米のキープ]] |
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'''結縄'''(けつじょう)は、[[紐]]や[[縄]]などの[[結び目]]を用いて情報の記録・伝達や計数・演算を行う原始的な[[メディア (媒体)|情報媒体]]。[[南米]]の[[インカ帝国]]下に行われた[[キープ (インカ)|キープ]]が最もよく知られているが、同様の方法が世界各地に伝わっている。このような記録方法は今日でも、カトリックの[[ロザリオ]]や仏教の[[数珠]]、[[ハンカチ]]の結び等にも見ることができる{{sfn|壇辻|2001| |
'''結縄'''(けつじょう)は、[[紐]]や[[縄]]などの[[結び目]]を用いて情報の記録・伝達や計数・演算を行う原始的な[[メディア (媒体)|情報媒体]]。[[南米]]の[[インカ帝国]]下に行われた[[キープ (インカ)|キープ]]が最もよく知られているが、同様の方法が世界各地に伝わっている。このような記録方法は今日でも、カトリックの[[ロザリオ]]や仏教の[[数珠]]、[[ハンカチ]]の結び等にも見ることができる{{sfn|壇辻|2001|p=394}}。 |
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結縄は[[刻木]]などとともに事物文字(object-writing)の一種として分類され、[[文字]]使用に至る先行段階と見なされる。言語の形式の単位、すなわち[[音素]]の単位や[[意味]]の単位との対応関係は一定ではなく、恣意的であったため、本来の意味での文字のレベルには達しなかったものと考えられている{{sfn|壇辻|2001|pp=394-396}}。しかし、なかには言語との対応関係が見られるものもある。 |
結縄は[[刻木]]などとともに事物文字(object-writing)の一種として分類され、[[文字]]使用に至る先行段階と見なされる。言語の形式の単位、すなわち[[音素]]の単位や[[意味]]の単位との対応関係は一定ではなく、恣意的であったため、本来の意味での文字のレベルには達しなかったものと考えられている{{sfn|壇辻|2001|pp=394-396}}。しかし、なかには言語との対応関係が見られるものもある。 |
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の記述がある。『周易本義』の注には、「事の大ならば其の縄を大結し、事の小ならば其の縄を小結し、結の多少は物の衆寡に随う」とある。ここから、文字のなかった時代の政治を「結縄の政」といい、特に[[老荘]]の書にはその理想が垣間見える。例えば、『[[老子道徳経|老子]]』第80章の「小国寡民」には「民をして復た縄を結いて之れを用いしむ」などとある。 |
の記述がある。『周易本義』の注には、「事の大ならば其の縄を大結し、事の小ならば其の縄を小結し、結の多少は物の衆寡に随う」とある。ここから、文字のなかった時代の政治を「結縄の政」といい、特に[[老荘]]の書にはその理想が垣間見える。例えば、『[[老子道徳経|老子]]』第80章の「小国寡民」には「民をして復た縄を結いて之れを用いしむ」などとある。 |
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日本に関して、『[[隋書]]』巻81[[東夷伝]][[倭国]]条には、[[倭人]]の風俗として「文字無し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ」と記しているが、[[唐古・鍵遺跡]]や[[鬼虎川遺跡]]など[[弥生時代]]の遺跡からは、結び目の付いた[[大麻]]の縄や[[イグサ]]の結び玉とみられるものも見つかっている{{sfn|布目|1996|pp=90-93}}。また[[藤原相之助]]によれば、古来日本では、[[萱]]や[[菖蒲]]などの長い葉を取って2・3か所玉結びにして、その結び方や場所によって祝意や恋愛などのさまざまな意味を表したとされている(草結び){{sfn|布目|1996|p=92}}。 |
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また[[古代ギリシア]]においては、[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』(紀元前5世紀)に記録がある。[[アケメネス朝ペルシア]]の王[[ダレイオス1世|ダレイオス]]は、同盟のギリシア軍に橋頭の防衛を任せて[[スキュティア]]に進軍する際、60個の結び目がついた革ひもを渡しながら、次のような言葉を残したとされる。 |
また[[古代ギリシア]]においては、[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』(紀元前5世紀)に記録がある。[[アケメネス朝ペルシア]]の王[[ダレイオス1世|ダレイオス]]は、同盟のギリシア軍に橋頭の防衛を任せて[[スキュティア]]に進軍する際、60個の結び目がついた革ひもを渡しながら、次のような言葉を残したとされる。 |
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=== インカ帝国 === |
=== インカ帝国 === |
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{{see also|キープ (インカ)}} |
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結縄として世界的に最も著名なのが'''キープ'''︵Quipu, Khipu︶である。キープは﹁結ぶ﹂あるいは﹁結び目﹂を意味し、租税管理や[[国勢調査]]などの統計的記述に用いられ、固有の文字を持たなかったインカ帝国の集権的行政において重要な役割を担った |
結縄として世界的に最も著名なのが'''キープ'''︵Quipu, Khipu︶である。キープは﹁結ぶ﹂あるいは﹁結び目﹂を意味し、租税管理や[[国勢調査]]などの統計的記述に用いられ、固有の文字を持たなかったインカ帝国の集権的行政において重要な役割を担った。キープの紐には[[ウール|羊毛]]が用いられ、色、結び目の距離、数、大きさ、形あるいはねじれ方などによって膨大な情報を記録することができた{{sfn|壇辻|2001|pp=394-395}}。帝国ではキプカマヨク︵結縄司︶と呼ばれる役人が統計管理や会計にあたったが、その精度はスペイン人が驚嘆するほどであった{{sfn|池田|1952|p=98}}。
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キープはインカ帝国の口承伝承や法律保存のうえで、記憶を補助するための手段としても機能していたとみられる{{sfn|池田|1952|p=101}}。しかしながらほとんどの場合キープは計数の道具であって、言語情報を伝える文書とはみなしえないと考えられてきた。一方で、キープの一部に[[二進法]]に基づく原始的な書記体系の形式をなしているものがある、という説も近年有力視されつつあるが、 |
キープはインカ帝国の口承伝承や法律保存のうえで、記憶を補助するための手段としても機能していたとみられる{{sfn|池田|1952|p=101}}。しかしながらほとんどの場合キープは計数の道具であって、言語情報を伝える文書とはみなしえないと考えられてきた。一方で、キープの一部に[[二進法]]に基づく原始的な書記体系の形式をなしているものがある、という説も近年有力視されつつある{{sfn|Willford|2003}}。{{仮リンク|ゲイリー・アートン|en|Gary Urton}}や{{仮リンク|サビン・ハイランド|en|Sabine Hyland}}などの研究者が、キープに刻まれた名前や文字的情報の解読に成功したと主張している{{sfn|Cossins|2018}}。
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=== 中南米 === |
=== 中南米 === |
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北米インディアンの間でも結縄はしばしばみられる習慣であった。これが認められる部族としては、[[ワシントン州]]東部の{{仮リンク|ヤキマ族|en|Yakama}}、[[アリゾナ州]]の{{仮リンク|ワラバイ族|en|Rabai}}と{{仮リンク|ハヴァスパイ族|en|Havasupai}}、[[カリフォルニア州]]の{{仮リンク|ミーウォク|en|Miwok}}と{{仮リンク|マイドゥ族|en|Maidu}}、[[ニューメキシコ州]]の[[アパッチ族]]と{{仮リンク|ズニ族|en|Zuni}}などがある{{sfn|宮田|2018|p=74}}。 |
北米インディアンの間でも結縄はしばしばみられる習慣であった。これが認められる部族としては、[[ワシントン州]]東部の{{仮リンク|ヤキマ族|en|Yakama}}、[[アリゾナ州]]の{{仮リンク|ワラバイ族|en|Rabai}}と{{仮リンク|ハヴァスパイ族|en|Havasupai}}、[[カリフォルニア州]]の{{仮リンク|ミーウォク|en|Miwok}}と{{仮リンク|マイドゥ族|en|Maidu}}、[[ニューメキシコ州]]の[[アパッチ族]]と{{仮リンク|ズニ族|en|Zuni}}などがある{{sfn|宮田|2018|p=74}}。 |
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結縄に類するインディアンの文化に{{仮リンク|ワムパム帯|en|Wampum}}がある。ワムパム帯はビーズや穴を開けた貝殻に樹皮や麻などの植物性繊維や鹿皮などの紐を通したもので、ワムパムは貝殻を意味しているとされる。貝殻の色によって |
結縄に類するインディアンの文化に{{仮リンク|ワムパム帯|en|Wampum}}がある。ワムパム帯はビーズや穴を開けた貝殻に樹皮や麻などの植物性繊維や鹿皮などの紐を通したもので、ワムパムは貝殻を意味しているとされる。貝殻やビーズ玉の色の相違によって様々な意味を表すことができ、部族の歴史、部族間の条約や協定に相当する取り決めや領土の境界、さらには個人の特徴をも記録するのに用いられた{{sfn|壇辻|2001|p=395}}。
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== 東アジア == |
== 東アジア == |
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[[#概説|上述]]のように中国の古典籍に結縄の習俗が伝わっているが、 |
[[#概説|上述]]のように中国の古典籍に結縄の習俗が伝わっているが、近年に至るまで、[[琉球諸島]]や[[台湾]]、[[中国]]、[[アイヌ]]社会、あるいは日本内地でも類例が報告されている。 |
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=== 北海道 === |
=== 北海道 === |
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=== 日本(内地) === |
=== 日本(内地) === |
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[[宮中祭祀|宮中行事]]で[[大嘗祭]]の前日に行われる鎮魂の儀に「糸結び(御魂結び)」があり、結びを用いて百を数え、遊離する魂を鎮める習わしがある{{sfn|布目|1996|p=92}}。同様の鎮魂祭は、奈良の[[石上神宮]]・新潟の[[彌彦神社|弥彦神社]]・島根の[[物部神社 (大田市)|物部神社]]などにも伝わっている{{sfn|額田|1983|pp=116-117}}。 |
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=== 沖縄 === |
=== 沖縄 === |
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{{see also|藁算}} |
{{see also|藁算}} |
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[[File:Warazan, straw calculator from Ryukyu Islands - Ridai Museum of Modern Science, Tokyo - DSC07450.JPG|thumb|300px|藁算 |
[[File:Warazan, straw calculator from Ryukyu Islands - Ridai Museum of Modern Science, Tokyo - DSC07450.JPG|thumb|300px|藁算]] |
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琉球諸島では文字使用を許されなかった庶民の間の記録法として[[スーチューマ]]や[[カイダ文字]]などと並び、'''藁算'''(ワラザン・バラザン)や'''縄算'''(ナワザン)などと呼ばれる結縄の慣習が行われていた。スーチューマやカイダ文字は比較的上層の人々が用いたのに対して、一般庶民は、[[藁]]あるいは |
琉球諸島では文字使用を許されなかった庶民の間の記録法として[[スーチューマ]]や[[カイダ文字]]などと並び、'''藁算'''︵ワラザン・バラザン︶や'''縄算'''︵ナワザン︶などと呼ばれる結縄の慣習が行われていた。スーチューマやカイダ文字は比較的上層の人々が用いたのに対して、一般庶民は、[[藁]]あるいはイグサの結び方によって数量を表す方法を用いた。これには人数を表すもの、貢納額を表すもの、材木の大きさを表すもの、祈願用のものがあった{{sfn|高橋|2001|pp=1122-1123}}。明治期に初めて藁算の考察を残した民俗学者の[[田代安定]]は、特に[[八重山地方]]において普及が著しく、ここでは会計上の意味を超えて、禁止や告訴、命令などの文書的通達に代わる﹁[[会意]]格﹂の用法があることを記している{{sfn|宮田|2018|pp=19-21}}。
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=== 台湾 === |
=== 台湾 === |
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[[プユマ族]]の間では、男女の情愛のほどを確かめるのに結縄が用いられる。男には赤色、女には青または黄色の糸を用い、男女2本の糸をつないで数ヶ所の結び目をつくり、その結び目の位置や結び方の一致・不一致によって互いの愛情を確認しあった{{sfn|長浜|1977|pp=2-3}}。 |
[[プユマ族]]の間では、男女の情愛のほどを確かめるのに結縄が用いられる。男には赤色、女には青または黄色の糸を用い、男女2本の糸をつないで数ヶ所の結び目をつくり、その結び目の位置や結び方の一致・不一致によって互いの愛情を確認しあった{{sfn|長浜|1977|pp=2-3}}。 |
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=== 雲南 === |
=== 雲南・チベット === |
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中国[[雲南省|雲南]]地方や[[チベット]]の[[中国の少数民族|少数民族]]には結縄の風習があり、[[トーロン族]]・[[リス族]]・[[ヌー族]]・[[ワ族]]・[[ヤオ族]]・[[ナシ族]]・[[プミ族]]・[[ハニ族]]・[[ローバ族]]などは、[[中華人民共和国]]成立以前には縄によって日付をつけていた。リス族は会計に結縄を用い、ハニ族は同じ長さの縄に同じ形の結び目を作って共有し、貸借の証明書とした。[[寧蒗]]のナシ族やプミ族は、羊毛を編んだ縄を結って情報を伝え、人々を招集した{{sfn|林|1986}}。 |
中国[[雲南省|雲南]]地方や[[チベット]]の[[中国の少数民族|少数民族]]には結縄の風習があり、[[トーロン族]]・[[リス族]]・[[ヌー族]]・[[ワ族]]・[[ヤオ族]]・[[ナシ族]]・[[プミ族]]・[[ハニ族]]・[[ローバ族]]などは、[[中華人民共和国]]成立以前には縄によって日付をつけていた。リス族は会計に結縄を用い、ハニ族は同じ長さの縄に同じ形の結び目を作って共有し、貸借の証明書とした。[[寧蒗]]のナシ族やプミ族は、羊毛を編んだ縄を結って情報を伝え、人々を招集した{{sfn|林|1986}}。 |
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* {{cite journal|和書|ref={{sfnref|池田|1952}}|author=池田源太|title=口誦伝承と結縄の制|journal=奈良学芸大学紀要|volume=1|issue=2|year=1952|page=95-103|issn=0369321X|naid=120002737032}} |
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⚫ | * {{cite journal|和書|ref={{sfnref|坪井|1891}}|author=坪井正五郎|title=結縄、書契の例|journal=東京人類学会雑誌|volume=6|issue=66|pages=403-413|year=1891|naid=130004020780}} |
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* {{cite journal|和書|ref={{sfnref|長浜|1977}}|author=長浜章|title=結縄および記標文字|journal=数学史研究|volume=73|year=1977|page=1-41|issn=03869555|naid=40001995931}} |
* {{cite journal|和書|ref={{sfnref|長浜|1977}}|author=長浜章|title=結縄および記標文字|journal=数学史研究|volume=73|year=1977|page=1-41|issn=03869555|naid=40001995931}} |
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* {{cite book|和書|ref={{sfnref|額田|1983}}|author=額田巌|title=日本人の知恵と心―結びの文化|publisher=東洋経済新報社|year=1983}} |
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* {{cite journal|和書|ref={{sfnref|布目|1996}}|author=布目順郎|title=結縄のこと|journal=月刊しにか|volume=7|issue=12|page=90-94|year=1996|publisher=大修館書店|naid=40004854876|issn=09157247}} |
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* {{cite book|和書|ref=harv|title=歴史|author=ヘロドトス|translator=松平千秋|publisher=岩波書店|year=1972|volume=中|version=46|isbn=4003340523}} |
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* {{cite journal|和書|ref={{sfnref|宮田|2018}}|author=宮田義美|title=沖縄の結縄(藁算)の数学史における位置|journal=津田塾大学数学・計算機科学研究所報|volume=39|pages=227-276|year=2018|naid=40021556996}} |
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* {{cite book|和書|ref={{sfnref|最上|1808}}|title=渡島筆記|author=最上徳内|series=日本庶民文化集成4 探検・紀行・地誌|year=1969|origyear=1808|editors=高倉新一郎ほか|publisher=三一書房|isbn=4380685004}} |
* {{cite book|和書|ref={{sfnref|最上|1808}}|title=渡島筆記|author=最上徳内|series=日本庶民文化集成4 探検・紀行・地誌|year=1969|origyear=1808|editors=高倉新一郎ほか|publisher=三一書房|isbn=4380685004}} |
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* {{cite book|和書|ref={{sfnref|林|1986}}|author=林声|chapter=結縄記事|title=中国大百科全書 民族|year=1986|edition=第一版|isbn=7500000308}} |
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* {{cite book|ref=harv|last=Brown|first=John Macmillan|year=1924|title=The Riddle of the Pacific|publisher=T. Fisher Unwin}} |
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* {{Cite journal|ref=harv|last=Cossins|first=Daniel|title=We thought the Incas couldn't write. These knots change everything|journal=New Scientist|issue=3197|date=2018-9-28|year=2018|url=https://www.newscientist.com/article/mg23931972-600-we-thought-the-incas-couldnt-write-these-knots-change-everything/}} |
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* {{cite journal|ref=harv|last=Gandz|first=Solomon|year=1930|title=The Knot in Hebrew Literature, or from the Knot to the Alphabet|url=https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/346491|journal=Isis|volume=14|issue=1|pages=189–214|doi=10.1086/346491|issn=0021-1753}} |
* {{cite journal|ref=harv|last=Gandz|first=Solomon|year=1930|title=The Knot in Hebrew Literature, or from the Knot to the Alphabet|url=https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/346491|journal=Isis|volume=14|issue=1|pages=189–214|doi=10.1086/346491|issn=0021-1753}} |
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* {{cite journal|ref=harv|last=Huylebrouk|first=Dirk|title=Mathematics in (central) Africa before colonization|journal=Anthropologica et Præhistorica|volume=117|year=2006|p=135-162|issn=1377-5723|url=http://biblio.naturalsciences.be/associated_publications/anthropologica-prehistorica/anthropologica-et-praehistorica/ap-117/ap117_135-162.pdf}} |
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2019年5月30日 (木) 12:39時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Inca_Quipu.jpg/300px-Inca_Quipu.jpg)
古代の結縄
結縄が記録媒体として用いられた最も古い記録の1つとして、中国では﹃易経﹄の繫辞・下伝に、 上古結縄而治。後世聖人易之以書契。 上古は縄を結びて治まる。後世の聖人︵伏羲︶、之れに易︵か︶うるに書契︵文字や割符︶を以てす。 の記述がある。﹃周易本義﹄の注には、﹁事の大ならば其の縄を大結し、事の小ならば其の縄を小結し、結の多少は物の衆寡に随う﹂とある。ここから、文字のなかった時代の政治を﹁結縄の政﹂といい、特に老荘の書にはその理想が垣間見える。例えば、﹃老子﹄第80章の﹁小国寡民﹂には﹁民をして復た縄を結いて之れを用いしむ﹂などとある。 日本に関して、﹃隋書﹄巻81東夷伝倭国条には、倭人の風俗として﹁文字無し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ﹂と記しているが、唐古・鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄やイグサの結び玉とみられるものも見つかっている[3]。また藤原相之助によれば、古来日本では、萱や菖蒲などの長い葉を取って2・3か所玉結びにして、その結び方や場所によって祝意や恋愛などのさまざまな意味を表したとされている︵草結び︶[4]。 また古代ギリシアにおいては、ヘロドトスの﹃歴史﹄︵紀元前5世紀︶に記録がある。アケメネス朝ペルシアの王ダレイオスは、同盟のギリシア軍に橋頭の防衛を任せてスキュティアに進軍する際、60個の結び目がついた革ひもを渡しながら、次のような言葉を残したとされる。 そなたらはわしがスキュタイ人攻撃に出発するのを見たならば、その時から始めて毎日結び目を一つずつほどいていってくれ。その期間にわしが戻ってこず、結び目の数だけの日が経過したならば、そなたらは船で帰国してくれてよい。[5] 古代エジプトのヒエログリフには、結び目の付いた紐を模したものがある。エジプトの測量術において、結び目のついたロープを使って直角三角形を作っていたことは知られているが、こうした測量技師は同時に結び目を作り計数管理をする技術者であった可能性もある[6]。 記憶手段としての結び目の利用はユダヤ教にも形跡を見ることができる。律法に従えば、すべてのイスラエル人男子は朝の祈祷の際に肩に房飾りを下げることになっているが、この房飾りに下がっている糸のうち、その四隅の紐はつねに一定の数になるように結ばれている。セファルディムの伝承では26、アシュケナジムの伝承では39で、これはユダヤ教において神聖な数と見なされている[7]。 主はまたモーセに言われた、﹁イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。﹂ — ﹃旧約聖書﹄民数記15:37-39南北アメリカ
インカ帝国
中南米
歴史家のエルランド・ノルデンシェルドは、結縄が中米のコロンビアやパナマのインディオ、メキシコ中部~北部、アマゾンからポリネシアにまで存在したと指摘したうえで、十進法を知らなかった点で中米の結縄はペルーのそれとは区別されるべきであると主張する。ルイ・ボーダンも、コロンビアのポパヤン、オリノコ川カリブ族、北米のインディアン部族の一部、文字出現前のメキシコ、マルキーズ諸島に結縄が使われていたと述べる。16世紀イエズス会士のホセ・ゲバラ神父はトゥピ・グアラニー語族がキープを使う伝統について語っており、ペドロ・ロサノ神父も、アンダルガラ︵アルゼンチン︶のインディオが1611年現在でもそれを使っていたと報告している。驚くべきことに、インカ帝国の版図に組み込まれなかった地域でもキープが使われており、チリのアラウカン族の間では19世紀にもその慣習が行われていた[13]。 それがインカ帝国に由来する、あるいは独自に発生したにせよ、類似する風習は今日まで南米に伝わっている。例えば仏領ギアナのトゥピ・グアラニー系の部族の間では、宗教儀礼の順序を示すための記録あるいはロザリオとしてウドゥクル︵udukuru︶とよばれる結縄が用いられる[13]。北米
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/The_belt_of_wampum_delivered_by_the_Indians_to_William_Penn_at_the_%22Great_Treaty%22_%281682%29.jpg/350px-The_belt_of_wampum_delivered_by_the_Indians_to_William_Penn_at_the_%22Great_Treaty%22_%281682%29.jpg)
東アジア
上述のように中国の古典籍に結縄の習俗が伝わっているが、近年に至るまで、琉球諸島や台湾、中国、アイヌ社会、あるいは日本内地でも類例が報告されている。北海道
日本︵内地︶
宮中行事で大嘗祭の前日に行われる鎮魂の儀に﹁糸結び︵御魂結び︶﹂があり、結びを用いて百を数え、遊離する魂を鎮める習わしがある[4]。同様の鎮魂祭は、奈良の石上神宮・新潟の弥彦神社・島根の物部神社などにも伝わっている[19]。 本居宣長の﹃玉勝間﹄第13巻には、讃岐の田舎に伝わる求婚の風習が記されている。男が女に2つ結び目のついた藁を送り、女は拒絶する場合には結び目を外して返し、承諾の場合には結び目を中央に集めて返すものという[20]。坪井正五郎が柏原学而から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近では家々の勝手ロに縄が2本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際にその量に従って縄に結び玉を作り、勘定を受け取るときにはこの玉を数える習慣があった[18]。沖縄
台湾
アミ族は文字・数の表現の代用として結縄が多く使用され、大正時代、地域によっては昭和初期まで、相手への意思伝達や記録計算において結縄が用いられていた。計算のための結縄は太さの異なる3本の麻糸を束ねて作られ、それぞれの糸が位取りをあらわした︵アミ族の経済観念は非常に単純で、3桁以上の演算を必要としなかった︶。このほか、借用証書として、さらに男子の集会所における祭礼や作業負担の記録のために結縄が用いられている[23]。 プユマ族の間では、男女の情愛のほどを確かめるのに結縄が用いられる。男には赤色、女には青または黄色の糸を用い、男女2本の糸をつないで数ヶ所の結び目をつくり、その結び目の位置や結び方の一致・不一致によって互いの愛情を確認しあった[24]。雲南・チベット
中国雲南地方やチベットの少数民族には結縄の風習があり、トーロン族・リス族・ヌー族・ワ族・ヤオ族・ナシ族・プミ族・ハニ族・ローバ族などは、中華人民共和国成立以前には縄によって日付をつけていた。リス族は会計に結縄を用い、ハニ族は同じ長さの縄に同じ形の結び目を作って共有し、貸借の証明書とした。寧蒗のナシ族やプミ族は、羊毛を編んだ縄を結って情報を伝え、人々を招集した[25]。 チベット仏教の僧侶は、108個の結び目がついた数珠を用いて祈祷の回数を数えることがあった。また、黄色い紐は仏陀、白い紐は菩薩というように、祈祷の対象によって色の使い分けがなされていた。これと同様の習慣は、20世紀初頭までシベリアのマンシ族・ハンティ族・ツングース族・ヤクート族などにも行われていた[14]。西南アジア
英領インドで1872年に国勢調査が行われた際、ジャールカンド州サンタル・パルガナ地区のサンタル族は、男女と成人・子供の別に4色の糸を用いて人口を報告した[26]。南インドのコンド族の婚姻儀礼では、求婚者の手に結び目の付いた紐が与えられ、同様の紐が花嫁の家族のもとに保管される。結婚式の日取りは、毎朝この結び目をほどいていくことで調整される[27]。 このことは、旧約聖書のエレミヤ書の次の記述とも関連するかもしれない。ヘブライ語で帯を意味する qishshurim は、文字通り﹁結び目﹂や﹁結縄﹂も意味する[28]。 おとめはその飾り物を忘れることができようか。花嫁はその帯を忘れることができようか。ところが、わたしの民の、わたしを忘れた日は数えがたい。 — ﹃旧約聖書﹄エレミヤ書2:32ヨーロッパ
ラトビア、およびリトアニアのラトビア人コミュニティには、20世紀まで、暦や呪術的治療、招待状、そしてとりわけ民謡を記録する目的でメズグル・ラクスティ︵ラトビア語: Mezglu Raksti︶という結縄が用いられていた歴史がある[29]。民謡を記録した糸はヅィエスム・カモルス︵dziesmu kamols︶と呼ばれ、500曲以上のラトビア民謡の中に登場する。結び目はラトビア語アルファベットに対応しており、アルファベットとの対応関係や紐の組み合わせを異にする3種類の表記法が知られている[30]。また、ドイツでは19世紀末に、製粉業者がパン屋と取引する際に結縄を使用していた例がある[14]。アフリカ
租税や貸借に結縄を用いる習慣は、西アフリカ一帯、とくにナイジェリア・ラゴスの後背地に住むイェブ族の間に認められる。コンゴ周辺にも商取引や暦のための結縄を用いる部族が多い。コンゴ共和国のテンボ族にはラフィアヤシの繊維から編んだ縄を用いて求婚のメッセージをかわす習慣がある。アフリカ南部のモノモタパ王国では王が即位するごとに宮廷歴史家が結び目を1つ作る習わしがあり、1929年時点で35個の結び目があって、15世紀中葉にさかのぼる全ての王を区別することができた。ラーゲルクランツが1960年代に、アフリカにおける結縄文化の分布図を残している[31]。オセアニア
ハワイの徴税人が結縄を用いていた事実は、1820年代のイギリス人宣教師らの日誌に記されている。彼らの記すところでは、﹁徴税人たちは、読み書きができないが、島中の住民から集められたあらゆる種類の品々についての非常に詳細な記録をつけている。これは主として1人の人間によって行われ、そして記録するものは、400~500尋︵約750~950m︶の縄一本にすぎない﹂[32]。東洋学者のテリアン・ド・ラクペリは1885年にハワイの結縄についてより詳細な記述を残しており、異なる形状・色・大きさの縄や結び目・房によって記録が行われると解説している[33]。 ハワイ人の祖先はマルキーズ諸島を経由して来住したとされるが、マルキーズ諸島では、死者が出ると僧侶がココナッツの繊維から作られた紐に結び目を作り、死亡者の統計を作っていた[34]。人類学者ラルフ・リントンは1920~21年の調査において、﹁結縄の使用は、ポリネシアの他のいかなる地域よりも、マルキーズ諸島において最も高度に発達しているように思われる﹂と綴っている[35]。結縄文化はソシエテ諸島を経由してニュージーランドまで伝わり、現地のマオリ人の間ではタウポナポナ︵tau-ponapona︶と呼ばれていた。イースター島にも結縄による家系図が残っている[34]。その他の例
19世紀、ブライユ点字が普及する以前に、結縄による英語アルファベットの表記が考案された例がある。エディンバラの盲目の語学教師デヴィッド・マクベスとその知人によって開発されたもので、アルファベットを結び目の形状・大きさ・状態によって書き分けるものであった。発案者は、他に発明されていた視覚障碍者用の文字に比べて持ち運びやすく、材料費が少なく、正確に伝達可能であるなどの利点を挙げている[36]。出典
- ^ 壇辻 2001, p. 394.
- ^ 壇辻 2001, pp. 394–396.
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- ^ 宮田 2018, pp. 74–75.
- ^ 壇辻 2001, pp. 394–395.
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- ^ Willford 2003.
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