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実子は[[海洋人類学]]者、[[海洋民族学研究会]]初代[[会長]]にして、同じく早稲田大学教授を務めた[[西村朝日太郎]]<ref name="anthropology" />、なお朝日太郎の名前は、眞次がかつて勤務していた朝日新聞社に因んで名付けられた<ref name="anthropology" /> |
実子は[[海洋人類学]]者、[[海洋民族学研究会]]初代[[会長]]にして、同じく早稲田大学教授を務めた[[西村朝日太郎]]<ref name="anthropology" />、なお朝日太郎の名前は、眞次がかつて勤務していた朝日新聞社に因んで名付けられた<ref name="anthropology" />。 |
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2018年11月13日 (火) 12:09時点における版
西村 眞次︵にしむら しんじ、1879年3月30日[1][2] - 1943年5月27日[1][2]︶とは日本のリベラル系ジャーナリスト、歴史学者、考古学者、文化人類学者、民俗学者。号として酔夢とも[1]。勲八等白色桐葉章︵1905年︶[3]。戦前日本において﹁文化人類学﹂の名を冠した日本語書籍を初めて上梓したことでも知られる[4][3]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/57/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1.jpg/250px-%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1.jpg)
東京専門学校の校舎と学生たち︵撮影年代不詳︶
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Shoyo_Tsubouchi_cropped.jpg/200px-Shoyo_Tsubouchi_cropped.jpg)
西村が師事した坪内逍遥
三重県度会郡宇治山田町︵現伊勢市︶[2][3][5]にて西村九三、のぶ子夫妻の次男として生まれる[2][5]。尋常小学校卒業後は大阪で仕事をしながら、私立の中等教育機関にて勉学に励むこととなる[5]。この間﹃少年文集﹄や﹃中学世界﹄をはじめ、少年雑誌、青年雑誌を中心に採用された投稿は多い[5]。西村の投稿は当時の文学少年の間で人気を博した他、﹃早稲田講義録﹄を受講していたという[5]。その後上京し、新声社︵現新潮社︶や博文館で編集業務に携わった[5]。
1903年4月東京専門学校︵現早稲田大学︶文学部に入学し、坪内逍遥の薫陶を受ける[5]。1905年3月に東京専門学校を卒業するも、同年の日露戦争勃発に伴い、陸軍輜重輸卒として[3]応召の後中国戦線へと赴くこととなる[5]。除隊後は従軍体験を綴った﹃血汗﹄︵精華書院[6]︶など小説を発表する[5]。
1907年には東京朝日新聞社︵現朝日新聞︶に入社[2][5]、社会部及び学芸部に属し記者として活躍[2]。専門学校時代に師事した坪内の斡旋により[2]1909年冨山房に移籍、大町桂月が主宰する雑誌﹃学生﹄の編集者を務めた[5]。冨山房時代には現在で言う受験参考書も出版。多くの学者と親交を結んだのをきっかけとして、人類学や考古学、歴史研究に身を投じるようになったのはこの時期のことである[2][5]。
1918年には母校の早稲田大学に講師として招聘され、日本史や人類学の講義を受け持つ[2][5]。第一早稲田高等学院でも日本史の講座を担当した[5]。この間1922年教授に昇進[2]、1928年には史学科教務主任[1]。1932年﹃日本の古代筏船﹄﹃皮船﹄﹃人類学汎論﹄で[3]早稲田大学より文学博士号を受ける[2][5]。1937年には神武天皇聖蹟調査委員に就任[3]。
晩年は戦時色が強まる中、官憲から﹁自由主義者﹂として弾圧を受け、1941年には﹃国民の日本史 大和時代﹄︵早稲田大学出版部[6]︶﹃日本古代社会﹄︵ロゴス書院[6]︶﹃日本文化史概論﹄︵東京堂[6]︶の3冊が発禁処分を余儀無くされた[5]。同年太平洋協会より、南洋群島を対象とする民族学的研究を収めた﹃大南洋 - 文化と農業﹄を上梓[7][3]。﹁大東亜共栄圏の不可分の重要要素たる大南洋熱帯圏の科学的研究﹂の必要性が説かれた同書は、西村が冒頭太平洋地域の概説を執筆しており[7]、国策として進められた﹁南進論﹂に協力の度合いを深めてゆく。
その後も学術研究や後進の育成に尽力するが、1943年5月27日死去。享年64歳[2]。同年4月より胃癌の疑いのため大塚癌研究所︵現がん研究会︶で入院加療中であった[3]。
没後半世紀以上が経過した2009年秋、母校の早稲田大学大学史資料センターにて﹁西村眞次と早稲田史学﹂をテーマとする秋季企画展が開催[5]。企画展では学生時代の講義ノートや日記・調査記録、書簡類の他スケッチ多数が一般公開された[5]。
来歴
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/57/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1.jpg/250px-%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Shoyo_Tsubouchi_cropped.jpg/200px-Shoyo_Tsubouchi_cropped.jpg)
人物・業績
考古学
早稲田大学大学院文学研究科に考古学専攻が設置されたのが1976年、文学部に考古学専修が置かれたのが1984年と、考古学は文学部・文学研究科内では他専攻・専修と比して歴史が非常に浅い[8]。しかし早稲田大学の前身に当たる東京専門学校の開校式︵1882年︶でエドワード・S・モースが記念講演を行ったり、日本の人類学の祖たる坪井正五郎︵西村も度々接触[5]︶が教鞭を執るなど、研究の歴史自体は深いと言える[8]。 こうした歴史の蓄積から、大正時代に入ると西村は会津八一と共に考古学の発展に尽力[8]。欧米における当時最先端の人類学を紹介するのみならず、日本古代史や民族史関連の啓蒙書を数多く世に出した[8]。カムチャツカ半島やセントローレンス島、アメリカ先住民の土器と縄文土器との類似性を指摘したことでも知られる[9]。また、1928年には広島県発掘調査第1号とされる平井古墳︵府中市栗柄町︶の発掘に携わり、地域住民と共に横穴式石室や直刀などの鉄製品類、鏡、玉類、土師器類、須恵器類など多くの遺物を発見するに至った[10]。 西村の薫陶を受けた学者としては、日本古代史学者の水野祐 (歴史学者)や石器時代研究者の西村正衛らが挙げられる[8]。蒐集資料は本部キャンパスに保管されていたものの、1945年5月の空襲によりほとんどが散逸を余儀無くされた[8]。しかし、戦後間もない1950年に早稲田大学考古学会が設立、会誌﹃古代﹄も創刊されており、今なお西村を含む先達の努力は息づいている[8]。文化人類学
1938年早稲田大学文学部内に文化人類学会を設置、初代会長に就いた他、人類学の教科書を3冊上梓するなど、文化人類学方面でも該博な知識を有した[2]。なかんずく古代船舶についての研究が知られ、弟子の水野によれば、著書92冊、その他分担執筆や共著を加えると優に100冊を超えるという[2]。これらの著書は睡眠時間を4時間に削ってまで執筆の時間に割いていたというエピソードが残されている[2]。 古代船舶の研究からは、文化は1つの起源から多数に分岐していったとする﹁文化移動説﹂︵﹁継続説﹂﹁接触説﹂とも。現在の文化伝播論︶を導出[11]。同説は文化人類学史上、グラフトン・エリオット・スミスらイギリス・マンチェスター学派が唱導しているが、西村は早くからこれを支持したことでも知られる[3][11]。 その一方で、国家や民族はおのおの独立して発達したという﹁文化独立起源説﹂については、﹁帝国主義的か或いは人類学的無知﹂、﹁今日においては打破すべき似非科学﹂として退けている[11]。文化や人類が起源を同じくする以上、全世界の生存協力が必要であることを説き、現在のグローバリズムにも通ずる人道主義的な主張を展開していった[11]。歴史学
歴史学においても、なかんずく古代日本列島における民族移動について、文化人類学で展開したような﹁文化移動説﹂を根拠として論を展開している。 例えばアイヌは元々現在のロシア沿海地方に逗留していた民族で、食料供給の必要とアニミズムを理由に北上し、日本海を経て列島に到達したと推論[12]。列島にエスキモーが存在したかどうかの議論に関しては、アイヌが残した説話を引きながら﹁アイヌよりも前に、既に群島に他の民衆が住んでいたということは想像出来る﹂として、坪井正五郎と同様肯定的な立場をとっている[12]。 また、苗族が紀元前6世紀に漢民族の圧迫から逃れるため中国大陸中部から海を越えて北進、日本列島に到達した後九州地方の西海岸、特に筑後川や菊池川、白川の沖積層に稲や麻、桑を中心とする農耕生活を展開したと述べた[12]。この他隼人族をインドネシア族と同定[12]。平安時代まで日本人との同化を拒んだと結論付けている[12]。 漢民族の日本への帰化に関しては、秦氏や漢氏の名字や種々の説話に基づき、九州地方の北端や中国地方の沿岸部を居住地として、農業や稀に商業に携わり、日本文化を形成する上で重要な役割を果たしたと説明した[12]。このことは、古代日本語の中に漢語が日本化したものが極めて多いことからも分かると論じている[12]。家族
実子は海洋人類学者、海洋民族学研究会初代会長にして、同じく早稲田大学教授を務めた西村朝日太郎[2]、なお朝日太郎の名前は、眞次がかつて勤務していた朝日新聞社に因んで名付けられた[2]。主著
- 『美文韻文創作要訣』(文武堂、1900年)
- 『新撰作文問答』(博文館、1904年)
- 『和歌ト俳句』(博文館、1910年)
- 『新美辞宝典』(富山房、1915年)
- 『新国史観努力の跡』(富山房、1916年)
- 『安土桃山時代』(早稲田大学出版部、1922年)
- 『鳴く虫の観察』(弥円書房、1924年)
- 『発明発見物語』(アルス、1927年)
- 『民俗断篇』(磯部甲陽堂、1927年)
- 『人類学汎論』(東京堂、1929年) - 博士論文[6]
- 『世界古代文化史』(東京堂、1931年)
- 『日本民族理想』(東京堂、1934年)
- 『置賜盆地の古代文化』(1938年)
- 『民族と生活』(人文書院、1939年)
- 『技術進化史』(科学知識普及会、1940年)
- 『原始人から文明人へ』(アルス、1941年)
- 『日本文化論考』(厚生閣、1941年)
- 『大東亜共栄圏』(博文館、1942年)
- 『日本海外発展史』(東京堂、1942年)
- 『歴史と文芸』(人文書院、1942年)
- 『日本人はどれだけの事をしてきたか』(新潮社、1943年)
- 『万葉集の文化史的研究』(東京堂、1947年)
脚注
- ^ a b c d 20世紀日本人名事典『西村 真次』 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 日本の人類学者25.西村真次(Shinji NISHIMURA)[1879-1943]人類学のすすめ 生物考古学の世界
- ^ a b c d e f g h i 臼井勝美他編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年7月、p.792
- ^ 山路勝彦編著『日本の人類学 植民地主義、異文化研究、学術調査の歴史』関西学院大学出版会、2011年8月、p.457
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 早稲田史学の祖 西村眞次―秋季企画展で生涯をたどる読売新聞
- ^ a b c d e 検索結果一覧国立国会図書館サーチ
- ^ a b 山路 2011年 p.186
- ^ a b c d e f g 早稲田の考古学早稲田大学公式サイト
- ^ 環太平洋の縄文人栗田盛一
- ^ 平井古墳府中ニュース速報 歴史講座13
- ^ a b c d 文化移動論(西村眞次著 エルノス出版)史學 書評欄
- ^ a b c d e f g 国民の日本史 大和時代(西村眞次著 早稲田大学出版部)史學 書評欄