マドンナ (歌手)
マドンナ | |
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基本情報 | |
出生名 | マドンナ・ルイーズ・チッコーネ[1] |
生誕 | 1958年8月16日(65歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 ミシガン州ベイシティ |
学歴 | ミシガン大学中退 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1979年 - |
レーベル | |
共同作業者 | ブレックファスト・クラブ |
公式サイト | マドンナ公式サイト |
マドンナ・ルイーズ・チッコーネ︵英語: Madonna Louise Ciccone、1958年8月16日 - ︶は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、女優。ミシガン州ベイシティ出身。世界で最も成功を収めた女性音楽家であり、史上最も売れたアーティストの1人。﹁クイーン・オブ・ポップ﹂と称される。堅信名はヴェロニカ︵英語: Veronica︶[7]。
略歴[編集]
1980年代前半にニューヨークの盛り場からデビューを果たし、ミュージック・ビデオという新たな表現方法を存分に取り入れた革新的なダンス音楽と、過激で性的な写象で国内外で爆発的な人気を獲得した。その後は時代に合わせて自身のスタイルを次々と変化させてゆき、現在に至るまでポップ・ミュージック界の重鎮として存在感を示している。後年の活動は音楽に留まらず、音楽出版会社の設立や、映画や舞台への出演、児童書の執筆や映画監督なども行っている。 作品の売上枚数は2億7000万[8]から3億枚以上[9][10]とされ、﹃ギネス世界記録﹄において﹁全世界で最も売れた女性レコーディング・アーティスト﹂そして﹁史上最も成功した女性アーティスト﹂として認定されている[11] [12]。米国タイム誌の﹁過去1世紀で最も影響力を持つ25人の女性﹂に選出[13]。また、VH1﹁音楽界で最も偉大な女性アーティスト﹂で第1位 [14]、ローリング・ストーン誌﹁ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト﹂で第36位[15]、ビルボード誌﹁チャート史上最も成功したトップ100のアーティスト﹂で第2位[16]を獲得。2008年にはロックの殿堂入りを果たしている。VMAで20の賞を受賞している[17]。 代表曲に﹁ホリデイ﹂﹁ラッキー・スター﹂﹁ボーダーライン﹂﹁ライク・ア・ヴァージン﹂﹁マテリアル・ガール﹂﹁クレイジー・フォー・ユー﹂﹁イントゥ・ザ・グルーヴ﹂﹁パパ・ドント・プリーチ﹂﹁オープン・ユア・ハート﹂﹁ラ・イスラ・ボニータ﹂﹁ライク・ア・プレイヤー﹂﹁エクスプレス・ユアセルフ﹂﹁ヴォーグ﹂﹁ジャスティファイ・マイ・ラヴ﹂﹁エロティカ﹂﹁テイク・ア・バウ﹂﹁フローズン﹂﹁レイ・オブ・ライト﹂﹁MUSIC﹂﹁ドント・テル・ミー﹂﹁ダイ・アナザー・デイ﹂﹁アメリカン・ライフ﹂﹁ハング・アップ﹂など多数のヒット曲を持つ。生い立ち[編集]
1958年[18]8月16日、母の実家のあるアメリカ合衆国ミシガン州ベイシティのマーシー病院にて、8人兄妹の3番目として誕生。 父はイタリア系アメリカ人1世のシルビオ・チッコーネ︵1931〜︶、母はフランス系カナダ人のマドンナ・ルイーズ・チッコーネ︵1933〜63︶。幼少期を同州ポンティアック市で過ごした後、家族が増えたことにより同州ローチェスターヒルズ市へ転居した。 父は、ゼネラルモーターズのデザインエンジニア。実母は、マドンナが5歳の時乳癌で死去し、父はほどなく再婚した。母の死や、父および継母との確執は彼女の心に大きな影響を及ぼし、﹁プロミス・トゥ・トライ﹂﹁オー・ファーザー﹂などの楽曲で歌われている。一方で弟や妹の面倒もよく見ていた。習い事を幼い頃からしており、最初はピアノを習っていたが、父親にバレエを習いたいと懇願し、変えてもらった。その後、モダンダンスやジャズダンスなどのダンスも習っている。 ミシガン大学に進学したが中退し、1978年、35ドルを持ってグレイハウンドの長距離バスで郷里を後にニューヨークへ出発した。ニューヨーク到着後、タクシーの運転手にこの街で一番大きな場所へ行ってと言い、タイムズスクエアで降りたマドンナは﹁私はこの世界で神よりも有名になる﹂︵神様と同じぐらい有名になるまで、私は幸せではない︶と誓った。無名時代には生活のためにヌード・モデルを引き受けたりもしている。なお、ベジタリアンとなったのは、ニューヨーク移住後である。 同年、ニューヨークで、﹃パトリック・エルナンデス・レビュー﹄にダンサーとして出演。他にも数々の職に就く。この頃出演していた成人映画が有名になってからビデオで発売された。81年にソロとなり、ポップ・スターを目指すようになった[18]。83年から84年にかけては、黒人ミュージシャンのレジー・ルーカス[19]の制作によるファースト・アルバムから﹁ホリデイ﹂﹁ボーダーライン﹂﹁ラッキー・スター﹂が連続ヒットとなった。ファーストは、ソウル、ダンスのファンからも評価された。セカンド・アルバム﹃ライク・ア・ヴァージン﹄からもヒットが出たが、セカンド以降はポップス・ファンによる人気に支えられたスターになり、21世紀にいたっている。 2回の結婚歴と離婚歴があり、最初の結婚相手は俳優のショーン・ペンで、その後の再婚相手は映画監督のガイ・リッチー。マドンナはカバラ教徒だったが、ガイ・リッチーはクリスチャンであり、離婚時にはガイ・リッチーに、マドンナ側が推定7600万〜9200万ドル︵約60億〜72億円︶を支払っている[20]。1996年10月14日に生まれた長女は﹁ルルド︵英語読みでローデス︶・マリア﹂と命名された。21世紀には、コンサートの高額な入場料も話題になった。歌手活動の経歴[編集]
詳細は「マドンナの歌手活動の歴史」を参照
人物[編集]
世界的に有名なポップ・スターであるマドンナは、たびたびマス・メディアに取り上げられている。2018年にも、マンハッタンの判事から、ニューヨークの近隣住民に対するハラスメントをやめるよう命令されたり、元モデルのアマンダからセクシャル・ハラスメントで非難されるなどの報道があった[21]。
2006年の﹁コンフェッションズ・ツアー﹂の中で、マドンナは高さ6メートルの巨大十字架に自ら磔︵はりつけ︶となり1986年の大ヒット曲﹁リヴ・トゥ・テル﹂を歌う演出が世界中の宗教団体から非難を浴びた。ヨーロッパ・ツアーの一環としてイタリア・ローマ公演の際、公演前からカトリック教会やイスラム教やユダヤ教指導者からの非難の声が続出。﹁無礼で悪趣味、かつ挑発的﹂、﹁神への冒涜に近い﹂とカトリック聖職者らは非難。更には、﹁国に帰ったほうがいい﹂とイスラム教やユダヤ教の指導者からも非難の声が出た。そんな中、8月6日のローマ公演での十字架パフォーマンスが非難を浴びる中で実施された。マドンナは、ローマ教皇ベネディクト16世を招待し、怒りを刺激。カトリック教会の中心地であるバチカン市国からわずか1.6キロ離れたスタディオ・オリンピコに来た約7万人の観客は十字架に磔になったマドンナを見ることができた。
Tribeca Film Festivalにて︵2008年4月︶
2008年1月、米経済誌フォーブス誌電子版が﹁2007年6月まで1年間で最も収入の多かった女性シンガー﹂のランキングを発表し、収入が7200万ドル (日本円で約76億円) で1位にランクインした[26]。
2009年4月、フォーブス誌は2008年度の﹁働き者のママ﹂のランキングを発表し、マドンナは2008年の推定収入が1億1,000万ドル︵日本円で約110億円︶で1位にランクインした。この収入はアルバム﹁ハードキャンディ﹂の売り上げとコンサートツアー、広告出演料などによるものである[27][28]。
2009年10月、サン紙によると23歳のボーイフレンドのジェズス・ルスに不動産を買い与えるため物件を探しているという。不動産の条件は、ニューヨークのマドンナの豪邸から徒歩でいけることと、予算の170万ポンド︵日本円で約2億5000万円︶以内の物件であることらしく全額をマドンナが負担する[29]。
2009年11月、カートゥーン・ネットワークが﹁未来のイギリスのトップセレブ﹂のランキングを発表し、マドンナとガイ・リッチーの息子のロッコ・リッチーがスター性、推定相続額、才能、カメラ好き度の4つのカテゴリーすべてで満点を獲得し、1位にランクインした。このランキングはセレブの子どもたちの20年後の総資産額を推定して作られたものでロッコが30歳になったときの総資産額は推定3億7600万ポンド︵約560億円︶になる。セレブ専門家のマーク・フリスは﹁ロッコは母親から巨額を相続し、父親からもかなりの額を相続します。しかし、彼が1位に輝いたのは他の3つのカテゴリーでのランキングによるものです﹂と語っている[30]。
2009年12月、BANG Media Internationalによると、ニューヨーク州のハンプトン近郊に広さ30エーカー︵約36000坪︶のワイルド・オーシャン・ファーム・ランチという馬の牧場をカルバン・クラインの元妻ケリーから600万ポンド (日本円で約8億3000万円) で購入した。ワイルド・オーシャン・ファームは現在、品評会用の馬を訓練するために使われており、今後も馬用施設として営業することを条件にマドンナは購入を許された。ある関係者は﹁彼女は牧場が自分のものになったことを大喜びしています﹂と語っている[31]。
2010年12月、経済誌フォーブス誌が﹁エンターテインメント業界で最も稼いだ人物﹂を発表し、5,800万ドル︵日本円で約47億5,600万円︶を稼いで15位にランクインした[32]。
慈善活動[編集]
2009年4月、デイリー・メール紙の電子版によると、イタリア中部で起きた地震の被災者に50万ドル︵日本円で約5,000万円︶を寄付した。マドンナの父はイタリア系で地震が直撃したアブルッツォ地方の出身であり、インタビューで﹁わたしの祖先の街に喜んで援助の手を差し伸べるわ﹂と語っている[22]。 2009年11月、ブラジルに滞在中にリッチなビジネスマンや政治家と会っていたマドンナが、ブラジルで総資産額75億ドル︵約6,750億円︶で最もリッチな男と言われているエイク・バチスタから700万ドル︵約6億3000万円︶を寄付してもらうことになり、ブラジルに新しい子ども用のチャリティーを創設することになったという。年下の恋人ジェズスの両親に会いにいくための旅行とも報じられていたが、﹁今回のブラジル行きは資金集めと人道支援以外の目的はありません﹂とマドンナはコメントしている[23]。 2010年1月、デイリー・ビーストのホームページが﹁2009年度に最も寄付金を集めたアーティスト﹂のランキングを発表し、マドンナはレイジング・マラウイ基金のために550万1,835ドル︵約5億円︶を集めて2位にランクインした[24]。 2013年、フランスの画家フェルナン・レジェの作品を所有していたマドンナは、その絵画をサザビーズのオークションに出品、落札価格である 716万5,000ドルをアフガニスタンをはじめとする地域の子供たちの教育を支援する非営利団体に寄付している[25]。資産[編集]
ディスコグラフィ[編集]
詳細は「マドンナのディスコグラフィ」を参照
スタジオ・アルバム[編集]
- 『バーニング・アップ』 - Madonna(1983年)
- 『ライク・ア・ヴァージン』 - Like a Virgin(1984年)
- 『トゥルー・ブルー』 - True Blue(1986年)
- 『ライク・ア・プレイヤー』 - Like a Prayer(1989年)
- 『エロティカ』 - Erotica(1992年)
- 『ベッドタイム・ストーリーズ』 - Bedtime Stories(1994年)
- 『レイ・オブ・ライト』 - Ray of Light(1998年)
- 『ミュージック』 - Music(2000年)
- 『アメリカン・ライフ』 - American Life (2003年)
- 『コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア』 - Confessions on a Dance Floor(2005年)
- 『ハード・キャンディー』 - Hard Candy(2008年)
- 『MDNA』 - MDNA(2012年)
- 『レベル・ハート』 - Rebel Heart (2015年)
- 『マダムX』 - Madame X(2019年)
ライブ[編集]
マドンナは、アルバム発売後にワールド・ツアーを行なうことがほとんどで、2001年の﹁ドラウンド・ワールド・ツアー﹂は、1993年の﹁ザ・ガーリー・ショウ・ツアー﹂から8年後に行われた。1994年にリリースされたアルバム﹃ベッドタイム・ストーリーズ﹄の後にもツアーが予定されていたが、映画﹃エビータ﹄の主演が決定したために中止されたという。2004年の﹁リ・インヴェンション・ツアー﹂では、10枚目のアルバム﹃アメリカン・ライフ﹄からの楽曲のほかに、過去の楽曲も組み込まれた。
毎回、巨大セットにも注目が集まる。代表的なものとしては、1990年の﹁ブロンド・アンビション・ツアー﹂のオープニングで登場した工場をモデルにしたセット、2006年の﹁コンフェッションズ・ツアー﹂での2億円をかけたミラーボールと高さ6メートルの十字架などがある。
ドイツ・ベルリン公演 (2015年11月)
﹃ドラウンド・ワールド・ツアー﹄から、マドンナはダンスのほかにギターを使用したステージも披露している。
★エレクトリック・ギター
●バーニング・アップ︵リ・インヴェンション・ツアー、レベル・ハート・ツアー︶
●レイ・オブ・ライト︵コンフェッションズ・ツアー、スティッキー&スウィート・ツアー︶
●キャンディ・パフューム・ガール︵ドラウンド・ワールド・ツアー︶
●マテリアル・ガール︵リ・インヴェンション・ツアー︶
●アイ・ラヴ・ニューヨーク︵コンフェッションズ・ツアー︶
●ヒューマン・ネイチャー︵スティッキー&スウィート・ツアー︶
●ボーダーライン︵スティッキー&スウィート・ツアー︶
●ハング・アップ︵スティッキー&スウィート・ツアー︶
●アイ・ドント・ギヴ・ア ︵MDNAツアー)
●ターン・アップ・ザ・ラジオ︵MDNAツアー︶
●アイム・ア・シナー︵MDNAツアー︶
フランス・パリ公演 (2015年12月)
★アコースティック・ギター
●アイ・ディザーブ・イット︵ドラウンド・ワールド・ツアー︶
●シークレット︵ドラウンド・ワールド・ツアー︶
●ラ・イスラ・ボニータ︵ドラウンド・ワールド・ツアー︶
●ナッシング・フェイルズ︵リ・インヴェンション・ツアー︶
●マザー・アンド・ファザー︵リ・インヴェンション・ツアー︶
●パラダイス (ノット・フォー・ミー)︵コンフェッションズ・ツアー︶
●マイルズ・アウェイ︵スティッキー&スウィート・ツアー︶
●レベル・ハート︵レベル・ハート・ツアー︶
ツアー日程[編集]
●1985年﹁ザ・ヴァージン・ツアー﹂︵4月10日~6月11日 全40公演︶ ●︵アメリカ/カナダ︶ ●1987年﹁フーズ・ザット・ガール・ツアー﹂︵6月14日~9月6日 全41公演︶ ●︵日本/アメリカ/カナダ/イギリス/ドイツ/オランダ/フランス/イタリア︶ ●日本では同じ年にツアーを行ったマイケル・ジャクソンと合わせ﹁M・M旋風﹂と呼ばれた。 ●1990年﹁ブロンド・アンビション・ツアー﹂︵4月13日~8月5日 全57公演︶ ●︵日本/アメリカ/カナダ/スウェーデン/フランス/イタリア/ドイツ/イギリス/オランダ/スペイン︶ ●1993年﹁ザ・ガーリー・ショウ・ツアー﹂︵9月25日~12月19日 全39公演︶ ●(イギリス/フランス/イスラエル/トルコ/カナダ/アメリカ/プエルトリコ/アルゼンチン/ブラジル/メキシコ/オーストラリア/日本) ●2001年﹁ドラウンド・ワールド・ツアー﹂︵6月9日~9月15日 全47公演︶ ●︵スペイン/イタリア/ドイツ/フランス/イギリス/アメリカ︶ ●2004年﹁リ・インヴェンション・ツアー﹂︵5月24日~9月14日 全56公演︶ ●︵アメリカ/カナダ/イギリス/アイルランド/フランス/オランダ/ポルトガル︶ ●2006年﹁コンフェッションズ・ツアー﹂︵5月21日~9月21日 全60公演︶ ●︵アメリカ/カナダ/イギリス/イタリア/ドイツ/デンマーク/フランス/オランダ/チェコ/ロシア/日本︶ ●2008~2009年﹁スティッキー&スウィート・ツアー﹂ ●2012年﹁MDNAツアー﹂︵5月31日~12月22日 全88公演︶ ●2015~2016年﹁レベル・ハート・ツアー﹂︵2015年9月9日~2016年3月27日 全81公演︶ ●2019~2020年﹁マダムXツアー﹂︵2019年9月17日~2020年3月8日 全75公演︶ ●2023〜2024年﹁ザ・セレブレーション・ツアー﹂︵2023年10月14日〜2024年4月 全78公演予定︶日本公演[編集]
●1987年﹁フーズ・ザット・ガール・ツアー﹂ ●6月14︵ツアー初日公演︶・15日、大阪スタヂアム ●6月21・22日、後楽園球場 ●東京公演初日6月20日の後楽園球場は雨天により中止となった。 ●1990年﹁ブロンド・アンビション・ツアー﹂ ●4月13︵ツアー初日公演︶~15日千葉マリンスタジアム︵杮落とし︶、4月20~22日 阪急西宮球場、4月25~27日 横浜スタジアム ●1993年﹁ザ・ガーリー・ショウ・ツアー﹂ ●12月7~9日、福岡ドーム ●12月13・14・16・17・19日︵ツアー最終公演︶、東京ドーム ●2005年 ﹃コンフェッションズ・オン・ア・ダンス・フロア﹄プロモーションライブ ●12月7日、新木場STUDIO COAST ●2006年﹁コンフェッションズ・ツアー﹂ ●9月16日・17日︵追加公演︶、京セラドーム大阪 ●9月20日・21日 (追加公演・ツアー最終公演) 、東京ドーム ●2016年﹁レベル・ハート・ツアー﹂ ●2月13日・14日︵追加公演︶、さいたまスーパーアリーナ[33]チャリティ・ライヴへの出演[編集]
1985年﹁ライヴ・エイド﹂[編集]
●ホリデイ ●イントゥ・ザ・グルーヴ ●ラブ・メイクス・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド マドンナは、アメリカのフィラデルフィアにあるJFKスタジアムからの出演となった。﹁ラブ・メイクス・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド﹂はこのライヴ・エイドのために制作された楽曲で、後に3rdアルバム﹃トゥルー・ブルー﹄に収録された。2005年﹁ツナミ・エイド‥ア・コンサート・オブ・ホープ﹂[編集]
●イマジン 2004年12月下旬にスマトラ島沖地震により発生した津波で被害を受けた被災地を救うために放送された番組にマドンナはロンドンのスタジオから出演。前年に行なった自身のツアーでも披露した﹁イマジン﹂を歌唱。2005年﹁ライヴ8﹂[編集]
●ライク・ア・プレイヤー ●レイ・オブ・ライト ●MUSIC 最大のチャリティ・ライヴ。マドンナはロンドンのハイド・パークから出演。聖歌隊やダンサーを従え、自身の代表曲を歌唱した。﹁Like A Prayer ライク・ア・プレイヤー﹂では飢餓によって危険な状態だったとこから奇跡的に助かった女の子が登場し、マドンナと手をつないで歌った。2007年﹁ライヴ・アース﹂[編集]
●ヘイ・ユー ●レイ・オブ・ライト ●ラ・イスラ・ボニータ ●ハング・アップ 地球温暖化の問題を訴えかけるために開催された﹁ライヴ・アース﹂にマドンナはロンドンのウェンブリー・スタジアムから出演。﹁ヘイ・ユー﹂は、このライヴのために制作されたチャリティソングで、ダウンロードのみでの公開となった。﹁ラ・イスラ・ボニータ﹂ではニューヨークのバンド、ユージン・ハッツとのコラボが実現。﹁レラ・パラ・トゥーテ﹂という曲をミックスさせたアレンジで披露した。2010年﹁ホープ・フォー・ハイチ・ナウ﹂[編集]
●ライク・ア・プレイヤー ハイチ大地震の救済のために放送されたチャリティ番組で、マドンナは聖歌隊をバックにアコースティックヴァージョンを披露した。使用機材[編集]
ギター[編集]
共演[編集]
2001年﹃ドラウンド・ワールド・ツアー﹄を機に、大型スクリーンが使用されており、マドンナはゲストと豪華競演を果たしている。 ●マイク・マイヤーズ 2001年﹃ドラウンド・ワールド・ツアー﹄の﹃ビューティフル・ストレンジャー﹄の冒頭で一瞬だけ共演。マドンナとマイク・マイヤーズは同曲のPVでも共演を果たしている。 ●ミッシー・エリオット 2004年﹃リ・インヴェンション・ツアー﹄の﹃イントゥ・ザ・グルーヴ﹄で登場。マドンナとミッシーがモデルとなったGAPがきっかけに共演が実現。ラップ部分でスクリーンに登場している。デュエット[編集]
●ジャスティン・ティンバーレイク 2008年に発表されたアルバム﹃ハード・キャンディ﹄からの1枚目のシングルである﹁フォー・ミニッツ︵4 minutes︶﹂で、同曲のPVでも共演を果たしている。なお、この曲のPVには日本のダンスユニット・はむつんサーブが出演している。詳細は﹁フォー・ミニッツ﹂の項目を参照。ミュージック・ビデオ[編集]
●坂本龍一 - ﹁レイン﹂︵1993年︶映画[編集]
●堕天使 A Certain Sacrifice︵1979︶﹃マドンナin生贄﹄[注釈 1] ●ビジョン・クエスト/青春の賭け Vision Quest︵1985︶※カメオ出演 ●マドンナのスーザンを探して Desperately Seeking Susan︵1985︶ ●上海サプライズ Shanghai Surprise︵1986︶ ●フーズ・ザット・ガール Who's That Girl︵1987︶ ●ワンナイト・オブ・ブロードウェイ Bloodhounds Of Broadway︵1989︶ ●ディック・トレイシー Dick Tracy︵1990︶ ●イン・ベッド・ウィズ・マドンナ Madonna: Truth or Dare︵1991︶※ドキュメンタリー映画 ●Shadows and Fog︵1992︶※カメオ出演 ●プリティ・リーグ A League Of Their Own︵1992︶ ●BODY/ボディ Body Of Evidence︵1993︶ ●スネーク・アイズ Dangerous Game︵1993︶ ●ブルー・イン・ザ・フェイス Blue in the Face︵1995︶※カメオ出演 ●フォー・ルームス Four Rooms︵1995︶ ●ガール6 Girl 6︵1996︶ ●エビータ Evita︵1996︶ ●2番目に幸せなこと The Next Best Thing︵2000︶ ●スウェプト・アウェイ Swept Away︵2002︶ ●007 ダイ・アナザー・デイ Die Another Day︵2002︶ ●エージェント・コーディ Agent Cody Banks︵2003︶製作総指揮 ●アイム・ゴーイング・トゥ・テル・ユー・ア・シークレット I'm Going To Tell You A Secret︵2005︶※ドキュメンタリー映画 ●アーサーとミニモイの不思議な国 Arthur et les Minimoys︵2006︶声の出演 ●ワンダーラスト Filth and Wisdom︵2008︶監督 ●ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋 W.E.︵2011︶監督、主題歌映画解説[編集]
以上がマドンナが出演、または監督してきた映画である。最悪の映画を選ぶゴールデンラズベリー賞 (ラジー賞) の常連でもある。最悪主演女優賞は ﹃上海サプライズ﹄ ﹃フーズ・ザット・ガール﹄ ﹃BODY/ボディ﹄ ﹃2番目に幸せなこと﹄ ﹃スウェプト・アウェイ﹄ の5回︵﹃スウェプト・アウェイ﹄ は最悪スクリーンカップル賞も︶、これに最悪助演女優賞の ﹃フォー・ルームス﹄ ﹃007 ダイ・アナザー・デイ﹄、2000年の特別賞としての20世紀最悪主演女優賞とあわせて9回の受賞歴がある。その一方で、歌唱力を生かした﹃エビータ﹄のエバ・ペロン役ではゴールデングローブ賞の女優賞を獲得するなど、真っ当な評価を受けた。 初監督作品﹃ワンダーラスト﹄はロンドンを舞台とする群像劇で、2008年に制作・公開され、日本では2009年1月に公開された。監督第2弾作品﹃W.E.﹄は全米で2012年2月︵イギリス2012年1月︶、日本では2012年11月に﹃ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋﹄の邦題で公開された。書籍[編集]
●﹃SEX by MADONNA﹄中谷ハルナ 訳 同朋舎 1992年に発売されたヌード写真集。ヘアは無修正。 ●﹃マドンナ語録﹄︵ブルース・インターアクションズ、2006年︶絵本[編集]
●﹃イングリッシュ ローズィズ﹄︵2003年、日本語訳‥江國香織、イラスト‥ジェフリー・フルビマーリ︶ホーム社・集英社 ●﹃ピーボディ先生のりんご﹄︵2004年、日本語訳‥村山由佳︶ホーム社・集英社 ●﹃ヤコブと七人の悪党﹄︵2004年、日本語訳‥角田光代、イラスト‥ガナディ・スピリン) ホーム社・集英社 ●﹃アブディーの冒険物語﹄︵2005年、日本語訳‥小沢征良︶ホーム社・集英社 ●﹃オカネ・モッチャが見つけたしあわせ﹄︵2005年、日本語訳‥井上荒野、イラスト‥ルイ・パイシュ︶ホーム社・集英社 ●﹃イングリッシュ・ローズィズ2﹄︵2007年、日本語訳‥江國香織、イラスト‥ステイシー・ピーターソン︶ホーム社・集英社その他[編集]
2005年8月16日、イギリス・ロンドン郊外に所有する18億円の邸宅の庭で、47歳の誕生日プレゼントとして、当時の夫、ガイ・リッチーから贈られた馬に試し乗りをしていたところ落馬をし、全治3ヶ月の大怪我を負った。診断の結果、肋骨3本にひびが入り、鎖骨と手を骨折していたことが判明。すぐに病院に搬送されたが入院はせず、その日に治療を済ませて帰宅したという。医師は﹁マドンナさんは日ごろからヨガで鍛錬しているため、回復も早いだろう﹂と語っていた。マドンナは骨折をしているにもかかわらず、事故の3日後にはロンドン市内のカバラ・センターから出てくるのを目撃されたり、携帯メーカーのモトローラのCMの撮影も済ませるなど、超人並みなところを見せている。アルバム﹃Confessions On A Dance Floor﹄のプロモーションにも支障は出なく、全世界でのメディアはマドンナの驚異的な回復に驚いた。因みに、病院で撮影されたレントゲン写真8枚は、2006年﹁Confessions Tour﹂で﹁ライク・ア・ヴァージン﹂を歌っている際に、演出としてスクリーンに映し出された[35]。 同じ1958年生まれとして、プリンスやマイケル・ジャクソンがいる。 2009年12月、英デイリー・ミラー紙によると、ルイ・ヴィトンの2009年春夏コレクションに続き、秋冬コレクションの広告モデルを務めたマドンナは契約を更新されず、ルイ・ヴィトンは若いモデルを使うことを発表した。ルイ・ヴィトンがマドンナに支払った広告用のギャラは985万ドル (日本円で約8億8650万円) と言われている。ルイ・ヴィトンがマドンナの契約を更新しなかったのはモデルを若くするだけでなく、不景気を乗り切る作戦でもあるといわれている[36]。 2011年2月、Closerマガジンによると、恋人のブラヒム・ザイバットとベルリンにあるソーホーホテルに宿泊した際に1万5,000ユーロ (日本円で約165万円) を支払って、部屋の改装を要求したという。ホテルの関係者の話ではマドンナは﹁誰かが以前に使用した部屋には泊りたくない!﹂というのが持論らしく、新しいベッド、新しい照明器具、壁の塗り替えなど部屋の大改装を事前に要求していたという[37]。 マドンナの初来日を伝えるサンケイスポーツ1984年12月17日付けには﹁︵原文ママ︶"ポップス界のマリリン・モンロー"の異名をとる米の美人歌手、マドンナが︵1985年︶1月20日、プロモーションのために初来日する。マドンナはデトロイト生まれの24歳。身長164cm、体重48kg。上から85–60–85というプロポーションの持ち主。昨年のデビューアルバムは全米で300万枚も売れて一躍スターの仲間入り。その上ゴシップにもコトかかず、ニューヨークNO.1の音楽技師をはじめ、デュラン・デュランのサイモン・ル・ボン、ヴァン・ヘイレンのデイヴィッド・リー・ロスら世界的な人気ロックスターと浮名を流してきた。現在の恋人はバスケットシューズでおなじみ、コンバースの御曹司でギタリストのビリー・スクワイアとか。コケティッシュでセクシーなマドンナは自ら﹃マドンナの名にふさわしい生き方をしたいわ。シュービジネス史上でモンローのように人々の記憶に残る人間になりたい﹄と"ニュー・モンロー"宣言﹂などと書かれている[38]。また﹁ライク・ア・ヴァージン﹂の日本語カバー版が、吹田明日香の歌唱で1984年12月21日にリリースされたが、発売元のワーナー・パイオニア︵現‥ワーナーミュージック・ジャパン︶が同年12月16日に六本木のディスコ﹁ピジャマ﹂で﹁ミス・ライク・ア・ヴァージン・コンテスト﹂という宣伝イベントを開催。﹁ライク・ア・ヴァージン﹂いう言葉がアメリカでは"イイオンナ"の代名詞になっていると説明し、﹁ライク・ア・ヴァージン﹂いう言葉の浸透を目指して、全国各地でコンテストを行うと発表した。この日のコンテストでは、ミニスカートの太モモに風船をはさんでジャンプ一番パンクさせたり、バナナをくわえてお色気たっぷりにディスコダンスを踊る者がいたり、意味不明のイベントだった[38]。 来日ツアーの際に、名古屋でコンサートを行わなかった︵いわゆる名古屋飛ばし︶大物ミュージシャンの事例で、しばしば彼女が引き合いに出される。 2020年4月30日、世界的に2019新型コロナウイルスの感染が広がる中、インスタグラムに動画を投稿。ウイルスの感染歴を調べる抗体検査の結果が陽性だったと明らかにした[39]。受賞・記録[編集]
グラミー賞[編集]
1992年 ●Best Music Video,Long Form (Blond Ambition Tour) 1999年 ●Best Pop Album (Ray Of Light レイ・オブ・ライト) ●Best Short Form Music Video (Ray of Light) ●Best Recording Package for Art 2000年 ●Best Song Written for a Motion Picture (Beautiful Stranger) 2001年 ●Best Recording Package (Music) 2007年 ●Best Electronic/Dance Album (Confessions On A Dance Floor)記録[編集]
●全英シングルチャートNo.1獲得数︵女性ソロアーティスト歴代1位︶: 13作 ●全米シングルチャートTOP10獲得数︵アーティスト歴代1位︶: 37曲 ●ポップ・ミュージック史上アルバムNo.1最多獲得国数: 40ヶ国︵Confessions On A Dance Floor/2005年︶ ●ポップ・ミュージック史上シングルNo.1最多獲得国数: 43ヶ国︵Hung Up/2005年︶ ●全米アルバムチャートNo.1獲得数︵女性ソロアーティスト歴代2位︶: 7作 ●ソロ歌手の1位インターバル最長記録: 17年11ヶ月 ●3年代連続1位︵1989: Like A Prayer, 1990: I'm Breathless, 2008: Hard Candy︶ ●ツアー興行収入最高記録: 4億800万ドル︵Sticky & Sweet Tour/2008年~2009年︶ ●全米シングルチャートで最高位が1位から10位迄の楽曲を保持する、希有な記録もある。日本ゴールドディスク大賞[編集]
1986年︵第1回︶ ●日本ゴールドディスク大賞︵洋楽部門︶ ●グランプリ・アルバム賞・・・﹁トゥルー・ブルー﹂ ●アルバム賞︵ポップス・ソロ部門︶・・・﹁トゥルー・ブルー﹂ 1989年 (第4回) ●日本ゴールドディスク大賞︵洋楽部門︶ ●グランプリ・アルバム賞・・・﹁ライク・ア・プレイヤー﹂ ●アルバム賞︵ポップス・ソロ部門︶・・・﹁ライク・ア・プレイヤー﹂ 1990年︵第5回︶ ●日本ゴールドディスク大賞︵洋楽部門︶ ●グランプリ・アルバム賞・・・﹁アイム・ブレスレス﹂ ●アルバム賞︵ポップス女性部門︶・・・﹁アイム・ブレスレス﹂ 1992年︵第7回︶ ●日本ゴールドディスク大賞︵洋楽部門︶ ●アルバム賞︵ポップス部門︶・・・﹁エロティカ﹂ 2008年︵第23回︶ ●アーティスト・オブ・ザ・イヤー︵洋楽部門︶ ●﹁着うた﹂ソング・オブ・ザ・イヤー︵洋楽部門︶・・・﹁マイルズ・アウェイ﹂ ●﹁着うたフル﹂ソング・オブ・ザ・イヤー︵洋楽部門︶・・・﹁マイルズ・アウェイ﹂ ●PC配信ソング・オブ・ザ・イヤー︵洋楽部門︶・・・﹁マイルズ・アウェイ﹂ ●ザ・ベスト3アルバム・・・﹁ハード・キャンディー﹂ 実績として、アルバム﹁ハード・キャンディー﹂が31万4595枚。配信が1,005,523DLだった。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ Leonard & D'Acierno 1998, p. 492.
(二)^ abErlewine, Stephen Thomas. “Madonna Biography”. AllMusic. RhythmOne. 2020年12月7日閲覧。
(三)^ courtneyb (28 June 2023). "Pop Singer Madonna Rushed To The Hospital After A 'Bacterial Infection'". The Source. The NorthStar Group. 2024年4月21日閲覧。
(四)^ “Madonna's 100 Greatest Songs (Critics' Pick)”. Billboard (2023年8月16日). 2024年4月21日閲覧。
(五)^ Slant Staff (2023年7月26日). “Madonna’s Debut Album at 40: Every Track Ranked”. Slant Magazine. 2024年4月21日閲覧。
(六)^ Kaufman, Gil (12 January 2000). "Madonna Turns Up Electronica For Next LP, Producer Says". MTV News. MTV Networks. 2024年4月21日閲覧。
(七)^ “Libraries Australia Authorities - Madonna”. National Library of Australia. 2020年12月7日閲覧。
(八)^ “Madonna: healthy pop star admits to 'weakness' for sticky toffee pudding” (英語). (2011年9月9日). ISSN 0307-1235 2019年5月17日閲覧。
(九)^ Guibourg, Clara (2018年8月15日). “Madonna at 60: The Queen of Pop in seven charts” (英語) 2019年5月17日閲覧。
(十)^ Candice Marshall (2015年6月22日). “Madonna heading back to Australia after 23-year break” (英語). ABC News. 2019年5月17日閲覧。
(11)^ ギネス・ワールド・レコーズ/Top Selling Female Recording Artist ギネス・ワールド・レコーズ︵参照: 2011年12月19日︶
(12)^ Bowman, Edith; Sellars, Peter "BBC World Visionaries: Madonna Vs. Mozart" 英国放送協会 2007年5月26日。︵参照: 2008年5月12日︶
(13)^ Castillo, Michelle (2010-11-18). "The 25 Most Powerful Women of the Past Century: Madonna (1958–present)". Time. (参照: 2011年12月8日)
(14)^ VH1's 100 Greatest Women In Music VH1、2012年︵参照: 2012年6月7日︶
(15)^ 100 Greatest Artists of All Time Rolling Stone、2011年︵参照: 2013年8月30日︶
(16)^ Hot 100 55th Anniversary By The Numbers: Top 100 Artists Billboard、2013年︵参照: 2013年8月30日︶
(17)^ “63歳マドンナ惜しげもなくボンデージ姿披露 ﹁お尻﹂トレンド入り”. 日刊スポーツ (2021年9月13日). 2021年9月13日閲覧。
(18)^ ab“Madonna - Age, Children & Life”. Biography. A&E Television Networks (2017年4月27日). 2020年12月7日閲覧。
(19)^ グループ﹁Mトゥーメイ﹂に参加し、ジェームス・Mトゥーメイとソウルの名曲を作曲した
(20)^ “メル・ギブソン以外にもこんなにいた!ハリウッド離婚慰謝料高額ランキング”. マイナビニュース (マイナビ). (2011年12月27日) 2020年12月7日閲覧。
(21)^ “A well-known model accused Madonna of sexual harassment: She was obsessed with me”. NewsMe. (2018年7月23日) 2020年12月7日閲覧。
(22)^ “マドンナ、イタリア中部地震の被災者に寄付”. シネマトゥデイ. (2009年4月9日) 2011年9月7日閲覧。
(23)^ “マドンナ、ブラジルで最もリッチな男性から6億円の寄付を獲得”. シネマトゥデイ. (2009年11月20日) 2011年9月7日閲覧。
(24)^ “2009年に最も寄付金を集めたのは、総額約8億5000万円のジャスティン・ティンバーレイク!”. シネマトゥデイ. (2010年1月4日) 2011年9月7日閲覧。
(25)^ “54歳の歌姫はチャリティーも恋も絶好調”. ニューズウィーク日本版(2013年5月21日号). 阪急コミュニケーションズ. (2013-05-14). p. 24.
(26)^ “過去1年で最も稼いだ女性歌手、76億円でマドンナ=米誌”. ロイター (2008年1月31日). 2012年7月10日閲覧。
(27)^ “マドンナ、﹁最も働き者のママ﹂に選ばれる”. シネマトゥデイ. (2009年4月27日) 2011年7月27日閲覧。
(28)^ “ハリウッドで最も稼ぐ﹁ママ﹂はマドンナ=米誌”. ロイター (2009年4月26日). 2012年7月10日閲覧。
(29)^ “マドンナ、23歳のボーイフレンドに2.5億円のマンション買い与える?”. シネマトゥデイ. (2009年10月8日) 2011年6月15日閲覧。
(30)^ “マドンナの息子ロッコくん30歳の時の総資産額は推定560億円!未来のセレブ1位に決定!”. シネマトゥデイ (2009年11月20日). 2012年7月10日閲覧。
(31)^ “マドンナ、8億3000万円でニューヨークに馬の牧場を購入”. シネマトゥデイ (2009年12月30日). 2012年7月10日閲覧。
(32)^ “今年エンターテインメント業界で最も稼いだ人物決定!2位にジェームズ・キャメロンで約172億円!”. シネマトゥデイ (2010年12月28日). 2012年7月10日閲覧。
(33)^ マドンナ降臨!和風演出で2万人魅了10年ぶり来日公演 - オリコンスタイル
(34)^ abcde﹁Videoまにあっく ﹃またまた騒がせちゃってゴメン。裁判事件まで起こしたマドンナ18才の初主演ポルノ︵?)ついに日本上陸﹄﹂﹃シティロード﹄1985年11月号、エコー企画、75頁。
(35)^ 2006年10月号﹁日経エンタテインメント!﹂
(36)^ “マドンナ、ルイ・ヴィトンとの契約は更新されず”. シネマトゥデイ (2009年12月14日). 2012年7月10日閲覧。
(37)^ “マドンナ、ホテル宿泊に165万円で改装要求!﹁誰かが使用した部屋は泊りたくない!﹂”. シネマトゥデイ (2011年2月23日). 2012年7月10日閲覧。
(38)^ ab“マドンナが来る!ポップス界の"モンロー"/お色気競う ミニの太ももに風船はさみ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1984年12月17日)
(39)^ “米歌手マドンナさん抗体検査で陽性 ﹁あすはドライブ﹂”. 時事通信 (2020年5月1日). 2020年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月10日閲覧。
参考文献[編集]
- Leonard, George J.; D'Acierno, Pellegrino (1998). The Italian American Heritage: A Companion to Literature and Arts. Taylor & Francis. ISBN 978-0-8153-0380-0
関連項目[編集]
- 西邨マユミ - 約10年に渡り専属シェフを務めた。
- John "Jellybean" Benitez - 元恋人で、"HOLIDAY"を手掛ける。
外部リンク[編集]
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