クイーン (バンド)
クイーン | |
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基本情報 | |
原語名 | Queen |
出身地 |
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ジャンル | |
活動期間 | 1971年 - |
レーベル | |
公式サイト | クイーン公式サイト |
メンバー | |
旧メンバー |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/Queen_Logo.png/200px-Queen_Logo.png)
メンバー[編集]
メンバー全員がギター・キーボード︵ピアノ・シンセサイザー・オルガン等︶を演奏できるため、この表に当てはまらない場合も多い。詳細は、各メンバーの項目を参照のこと。メンバー[編集]
名前 | 生年月日・出身地 | 担当 | 活動期間 |
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ブライアン・メイ (英語: Brian May) |
1947年7月19日(76歳)![]() |
ギター | 1970年 - |
ロジャー・テイラー (英語: Roger Taylor) |
1949年7月26日(74歳)![]() |
ドラムス |
旧メンバー[編集]
名前 | 生年月日・出身地 | 担当 | 活動期間 |
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フレディ・マーキュリー (英語: Freddie Mercury) |
1946年9月5日 - 1991年11月24日(45歳没)![]() |
ボーカル キーボード |
1970年 - 1991年[注釈 1] |
ジョン・ディーコン (英語: John Deacon) |
1951年8月19日(72歳)![]() |
ベース | 1971年 - 1997年[注釈 2] |
音楽性[編集]
現役時代の来歴[編集]
デビューまで[編集]
クイーンの母体となったのは、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが在籍していたバンド﹁スマイル﹂であった。1969年9月、シングル﹁Earth﹂をリリースするも、まったく成功せず[14]、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退[15]。その後任として加入したのが、スタッフェルの同級生であり、バンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーであった[16]。 1970年7月12日に開催されたライブから、クイーンと名乗り始める。1971年2月には、入れ替わりを繰り返していたベーシストが、オーディションでジョン・ディーコンに固定︵正式加入したのは1971年3月1日︶[17]。公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている[18]。初期︵1973年 - 1976年︶[編集]
1973年7月13日、アルバム﹃戦慄の王女﹄で本国デビュー。リリース1週間前の7月6日には、先行シングル﹁炎のロックンロール﹂がリリースされた︵日本でのリリースは1974年︶。 本楽曲のリリース当初、母国・イギリスでは﹁ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い﹂﹁ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエス[注釈 3]の亜流﹂などとメディアから酷評され、﹁遅れてきたグラムロックバンド﹂と見られることもあった。また、彼らは、本楽曲制作からリリースまでに2年近くももたつき、レコード契約から1年以上待機させられたため、﹁リリース時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた﹂と、後にマーキュリーが回想している。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e7/QueenPerforming1977.jpg/200px-QueenPerforming1977.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/FreddieMercurySinging1977.jpg/200px-FreddieMercurySinging1977.jpg)
中期︵1977年 - 1981年︶[編集]
1977年10月28日、再びセルフプロデュースで臨んだ6thアルバム﹃世界に捧ぐ﹄をリリース。パンク・ロックが流行しつつあった当時の音楽シーンの流れを汲んだ本アルバムは、音楽的にはシンプルな方向へ向かい、トレードマークの一つであったコーラスパートの全くない楽曲︵﹁永遠の翼﹂など︶も収録された。日本とイギリスでは4位止まりだったが、﹁伝説のチャンピオン﹂や﹁ウィ・ウィル・ロック・ユー﹂がヒットしたアメリカでは、これまでの最高位である3位を記録。また、ヨーロッパの中で唯一クイーンが苦手としていたフランスでは、﹁ウィ・ウィル・ロック・ユー﹂が12週連続1位となり、13週目には﹁伝説のチャンピオン﹂が1位となった。 1978年、ヨーロッパ9ヶ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも開催し、成功を収めた。 同年11月10日、7thアルバム﹃ジャズ﹄をリリース。再びプロデューサーにロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。﹁バイシクル・レース﹂のプロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとビデオは物議を醸し、その影響もあり、本アルバムのリリース直後には、マスコミの批判に晒されたが、全英2位・全米6位の大ヒットとなった[24]。また同年、カナダを皮切りに、北米ツアーを開催。マーキュリーは、ステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した。 1979年には、ヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで、話題を呼んだ。また、マーキュリーがバレエ好きであったことから、国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティー特別公演に出演し、マーキュリー自身もバレエを踊った。カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開催。さらに、マーキュリー作の﹁愛という名の欲望﹂が、バンド初となる全米1位を獲得するなど、アメリカをはじめ、世界で好成績を収め、ライブ・アルバム﹃ライヴ・キラーズ﹄で、1970年代を締めくくった。 1980年6月30日、8thアルバム﹃ザ・ゲーム﹄をリリース。全英・全米ともに1位を記録した。エルヴィス・プレスリーを彷彿とさせるロカビリー風の﹁愛という名の欲望﹂が、アメリカを中心に大ヒットした。また、ディーコン作の﹁地獄へ道づれ﹂は、全米1位を記録し、バンド最大のヒット曲となった。もともとマイケル・ジャクソンのために書かれた本楽曲は、彼の前作﹃オフ・ザ・ウォール﹄を意識したソウルやファンクの曲となっており、アメリカのブラックミュージックのチャートでも、上位にランクインしている。 また、本アルバムから、これまで頑なに使用を拒んできたシンセサイザーが導入された[25]。これは、本アルバム制作途中に映画﹃フラッシュ・ゴードン﹄のサウンドトラックの録音が挟まったことが大きな要因となっている。 1981年、初の南米進出を果たす。最初のブエノスアイレスでのライブをはじめ、サンパウロではたった2日で観客動員数の記録を更新するなど、各地で大成功を収めた。 同年10月、南米でのツアーを終えたメンバーはデヴィッド・ボウイとの共作﹁アンダー・プレッシャー﹂をリリース。イギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど、世界的にヒットした[26]。なお、ボウイとはスイスでのレコーディング中に親交を深めていたという。 さらに11月2日、初のベスト・アルバム﹃グレイテスト・ヒッツ﹄をリリース。クイーンのキャリア前期を総括する本アルバムは現在、イギリス史上最も売れたアルバムとなっている。後期︵1982年 - 1987年︶[編集]
1982年5月21日、10thアルバム﹃ホット・スペース﹄をリリース。﹁地獄へ道づれ﹂の成功を受け、マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンス・ミュージックの要素を徹底的に突き詰めた内容となった。しかし、この大きな方向転換は、ファンや評論家から強い反発を受け、従来のアルバムに比べて、売上は振るわなかった。 1983年、バンドの活動を休止し、各自ソロ活動に専念した。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/41/Queen_1984_012.jpg/200px-Queen_1984_012.jpg)
末期︵1987年 - 1991年︶[編集]
﹁マジック・ツアー﹂の成功以来、再びメンバーは、ソロ活動に専念しはじめた。この頃は、ライブ後のパーティーにて、レズビアン・ショーや、約10人のダンサーによるストリップ・ショーがしきりに行われ、マーキュリーの誕生パーティーでは、総額20万ポンド︵当時約8千万円︶が浪費されたという[28]。 1988年1月には、スタジオに再集結し、アルバム制作を開始。1989年5月22日、13thアルバム﹃ザ・ミラクル﹄をリリース。先行シングル﹁アイ・ウォント・イット・オール﹂共々、イギリスやヨーロッパ各国で大ヒットを記録し、人気が健在であることを証明した。しかし、ツアーの開催について、マーキュリーはあっさり否定した。以前からマーキュリーには、﹁エイズに感染しているのではないか﹂との噂が飛び交っていたが、当時、本人はこれを否定し続けていた。実際には、マーキュリーがエイズに感染していることは1987年頃に判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた。 1991年1月30日、14thアルバム﹃イニュエンドウ﹄をリリース。音楽的には、やや原点回帰志向がみられ、ブリティッシュ・ロックバンドとしての自覚が垣間見える作品となった。全英1位を獲得した表題曲﹁イニュエンドウ﹂では、イエスのスティーヴ・ハウが参加し、間奏部分でフラメンコギターのソロを披露した。バンドのスタジオ・アルバムで、メンバー以外の人物がギターを演奏したのはこれが最初で最後である。続く﹁ショウ・マスト・ゴー・オン﹂も、全仏2位と大健闘した。しかし、この頃すでに、マーキュリーの体は病魔に侵されていたという。また、本アルバム収録の﹁輝ける日々﹂は、マーキュリーの生前最後のミュージックビデオ出演となり、マーキュリーが見る影もなくやせ衰えていることがわかる。 同年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表している。 私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。 そして翌日11月24日、フレディ・マーキュリーは、HIVによる免疫不全が原因で引き起こされたニューモシスチス肺炎により、45歳という若さで死去した。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。葬儀会場は、世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。マーキュリーの死後、バンドのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは﹁ボヘミアン・ラプソディ﹂が、イギリス史上初となる同一曲での2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により、初登場1位を獲得した作品の収益金は、すべてエイズ基金に寄付された。 1992年、バルセロナオリンピックの開会式で、オペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死により、ホセ・カレーラスが代役を務めた。マーキュリーの死後の活動[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/We_Will_Rock_You_%28musical_Tokyo%29.jpg/200px-We_Will_Rock_You_%28musical_Tokyo%29.jpg)
フレディ・マーキュリー追悼コンサート︵1992年︶[編集]
マーキュリーの死の翌年1992年4月20日に、マーキュリーの追悼コンサートが開催された。コンサートの開催は2月12日に発表され、出演者は未定であったにもかかわらずチケットは2時間で完売した。コンサートにはロバート・プラント、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、メタリカといった大物アーティストが集結し、会場となったウェンブリー・スタジアムには7万人を超えるファンが集まった。世界でも生中継され、元祖クイーン大国・日本でも、NHKでクイーンの歴史を紹介するVTRと共にライブの様子が放送された。
メイド・イン・ヘヴン(1995年)[編集]
マーキュリーの死から4年後、マーキュリーが生前に残した録音を基にした実質的な最終アルバム『メイド・イン・ヘヴン』が発売された。「ヘヴン・フォー・エヴリワン」や「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」などの各メンバーのソロ曲のリメイク版と、「マザー・ラヴ」や「イッツ・ア・ビューティフル・デイ」などの新曲を合わせた11曲が収録されている。ディーコンは、1997年の「ノー・ワン・バット・ユー」のリリースを最後に、クイーンとしての活動には一切参加しなくなった。2004年にはテイラーが「ジョンは事実上引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン + ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。しかし、2002年のエリザベス2世女王即位50周年記念コンサート以降も、メイとテイラーの2人は「クイーン」名義で出演しているため、最低この2人のメンバーが揃うと「クイーン」のバンド名が使えると解釈しうる。最近のインタビューによると、ディーコンは荒波の音楽業界を嫌い、家族と共に暮らしているとのこと。メイとテイラーがイベントに誘ってもディーコンは一切参加しようとしないが、「彼は今でもクイーンの一員だよ」と2人は述べている。
クイーン + ポール・ロジャース(2004年 - 2009年)[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/2005_Queen_%2B_Paul_Rodgers.jpg/200px-2005_Queen_%2B_Paul_Rodgers.jpg)
過渡期︵2010年 - 2012年︶[編集]
この時期、クイーンとしての表立った活動はなかったが、メイとテイラーの2人によってバンドは存続しており、日刊スポーツの取材に対してテイラーは﹁クイーンは永久に続ける﹂と誓っている[34]。この間、メイは、イギリスの女性ミュージカル歌手であるケリー・エリスとアルバムを制作したり、全英ツアーを行ったりと相変わらず積極的な音楽活動を続けている。 2009年、メイとテイラーがアメリカのオーディション番組﹃アメリカン・アイドル﹄にゲスト出演。シーズン8の結果発表の前にふたりの演奏で、最終候補者のクリス・アレンとアダム・ランバートが﹁伝説のチャンピオン﹂を熱唱した。メイとテイラーはランバートのボーカルに惚れこみ、その場でクイーンへの参加を打診したと伝えられている。その件に関してその気があるのかとAP通信がランバートに聞いたところ、﹁それは難しい質問だね。だって、正直クイーンにならないかっていう申し出をどう断ったらいいんだ?そんなの信じられないよ!でも、今、自分でやりたいこともあって、それが僕の目標でもあるんだ。だから、できることなら両方やってみたいね﹂と述べている。 バンドの結成から約40年が経過した2010年5月7日、メイとテイラーはレコードレーベル・EMIを辞めることを発表した。8月20日、クイーンのマネージャーであるジム・ビーチは、バンドがユニバーサルミュージックと新しい契約を結んだことを示すニュースレターを発行した。9月22日、BBCでのHARDtalkのインタビューにおいて、5月はバンドのニューディールがユニバーサルミュージックグループの子会社であるアイランド・レコードとのものであることを確認した。ただし、ハリウッド・レコード がアメリカとカナダではグループのレーベルとして残った。そのため、1980年代後半以来初めて、ユニバーサルがアイランドとハリウッドの両方のレーベルに配布するようになり、クイーンのカタログは世界中で同じ配布者になった。︵1980年代後半、クイーンはEMIが所有するキャピトル・レコードに掲載されていた︶ さらに2011年、クイーンがMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでグローバル・アイコン賞を受賞。メイとテイラーはアダム・ランバートと再共演を果たし、﹁ショウ・マスト・ゴー・オン﹂﹁ウィ・ウィル・ロック・ユー﹂﹁伝説のチャンピオン﹂の3曲をメドレーで披露した。この3年後、アダムは正式にクイーンに加入し、現在に至るまで活動を続けることになる。 また同年、クイーン結成40周年を記念して、全オリジナル作品をボブ・ラドウィックがリマスターしてリリースした。まだ3分の1ほどしかリリースされていない7月の時点で、56億7600万円以上もの売上を記録し、改めて未だ人気が衰えていないことを証明した。 さらに同年、メイは世界的なポップスターであるレディー・ガガの楽曲﹁ユー・アンド・アイ﹂にて、バックボーカルとリードギターを担当[35]。本楽曲は、彼女の3rdアルバム﹃ボーン・ディス・ウェイ﹄に収録され、シングルカットされて大ヒットを記録した。﹁2011 MTV Video Music Awards﹂では、男装したガガとメイがステージ上で本楽曲を披露し、ガガの受賞が発表された際には2人が抱擁する場面が映し出された。この共演をきっかけにガガの実力を確信したメイは、NMEのインタビューでクイーンの新ボーカル候補として彼女の名前を挙げている。この提案には、熱烈なクイーンファンであるガガの方も乗り気なようで、近いうちにガガがクイーンのメンバーに加入する可能性が示唆された。 しかし唯一無二のボーカリスト・マーキュリーの存在は大きく、抜群の歌唱力を誇るポールが加入した時でさえファンから複雑な反応を受けたため、メイは﹁テレビの特番でいろんなアーティストをボーカルに迎えて演奏してみたい﹂と付け加えており、新ボーカリスト選びには慎重な姿勢を見せていた。一方、テイラーは2012年に一般応募から選考した若い才能のある歌手を迎えて、クイーンのトリビュートツアー﹁クイーン・エクストラヴァガンザ﹂を北米で行った。 同年8月12日、ロンドンオリンピック閉会式にジェシー・Jと出演した。クイーン + アダム・ランバート(2012年 - )[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/AdamLambert-Queen_7-1-14_SJ.jpg/200px-AdamLambert-Queen_7-1-14_SJ.jpg)
映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年 - 2019年)[編集]
関連人物[編集]
交友のあった音楽家[編集]
エルトン・ジョン イギリスを代表するアーティストで、クイーンとは同期。かつて、クイーンと同じくジョン・リードからマネジメントを受けていた。マーキュリーの死後、長年バンドとしての活動を行っていなかったクイーンを、ジョンは﹁車庫に入ったフェラーリ﹂と評した。1992年のフレディ・マーキュリー追悼コンサートでは﹁ボヘミアン・ラプソディ﹂を、1997年には﹁ショウ・マスト・ゴー・オン﹂をクイーンと演奏した。この﹁ショウ・マスト・ゴー・オン﹂をジョンは気に入っており、自身のライブで度々カバーしている。 マイケル・ジャクソン 史上最も成功したエンターテイナー[37]。クイーンの初期の頃からのファンであり、度々ライブを見に来ていたことから、メンバーとの交友が始まった。1980年前後から互いの声質や衣装、音楽性に影響が見られる。 クイーンの代表曲の一つ﹁地獄へ道づれ﹂は、もともとジャクソンに提供した曲であった。ジャクソンはこれを気に入っていたが、プロデューサーのクインシー・ジョーンズが難色を示したため、結局クイーンが歌うことになったという。しかし今度は、クイーンの中で﹁シングルカット派﹂と﹁アルバムのトラック派﹂で意見が割れていた。ジャクソンは﹁この曲は絶対に出すべきだ﹂と助言をしたが、クイーンのイメージに合わないディスコ調に違和感を覚えていたテイラーは﹁あの曲は絶対にヒットになんかならないんだから。どこまで勘違いしたら気が済むんだ!﹂と強く反論したという。結局、シングルカットされた﹁地獄へ道づれ﹂は世界中で大ヒットとなり、クイーン史上最も売れたシングルとなった。この件以降、ジャクソンはジョーンズに対する発言力が強くなったといわれる︵しかし﹁地獄へ道づれ﹂はその後、一時期クイーンを低迷期に導く火種となってしまったため、テイラーの推測も当たっていたことになる︶。 1980年初頭、仲の良かった2人は﹁ステイト・オブ・ショック﹂﹁ヴィクトリー﹂﹁生命の証﹂といった楽曲を共同録音しており、﹁ステイト・オブ・ショック﹂はジャクソンのアルバム﹃スリラー﹄に収録しようと考えていた。しかし、まもなくマーキュリーとジャクソンの交友は絶たれてしまい、3曲とも2人によるバージョンのリリースは見送られた。その原因としては、以下のことが挙げられている。 ●ジャクソンが﹁ステイト・オブ・ショック﹂の制作中に、スタジオに勝手にラマを連れ込み、これに憤慨したマーキュリーは、製作途中で帰ってしまった。結局﹁ステイト・オブ・ショック﹂は、﹃スリラー﹄に収録されなかったが、アルバムが超人的なヒットを記録したことを受け、マーキュリーはインタビューで﹁あのアルバムに俺とマイケルの曲が入っていれば大金持ちになれたのに﹂という冗談を披露したが、ジャクソンがこれを真に受けてショックを受けてしまった。 ●1980年代はお互いが多忙を極めていた。ジャクソンは﹃スリラー﹄の大成功を受けて世界最大のポップスターとなっており、次作の制作やワールドツアーを敢行していた。一方のマーキュリーもソロ活動とバンド活動を並行しており、マイケルと交友する時間は取れなかった。 しかしながら、1997年にリリースされたジャクソンの楽曲﹁ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス﹂は、クイーンの楽曲﹁ウィ・ウィル・ロック・ユー﹂からヒントを得て制作されたといわれていることから、お互いの影響はその後も続いたと考えられる。 なお、﹁ステイト・オブ・ショック﹂は1984年にミック・ジャガーを迎えて完成され、ザ・ジャクソンズ名義のアルバム﹃ヴィクトリー﹄に収録された。﹁生命の証﹂に関しては、ジャクソン死後に新たな演奏を加えたミックスがコンピレーション・アルバム﹃クイーン・フォーエヴァー﹄に収録された。﹁ヴィクトリー﹂は未だに正式なリリースは行われていない。 デヴィッド・ボウイ イギリスのグラム・ロッカー。モントルーでメンバーと親しくなり、1981年にクイーンと﹁アンダー・プレッシャー﹂を共作・レコーディングし、全英1位を獲得した。マーキュリーの追悼コンサートではユーリズミックスのアニー・レノックスと本楽曲を披露した。 ジョージ・マイケル イギリスの人気デュオ、ワム!のボーカリストで、ソロでも成功した歌手。かつて、マーキュリーと同じ人物からボイストレーニングを受けていたことがある。フレディ・マーキュリー追悼コンサートでは、クイーンと﹁愛にすべてを﹂を披露し、あまりの完成度の高さに﹁ジョージを加えて新生クイーンが誕生するのではないか﹂との噂が立った。そのあと、クイーンとマイケルによる﹁愛にすべてを﹂のライブ演奏はシングル﹁ファイヴ・ライヴ﹂としてリリースされ、全英1位を獲得した。 ポール・ロジャース フリーのボーカリストで、フリーの解散後にレッド・ツェッペリンのメンバーとバンドを組んだこともあった。2004年から2009年にかけてメイとテイラーと共に﹁クイーン + ポール・ロジャース﹂名義で活動した。現在はバッド・カンパニーで活動している。影響を受けた音楽家[編集]
ビートルズ 世界で最も成功したロックバンド。特にジョン・レノンからの影響は大きかった。レノンが暗殺された翌日のコンサートで、彼の代表曲﹁イマジン﹂をカバーしたり、1982年にリリースされたアルバム﹃ホット・スペース﹄にはレノンの追悼曲﹁ライフ・イズ・リアル︵レノンに捧ぐ︶﹂を収録している。また、70年代後半にレノンが﹁愛という名の欲望﹂を聴いて再び創作意欲が湧いたとも言われている。 ジミ・ヘンドリックス 27歳という若さで夭折した伝説のギタリスト。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。ギターを歯や背中で弾いたり、火を放ったり破壊したりするパフォーマンスで有名。彼の個性的なギターの演奏法やステージパフォーマンスは、マーキュリーやメイが大きく影響を受けている。特にマーキュリーはライブに度々足を運ぶほどの熱狂的なファンであり、14日連続で彼のライブを観たこともある。 エルヴィス・プレスリー 1977年に42歳という若さで亡くなったプレスリーも、クイーンに大きな影響をもたらしている。1973年から1985年頃までは、プレスリーの楽曲﹁監獄ロック﹂をライブでカバーしている。嫌っていた音楽家[編集]
カーペンターズ アメリカの兄妹ポップス・デュオ。クイーンのプロフィールに﹁嫌いなアーティスト﹂として彼らの名前が挙げられていた。共に駆使していた多重録音に対する考え方の違いであったと言われている。 シド・ヴィシャス イギリスのパンクロックバンド、セックス・ピストルズの2代目ベーシスト。かつてクイーンと同じスタジオでアルバムを制作していた時、事務所を通さず雑誌取材に応じたマーキュリーの写真がタブロイド紙に悪意ある題名で記事にされ、それを読んだヴィシャスが、クイーンが録音をしている最中にスタジオの調整室に乱入。マーキュリーに対し﹁バレエを大衆に広めるのに成功したか?﹂と侮蔑的に絡んだため、マーキュリーは﹁シドの名前をサイモン・フェロシアスと呼びながら襟首を掴んでスタジオから追い出した﹂という︵﹃クイーン‥輝ける日々﹄本人および関係者の証言より︶。日本との関係[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Freddie_Mercury_signature_2.svg/220px-Freddie_Mercury_signature_2.svg.png)
日本における来歴[編集]
日本文化への興味[編集]
クイーンのメンバーは、ツアー以外にも何度かプライベートで来日しており、日本文化に深い興味・関心を寄せている。美術学校で学んだ経験もあったマーキュリーは伊万里焼や九谷焼などを趣味で収集しており、それらの目利きもできたという。また、自宅の庭に日本庭園を造っていた[48]。新宿にはマーキュリー行きつけのゲイバーがあり、度々通っていたと思われる[49]。メイは来日した際、日本の畳が気に入ったが、大きすぎて持ち帰れないことに非常に残念がっていたという。記録[編集]
●ギネス・ワールド・レコーズによると、2005年時点で、クイーンのアルバムは全英アルバムチャートで合計1,422週、つまり27年間チャートインしている。これはビートルズ、エルヴィス・プレスリーといったアーティストを200週近く上回って歴代第1位であり、史上最もイギリスのチャートにランクインし続けたアーティストに認定された。 ●前期のベスト・アルバムである﹃グレイテスト・ヒッツ﹄は、2018年までにイギリス国内だけで約610万枚を、後期のベスト・アルバムである﹃グレイテスト・ヒッツII﹄もイギリスのみで約390万枚を売り上げているなど、国内セールスだけをとっても破格のチャート・アクションをみせている。ちなみに﹃グレイテスト・ヒッツ﹄はイギリスアルバムチャートで562週︵約10年間︶に渡りチャートインし、全世界では2500万枚以上を売り上げた。イギリスでの﹃グレイテスト・ヒッツ﹄の売り上げは、ビートルズの﹃サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド﹄やオアシスの﹃モーニング・グローリー﹄、アデルの﹃21﹄などのイギリスを代表するアーティストのアルバムを抑えて歴代1位を記録している。 ●クイーンは全世界の異なる国で、ナンバーワンのアルバムとナンバーワンのシングルをそれぞれ18枚、またトップテンのアルバムを26枚、トップテンのシングルを36枚、ナンバーワンのビデオを10枚保持している。 ●2007年1月、﹃グレイテスト・ヒッツI&II﹄が、北米のiTunesダウンロードチャートで第1位を獲得した。 ●代表曲﹁ボヘミアン・ラプソディ﹂は1975年にイギリスで9週連続1位となり、その後数週間に渡ってトップ10にランクイン。世界中の国々でも1位を連発した。さらに、マーキュリーの死後の1991年には、イギリス史上初の﹁同一曲で2度目の第1位﹂を獲得した︵5週連続1位︶。イギリスで現在までに約254万枚のセールスを記録しており、エルトン・ジョンの﹁キャンドル・イン・ザ・ウインド〜ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ﹂︵493.5万枚︶、バンド・エイドの﹁ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス﹂︵380.2万枚︶に次いで、イギリス史上3番目に売れたシングルとなっている。2002年にギネス・ワールド・レコーズが調査した﹁イギリス史上最高のシングルは?﹂というアンケートでは、2位の﹁イマジン﹂︵ジョン・レノン︶を抑えて﹁ボヘミアン・ラプソディ﹂が第1位となり、イギリスで最も愛される曲に認定された。ギネスの授賞式ではメイとテイラーが出席し、ファンに感謝の言葉を述べた。また、この曲は世界で初めてプロモーションビデオを制作した曲であると認識されている。 ●1980年にリリースされたシングル﹃地獄へ道づれ﹄は全世界で700万枚以上売り上げ、アメリカの﹃キャッシュボックス﹄誌の年間チャートでは1位に輝いた。 ●2004年、﹁クイーン + ポール・ロジャース﹂名義で再始動したクイーンがさらに売り上げを伸ばし、2005年にイギリスで最も売れたアーティスト第3位にランクアップした。これにより、それまで長年の間不動の地位を保ち続けたビートルズを4位に落としたことになる[50]。 ●2002年、イギリス国民の投票によって決定した﹁100名の最も偉大な英国人﹂にフレディ・マーキュリーが選出された。(58位) ●中東や南米などの発展途上国でも著しい人気を誇っており、世界で最も海賊版が出回っているアーティストとされる。2012年時点で、クイーンの海賊版ウェブサイトは12,225個確認されている。 ●メンバー全員が作詞・作曲能力に優れており、世界で唯一メンバー全員がチャート1位を獲得した作品を持っているロックバンドである。 ●1973年から運営されているファンクラブは、数々のロックバンドのファンクラブの中でも最も長く続いているファンクラブである。 ●1986年のウェンブリー・スタジアムで行われたMagic Tourのコンサートでは、世界中から50万人ものチケットを求める要望があり、2日間で15万人を動員した。また、1981年にブラジルのモルンビースタジアムで行ったライブでは13万人を動員。1組のバンドが1回の公演で動員した観客数で当時のギネス記録を樹立した。 ●1985年に出演したブラジルのロックフェス﹁ロック・イン・リオ﹂では2日で60万人を動員。1969年に開催された﹁ウッドストック・フェスティバル﹂の40万人をわずか2日で打ち破った。ディスコグラフィ[編集]
- オリジナル・アルバム
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- 『戦慄の王女』 – Queen(1973年)
- 『クイーンII』 – Queen II(1974年)
- 『シアー・ハート・アタック』 – Sheer Heart Attack(1974年)
- 『オペラ座の夜』 – A Night at the Opera(1975年)
- 『華麗なるレース』 – A Day at the Races(1976年)
- 『世界に捧ぐ』 – News of the World(1977年)
- 『ジャズ』 – Jazz(1978年)
- 『ザ・ゲーム』 – The Game(1980年)
- 『フラッシュ・ゴードン』 – Flash Gordon(1980年)
- 『ホット・スペース』 – Hot Space(1982年)
- 『ザ・ワークス』 – The Works(1984年)
- 『カインド・オブ・マジック』 – A Kind of Magic(1986年)
- 『ザ・ミラクル』 – The Miracle(1989年)
- 『イニュエンドウ』 – Innuendo(1991年)
- 『メイド・イン・ヘヴン』 – Made In Heaven(1995年)
クイーンを題材とした映像作品[編集]
- 2011年、ドキュメンタリー『輝ける日々』(英語: Queen - Days of Our Lives)がBBCで放送された。
- 2018年、マーキュリーを軸に、クイーンの結成から1985年のライヴエイドでのパフォーマンスまでを描いた伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が公開された。
公演[編集]
コンサート・ツアー[編集]
開催日 | タイトル | 公演数 |
---|---|---|
1973年9月13日 - 1974年1月27日 | Queen I Tour | 4ヶ国35公演 |
1974年3月1日 - 5月11日 | Queen II Tour | 2ヶ国41公演 |
1974年10月30日 - 1975年5月1日 | Sheer Heart Attack Tour | 10ヶ国78公演 |
1975年11月14日 - 1976年4月22日 | A Night at the Opera Tour | 4ヶ国78公演 |
1976年9月1日 - 9月18日 | Summer Gigs 1976 | 1ヶ国4公演 |
1977年1月13日 - 6月7日 | A Day at the Races Tour | 8ヶ国59公演 |
1977年11月11日 - 1978年5月13日 | News of the World Tour | 11ヶ国46公演 |
1978年10月28日 - 1979年8月18日 | Jazz Tour | 10ヶ国79公演 |
1979年11月22日 - 12月26日 | Crazy Tour | 1ヶ国20公演 |
1980年6月30日 - 1981年11月25日 | The Game Tour | 14ヶ国81公演 |
1982年4月9日 - 11月3日 | Hot Space Tour | 12ヶ国69公演 |
1984年8月24日 - 1985年5月15日 | The Works Tour | 13ヶ国48公演 |
1986年6月7日 - 8月9日 | Magic Tour | 11ヶ国26公演 |
日本公演[編集]
開催日 | タイトル | 会場 |
---|---|---|
1975年4月19日 - 5月1日 | Sheer Heart Attack Tour | |
1976年3月22日 - 5月1日 | A Night at the Opera Tour | 詳細
|
1979年4月13日 - 5月6日 | Jazz Tour | 詳細
|
1981年2月12日・13日・16日 - 18日 | The Game Tour | 日本武道館 |
1982年10月19日 - 11月3日 | Hot Space Tour | 詳細
|
1985年5月8日 - 5月15日 | The Works Tour | 詳細
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関連項目[編集]
- ウェンブリー・スタジアム - イングランドにあるサッカースタジアム。クイーンにとっては特別な場所であり、ファンからはサッカーの聖地になぞらえてクイーンの聖地と呼ばれている。フレディ・マーキュリー追悼コンサートも行われている。
- 売れた音楽家の一覧
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
外部リンク[編集]
- The Official Queen Website(英語)
- QUEEN|クイーン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN(日本語)
- Queen - Myspace(英語)
- クイーン日本レーベル公式 (@queen40jp) - X(旧Twitter)(日本語)
- クイーン日本公式 (@queen) - LINE Add Friend(日本語)
- Queen (@QueenWillRock) - X(旧Twitter)(英語)
- Queen (Queen) - Facebook(英語)
- Queen (@officialqueenmusic) - Instagram(英語)
- Queen Official - YouTubeチャンネル(英語)
- クイーン - Spotify
- クイーン - Apple Music