マーガリット・バーネット
マーガリット・エミー・バーネット Marguerite Amy Burnet | |
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個人情報 | |
出生 |
1878年11月24日、 イギリス、イギリスノーフォークノリッジ |
死去 |
1951年7月21日(72歳没) 日本、群馬県前橋市 |
墓所 | 群馬県吉岡村(現・北群馬郡吉岡町) |
国籍 | イギリス |
配偶者 | 父:ウィリアム・バーネット |
職業 | 宣教師 |
マーガリット・エミー・バーネット︵Marguerite Amy Burnet、1878年11月24日 - 1951年7月2日︶は、日本で活躍したイギリス人の宣教師。
中央がパゼット・ウィルクス︵1902年︶
1909年、ケズィック・コンベンションに出席して、日本でのバゼット・ウィルクスの働きを聞き、ロンドンで行われた日本伝道隊の集会に出席しはじめた。
共に働いた舟喜麟一
1920年︵大正9年︶舟喜麟一牧師とともに足尾町で伝道活動を始める。大間々町、境町に伝道を拡大して行った。
1925年︵大正14年︶舟喜麟一とともに、セントラル・ジャパン・パイオニア・ミッション︵Central Japan Pioneer Mission︶を設立した。同じ年、太田市に聖書学校︵現・中央日本聖書学院︶を開校する。そこから、栃木県、群馬県、埼玉県への伝道のビジョンをもった。各地をテントで伝道を展開する。ある外国の雑誌には﹁彼らはミデヤン人のようにテントの中に住んでいる﹂と紹介されたこともある[6]。イギリスに一時帰国する。
1927年︵昭和2年︶群馬県前橋に移り伝道を開始する。聖書学校も、前橋に移転し前橋聖書学寮になる。また、D・パー宣教師がイギリスから来日して、バーネットを助けることになる[7]。
1941年︵昭和16年︶からの太平洋戦争中は敵性国民として軟禁されていた。この時期に不自由な生活を送り、体調を悪化させたことが、死期を早めた[7]。
1950年︵昭和25年︶に福音伝道教団の理事長に就任する。1951年︵昭和26年︶安藤喜市に前橋聖書学寮の神学生を託して、日本で死去。安藤とバーネットは日本伝道隊の入隊が同期であった。バーネットは神学校で、6・7名の神学生を教育していたので、安藤に﹁安藤さん、頼みます、頼みます﹂とお願いして亡くなった[8]。