イタリア王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロンバルディアの鉄王冠。イタリア王位を象徴する王冠の一つと見なされている。

: rex Italiae, : re d'Italia西使18702

歴史[編集]

帝国本土の争奪[編集]


rex西西

476退480西dux Italiaerex Italiae rex Italiae 使

493 rex Italiae rex使552

混乱の時代[編集]

ロンバルディアの鉄王冠

568使rex Langobardorum西

774使827退952

10711

神聖ローマ帝国の封建体制[編集]




rex Italiae

1805使1814

リソルジメント[編集]


西18612

1946

歴代君主[編集]

  • 人名は支配領域で用いられていたイタリア語の発音に基く

ヘルール時代[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
オドアクレ ヘルール族の王。ユリウス・ネポス帝を暗殺、ロムルス・アウグストゥルスを追放してイタリア本土の支配権を奪取。 476年 493年

東ゴート時代[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
テオドーリコ 東ゴート族の王。オドアクレを破って王位を獲得する。 493年 526年
アタラーリ テオドーリコの外孫 526年 534年
テオダート テオドーリコの外甥。 534年 536年
ヴィティージェ テオダートの重臣。 536年 540年

西ゴート時代[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
イルディバルド 西ゴート王の甥。東ゴートの王として迎えられる。 540年 541年
エラーリコ イルディバルドの親族、トーティラの従兄弟。 541年 541年
トーティラ イルディバルドの甥、エラーリコの従兄弟。 541年 552年
テーイア トーティラの重臣。ローマ軍に敗れ、再びイタリアはローマ皇帝の領域に戻る。 551年 553年

ランゴバルド時代[編集]

ガウシ朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
アルボイーノ ランゴバルド王アウドゥインの子。ローマ軍に勝利してガウシ朝イタリア王国を成立させる。 568年 572年

内乱期[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
クレーフィ アルボイーノの重臣。先王暗殺後、諸侯に推されてイタリア王に即位。諸侯同士の内乱(諸公爵の時代)の渦中で暗殺される。 572年 574年
アウタリ クレーフィの子。 584年 590年
アギルルフォ[1] クレーフィの甥、アウタリの従兄弟。 590年[1] 616年
肖像 人名 背景 即位 退位
アダロアルド バイエルン公女テオデリンダとアジルルフォの子。母方の一族から大きな影響を受けていた為、バヴァリア朝とも呼ばれる。 616年 626年
肖像 人名 背景 即位 退位
アリオアルド 諸公爵の一人。アダロアルドの妹グンデベルガの夫として即位。 626年 636年

アロディ朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
ロータリ 諸公爵の一人。アリオアルド死後に権力を掌握、アロディ朝を開いた。 636年 652年
ロドアルド ロータリの子。愛人の夫により僅か即位半年で暗殺される。 652年 653年

第二次バヴァリア朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
アリペルト1世 テオデリンダの甥。ロータリ暗殺後にバイエルン人の支援でバヴァリア朝を復古した。 653年 661年
ベルタリードゴデベルト アリペルト1世の子。王位を巡る兄弟争いの末にゴデベルトは暗殺され、ベルタリードも追放された。 661年 662年

ベネヴェント朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
グリモアルド 諸公爵の一人。南部イタリアを支配するベネヴェント公国を率いてベルタリードゴデベルトの内乱に介入、最終的に王位を簒奪した。 662年 671年
ガリバルド グリモアルドの子。フランク王国に逃れていたベルタリードが帰還すると失脚する。 671年 671年

第三次バヴァリア朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
ベルタリード アリペルト1世の子、ゴデベルトの兄。 662年 671年
肖像 人名 背景 即位 退位
アライス 諸公爵の一人。バヴァリア朝に反乱を起こすが、短期間で征伐される。 688年 689年
肖像 人名 背景 即位 退位
クニペルト ベルタリードの子。アライスを討伐して王位を奪還した。 688年 700年
リウトペルト クニペルトの子。 700年 701年
ラジンペルト ゴデベルトの子、ベルタリードの甥。 701年 701年
アリペルト2世 ラジンペルトの子。ベネヴェント公国・スポレト公国など南部諸侯に加え、ヴェネツィアの攻撃などに翻弄された末に戦死する。彼の死でバヴァリア朝イタリア王国は完全に断絶した。 701年 712年

末期の諸王朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
アンスプランド 諸公爵の一人。バヴァリア朝断絶後に王位へ推挙されるも、3ヶ月後に病没。 712年 712年
リウトプランド アンスプランドの子。王国末期において長期政権を築き、多くの治績を遺した。 712年 744年
イルデブランド リウトプランドの甥、或いは孫。無能さから諸侯の反乱を受け、強制的に退位させられる。 744年 744年
肖像 人名 背景 即位 退位
ラーキス 諸公爵の一人。イルデブランド追放により王に選出される。 744年 749年
アストルフォ ラーキスの弟。兄が退位した為に王位を引き継ぎ、デジデーリオの反乱で殺害される。 749年 756年
デジデーリオ 諸公爵の一人。ラーキスとアストルフォの兄弟を討ち取って王位を獲得するも、フランク王カルロ・マーニョの遠征軍に滅ぼされた。結果としてランゴバルド出身の王としては最後の人物となる。 756年 774年

フランク王国時代[編集]

イタリア王系図も参照。

カロリング朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
カルロ・マーニョ フランク王。欧州各地に軍勢を送り、その過程でイタリア王位及びランゴバルド王位も獲得した。ただし領土面では大陸部の占領に留まった為、半島部・島嶼部にはイタリア王位の王権が及ばなくなった(中世イタリア王国)。 774年 814年
ピピン1世 カルロ・マーニョの次男。イタリア王位を分与されるも、早世する。 781年 810年
ベルナルド ピピン1世の私生児。叔父のルドヴィコ1世に挑むも、処刑される。 810年 818年
ロドヴィコ1世 フランク王。カルロ・マーニョの三男。一族内での家督争いに勝利を収め、全ての王位を継承する。 818年 822年
ロターリオ1世 中フランク王。ルドヴィコ1世の長男。イタリア王領を含む中フランク王国を継承した為、イタリア王の一人に数えられる。 822年 855年
ロドヴィコ2世 ロターリオ1世の長男。

イタリア王位を分与される。

844年 875年
禿頭王カルロ2世 西フランク国王

ロターリオ1世の弟。

875年 877年
カルロマンノ 東フランク王。ルドヴィコ2世バヴァリアの子。病弱さから早世する。 877年 879年
肥満王カルロ3世 フランク王。カルロマンノの弟。分散していた一族の領地を再び纏め上げた。 879年 887年

内乱期[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
ベレンガーリオ1世 ロターリオ1世外孫肥満王カルロ3世に対して王位請求を行い、カルロ3世死後の混乱に乗じて実権を掌握する。 888年 896年
グイード・ダ・スポレート ロターリオ1世の外曾孫。ベレンガーリオ1世の政敵として王位請求を行う。 889年 894年
ランベルト・ダ・スポレート グイード・ダ・スポレートの子。東フランク王アルヌルフに敗れて追放される。 891年 896年
アルノルフォ 東フランク王。カルロマンノの子。グイード、ランベルト、ベレンガーリオ1世らを破ってイタリア王位を奪取する。 894年 899年
ラトルド アルノルフォの子。父の共同王となるが、早世する。 896年 896年
ベレンガーリオ1世 アルノルフォ親子の死後、復位を宣言。 896年 924年
ランベルト・ダ・スポレート ベレンガーリオ1世の対立王として復位を宣言。 896年 898年
ルドヴィーコ3世 ルドヴィコ2世イタリア外孫。ベレンガーリオ1世の対立王。 900年 905年
ロドルフォ2世 ブルグント王。ベレンガーリオ1世らを破ってイタリア王位を継承する。 922年 933年
ウーゴ・ディ・アルル ロターリオ1世の外曾孫。ロドルフォ2世からイタリア王位を奪う。 926年 947年
ロターリオ2世アルル ウーゴ・ディ・アルルの子。 945年 950年
ベレンガーリオ2世 ベレンガーリオ1世の外孫。祖父の王位を請求してロターリオ2世アルル死後に即位を宣言するが、神聖ローマ皇帝オットーネ1世に滅ぼされる。 950年 961年
アダルベルト2世 ベレンガーリオ2世の子。父と共に王位継承を行い、後にオットーネ1世に追放される。 950年 963年

神聖ローマ帝国時代[編集]

ザクセン朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
オットーネ1世 東フランク王。ザクセン朝を東フランク王国に打ちたてた後、ベレンガーリオ親子を滅ぼしてイタリア王国にもザクセン人の王家を成立させる。後に皇帝を名乗る。 962年2月2日 973年5月7日
オットーネ2世 神聖ローマ皇帝

オットーネ1世の子

980年10月[2] 983年12月7日
オットーネ3世 神聖ローマ皇帝

オットーネ2世の子、オットーネ1世の孫。子を持たずに病没する。

996年2月[3] 1002年1月23日
肖像 人名 背景 即位 退位
アルドゥイーノ1世 ベレンガーリオ2世の末裔。オットーネ3世死後、諸侯の支持を得てイタリア王位に即位する。後にエンリーコ2世に敗れて退位した。 1002年 1014年
肖像 人名 背景 即位 退位
エンリーコ2世
[4]
神聖ローマ皇帝。

オットーネ3世の従兄弟。子を持たずに病没し、彼の死でザクセン王家は断絶した。

1004年2月14日 1024年7月13日

ザーリアー朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
コッラード2世
[5]
神聖ローマ皇帝

選挙君主制によって新たな皇帝に選ばれる。前王朝のイタリア政策を引き継いで遠征を行い、ザーリアー朝イタリア王国を開く。

1027年3月26日 1039年6月4日
エンリーコ3世 神聖ローマ皇帝

コッラード2世の子。

1046年12月25日 1056年10月5日
エンリーコ4世 神聖ローマ皇帝。

エンリーコ3世の子。

1084年3月31日 1105年12月
エンリーコ5世
[6]
神聖ローマ皇帝

エンリーコ4世の子。子を持たず死没し、ザーリアー朝は断絶した。

1111年4月13日 1125年5月23日

ズップリンゲンブルク朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
ロターリオ3世 神聖ローマ皇帝

新たに選挙君主制で帝国と諸王国の王に選ばれるが、一代のみに終った。

1125年 1133年

ホーエンシュタウフェン朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
コッラード3世[7][8] ローマ王。ロターリオ3世の対立王として挙兵、その死後に選挙君主制の支持を集めて王朝を開く。第2回十字軍の指揮官を務める。 1128年 1135年
フェデリーコ1世バルバロッサ 神聖ローマ皇帝

33
1154年 1190年6月10日
エンリーコ6世 神聖ローマ皇帝

フェデリーコ1世バルバロッサの子。死後に反乱が起き、ローマ王を継承した弟フィリッポは神聖ローマ皇帝位及びイタリア王位から退位させられる。

1191年4月14日 1197年9月28日

グエルフィ朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
オットーネ4世 神聖ローマ皇帝

フィリッポを失脚させて後継者の地位を奪う。ギベリン派とグエルフィ派の由来でもある一族の出身だが、王朝は一代で途絶えた。

1208年 1212年

第二次ホーエンシュタウフェン朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
フェデリーコ2世 神聖ローマ皇帝、シチリア王。エンリーコ6世の子。オットーネ4世を打倒して王朝を復古する。死後の混乱によって帝国内に大空位時代が始まり、帝国の一部であるイタリア王位も不安定化する。 1215年11月22日 1250年12月13日

ルクセンブルク朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
エンリーコ7世 神聖ローマ皇帝。大空位時代の帝国君主の一人。ルクセンブルク朝を開き、数十年ぶりに正当な戴冠式を行う。遠征を経てイタリア王位の兼務を復活させる。 1311年1月6日[9] 1313年8月24日

ヴィッテルスバッハ朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
ルイージ4世 神聖ローマ皇帝。大空位時代の帝国君主の一人。エンリーコ7世死後に後継者に選出され、ヴィッテルスバッハ朝を開く。 1327年 1347年10月11日

第二次ルクセンブルク朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
カルロ4世 神聖ローマ皇帝。エンリーコ7世の孫。ルクセンブルク朝を復古する。 1355年 1378年
(ヴェンチェズラオ) ローマ王。カルロ4世の次男。イタリア王としては即位していないが、ローマ王の権威で数名の僭主に公位を与えた。 1378年(ローマ王) 1410年(ローマ王)
シジズモンド 神聖ローマ皇帝。カルロ4世の三男。ニコポリスの戦いフス戦争などで敗北を繰り返し、権威を失墜させる。 1410年 1437年12月9日

ハプスブルク朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
アルベルト2世 ローマ王。シジズモンドの娘婿。義父の地位を引き継ぐも早世、一子ラディスラウス・ポストゥムスを遺す。 1437年 1439年10月27日
フェデリーコ3世 神聖ローマ皇帝。アルベルト2世の同系親族。ラディスラウスの後見人を務め、死後に地位を継承する。 1452年3月19日 1493年8月19日
マッシミリアーノ1世 神聖ローマ皇帝。フェデリーコ3世の子。積極的な婚姻外交を推し進め、ハプスブルク朝による王朝が欧州に広がる。 1493年
[10]
1519年1月12日
カルロ5世 神聖ローマ皇帝、ナポリ王、シチリア王、カスティーリャ・アラゴン王。マッシミリアーノ1世の孫。膨大な帝位・王位を兼任し、ハプスブルク朝の大帝国を築き上げる。 1530年2月 1556年1月16日

イタリア王の称号を正式に使用したのはカルロ5世が最後となり、以後は皇帝が主張するのみの空位状態となった。

肖像 人名 背景 即位 退位
フェルディナンド1世 神聖ローマ皇帝。カルロ5世の弟。領土分割で神聖ローマ皇帝を継承する。 1556年
[10]
1564年7月25日
マッシミリアーノ2世 神聖ローマ皇帝。フェルディナンド1世の子。 1564年
[10]
1576年10月12日
ロドルフォ2世
[11]
神聖ローマ皇帝。マッシミリアーノ2世の子。 1575年6月30日 1612年8月20日
マッティーア 神聖ローマ皇帝

ロドルフォ2世の弟。

1612年1月23日 1619年3月20日
フェルディナンド2世 神聖ローマ皇帝

ロドルフォ2世マッティーアの従兄弟。

1619年3月10日 1637年2月15日
フェルディナンド3世 神聖ローマ皇帝

三十年戦争に敗北、ヴェストファーレン条約でイタリアの帝国領を完全に喪失する。

1637年11月18日 1657年4月2日

ヴェストファーレン条約以降、神聖ローマ帝国の構成国家としてのイタリア王国は形骸化した。

ナポレオン時代[編集]

ボナパルト朝[編集]

フランス革命後のナポレオン戦争により、空位となっていたイタリア王位を獲得する。

肖像 人名 背景 即位 退位
ナポレオーネ1世 フランス皇帝。神聖ローマ帝国を完全に滅ぼした後、空位となっていたイタリア王の復古と即位を宣言する。 1805年 1815年

サヴォイア時代[編集]

リソルジメントを経てイタリア全域の実効支配を確立、空位となっていたイタリア王位を獲得する。

サヴォイア朝[編集]

肖像 人名 背景 即位 退位
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 サルデーニャ王。リソルジメントを経て、空位となっていたイタリア王位の復古を宣言する。 1849年 1878年
ウンベルト1世 サルデーニャ王太子。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の長男、スペイン王アマデオの兄。父の即位に伴いイタリア王太子となり、後にイタリア王位を継承。 1878年 1900年
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 アルバニア王、エチオピア皇帝。ウンベルト1世の長男。積極的な対外政策を後援し、ファシスト政権を支持した。 1900年 1946年
ウンベルト2世 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の長男。第二次世界大戦後、父王の戦争責任を問われた末、王政廃止が決定する。実権を伴うイタリア王としては事実上、最後の人物となる。 1946年 1946年

王位請求[編集]

現在、サヴォイア家によるイタリア王位請求が続けられている。

肖像 人名 背景 請求開始
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア イタリア王太子。ウンベルト2世の長男。息子 1946年-現在

[]


[ 1]

by the Grace of God, King of Italy, King of Sardinia, Cyprus, Jerusalem, Armenia, Duke of Savoy, count of Maurienne, Marquis (of the Holy Roman Empire) in Italy; prince of Piedmont, Carignano, Oneglia, Poirino, Trino; Prince and Perpetual vicar of the Holy Roman Empire; prince of Carmagnola, Montmellian with Arbin and Francin, prince bailliff of the Duchy of Aosta, Prince of Chieri, Dronero, Crescentino, Riva di Chieri and Banna, Busca, Bene, Bra, Duke of Genoa, Monferrat, Aosta, Duke of Chablais, Genevois, Duke of Piacenza, Marquis of Saluzzo (Saluces), Ivrea, Susa, of Maro, Oristano, Cesana, Savona, Tarantasia, Borgomanero and Cureggio, Caselle, Rivoli, Pianezza, Govone, Salussola, Racconigi over Tegerone, Migliabruna and Motturone, Cavallermaggiore, Marene, Modane and Lanslebourg, Livorno Ferraris, Santhià Agliè, Centallo and Demonte, Desana, Ghemme, Vigone, Count of Barge, Villafranca, Ginevra, Nizza, Tenda, Romont, Asti, Alessandria, of Goceano, Novara, Tortona, Bobbio, Soissons, Sant'Antioco, Pollenzo, Roccabruna, Tricerro, Bairo, Ozegna, delle Apertole, Baron of Vaud and of Faucigni, Lord of Vercelli, Pinerolo, of Lomellina, of Valle Sesia, of the Marquisate of Ceva, Overlord of Monaco, Roccabruna and eleven-twelfths of Menton, Noble Patrician of Venice, Patrician of Ferrara.
 

[]

注釈[編集]

  1. ^ サルデーニャ王、サヴォイア公爵、モーリエンヌ伯爵などの称号から、恐らくサヴォイア時代の称号であると見られる

出典[編集]

  1. ^ a b 「ランゴバルド王国」世界大百科事典
  2. ^ According to Sismondi, History of the Italian Republics in the Middle Ages (pg. 29), although Otto II was crowned King of the Romans in 961 and Holy Roman Emperor in 967, he only obtained the Iron Crown at Pavia in late 980, during his descent into Italy, and prior to his celebrating Christmas at Ravenna.
  3. ^ Although Otto III was crowned Holy Roman Emperor at Rome on 21 May 996, he was crowned King of Italy at Milan prior to the death of Pope John XV in early March 996 - see Comyn, History of the Western Empire, Vol. 1, pg. 123
  4. ^ enumerated as successor of Henry I who was German King 919?936 but not Emperor.
  5. ^ enumerated as successor of Conrad I who was German King 911?918 but not Emperor
  6. ^ Barraclough, Geoffrey (1984). The Origins of Modern Germany. W. W. Norton & Company. ISBN 0393301532. https://books.google.co.jp/books?id=RY6VmGuAaCkC&pg=PA131&lpg=PA131&dq=supplinburg+dynasty&redir_esc=y&hl=ja 
  7. ^ Bryce, History of the Holy Roman Empire pg. xxxix
  8. ^ Comyn, History of the Western Empire, from its Restoration by Charlemagne to the Accession of Charles V, Vol. I pg. 191
  9. ^ Jones, Michael, The New Cambridge Medieval History, Vol. VI: c. 1300-c. 1415, Cambridge University Press, 2000, pg. 533
  10. ^ a b c Emperor-Elect.
  11. ^ enumerated as successor of Rudolph I who was German King 1273?1291.

関連項目[編集]