乾正聰

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板垣退助の曾祖父・乾正聡の墓(板垣山)

 

凡例

乾 正聰
時代 江戸時代中期
生誕 不詳
死没 1805年9月15日文化2年8月23日
改名 幼名:金四郎、字:丈右衛門
墓所 高知県高知市薊野東町(板垣山)
主君 山内豊敷
土佐藩
氏族 源姓乾氏
父母 父:乾直建、母:安積祥任の女
林勝周の女
信武野本信照、女子
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使殿[6]

家族[編集]

板垣退助の曾祖母・乾正聡妻の墓(高知・板垣山)

補註[編集]

  1. ^ 『板垣退助君傳記』では誤って乾信武の逸話として集録されている。
  2. ^ 原文では「当時、勤倹力行の令出ありて、士格の駕(かご)を用ゆるを禁ぜらる」とある。
  3. ^ 「信武の娘の婚礼の時」とする話もあるが年代が会わないので今は通説に従う。
  4. ^ 『板垣退助君傳記』では誤って「杉」とされている
  5. ^ 原文は「老松の繁柯(はんか)、その視界を遮りて、爲めに眺望を縦(ほしいまま)にすることあたわず、家老乃(すなわ)ち使を乾氏に寄せて懇(ねんご)ろに請ふて其の枝を拂はん事を欲す」とある。
  6. ^ 原文は「近頃老職楼閣を築きて、其志を空しうす。何卒前日の厚旨に順ふに替へて、枉(ま)げてその楼閣を毀(こぼち)たれ給へ」とある。
  7. ^ 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)、137頁

参考文献[編集]