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山内 豊敷︵やまうち とよのぶ︶は、土佐藩8代藩主。
正徳2年︵1712年︶6月8日、土佐藩家老深尾家の分家で、山内姓を与えられていた山内規重の長男として生まれる。豊敷の父・規重は、第2代藩主・山内忠義の弟で深尾家に養子入りした深尾重昌の子孫で、山内氏一族の中でも人望があり、家老として藩主を補佐していた人物でもあった。父・規重が享保6年︵1721年︶に死去し、跡を継いだ。初名は重固であった。
享保10年︵1725年︶10月22日、本家の第7代藩主・山内豊常が子女を残さないまま早世したため、豊常の妹・長姫の夫で義弟の豊敷が豊常の養子となって跡を継いだ。同年10月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。同年12月18日︵西暦では1726年1月︶、従四位下・民部大輔に叙任する。享保13年12月21日︵西暦では1729年1月︶、侍従に任官する。
しかし藩政においては、享保12年︵1727年︶の高知城焼失、享保17年︵1732年︶の害虫による凶作、享保18年︵1733年︶には前年の凶作による飢餓などに苦しめられ、幕府から1万5000両を借り受け、藩財政再建を目指して藩政改革を断行する。行政整理や風俗の徹底、製鉄業の奨励、藩士からの半知借上、宝暦2年︵1752年︶には国産方役所を設置して製紙業の専売化をはかるなどしている。しかし専売化に反対する中平善之進らによる一揆が起こり、一揆側の要求を受け入れて宝暦10年︵1760年︶に役所を一時的に廃止するなど、藩政改革は失敗に終わった。
宝暦9年︵1759年︶に藩校・教授館を創設し、文武を奨励する。さらに目安箱を設置して広く意見を求めるなどしたが、効果はなかった。明和4年︵1767年︶11月19日に死去した。享年56。
跡を四男の豊雍が継いだ。
- 父:山内規重(1682年 - 1721年)
- 母:富姫 - 清涼院、西大路隆栄の娘
- 養父:山内豊常(1711年 - 1725年)
- 正室:長姫 - 山内豊隆の娘
- 側室:加恵 - 貞光院、伊笹氏
- 室:祥栄院
- 生母不明の子女
山内氏 土佐藩8代藩主 (1725年 - 1767年) |
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