乾正房
表示
乾 正房︵いぬい まさふさ、生年不詳 - 1721年11月14日︵享保6年9月25日︶︶は、江戸時代前期の土佐藩上士。
通称は初め市郎兵衛︵世襲名︶を称し、のち乾七郎左衛門と改めた。家紋は﹁榧ノ内十文字﹂。
乾の家紋︵榧之内十文字︶
来歴[編集]
生い立ち[編集]
土佐藩上士︵小性格・5人扶持切府10石︶乾正直︵市郎兵衛︶の嫡男として高知城下︵現高知県高知市︶に生まれる。母は森正壽︵勘左衛門︶の娘。 1688年8月21日︵貞享5年7月26日︶父正直が病死する。跡目相続以降[編集]
1689年7月28日︵元禄2年6月12日︶、土佐藩主・山内豊昌より、亡父跡目を無相違下し置かれる。 土佐藩上士︵知行1200石︶板坂永吉の娘と結婚する。板坂永吉の父、板坂永政︵三右衛門︶は、土佐藩家老・乾和三︵山内備後︶の二男に生まれ、板坂利正︵馬左衛門︶の養子となった人物であり、土佐藩家老の乾家︵本姓土岐氏︶と、正房の乾家︵本姓板垣氏︶は別家であったがこの縁組によって、両家の血が交わることになった。 また乾七郎左衛門という名は、土佐藩祖・山内一豊の時代、一豊が高知城の築城を視察する際に、身の安全のために仕立てた影武者・同装束六人衆︵野中玄蕃・市川大炊・柏原半右衛門・乾宣光︵七郎左衛門︶・乾和三︵猪助︶︶の一人で、乾和三の実兄﹁乾宣光﹂の名を襲名したものである。 1705年︵宝永2年︶、土佐藩主山内豊房の時代、本山郷での在番を仰せ付けられる。同年、江戸御留守居番を仰せ付けられ、江戸の土佐藩邸に勤めた。 1721年11月14日︵享保6年9月25日︶病死。 墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山︵現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近︶の代々墓地に建てられた。家族[編集]
- 祖父:乾正行(金右衛門)
- 祖母:毛利治郎右衛門の娘
- 父:乾正直(市郎兵衛)
- 母:森正壽(勘左衛門)の娘
- 本人:乾正房(七郎左衛門)
- 妻:板坂永吉(馬左衛門)娘
- 嫡男:乾吉勝(弥五兵衛)
- 孫:乾正英(市郎兵衛
- 孫:乾正愛(段次郎)
- 嫡男:乾吉勝(弥五兵衛)