佐藤重遠
佐藤 重遠︵さとう じゅうえん、1887年12月17日 - 1964年1月5日︶は、日本の政治家、教育者、事業家。衆議院議員︵4期︶。研心学園︵現・目白研心中学校・高等学校︶設立。政治家として、また教育者として近代日本における私学教育の振興に大きく寄与。
略歴[編集]
父・米四郎、母・カクの長男として宮崎県東臼杵郡南方村︵現・延岡市中三輪町︶で生まれ、傳次郎と名付けられる[1][2]。父は渡し守を生業としており、赤貧の中で苦学をして延岡中学校から一高、東京帝大と進学した[3]。1910年に家督を相続し、重遠と改名[1]。妻は内務大臣などを歴任した床次竹二郎の二女・フユ[1]。
●1907年4月 旧制宮崎県立延岡中学校卒業[4]。
●1910年7月 旧制第一高等学校卒業[4]。
●1914年7月 東京帝国大学法科大学卒業。三菱合資会社入社︵1921年まで︶[4]。
●1922年6月21日 市来乙彦大蔵大臣[注釈 1]の秘書官となる[5]。
●1923年4月 研心学園を設立[4]。
●1923年9月6日 病気を理由に[6][注釈 2]秘書官を依願退職[7]。駿豆鉄道株式会社社長[4]。このころより中央生命保険株式会社の経営陣に加わる。
●1924年5月10日 宮崎県第3区より衆議院議員に初当選。
●1926年2月 中央生命の専務取締役となる[8]。
●1927年6月 中央生命の背任事件で取り調べを受ける[9]。
●1929年 財団法人目白学園を設立し目白商業学校を開設︵1944年目白女子商業学校に転換︶[10]。
●1930年2月20日 衆議院議員再選︵2期︶。
●1932年2月20日 衆議院議員再選︵3期︶。
●1932年12月19日 中央生命の背任事件で懲役2年の判決[11]。
●1934年4月17日 議員辞職[12][13]。
●1937年8月20日 衆議院議員選挙違反事件で禁錮4月の判決[14]。
●1940年 延岡実践女学校を設立︵1945年焼失︶[15]。
●1947年 目白学園中学校を開設。
●1948年 目白学園高等学校を開設。
●1949年 衆議院議員再選︵4期︶。
●1959年 目白学園幼稚園を開設。
●1963年 目白学園短期大学を開設。
●1964年 永眠。享年76。
栄典[編集]
●藍綬褒章︵1963年︶ ●正五位勲三等瑞宝章︵1964年、特旨︶脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abc﹃人事興信録8版﹄人事興信所、1928年、サ-35頁頁。NDLJP:2127124/711
(二)^ “創立者”. 目白学園. 2020年6月17日閲覧。
(三)^ ﹁戦ひ過ぎて(17) 中学時代にはストライキの首魁 床次君の愛婿﹂﹃朝日新聞﹄、1924年5月30日、夕刊1面。﹁宮崎縣の郡部に生れ家は渡守である(中略)小学校を出る頃から槇峰鑛山の薬局を手傳ひつゝ苦学を續けた﹂
(四)^ abcde﹃目白学園50年史﹄。
(五)^ 佐藤重遠外一名任免ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
(六)^ 大蔵大臣秘書官佐藤重遠免官ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
(七)^ ﹁叙任及辭令﹂﹃官報﹄号外、1923年9月6日。NDLJP:2955455/1
(八)^ ﹁中央生命の前専務召喚 幹部二名も同時に﹂﹃朝日新聞﹄、1927年6月28日、朝刊7面。﹁尾崎氏は昨年二月その位置を現専務佐藤氏に譲つた﹂
(九)^ ﹁佐藤代議士 今夕収容か 背任行爲明白となり けさ檢事局で強制處分に﹂﹃朝日新聞﹄、1927年6月28日、夕刊1面。﹁同代議士の罪状と傳へられてゐる點は︵中略︶その他の社員と共謀の上同會社の不當な貸付名簿を作製し三十四銀行その他取引銀行から同社の預金約三十萬圓を引き出し勝手に流用した上、更に某製薬會社その他へ不當貸付をなした行爲が背任横領の嫌疑となつた﹂
(十)^ 目白商業学校 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
(11)^ ﹁佐藤代議士に懲役二年 廿五萬圓の横領事件﹂﹃朝日新聞﹄、1932年12月20日、夕刊2面。
(12)^ ﹁議員辞職﹂﹃官報﹄第2189号、1934年4月21日。NDLJP:2958664/11
(13)^ ﹁兩代議士の辭任許可 佐藤重遠、鈴木寅彦兩氏﹂﹃朝日新聞﹄、1934年4月18日、朝刊2面。﹁中央生命の背任横領罪で目下刑事問題を起こしてゐる政友會所属代議士佐藤重遠氏は十五日議長の手許に議員辭任の辭表を提出(中略)秋田議長は議會閉會中であるから議院法の規定により十七日辭任許可の裁決を與へ、右兩氏は衆議院議員の資格を喪失した﹂
(14)^ ﹁佐藤元代議士に禁錮四月の判決﹂﹃朝日新聞﹄、1937年8月21日、朝刊11面。
(15)^ “近代の年表(1930~1950年)”. 延岡市. 2020年6月24日閲覧。
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