坂田祐
坂田 祐︵さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 - 1969年12月16日︶は、日本の陸軍軍人、教育者、関東学院院長。学校法人関東学院の基礎作りに貢献した。
1912︵明治45︶年5月3日︶第一高等学校文科集合写真 坂田記念 館所蔵 坂田祐は二列目右から2人目
東京学院に入学して間もなく、1904年6月に日露戦争による召集を受け弘前市の第8師団騎兵第8連隊に入隊、第1中隊分隊長として黒溝台会戦、奉天会戦に参加した。従軍中に騎兵曹長、さらに騎兵特務曹長に昇進。夜営中に持参した分冊新約聖書﹃ヨハネ伝﹄を部下に配って聖書講義を行い、また友人が送ってくれる内村鑑三発刊の﹃聖書之研究﹄などを熟読した。戦争終結後の1905年︵明治38年︶10月には、戦死した所属部隊将兵の遺体発掘と火葬、遺骨収集を命ぜられ、部下と共に2週間ほど従事した。戦争の悲惨さを体験し非戦主義者となった。1906年︵明治39年︶3月に弘前市の原隊に帰還し、同年8月に陸軍技手に任じられ陸軍省軍馬補充部大山支部︵現在の鳥取県西伯郡大山町に所在︶に赴任した。
第一高等学校文科集合写真名列 坂田記念館所蔵
1919年設立の中学関東学院、1921︵大正11︶年11月 初期の教 職員 坂田記念館所蔵 前列中央に坂田祐院長
中学関東学院初期の教職員名列︵1921年11月︶ 坂田記念館所蔵
大学卒業と同時に東京学院の教師に就任し、日本バプテスト神学校の講師を兼任した。東京学院中学部では修身を、神学校では倫理学、哲学史などを教えた。アメリカ北部バプテストは1917年︵大正6年︶3月に東京学院中学部を廃止し、横浜に新しく中学校を開設することを決定し、坂田がその責任者となった。1919年︵大正8年︶、私立中学関東学院が横浜市南太田町字霞耕地1868番地︵現・南区三春台4︶に開校し、坂田は学院長として4月9日の第1回入学式に臨み、式辞の中で関東学院の校訓となる﹁人になれ 奉仕せよ﹂について述べた。1923年︵大正12年︶9月1日の関東大震災により鉄筋コンクリートの校舎が全壊した。そこで学校の復興に尽力し、1924年︵大正13年︶にアメリカ北部バプテストから招かれ、北部バプテスト大会で復興に対する支援を訴えた。東京学院も震災で被害を受け、その復興を検討した結果、1927年︵昭和2年︶4月に東京学院と中学関東学院が合併して、横浜市に神学部、高等学部、中学部からなる財団法人関東学院を組織し、高等学部長・中学部長に就任した。また、1932年︵昭和7年︶から1946年︵昭和21年︶まで捜真女学校校長を兼務した。1933年︵昭和8年︶5月に副院長、1937年︵昭和12年︶4月に院長に就任、1944年︵昭和19年︶5月に理事長を兼務した。1940年︵昭和15年︶妻チヱが病死し、1941年︵昭和16年︶に佐々木トシと再婚した。