大淀 (軽巡洋艦)
大淀 | |
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1943年6月、呉軍港に停泊と推定される「大淀」 | |
基本情報 | |
建造所 | 呉海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦[2] |
級名 | 大淀型 |
母港 | 横須賀 |
艦歴 | |
計画 | 1939年[2](④計画) |
起工 | 1941年2月14日[1] |
進水 | 1942年4月2日[1] |
竣工 | 1943年2月28日[1] |
最期 | 1945年7月28日横転擱座[3] |
除籍 | 1945年11月20日[4] |
その後 | 1948年浮揚、解体[5] |
要目 | |
基準排水量 | 8,164英トン[1] または8,168英トン[6] |
公試排水量 |
計画 9,980トン[1] 実際 10,416.556トン[7] |
満載排水量 |
計画 10,990トン[6] 実際 11,433.373トン[7] |
全長 | 192.00m[1] |
水線長 | 189.00m[1] |
垂線間長 | 180.00m[1] |
最大幅 | 16.60m[1] |
深さ | 10.60m[1] |
吃水 |
計画 公試平均 5.95m[1][8] 満載平均 6.36m[8] 実際 公試平均 6.100m[8] 満載平均 6.500m[8] |
ボイラー | ロ号艦本式缶(空気余熱器付)6基[1] |
主機 | 艦本式タービン4基[1] |
推進 | 4軸[1] |
出力 |
計画 110,000shp[1] 公試成績 110,430shp[9] |
速力 |
計画 35.0ノット[1] 公試成績 35.199ノット[9] |
燃料 |
計画 重油 2,445トン[1] 実際 重油 2,452.910トン[7] |
航続距離 |
計画 8,700カイリ / 18ノット[1] 公試成績 10,315カイリ / 18.282ノット[10] |
乗員 | 計画乗員 782名[1] |
兵装 |
三年式15.5cm3連装砲2基[11] 九八式10cm連装高角砲4基[11] 25mm機銃 連装6基[12]または3連装6基[13](竣工時) 同 3連装12基、単装11挺(1944年8月)[14] 同 3連装12基、単装16挺[15]または21挺[13](最終時) 爆雷6個(竣工時)[16] |
装甲 |
計画[17] 機関室舷側60mmCNC鋼、甲板30mmCNC鋼 弾薬庫舷側75mmCNC鋼、甲板50mmCNC鋼 舵取機室舷側40mmCNC鋼、甲板20mmCNC鋼 舵柄室舷側、甲板20mmCNC鋼 |
搭載艇 |
竣工時:11m内火艇2、12m内火ランチ2、9mカッター2[17] 改装後:12m長官艇1、11m内火艇2、12m内火ランチ2、9mカッター2[18] |
搭載機 |
計画:一四試高速水偵(紫雲)6機[19] 実際零式三座水偵2機[20] |
レーダー |
21号電探1基[21] 22号電探2基(1944年3月装備)[22] 13号電探1基(1944年10月装備)[22] |
ソナー |
零式水中聴音機1基[23] 九三式三型探信儀1組[23] 水中信号機[24] |
その他 |
竣工時:二式1号射出機10型1基[19] 改装後:呉式二号射出機五型1基[19] |
大淀︵おおよど/おほよど︶は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦[25]︵二等巡洋艦 大淀型︶[26][27]。
艦名は、宮崎県下の最大河川である大淀川に由来する[28][29]。大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦である[30]。昭和十四年度に着手された第四次軍備充実計画︵通称④計画︶により巡洋艦乙[31]︵阿賀野型軽巡洋艦︶と共に巡洋艦丙[31]として計画され建造された[32]。
潜水艦作戦を支援するため新型水上偵察機︵紫雲︶の運用を可能とし、艦体中央部に航空機格納庫、艦後部に大型カタパルトを装備した[33]。ある種の航空巡洋艦である[33]。1942年︵昭和17年︶4月2日、呉海軍工廠で進水[34]。1943年︵昭和18年︶2月28日に竣工したが、紫雲の性能不足と太平洋戦争における戦局から潜水艦作戦に投入されることはなく、輸送作戦に従事した[35]。
1944年︵昭和19年︶3月頃より水上機格納庫を会議室に改造[注釈 1]、完成後の5月上旬から連合艦隊旗艦となり、豊田副武司令長官が座乗する[30]。連合艦隊司令部が日吉台地下壕︵慶應義塾大学日吉キャンパス内︶に移転する9月29日まで旗艦任務についた[35]。その後は再び最前線に投入され、レイテ沖海戦︵エンガノ岬沖海戦︶、礼号作戦、北号作戦等、フィリピン方面で活動した[35]。1945年︵昭和20年︶2月下旬に内地帰投後は呉練習戦隊に編入され瀬戸内海︵呉︶に停泊し、7月28日の呉軍港空襲で大破横転、沈没した[35]。
1944年春に撮影された﹁大淀﹂。1番主砲塔は右舷を指向している。
1944年︵昭和19年︶3月6日、﹁大淀﹂を連合艦隊旗艦とする改装がはじまった[113]。太平洋戦争では、日清・日露戦争のような艦隊決戦は生起せず、連合艦隊司令部が第一戦隊を直率して主力艦隊の先頭に立つような事態は起こらなかった。後方で全体指揮を執るため、連合艦隊旗艦任務のために主力艦︵大和型、長門型︶が遊兵化していた[30]。そこで﹁独立旗艦ならば戦艦でなくても巡洋艦でよいのではないか?﹂という機運が生じる[114]。海軍は潜水戦隊旗艦用として設計された﹁大淀﹂の通信能力に着目し、大型射出機を撤去して従来型の射出機と水上偵察機を搭載、格納庫を改装して司令部施設に変更、連合艦隊の旗艦となる予定であった[115]。
﹁大淀﹂の工事は5月1日に完了、豊田連合艦隊司令長官や草鹿龍之介連合艦隊参謀長を迎えて[116]、5月3日に将旗を掲げた[117]。旗艦任務は5月4日から9月29日である[35]。豊田長官は﹁大淀﹂の防御力の低さを懸念して、万一戦死したら﹁まるで日本海軍の足元を見られるようで、嫌だな﹂と渋ったという[115]。﹁戦死するなら、武蔵か大和のデッキで死にたい。こんな船の上ではいやだ﹂だったとも伝えられる[118]。高田利種参謀副長は、﹁大淀﹂の対空防御力や通信力を説明して豊田をなだめている[115]。なお﹁大淀﹂と陸上間に海底ケーブルを敷設して大本営との直接連絡をおこない、電波はケーブルを使って送信所から発信、受信のみ﹁大淀﹂で行うという方式である[119]。
5月6日[120]、篠田勝清大佐︵大淀艦長︶は戦艦﹁山城﹂艦長に補職される[121][注釈 9]。第8駆逐隊司令や第10駆逐隊司令を歴任した阿部俊雄大佐が、後任の﹁大淀﹂艦長となった[120]。
改装後の初任務はマリアナ沖海戦での柱島︵あ号作戦発令は木更津沖、5月23日より柱島︶からの直接指揮だった[123]。予想作戦海域の電波状況が悪かったため小笠原諸島に進出することも検討されたが、完全な電話施設を持った浮標を持つ柱島泊地からの指揮が望ましいとされたためである[124]。
しかしこのような処置は間に合わせのものであり、連合艦隊司令部は陸上にあって後方指揮を執るのが妥当とされた[125][126]。9月29日に連合艦隊司令部は丘に上がった[127][128]。﹁大淀﹂は連合艦隊旗艦の役目を解かれて、ただの軽巡洋艦という立場に戻った。規則のうるさい連合艦隊旗艦任務にうんざりしていた乗組員は逆に安堵し[129][130]、鈴木孝一大淀砲術長も前任の戦艦武蔵主砲発令所長勤務より﹁連合艦隊司令長官護衛任務はずっと難しかった﹂と回想している[131]。
この頃の大淀では人事異動があった[129]。8月15日、阿部俊雄大佐︵大淀艦長︶は空母﹁信濃﹂艤装員長に補職され、牟田口格郎大佐が後任の﹁大淀﹂艦長となる[132]。また、当時横須賀方面に配備されていた空母﹁雲龍﹂の対空射撃訓練に、﹁大淀﹂艦載機が協力した[133]。
建造経緯[編集]
太平洋戦争開戦前、海軍の対アメリカ戦計画では潜水艦部隊による敵主力艦隊の漸減邀撃が予定されていた。だが、広大な太平洋上を潜水艦単独で敵艦隊と接触交戦するのは困難であった。そこで潜水艦部隊の旗艦として新型の高速水上偵察機を搭載し、これにより最前線で強行偵察を行うことを目的とした偵察巡洋艦の建造が計画された[37]。航空搭載能力が重視され、軍令部の当初の要求は主砲も魚雷発射管も搭載しないものだった[38]。しかし、その後の技術会議では最上型から降ろして余っている15.5cm砲を最低2基搭載、魚雷発射管も装備した方が良いとの意見が出た[38]。これにより主砲は前部に装備、魚雷発射管は重量、場所共に余裕が無いため装備しないことになった[39]。計画では同型2隻︵第136号艦︽大淀︾、第137号艦︽仁淀︾︶が建造される予定であったが太平洋戦争勃発のため﹁仁淀﹂は建造中止となった[40]。なお、﹁仁淀﹂の艦名は後に海上自衛隊の護衛艦﹁によど﹂として陽の目を見る事になる。艦形[編集]
基本構造[編集]
大淀の船体形状は平甲板型船体である。全備排水量は1万600トンに達し、阿賀野型軽巡洋艦の7,700トンと比較しても非常に大きい[41]。強く傾斜したクリッパー・バウから艦首甲板上に主砲の﹁三年式 15.5cm︵60口径︶砲﹂を三連装砲塔に収めて背負い式に主砲塔計2基を配置した。この15.5cm砲は最上型軽巡洋艦が重巡洋艦に改装された時に降ろした15.5cm砲塔を流用している[33]。対空戦闘では、10cm高角砲と共に1万メートル付近の米軍12機編隊に撃ちこんで8機撃墜を主張しており、用兵側は有効性を評価している[42]。 2番主砲塔の基部から上部構造物が始まり、その上に司令塔を前方に組み込み、頂上部に測距儀とレーダーを乗せた塔型艦橋が立っている[43]。艦橋の後方にトラス構造の前部マストが立ち、船体中央部に集合煙路式の1本煙突が立ち、左右甲板上が艦載艇置き場となっていた。副武装の﹁九八年式 10cm︵65口径︶高角砲﹂は秋月型駆逐艦や大鳳型空母に搭載されたものと共通で、艦載艇置き場を前後に挟み込むかのように片舷2基ずつ計4基を配置していた[44]。煙突の後方には大型の箱型格納庫が設けられ、上部にトラス構造の後部マストが立っていた。格納庫後部の右舷側に水上機を運用するためのクレーンが1基が配置されており、後部甲板上の中心部に位置する44.5mの巨大なカタパルトがあった。 機関は翔鶴型航空母艦で採用された高温高圧缶を6基装備し、これを1缶1室に分けて6室に搭載した[45]。タービンはその後部に4基設置され、これも1基1室にわけて搭載された[45]。いわゆるシフト配置ではないが、この配置によって煙突を1本に纏めることに成功している[45]。公試では35.5ノット[注釈 2]、39-40ノット発揮の証言も残る[37][47]。主砲発令所勤務だった小淵は、カビエンでの対空戦闘時、主砲射撃盤の自速計が45ノットを示していたと回想している[48]。旋回性能・操舵性能も抜群だったという[49]。 本型には冷房も装備されており、居住性はよかった[28]。居住区には簡易組み立て式の三段ベッドと、不足分のハンモックがあった[50]。第三次ソロモン海戦で沈没した戦艦比叡の元乗組員が多く[51]、訓練や制裁は厳しかったという[52]。宮崎神宮から分祀した艦内神社が艦橋直下・主砲発令所の近くにあった[28]。用兵評価[編集]
﹁大淀﹂は1944年︵昭和19年︶3月に水上機格納庫を改装して司令部施設とした。格納庫を三段に仕切り、上段に幕僚寝室、中段に作戦室と幕僚事務室、下段に司令部付の事務室や倉庫があった[53]。当時の連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐は大淀の司令部施設について﹁鉄板で仕切り防火塗料を塗っただけで気持ちの良い部屋ではなかったが広さは充分で使いやすかった﹂と回想している[53]。連合艦隊長官室と参謀長室は艦橋の真下にあり、作戦室と居室の往復には露天甲板を移動する必要があった[53]。また航海中は艦橋直下の小さな作戦室を使用していたという[53]。碇泊中、前甲板には常に天幕がはられて長官や幕僚が休憩し、軍楽隊の演奏を聴きながら食事をとった[54]。 艦隊指揮を行う事を専門に建造された艦すなわち指揮専用艦としては、同時期にアメリカ海軍が運用したアパラチアン級揚陸指揮艦と同コンセプトと言える。だが艦隊旗艦としては司令部施設が狭く、マリアナ沖海戦後に連合艦隊司令部・第二艦隊・第三艦隊指揮官幕僚が集まって行われた報告および研究会は、大淀ではなく大和型戦艦の武蔵で開かれた[55]。 またレイテ沖海戦後の戦闘詳報では、用兵側から﹁司令部旗艦﹂について不満点が列挙されている。まず司令部旗艦としては攻撃力・防御力も劣り、通信能力が限定的であることから﹁旗艦不適トセラレアリ、中途半端ニテ何レトモツカザル存在ニナリ﹂と評し、司令部施設を廃して四連装魚雷発射管2基の増設を希望している[56]。 搭載レーダーには不具合があった。レイテ沖海戦時の大淀は三式一号電波探信儀三型︵13号電探︶を装備していたが、最大測定距離は瑞鶴の242kmに対し、大淀は200kmであった[57]。二式二号電波探信儀一型︵第21号電探︶と仮称二号電波探信儀二型︵第22号電探︶に関しては15.5cm主砲射撃の衝撃で故障が頻発するため使い物にならず、13号電探も無線電話・電波と混信するため測定不能となることがあった[58]。 艦のバランスも問題となった。司令部施設の改装と共に安定性が失われ[59]、最大速力発揮時に転舵すると傾斜15-20度に達し﹃相当注意ヲ要スルモノアリ﹄という状態になった[59]。この傾斜になると、高角砲の揚弾機が停止することも改善を要する点だった[60]。戦闘詳報では、次の改装時にバルジを装備して安定性を改善することを求めている[56]。だが戦局の悪化から、根本的な解決策がとられることはなかった。艦歴[編集]
建造経緯[編集]
1941年︵昭和16年︶2月14日、呉海軍工廠第3船台で起工[61]。 1942年︵昭和17年︶3月10日に﹁大淀﹂と命名された[27]。同年4月2日、昭和天皇の名代として高松宮宣仁親王︵軍令部中佐、天皇弟宮︶臨席のもと[62][注釈 3]、呉鎮守府司令長官豊田副武大将[64]、造船部工員・陸岸繋留中の各艦乗組員合計約5,000名が見守る中で進水した[61]。 同日付で横須賀鎮守府所属と定められた[65][66]。12月31日、日本海軍は田原吉興大佐[注釈 4]に対し、﹁大淀﹂艤装員長および重巡洋艦﹁青葉﹂艦長︵サボ島沖海戦で大破、呉で修理中︶の艦長兼務を命じた[要出典][68][69]。 1943年︵昭和18年︶1月20日[70]、田原は兼務を解かれる。同日付で、軍令部課長富岡定俊大佐が﹁大淀﹂艦長︵初代︶に補職された[70]。2月28日、竣工[71][35]。 竣工したものの、搭載される予定であった水上偵察機紫雲が期待されたほどの性能を発揮できず不調に終わり、潜水艦部隊による敵艦隊の漸減という戦局もなく、潜水戦隊旗艦としての能力は無意味となった[33]。魚雷発射管がなく、主砲の門数も少なく[注釈 5]、同型艦もいない﹁大淀﹂は、連合艦隊で浮いた存在になっていた。1943年の行動[編集]
1943年︵昭和18年︶2月28日の竣工後[72]、横須賀鎮守府内戦部隊に編入され、横須賀や呉で訓練に従事した[35]。4月1日、第三艦隊附属となった[73]。5月上旬、﹁大淀﹂は駆逐艦﹁新月﹂や第五十航空戦隊︵鳳翔、龍鳳︶と共に内海西部にあった[74]。アッツ島の戦いが生起すると、機動部隊︵瑞鶴、翔鶴、瑞鳳︶等と共に横須賀方面で待機する。5月29日、アッツ島の日本軍守備隊は玉砕した。5月31日、第一航空戦隊︵翔鶴、瑞鶴、瑞鳳︶、﹁大淀﹂、重巡洋艦﹁最上﹂、駆逐艦部隊[注釈 6]は横須賀から西日本へと向かう[注釈 7]。﹁大淀﹂、﹁最上﹂や駆逐艦﹁島風﹂などは柱島泊地で戦艦部隊︵長門、扶桑︶と共に停泊したが、これにより6月8日の戦艦﹁陸奥﹂爆沈に遭遇することになった[77][78]。 7月、﹁大淀﹂と第八戦隊︵﹁利根﹂、﹁筑摩﹂︶、第十戦隊︵﹁阿賀野﹂、駆逐艦5隻︶、重巡洋艦﹁最上﹂、水上機母艦﹁日進﹂からなる第一部隊は陸軍南海第四守備隊の第一次進出部隊を輸送した[79]。陸軍部隊を乗せた第一部隊は7月10日に空母﹁翔鶴﹂、﹁瑞鶴﹂などとともに内海西部を出発し、7月15日にトラックに到着[80]。それからラバウルへ向かい、7月21日に着いた[81]。その先の輸送は第十戦隊と﹁日進﹂により行われたが、その際﹁日進﹂が沈んでいる[81]。その後、ラバウルに残された第四駆逐隊以外は7月26日にトラックに戻った[81]。 8月31日、駆逐艦﹁暁﹂駆逐艦長等を歴任した篠田勝清大佐は[注釈 8]、富岡大佐の後任として﹁大淀﹂艦長に補職される[83]。10月17日にクェゼリン環礁へ進出、10日ほど警備したあとトラックに戻った。 11月下旬、連合軍はブーゲンビル島とニューブリテン島に対する攻勢を強め、ラバウル方面の防衛線は崩壊寸前だった。そこで日本軍はニューアイルランド島、アドミラルティ諸島方面の兵力を増強するため、増援部隊を内地から最前線へ輸送することになった[84]。12月17日、連合艦隊は内地〜トラック泊地〜カビエンへの輸送作戦を﹃戊号輸送作戦﹄と命名し、その実施を各部隊に下令した[84]。 12月25日、戊一号輸送部隊︵大和、谷風、山雲︶がトラック泊地に到着[85]。26日、大淀以下戊三号輸送部隊第二部隊は﹁大和﹂に横付けし[86]、同艦が日本本土から輸送してきた宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を受け入れた[87]。各艦の搭載区分は、﹁能代﹂人員400名・物件650トン、﹁大淀﹂500名・1000トン、﹁山雲﹂50名・100トン、﹁秋月﹂150名・50トン[88]。12月29-30日、戊三号輸送部隊第二部隊は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将︵旗艦﹁能代﹂︶の指揮下、軽巡洋艦﹁能代﹂、﹁大淀﹂、駆逐艦﹁秋月﹂、﹁山雲﹂の計4隻でカビエンへ向かった[89]。1月1日4時45分、カビエン着[90]。 同地カビエンで物資揚陸作業完了直後[91]、輸送部隊はアメリカ軍機約100機︵85機とも︶に襲撃された[92][93]。これはシャーマン提督が率いる空母﹁バンカー・ヒル﹂、﹁モンテレー﹂から飛来した攻撃隊だった。 第2水雷戦隊戦闘詳報では﹃作戦ニ影響セル事項﹄として﹁大淀の揚搭作業が他艦より約2時間遅れた﹂・﹁基地航空隊による哨戒が不足していた﹂事を指摘している[94]。搭載物件が多く、重砲を引き渡すまで行動を起こせなかったのが原因だった[95]。カビエン基地航空隊︵陸上基地派遣第二航空戦隊︿空母龍鳳、飛鷹﹀所属の戦闘機36︶が上空掩護を行う筈であったが敵機を排除しきれず、米軍機は第2部隊に殺到した[96][97]。 対空戦闘開始時、﹁能代﹂、﹁大淀﹂、﹁秋月﹂、﹁山雲﹂は旗艦﹁能代﹂を中心にしてその﹁右舷﹂4kmに﹁秋月﹂、左舷3kmに﹁山雲﹂、後方8kmに﹁大淀﹂という陣形をとっていた[98]。早川少将は﹁大淀﹂の直衛に﹁秋月﹂を派遣したため、戊三号輸送部隊は第一群︵能代、山雲︶と第二群︵大淀、秋月︶に分離[99]。アメリカ軍機は二手にわかれると、比較的大型の巡洋艦2隻を主として狙った[100][97]。一方日本側も2隻ずつ二手に分かれたことにより、各艦が全速を発揮しての回避運動を行うことが可能になった[101]。 ﹁大淀﹂は8時42分に射撃を開始して9時19分に砲撃を停止[102]。規定対空用主砲弾300発を撃ち尽くし、水上弾や演習弾まで発砲したという[103][104]。戦闘詳報による各艦消費弾数は、﹁大淀﹂主砲194・高角砲240・機銃4640、﹁能代﹂主砲283・高角砲29・機銃1612、﹁秋月﹂主砲190・機銃1260、﹁山雲﹂主砲94・機銃1230[105]。﹁大淀﹂は煙突近くに50kg爆弾1発が命中︵不発︶、至近弾と機銃掃射より2名が戦死[106]、4名が重軽傷、他に﹁能代﹂が直撃弾1と至近弾5で中破、﹁山雲﹂が損傷を受けた[107][108][97]。 戦闘終了後、第二水雷戦隊司令部は﹁大淀﹂に対し搭載高速水上偵察機によるアメリカ軍機動部隊捜索を指示[109]。しかし、﹁大淀﹂搭載の水上偵察機は空襲時に損傷を受けていて応急修理も間に合わず、結局﹁能代﹂は﹃一.飛行索敵ハ行ハズ 二.飛行機待機ハ昼間ノミトス﹄と下令した[110]。1月4日に﹁大淀﹂と﹁秋月﹂はアメリカ潜水艦の雷撃を受けた輸送船﹁清澄丸﹂救援に向かったため、﹁能代﹂と﹁山雲﹂に2日遅れてトラック泊地に到着し、輸送任務を終えた[111][93]。 その後﹁大淀﹂は訓練に従事し、1944年2月のトラック島空襲によりトラック泊地が壊滅する直前に退避し、日本本土へ戻った︵2月16日より横須賀で整備︶[35]。2月24日、日本を出撃し、サイパン島へ航空部隊関係の物資を輸送する[103][112]。連合艦隊旗艦大淀[編集]
レイテ沖海戦[編集]
詳細は「レイテ沖海戦」を参照
10月5日、﹁大淀﹂は小沢治三郎中将指揮する第三艦隊第一機動部隊に編入された[要検証]。10月12日、﹁大淀﹂と駆逐艦﹁霜月﹂、﹁冬月﹂は横須賀を出発、内海西部にむかう[注釈 10]。途中、遠州灘でアメリカ潜水艦﹁トレパン﹂の雷撃により﹁冬月﹂は損傷し、レイテ沖海戦に参加できなくなった[135]。
﹁大淀﹂は第三航空戦隊︵空母﹁瑞鶴﹂、﹁千代田﹂、﹁千歳﹂、﹁瑞鳳﹂︶、第四航空戦隊︵﹁日向﹂、﹁伊勢﹂︶、軽巡洋艦﹁多摩﹂、﹁五十鈴﹂、駆逐艦8隻と行動を共にすることになる[136][注釈 11]。10月20日、日本を出撃した[138]。﹁大淀﹂は第一駆逐連隊、第三十一戦隊旗艦、兼艦隊予備旗艦である[139]。当初は﹁大淀﹂が艦隊旗艦の予定であったが、小沢中将が﹁やはり機動部隊と名前がつくからには瑞鶴に乗ってやろう﹂と決めた為、﹁瑞鶴﹂が旗艦となったという[140]。
部隊に加わっていた松型駆逐艦は、航続距離が短いため途中で燃料を補給せねばならなかった[141]。﹁大淀﹂は駆逐艦﹁桐﹂に曳航補給をおこなおうとしたが、うねりのため補給に失敗している[141]。
10月25日、部隊はウィリアム・ハルゼー提督が率いるアメリカ軍機動部隊の空襲を受けた[142][143]。午前8時20分頃、アメリカ軍機100機以上が艦隊上空に到達、対空射撃を開始する[144]。午前8時35分、小型爆弾2発が四番高角砲付近に命中、機銃掃射により戦死8名、負傷14名を出した[145]。小火災が発生したが、すぐに鎮火に成功している[146]。午前8時50分、﹁大淀﹂の周囲では﹁秋月﹂が爆沈、﹁瑞鶴﹂が被弾速力低下し、﹁千代田﹂が沈没しかけていた[147]。
午前8時53分、傾斜した﹁瑞鶴﹂は﹁大淀﹂に無線代行を依頼、午前9時30-44分には﹃旗艦を大淀に変更す﹄の信号により﹁瑞鶴﹂に接近した[148]。しかし、小沢司令部が移乗する前に第二波攻撃隊が接近し、﹁大淀﹂は﹁瑞鶴﹂から離れた[149][150]。第二波攻撃終了後、小沢司令部移転のため﹁大淀﹂カッターボートを派遣するが[151]、この付近に燃料切れになった零式艦上戦闘機が不時着した[152][153]。救助できた搭乗員は1名だけだった[154][注釈 12]。実際には、さらに数名が救助されたと見られる[156]。
午前10時54分[157]、被雷・被弾炎上した﹁瑞鶴﹂から小沢中将以下司令部が移乗している[158]。午後2時40分、﹁瑞鶴﹂が沈没[159]。続いて﹁瑞鳳﹂も沈没した。﹁大淀﹂は主砲対空弾238発を消耗し、定数2割程度︵残68発︶になるほど奮戦した[160][161]。夜間、軽巡洋艦﹁五十鈴﹂、駆逐艦﹁若月﹂、﹁初月﹂がアメリカ軍重巡洋艦部隊と交戦し、﹁初月﹂が沈没した[162]。小沢中将は﹁大淀﹂を含めた残存艦隊を率いて艦隊決戦のために南下したが会敵できず[163]、奄美大島に向かって北上、戦場を離脱した[164]。﹁大淀﹂は10月27日に奄美大島に入港した[165]。﹁大淀﹂はアメリカ軍機撃墜27機を記録[166]。さらに作戦そのものについて、戦闘詳報では﹁敵軍上陸して数日を経過し敵の防御体勢累整備し居る港湾に何等の術策を用いず単純一突入する事は将に自殺的行為と云ふを得べく﹂と厳しく批判している[167]。
横転大破し、着底した﹁大淀﹂
3月19日、呉をアメリカ軍機動部隊の艦上機が襲撃した。日本軍は当初友軍機編隊と判断していたため、反応が遅れた[218]。﹁大淀﹂は艦中央部右舷への至近弾により艦底を破損し、浸水して右舷に傾斜した[219]。また直撃弾が2発あり、1発目は煙突付近に命中して罐室を破壊、2発目は第二機関室を破壊して喫水線上部に大孔をあけ、機関科員を中心に戦死者52名を出した[220]。この被害によって6基の缶のうち4基が使用不能となった[45]。ドックに入って舷側の穴を塞ぐなどの応急修理は行われたが、破損した機関部の補修など抜本的な修理は実施されず対空火器も一部破損したままであった[45]。
5月15日、松浦︵大淀艦長︶は詫間海軍航空隊司令へ転任[221]。駆逐艦﹁雪風﹂初代駆逐艦長、駆逐艦﹁初月﹂初代駆逐艦長等を歴任した田口正一大佐[222]︵当時、海軍航海学校教官︶が[223]、後任の﹁大淀﹂艦長に補職される[221]。その後江田島湾に曳航されて迷彩塗装やカモフラージュの偽装が施され、浮き砲台となった[214]。すぐ近くには同じく曳航されて浮き砲台となった重巡洋艦﹁利根﹂の姿があった[214]。
7月24日、呉がアメリカ軍機動部隊艦載機の襲撃を受けた際に﹁大淀﹂は500ポンド爆弾3〜4発が命中、右に傾斜して着底した[224]。駆けつけた住民︵漁船︶も消火に協力し[注釈 17]、26日夕方になり鎮火に成功した[226]。また排水作業によって傾斜も復旧された[45]。
7月28日、ふたたびアメリカ艦載機による空襲︵呉軍港空襲︶を受けた[227]。午前10時ごろ艦橋近くの被弾によって大規模な浸水が発生し、右に傾斜した。田口艦長は傾斜を防ぐために注水弁開けを指示したが[45]、次々に命中する爆弾による浸水のために転覆を防ぐことが出来なかった[228]。12時ごろ、﹁大淀﹂は右に横転した。現場は浅い海岸だったので、船体の一部のみ海面に出した状態で完全に船体は横倒しとなり、艦橋も左に大きく根元から歪んだ[45]。
24日と28日の戦闘による﹁大淀﹂の戦死者は223名、負傷者は180名だったという[212]。転覆後もさらに攻撃がおこなわれ、舷側に爆弾が命中している[45]。
8月15日︵終戦の日︶、田口︵大淀艦長︶は職務を解かれた[229]。﹁大淀﹂は同年11月に除籍された。戦後、アメリカ軍による被害調査が行われた[45]。至近距離で炸裂した爆弾の水圧によって広範囲にわたって艦底が陥没している様子や、空中発射のロケット弾によって0.5インチの鋼板が貫通している様子などが写真に残されている[45]。
﹁大淀﹂の損傷程度や転覆地点の状況などが比較的良好のため、完全浮揚してから解体されることになり[230]、1947年(昭和22年)に船体の引き起こしと浮揚作業が行われた[231]。
浮揚後は播磨造船所呉船渠(旧呉海軍工廠)の第4船渠に入り[232]、1948年(昭和23年)1月6日から解体に着手し[5]、その後第3船渠に移り[232]、8月1日に解体を完了した[5]。
﹁大淀﹂が沈没した飛渡瀬の海岸には、慰霊碑が建立されている[233]。
フィリピンの戦い[編集]
10月28日、小沢艦隊司令部は﹁大淀﹂から日向に移乗した[168]。第三十一戦隊司令部も退艦し、﹁大淀﹂は旗艦任務を解かれた[169]。負傷者は戦艦﹁伊勢﹂に移され、10cm高角砲弾は内地へ戻る﹁霜月﹂から補充を受けている[170]。﹁大淀﹂と﹁若月﹂は小沢艦隊残存部隊と別れ、フィリピン方面に向かう[171][注釈 13][注釈 14]。10月31日、マニラ湾に到着して補給を受けたが、15.5センチ砲弾の在庫がなく、主砲弾は未だ補充されていない[176]。ここで﹁若月﹂と別れた。﹁大淀﹂の牟田口艦長は南西方面艦隊司令部から空襲の危険性を告げられ、ミリ泊地への移動を決意する[177]。11月5日の出港直後、マニラ湾はアメリカ軍機動部隊の空襲をうけ、重巡洋艦﹁那智﹂が沈没した[177]。 ミリ泊地へ移動後、停泊・総員洗濯中にB-24爆撃機3機の爆撃を受けたが、﹁大淀﹂の被害はなかった[178]。ブルネイ泊地に移動後し、重巡洋艦﹁高雄﹂や第二遊撃部隊の残存艦﹁足柄﹂と合流する[179]。11月11日、栗田健男中将の第二艦隊がブルネイに入港し、﹁大淀﹂は﹁大和﹂︵同艦副砲は15.5cm砲︶から15.5cm砲対空砲弾を譲り受けた[180]。11月18日、戦艦﹁伊勢﹂、﹁日向﹂、﹁榛名﹂、重巡洋艦﹁足柄﹂、﹁羽黒﹂、駆逐艦﹁霞﹂、﹁朝霜﹂とリンガ泊地へ移動する[181]。 12月14日、第二水雷戦隊旗艦となる[182]。同月、アメリカ軍のミンドロ島侵攻に伴う突入作戦︵礼号作戦︶に参加[183]。突入作戦を指揮する第二水雷戦隊司令官木村昌福少将は[184]、当初駆逐艦のみでの実行を希望したが、南西方面艦隊の意向に従い、﹁大淀﹂も加えられた[185]。さらに、巡洋艦が加わるのであれば2隻以上欲しいとの木村司令官の意見具申により重巡洋艦﹁足柄﹂も加えられた[186]。結果巡洋艦2隻、駆逐艦6隻となった突入部隊は、挺身部隊と呼称された[187]。12月24日、木村少将は旗艦を﹁大淀﹂から駆逐艦﹁霞﹂に変更し、挺身部隊を率いてカムラン湾を出撃する[188]。12月26日、挺身部隊はアメリカ軍機に発見され、その後爆撃を受けて被害が発生した[189]。 ﹁大淀﹂はB-25爆撃機とPB4Y︵哨戒爆撃機︶から夜間空襲を受けた[190][注釈 15]。21時時1分、﹁大淀﹂に250kg爆弾2発が命中、2発が至近弾となったがいずれも不発で、軽傷者1名が出た。直撃弾1発目は一番砲塔から10m前方を貫通・左舷喫水線上を突き破り、2発目は煙突右から中甲板を貫通・罐室に飛び込んだ[192]。仮に起爆していた場合、轟沈していた可能性もあった[193]。この被弾により1号罐室が使用不能、3号罐室から蒸気が噴出、最大発揮速力32ノットに低下する[194]。このときの不発弾は後日シンガポールの海軍基地に送られ不発処理をされ、艦内の大淀神社に祭られた[45]。 続いてアメリカの魚雷艇が出現し、﹁足柄﹂、﹁大淀﹂、﹁霞﹂が砲撃を行った[195]。その後、挺身部隊は23時2分から27日0時4分にかけてマンガリン湾内の船舶やブグサンガ川河口の物資集積所及び飛行場を攻撃した[196]。大淀は15.5cm通常弾42発、徹甲弾31発、照明弾25発、高角砲弾61発を発砲した[197]。帰路、﹁足柄﹂と﹁大淀﹂はアメリカの魚雷艇﹁PT-221﹂と﹁PT-223﹂と交戦した[198]。﹁足柄﹂と﹁大淀﹂、駆逐艦2隻は12月28日にカムラン湾に帰投[199]。残りも29日に帰投した[199]。 1945年︵昭和20年︶1月1日、第二水雷戦隊旗艦は﹁大淀﹂から駆逐艦﹁霞﹂に変わった[200]。2月10日、北号作戦に参加した[201]。輸送部隊︵完部隊︶は第四航空戦隊︵日向、伊勢、大淀︶、第二水雷戦隊︵駆逐艦霞、朝霜、初霜︶で構成されており、部隊を第四航空司令官松田千秋少将が指揮した[202][203]。 これに先立って、﹁大淀﹂は格納庫を改造して設置されていた司令部区画を改造して物資輸送庫とした[45]。輸送庫にドラム缶を満載し、そのうえに防弾の意味もふくめて天然ゴムを積んでシンガポールを出港する[204]。2月20日、参加艦艇は全艦無事に日本本土・呉軍港に到着した[205]。索敵に投入した﹁大淀﹂偵察機2機も[206]、陸上基地を経由して無事に﹁大淀﹂へ戻っている[207][208]。 だが呉に到着したものの、作戦行動する燃料もなく、2月25日付で呉練習戦隊に編入された[209]。同25日付で、牟田口格郎大佐︵大淀艦長︶は﹁伊勢﹂艦長へ転任した[210][注釈 16]。空母﹁伊吹﹂艤装員長松浦義大佐が、﹁大淀﹂艦長に補職される[210]。3月、﹁大淀﹂水上機搭乗員および整備員は軽巡洋艦﹁矢矧に配属された[214][215]。﹁大淀﹂乗組員の間では﹁大和﹂の沖縄水上特攻に参加することも噂されていたが[216]、その機会はなかった[217]。着底大破[編集]
同型艦[編集]
●第137号艦‥予定艦名﹁仁淀﹂[234]。﹁大淀﹂と同様に④計画の巡洋艦丙[31]として計画され、呉海軍工廠で建造予定だったが、開戦直前に起工取り止めとなった[235]。 この他、昭和12年〜16年頃に大淀型とほぼ同様の船体を持つ防空巡洋艦︵65口径10cm連装高角砲12基を装備︶が検討されたが、建造コストの高さからペーパープランに終わっている[236]。歴代艦長[編集]
※脚注無き限り﹃艦長たちの軍艦史﹄176-178頁、﹃日本海軍史﹄第9巻・第10巻の﹁将官履歴﹂に基づく。艤装員長[編集]
艦長[編集]
- 富岡定俊 大佐:1943年1月20日[70] - 1943年8月29日[83]
- 篠田勝清 大佐:1943年8月29日[83] - 1944年5月6日[120]
- 阿部俊雄 大佐:1944年5月6日[120] - 1944年8月15日[132]
- 牟田口格郎 大佐:1944年8月15日[132] - 1945年2月25日[210]
- 松浦義 大佐:1945年2月25日[210] - 1945年5月15日[221]
- 田口正一 大佐:1945年5月15日[221] - 1945年8月15日[229]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 改造開始時点の連合艦隊司令部︵長官古賀峯一大将、参謀長福留繁中将︶は海軍乙事件で機能を失った[36]。
(二)^ 内田航海長によれば36ノットを突破した[46]。
(三)^ (昭和19年4月1日)[63]︹ 四月一日(水)晴凉シ(略)〇八三〇進水式ニ対スル拝謁。〇九〇〇工廠視察。一三〇〇桟橋発、大向崎ノガードループ実験見学、一七三〇帰。一八三〇長官艇晩餐 ︺- ︹ 四月二日(木)晴 一〇〇〇﹁大淀﹂進水式、大イニ朝待ママ屈ス。一二三〇﹁大淀﹂ニ対スル説明ヲキク。一三五二呉発オクル、一四〇〇発。 ︺
(四)^ 12月17日まで軽巡洋艦長良艦長[67]。後任の長良艦長は篠田勝清大佐[67]。
(五)^ ただし対空兵装は新型高性能の長10cm高角砲(連装)を4基装備し、その火力は秋月型駆逐艦に匹敵する。
(六)^ 秋月型駆逐艦︵新月、涼月、初月︶、第27駆逐隊︵時雨、有明︶[75]。
(七)^ ︵昭和18年5月31日︶[76]︹ ○第三艦隊(三一-一〇一八)第三戦隊(﹁金剛﹂欠)、第七、第八、第十戦隊(﹁阿賀野﹂﹁風雲﹂﹁雪風﹂﹁浜風﹂﹁谷風﹂﹁嵐﹂)、以上五-三〇、第一航空戦隊、﹁最上﹂﹁大淀﹂、第二十駆逐隊(﹁白露﹂欠)、第六十一駆逐隊(﹁秋月﹂欠)、﹁新月﹂、以上五-三一、﹁横﹂発。︽第三艦隊、機動作戦ヲ中止、内海西部ニテ訓練︾︺
(八)^ 8月16日まで長良艦長[82]。
(九)^ 篠田はレイテ沖海戦のスリガオ海峡夜戦で、同艦沈没時に戦死した[122]。
(十)^ 一部の資料では、空母﹁雲龍﹂も加わっていたと記述する[134]。
(11)^ 第61駆逐隊︵初月、若月、秋月︶、第41駆逐隊︵霜月︶、松型駆逐艦4隻︵桐、杉、槇、桑︶[137]。
(12)^ 南義美少尉で、日中戦争時代からの熟練搭乗員であった[155]。11月25日、神風特別攻撃隊として出撃、戦死した[155]。
(13)^ 内田航海長は同航艦を駆逐艦若葉と回想するが[172]、同艦はレイテ沖海戦中の10月24日に沈没している[173]。
(14)^ 大塚は同航艦を駆逐艦涼月とするが[174]、同艦は呉で修理中である[175]。
(15)^ ポール・スティーヴン︵PBY4の機長談︶[191]。
(16)^ 牟田口大佐は[211]、呉軍港空襲で伊勢が大破した時に戦死した[212][213]。
(17)^ 田口艦長によれば消火には効果がなかったが、死傷者の運搬に活躍した[225]。
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrst#昭和造船史第1巻784-785頁。
(二)^ ab#日本巡洋艦史148頁。
(三)^ #軽巡阿賀野型・大淀p.60。
(四)^ #軽巡阿賀野型・大淀p.36、落合康夫﹁﹃軽巡大淀﹄行動年表﹂。
(五)^ abc#軽巡阿賀野型・大淀p.66。
(六)^ ab﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂2頁の計画値﹁註.上記ノモノハ昭和十四年十月六日艦本機密決第五三一号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス﹂。
(七)^ abc﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂30頁。
(八)^ abcd﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂38頁。註として﹁1) 上記計画ハ昭和14年10月6日艦本機密決第531号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス2) 上記現状ハ昭和18年2月17日施行ノ重心公試(呉)成績書ニ依ル﹂
(九)^ ab﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂2頁の現状値。
(十)^ #JapaneseCruisersp.642.
(11)^ ab﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂4頁。
(12)^ #海軍艦艇公式図面集12.巡洋艦・大淀昭和18年、#日本海軍艦艇公式図面集2軽巡大淀一般艤装図 艦橋諸平面︵新造時︶
(13)^ ab#JapaneseCruisersp.627.
(14)^ #世界巡洋艦物語﹁あ号作戦後の兵装増備の状況調査﹂354,356頁。
(15)^ #日本海軍艦艇公式図面集2解説文にある最終時兵装。
(16)^ ﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂6頁の現状値。
(17)^ ab﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂20頁。
(18)^ #日本海軍艦艇公式図面集2軽巡﹁大淀﹂一般艤装図 上甲板平面︵改装後︶
(19)^ abc#鈴木範樹﹁軽巡﹃大淀﹄に装備された航空兵装﹂
(20)^ #日本海軍艦艇公式図面集2畑中省吾による解説文。
(21)^ #海軍艦艇公式図面集12.巡洋艦・大淀昭和18年、#日本海軍艦艇公式図面集2軽巡﹁大淀﹂一般艤装図 舷外側面︵新造時︶
(22)^ ab#JapaneseCruisersp.632.
(23)^ ab﹁二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査﹂14頁。
(24)^ #海軍造船技術概要p.364。
(25)^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 176a日本/二等巡洋艦﹁大淀﹂級 OYODO CLASS
(26)^ #内令昭和17年3月(1) p.46︹ 内令第四百十九號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年三月十日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等﹁阿賀野型﹂ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ||大淀型|大淀|| ︺
(27)^ ab#達昭和17年3月(1) p.10︹ 達第六十六號 呉海軍工廠ニ於テ建造中ノ巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十七年三月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|二等巡洋艦 大淀︵オホヨド︶︺
(28)^ abc小淵守男 2011, p. 164.
(29)^ 小淵守男 2011, p. 259.
(30)^ abc豊田副武 2017, pp. 143–149最後の連合艦隊
(31)^ abc昭和13年9月19日付 海軍省﹃昭和14年度海軍軍備充実計画細項ニ関スル対大蔵省説明資料﹄、昭和13年7月11日付 艦政本部総務部第一課﹃次期補充計画艦種ノ仮称ニ関スル件覚﹄など。海軍省が作成調製した資料では、乙巡、丙巡の文言は使用されていない。
(32)^ 福井静夫﹃日本巡洋艦物語﹄光人社321、322、328頁
(33)^ abcd世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 176b.
(34)^ #S1701呉鎮日誌(8) p.14︹ 二|快晴 一二 一〇|二日附大淀ノ本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル| | |軍艦大淀進水式施行 ︺
(35)^ abcdefgh#軽巡二十五隻339-440頁﹃大淀型(一隻)大淀(おおよど)﹄
(36)^ 豊田副武 2017, pp. 135–138古賀司令長官
(37)^ ab指揮官たちの太平洋戦争 1996, p. 340.
(38)^ ab#海軍造船技術概要p.362。
(39)^ #海軍造船技術概要pp.362-363。
(40)^ 庭田、建艦秘話 1965, p. 317.軽巡大淀について
(41)^ 小淵守男 2011, p. 165.
(42)^ #大淀捷1号、48頁
(43)^ 小淵守男 2011, p. 168.
(44)^ 小淵守男 2011, p. 174.
(45)^ abcdefghijklm雑誌 丸 2011年10月号
(46)^ #軽巡二十五隻281頁︹ 公試運転のときの大淀は、満載排水量一万六〇〇トン、速力三十六ノットを突破するという、すばらしい記録を出した ︺
(47)^ #大塚、錨と翼22頁(大塚︽水上機搭乗員︾によれば、エンガノ岬沖海戦時﹁只今の速度四十ノット﹂の艦内放送あり)
(48)^ 小淵守男 2011, p. 187.
(49)^ #軽巡二十五隻281頁(内田信義中佐、当時大淀航海長)
(50)^ #大淀生涯、214頁
(51)^ 小淵守男 2011, p. 176.
(52)^ 小淵守男 2011, pp. 213–214.
(53)^ abcd聯合艦隊作戦室 2008, p. 189.
(54)^ 小淵守男 2011, p. 246.
(55)^ 戦藻録 1968, p. 366六月廿六日 月曜日 雨
(56)^ ab#大淀捷1号、43頁
(57)^ #捷号詳報(3)p.3
(58)^ #捷号詳報(3)pp.4-5
(59)^ ab#大淀捷1号、44頁
(60)^ #大淀捷1号、51頁
(61)^ ab庭田、建艦秘話 1965, p. 32.
(62)^ #昭和天皇実録八巻 678-679頁︹ (四月)二日 木曜日(略)呉海軍工廠において軍艦大淀命名式挙行につき、宣仁親王を差し遣わされる。︺
(63)^ #高松宮日記4巻201頁
(64)^ #S1701呉鎮日誌(7) p.16︹ 二日一〇〇〇呉鎮長官|海軍大臣|呉鎮機密第四八六番電 軍艦大淀一〇〇〇無事進水ヲ了ス|無電 ︺
(65)^ #内令昭和17年4月(3) p.21︹ 内令第六百八號 軍艦 大淀 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十七年四月二日 海軍大臣嶋田繁太郎 ︺
(66)^ #S1701呉鎮日誌(7) p.16︹ 二日一六〇〇海軍大臣|二日一七五二横鎮長官(呉鎮長官)|官房機密第六〇九番電 四月二日附大淀ノ本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|無電 ︺
(67)^ ab﹁昭和17年12月17日(発令12月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1015号 p.23﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072088600
(68)^ ab﹁昭和18年1月6日(発令昭和17年12月31日付)海軍辞令公報(部内限)第1024号 p.3﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072089000
(69)^ 補職されてはいるが、命じられてはいない。嘘を書くな。
(70)^ abcd﹁昭和18年1月22日(発令1月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1038号 p.15﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072089400
(71)^ #S1801呉鎮日誌(4) p.42︹ 廿八日一一〇〇呉鎮長官|海軍大臣(略)軍艦大淀二月二十八日授受結了 ︺
(72)^ #S1801呉鎮日誌(4) p.64︹ 廿八(略)二.大淀呉工廠ニ於テ竣工 ︺
(73)^ 軽巡洋艦﹃大淀﹄行動年表、158ページ
(74)^ #叢書29北東方面 519-521頁︹ 一般情勢と聯合艦隊の状況﹄
(75)^ #S1805四水戦日誌(1) p.71︹31日(天候略)|一.27dg(白露欠)0900内地西部ニ向ケ横須賀発(1sf大淀最上直衛) ︺
(76)^ #高松宮日記6巻 327-328頁
(77)^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 9–12﹁陸奥﹂爆沈の目撃者
(78)^ 小淵守男 2011, p. 166.
(79)^ ﹃中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降﹄357、372-373ページ
(80)^ ﹃中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降﹄357、372ページ
(81)^ abc﹃中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降﹄373ページ
(82)^ ﹁昭和18年8月16日(発令8月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1093号 p.35﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072092500
(83)^ abc﹁昭和18年8月31日(発令8月29日付)海軍辞令公報(部内限)第1099号 p.27﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072092600
(84)^ ab#戦史叢書96ガ島撤収後461-462頁﹃戊号輸送計画﹄
(85)^ #S1812第十戦隊日誌(1) p.41︹ 25 1500(宛略)大和谷風山雲トラック着 ︺
(86)^ 小淵守男 2011, p. 177.
(87)^ #S1812二水戦日誌(1) p.71︹26日0512戊三号輸送人員物件搭載ノ為大和ニ横付物件搭載ヲ初ム/0742大和ヨリ横付ヲ離ス ︺
(88)^ #S1812二水戦日誌(2) pp.40-41︹ (イ)第一部隊終了後令ニ依リ巡洋艦及駆逐艦ノ順序ニ輪番大和ニ対スル横付舷ヲ左ノ通定ム 大和ノ右舷、能代・山雲 同左舷、大淀・秋月|(ロ)搭載区分 ︺
(89)^ #カビエング沖対空戦闘詳報 p.4、#大淀生涯 187頁
(90)^ #S1812二水戦日誌(2) p.9︹1月1日快晴0445/第二部隊﹁カビエン﹂着揚搭作業開始 ︺
(91)^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 199–202長十センチ高角砲の威力
(92)^ #カビエング沖対空戦闘詳報 p.5︹ 0852 敵機大編隊(約100機)右30度(20度方向)約20粁三群ニ分レ近キ一群ハ北方ヨリ二群ハ北西方ヨリ襲撃態勢ヲトル ︺
(93)^ ab#戦史叢書96ガ島撤収後463頁﹃作戦輸送の実施﹄
(94)^ #S1812二水戦日誌(2) p.21︹ (イ)能代、秋月、山雲ハ0630迄ニ揚搭完了セシモ大淀ハ0845ニ至リ漸ク終了シ為ニ全軍避退ノ時機ヲ遅延シ敵機ノ来襲ヲ受クルニ至レリ|(ロ)東正面ニ対スル飛行哨戒不充分ニシテ早期ノ敵空母ヲ確認シ得ザリシコト ︺
(95)^ #軽巡二十五隻284頁︹ カビエン沖で受けた洗礼 ︺
(96)^ #S1812二水戦日誌(2) p.7︹ (3)上空警戒ハ揚陸中及﹁カビエン﹂発当日概ネ日没時迄﹁カビエン﹂基地戦闘機隊(2Sf戦闘機36機増援)ニ依ル ︺
(97)^ abc#戦史叢書96ガ島撤収後464-465頁﹃第二次カビエン空襲(一月一日)﹄
(98)^ #カビエング沖対空戦闘詳報 p.8
(99)^ #S1812二水戦日誌(2) p.10︹ 0845将旗2sd→秋月/秋月ハ大淀ノ警戒ニ当レ|能代山雲及大淀秋月ノ2組ニ分散間隔概7粁ニテ上空直衛機援護下ニ対空戦闘開始 ︺
(100)^ #S1812二水戦日誌(2) p.10︹ 0855 敵機ハ二群ニ分離シ来襲 主トシテ能代大淀ニ雷爆銃撃ヲ行フ ︺
(101)^ #S1812二水戦日誌(2) p.36︹ (一)今回ノ﹁カビエン﹂ニ於ケル対空戦闘ニ於テハ立上リヨリ能代山雲及大淀秋月ノ2組ニ分散シ其ノ間隔概ネ7粁ナリシモ終始運動上相互ニ危険ノ考慮ヲ感ゼズ 対空戦闘ニ於テハ支援並ニ回避運動上概ネ5粁ノ間隔ヲ有スルヲ適当ト認ム ︺
(102)^ #S1812二水戦日誌(2) pp.19-20︹ 自隊(艦)及友軍ノ戦闘経過 ︺
(103)^ ab指揮官たちの太平洋戦争 1996, p. 341.
(104)^ 小淵守男 2011, p. 193.
(105)^ #S1812二水戦日誌(2) p.20︹ 発射弾数 ︺
(106)^ 小淵守男 2011, p. 196.
(107)^ #カビエング沖対空戦闘詳報 pp.9-13
(108)^ #S1812二水戦日誌(2) p.34︹ 戦果及被害 (二)大淀(1)船体兵器機関 極メテ軽イ (2)人員 戦死2・重軽傷4・計6︺
(109)^ #S1812二水戦日誌(2) p.14︹ 1158 敵機動部隊ノ動静以前不明ニシテ現針路ノ続行ニ対シ梢々不安ナリ、大淀ノ高速水偵ヲ以テ索敵セシメントス 2sd→大淀﹁為シ得レバ飛行機ヲ発進シ敵空母ノ西進中ナルヤヲ確メ﹁カビエン﹂又ハ﹁トラック﹂ニ帰投セシメヨ、空母ノ位置0845ニソ四ソメ針路320度速力25節 ︺
(110)^ #S1812二水戦日誌(2) p.14︹ 1430将旗2sd→大淀/大淀ハ飛行機1機応急修理完成次第第15分間待機トナセ ︺-︹ 1552 大淀ノ飛行機ハ被空襲時ノ応急修理完成セズ、敵機動部隊ノ来襲ノ算減少ニヨリ索敵ニ使用セザルコトトス ︺
(111)^ #S1812二水戦日誌(2) pp.17-18︹1月4日1333大淀秋月﹁トラック﹂着 戊第参号輸送終了 ︺
(112)^ 小淵守男 2011, pp. 232–246サイパン特急往復一週間
(113)^ 小淵守男 2011, pp. 243–246﹁大淀﹂連合艦隊旗艦となる日
(114)^ 豊田副武 2017, p. 144.
(115)^ abc指揮官たちの太平洋戦争 1996, p. 342.
(116)^ 草鹿龍之介 1979, p. 225.
(117)^ 聯合艦隊作戦室 2008, p. 191.
(118)^ 海軍反省会(4) 2013, p. 449高田利種︵海兵46期︶談
(119)^ 豊田副武 2017, p. 145.
(120)^ abcd﹁昭和19年5月8日(発令5月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1465号 p.19﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072098100
(121)^ 小淵守男 2011, p. 245.
(122)^ 小淵守男 2011, p. 343-344.
(123)^ 豊田副武 2017, pp. 154–158兇報来
(124)^ 聯合艦隊作戦室 2008, p. 194.
(125)^ 豊田副武 2017, p. 149.
(126)^ 草鹿龍之介 1979, pp. 290–293連合艦隊司令部を地上に移す
(127)^ 聯合艦隊作戦室 2008, p. 217.
(128)^ 海軍反省会(4) 2013, p. 486.
(129)^ ab小淵守男 2011, pp. 247–249.
(130)^ #大塚、錨と翼15-16頁﹃GF司令部が陸上へ﹄
(131)^ 指揮官たちの太平洋戦争 1996, p. 345.
(132)^ abc﹁昭和19年8月18日(発令8月15日付)海軍辞令公報(甲)第1567号 p.13﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072100600
(133)^ #大塚、錨と翼17-18頁﹃要務飛行﹄
(134)^ 倉橋友二郎 1987, pp. 130–131冬月被雷す
(135)^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 192.
(136)^ 小淵守男 2011, pp. 256–260小沢艦隊十七隻粛々と出撃す
(137)^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 295–296.
(138)^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 159–161本艦隊の損害はかえりみず
(139)^ #大淀捷1号、3頁
(140)^ 海軍反省会(4) 2013, p. 349鈴木孝一(海兵59期。昭和19年時 大淀砲術長)談。
(141)^ ab小淵守男 2011, pp. 265–266.
(142)^ 小淵守男 2011, pp. 280–282小沢艦隊に襲いかかる敵延五百機
(143)^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 167–169敵機ついに来襲
(144)^ #大淀捷1号、8、12頁
(145)^ #大淀捷1号、8、13-14頁
(146)^ #大淀捷1号、37-38、59-60頁
(147)^ #大淀捷1号、9、15頁
(148)^ #大淀捷1号、15、31頁
(149)^ #軽巡二十五隻285-286頁﹃ワレ旗艦ヲ大淀ニ移ス﹄
(150)^ 指揮官たちの太平洋戦争 1996, p. 347.
(151)^ 小淵守男 2011, pp. 288–292空母なき直衛機の末路
(152)^ #軽巡二十五隻13-14頁
(153)^ #大塚、錨と翼23頁
(154)^ #大淀生涯、307頁、#大淀捷1号、9頁
(155)^ ab小淵守男 2011, p. 291.
(156)^ 空母瑞鳳の生涯 1999, p. 397.
(157)^ #大淀捷1号、17頁
(158)^ 小淵守男 2011, pp. 293–297燃える﹁瑞鶴﹂より小沢長官救出
(159)^ #大淀捷1号、19頁
(160)^ 小淵守男 2011, p. 486(付録)10月24~25日 対空戦消耗兵器表
(161)^ #大淀捷1号、52、68頁
(162)^ #大淀捷1号、9、32頁
(163)^ #軽巡二十五隻287-288頁﹃姿なき仇敵をもとめて﹄
(164)^ 小淵守男 2011, pp. 309–310.
(165)^ #大淀捷1号、10頁
(166)^ #大淀捷1号、37頁
(167)^ #大淀捷1号、42頁
(168)^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, p. 178.
(169)^ #捷号日誌(4)、14頁
(170)^ 小淵守男 2011, pp. 313–314.
(171)^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 317–318.
(172)^ #軽巡二十五隻289頁
(173)^ 指揮官たちの太平洋戦争 1996, pp. 364–367.
(174)^ #大塚、錨と翼26頁
(175)^ 倉橋友二郎 1987, pp. 132–134凉月の突貫工事間に合わず
(176)^ 小淵守男 2011, p. 317.
(177)^ ab小淵守男 2011, p. 319.
(178)^ 小淵守男 2011, p. 320.
(179)^ 小淵守男 2011, p. 323.
(180)^ 小淵守男 2011, pp. 355–358.
(181)^ 小淵守男 2011, p. 366.
(182)^ #S1911二水戦日誌(1) p.17︹ 備考(略)三.十二月十四日以降一時将旗ヲ大淀ニ掲揚ス大淀ノ行動朝霜ニ同シ ︺- p.61︹ 二八(天候略)二〇三〇将旗ヲ大淀ニ移揚ス ︺
(183)^ 小淵守男 2011, pp. 373–376.
(184)^ 草鹿龍之介 1979, pp. 343–345ミンドロ島へ逆上陸
(185)^ 戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、582ページ
(186)^ 戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、582-582ページ
(187)^ 戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、583、585ページ
(188)^ 戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、588ページ
(189)^ 戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、589、591ページ
(190)^ #大淀ミンドロ詳報(1)、6、9-10頁
(191)^ 小淵守男 2011, pp. 385–389.
(192)^ 小淵守男 2011, pp. 376–379敵機の猛襲を排除、サンホセ突入
(193)^ #軽巡二十五隻290頁
(194)^ #大淀ミンドロ詳報(1)、7、12頁
(195)^ 戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、591ページ、日本水雷戦史、598ページ
(196)^ 戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、592-593ページ
(197)^ #大淀ミンドロ詳報(2)、27-28、54頁
(198)^ 日本水雷戦史、605ページ
(199)^ ab戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦、595ページ
(200)^ #S1911二水戦日誌(2) p.10︹ (1)一日昭南歸着将旗ヲ大淀ヨリ霞ニ復歸ス ︺
(201)^ #軽巡二十五隻291-292頁﹃最後の物資輸送に成功す﹄
(202)^ #S20大淀戦闘詳報 p.4︹ (イ)任務企圖 軍艦大淀ハ大海機密第〇四一四三七番電GF電令作第五一〇號及SBB電令作第三號ニ依リ昭南セレター軍港ニ於テ軍務機密第〇六一八五〇番電及〇八一六四二番電ニ依ル人員並ニ重要物資ヲ急速搭載シ完部隊︹4sf(日向伊勢大淀)2sd(霞初霜朝霜)︺ヲ編制、4sf司令官指揮ノモトニ昭和二十年二月十日一七〇〇﹁セレター﹂軍港出撃敵策動海面ヲ強行突破シ内海西部ニ回航スルト共ニ本緊急重要物資ヲ内地ニ輸送セント企圖ス ︺
(203)^ #S20.04二水戦詳報(1) pp.7-8︹ (3)自二月十日至二月二十日(部隊)北號作戰部隊(完部隊)|(指揮官)4sf司令官|(兵力)4sf(日向伊勢大淀)(編制)GF/2sd︹霞(旗艦)21dg(初霜朝霜)(編制)2F/1dg(神風野風)汐風ハ一時指揮ヲ受ク|南方所在人員及重要物資ノ緊急内地還送 ︺
(204)^ 小淵守男 2011, pp. 401–402.
(205)^ 小淵守男 2011, pp. 409–411全艦無事帰投、作戦成功す
(206)^ 小淵守男 2011, p. 404.
(207)^ #S20大淀戦闘詳報 p.49︹ 二十日一九二〇大淀|(司令長官)4sf|タナ七 本艦飛行機二機共呉空着異状ナシ ︺
(208)^ #大塚、錨と翼42頁
(209)^ #S1812呉練習戦隊(4) p.3︹ (二)二月二十五日附大淀當戰隊ニ編入生徒乗艦實習準備中 ︺
(210)^ abcd﹁昭和20年3月2日(発令2月25日付)海軍辞令公報(甲)第1735号 p.8﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072103600
(211)^ 小淵守男 2011, p. 442.
(212)^ ab小淵守男 2011, p. 475.
(213)^ ﹁昭和20年11月14日(発令7月24日付)海軍辞令公報(甲)第1982号 p.26﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072108200
(214)^ abc小淵守男 2011, pp. 465–466.
(215)^ #大塚、錨と翼43-44頁﹃転勤・即・出撃(菊水作戦)﹄
(216)^ 小淵守男 2011, pp. 415–416戦艦﹁大和﹂と原爆をめぐる流言
(217)^ 小淵守男 2011, pp. 440–444﹁大淀﹂水上特攻に参加せず
(218)^ 小淵守男 2011, pp. 444–451不意打ちをくらった呉軍港
(219)^ 小淵守男 2011, pp. 456–461直接の原因は無謀な出港だ
(220)^ 小淵守男 2011, pp. 452–456被弾炎上、戦死五十二名
(221)^ abcd﹁昭和20年5月26日(発令5月15日付)海軍辞令公報(甲)第1810号 p.45﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072105000
(222)^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 164–166.
(223)^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 174–179燃える﹁大淀﹂
(224)^ 小淵守男 2011, pp. 469–471.
(225)^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 176–177.
(226)^ #軽巡二十五隻297-300頁﹃漁船の応援も空しく﹄
(227)^ #軽巡二十五隻300頁﹃運命のわかれ路﹄
(228)^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 178–179.
(229)^ ab﹁昭和20年8月27日(発令8月15日付)海軍辞令公報(甲)第1897号 p.12﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072107000
(230)^ #軽巡阿賀野型・大淀p.62。
(231)^ #軽巡阿賀野型・大淀p.64。
(232)^ ab#海軍艦艇史2p.446。
(233)^ 小淵守男 2011, pp. 477–478, 481.
(234)^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝p.148.
(235)^ #軽巡阿賀野型・大淀p.38。
(236)^ 福井静夫﹃日本巡洋艦物語﹄光人社 341〜346頁﹁日本海軍の防空巡洋艦構想﹂
参考文献[編集]
●井上理二﹃駆逐艦磯風と三人の特年兵 波濤の中の青春﹄光人社︿光人社NF文庫﹀、2011年10月。ISBN 978-4-7698-2709-2。 ●宇垣纏﹃戦藻録 明治百年史叢書﹄成瀬恭 発行人、原書房、1968年。 ●生出寿﹃智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格﹄潮書房光人社︿光人社NF文庫﹀、2017年7月︵原著1988年︶。ISBN 978-4-7698-3017-7。 ●大塚常夫﹃海軍十三期飛行予備学生 錨と翼の一年十ヶ月﹄アサヒ出版、1993年12月。 大淀水上偵察機搭乗員。1944年8月1日付で配属︵﹁昭和19年8月1日(発令8月1日付)海軍辞令公報(甲)第1550号 p.10﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072100300 ︶。北号作戦後に軽巡矢矧転勤、坊ノ岬沖海戦参加。 ●小淵守男﹃航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯﹄今日の話題社、1990年。ISBN 4-87565-136-8。 ●小淵守男﹃巡洋艦大淀16歳の海戦﹄︵光人社、2002年︶ ISBN 4-7698-1044-X︵1990年版の改訂︶ ●小淵守男﹃少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦﹁大淀﹂16歳の海戦﹄光人社︿光人社NF文庫﹀、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9。 ●海軍歴史保存会﹃日本海軍史﹄第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。 ●片桐大自﹃聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇﹄光人社、2014年︵原著1993年︶。ISBN 978-4-7698-1565-5。 ●﹃歴史群像太平洋戦史シリーズ62 帝国の艦船﹄︵学習研究社、2008年︶ ISBN 978-4-05-605008-0 ●桂理平﹃空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり﹄霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5。 ●木俣滋郎﹃日本空母戦史﹄図書出版社、1977年7月。 ●木俣滋郎﹃日本水雷戦史﹄図書出版社、1986年 ●木俣滋郎﹃日本軽巡戦史﹄図書出版社、1989年3月。 ●草鹿龍之介﹁第五部 敵反攻主力の撃滅へ﹂﹃連合艦隊参謀長の回想﹄光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9。 ●宮内庁 編﹃昭和天皇実録 第八 昭和十五年至昭和十七年﹄東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74408-4。 ●倉橋友二郎﹃激闘駆逐艦隊﹄朝日ソノラマ︿航空戦史シリーズ95﹀、1987年12月。ISBN 4-257-17095-6。 ●豊田副武﹁第六篇 最後の連合艦隊司令長官﹂﹃最後の帝国海軍 軍令部総長の証言﹄中央公論社社︿中公文庫﹀、2017年7月。ISBN 978-4-12-206436-2。 ●佐藤和正﹃艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件﹄光人社︿光人社NF文庫﹀、1993年5月。ISBN 47698-2009-7。 ●武運と幸運と<戦艦﹁扶桑﹂艦長・鶴岡信道少将の証言>︵陸奥爆沈時の扶桑艦長︶ ●孫子の兵法<戦艦﹁大和﹂艦長・松田千秋少将の証言>︵レイテ沖海戦時の第四航空戦隊司令官︶ ●用兵の極地<戦艦﹁伊勢﹂艦長・中瀬沂少将の証言>︵レイテ沖海戦時の伊勢艦長︶ ●武人の本懐<戦艦﹁日向﹂艦長・野村留吉少将の証言>︵レイテ沖海戦時の日向艦長︶ ●乱戦の中 <駆逐艦﹁初月﹂艦長・田口正一大佐の証言>︵駆逐艦初月初代艦長、大淀艦長等歴任︶ ●暗夜の快挙 <駆逐艦﹁綾波﹂艦長・佐間英邇大佐の証言>︵大淀護衛時の冬月艦長︶ ●綱渡りの航跡 <駆逐艦﹁秋月﹂艦長・緒方友兄大佐の証言>︵戊号輸送作戦、レイテ沖海戦時の秋月艦長) ●編集人 木津徹、発行人 石渡長門﹃世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史﹄株式会社海人社︿2010年1月号増刊︵通算第718号︶﹀、2009年12月。 ●﹃日本巡洋艦史﹄ 世界の艦船 2012年1月号増刊 第574集(増刊第101集)、海人社、2011年12月。 ●高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人﹃高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日﹄中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X。 ●高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行者﹃高松宮日記 第六巻 昭和十八年 二月~九月﹄中央公論社、1997年。ISBN 4-12-403396-6。 ●寺崎隆治﹃最後の連合艦隊司令長官 勇将小沢治三郎の生涯﹄光人社︿光人社NF文庫﹀、1997年12月︵原著1972年︶。ISBN 4-7698-2180-8。 ●戸高一成 編﹃[証言録] 海軍反省会4﹄PHP研究所、2013年1月。ISBN 978-4-569-80915-1。 ●外山操﹃艦長たちの軍艦史﹄光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 ●中島親孝﹃聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記﹄光人社︿光人社NF文庫﹀、2008年10月。ISBN 4-7698-2175-1。 中島は連合艦隊情報参謀として大淀に乗艦した。 ●庭田尚三﹁1.巡洋艦の巻﹂﹃元海軍技術中将 庭田尚三述 建艦秘話﹄船舶技術協会、1965年9月。 ●畑中省吾/編 戸高一成/監修 編﹃日本海軍艦艇公式図面集2軽巡大淀新造時+改装後﹄発行プレアデス出版、発売 国文社、2005年。ISBN 4-7720-0894-2。 ●原為一ほか﹃軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌﹄潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8。 ●当時大淀第三分隊士・海軍中尉足立之義﹃大淀乗員が見た小沢オトリ艦隊の悲惨 左舷高角砲指揮官が敵空襲下で体験したエンガノ岬沖海戦の現実﹄ ●当時五十鈴工作科・海軍一等工作兵曹須藤岩夫﹃防空巡五十鈴の脈動がわが胸に響くとき 満十七歳の秋、血の海に戦い生還した工作兵の血涙の戦場体験﹄ ●当時五十鈴通信長・海軍大尉芝山末男﹃防空巡洋艦五十鈴エンガノ岬沖の血戦 主砲を撤去して高角砲六門に対空機銃と電探。大改装後の通信長の回想﹄ ●当時阿賀野・大淀設計主務・海軍技術大佐大薗大輔﹃私が設計した阿賀野&大淀の真価と秘密 凌波性と耐波性と機動性にとむ理想の名艦生みの親が語る造艦秘話﹄︵香取で得た貴重な教訓︶ ●当時大淀航海長・海軍中佐内田信雄﹃艦隊司令部用旗艦大淀の航跡 連合艦隊旗艦としても栄光をになった名艦の生涯を綴る航海長の手記﹄ ●当時大淀艦長・海軍大佐田口正一﹃防空砲台﹁大淀﹂江田島湾の死闘 燃料欠乏から呉軍港に釘づけにされた艦長が綴る鎮魂の手記﹄ ●戦史研究家落合康夫﹃日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧﹄ ●日向会事務局﹃航空戦艦の活躍 軍艦日向栄光の追憶﹄日向会事務局、1977年7月。 ●福井静夫﹃海軍艦艇史2巡洋艦コルベット・スループ﹄KKベストセラーズ、1980年。 ●福井静夫 編﹃-海軍造船技術概要別冊- 海軍艦艇公式図面集﹄今日の話題社、1987年。ISBN 4-87565-212-7。 ●福井静夫﹃福井静夫著作集第8巻 世界巡洋艦物語﹄光人社、1994年。ISBN 4-7698-0656-6。 ●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書29 北東方面海軍作戦﹄朝雲新聞社、1969年8月。 ●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書第56巻 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦﹄朝雲新聞社 ●防衛庁防衛研修所戦史部﹃中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降﹄戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年 ●防衛庁防衛研修所戦史室﹃戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後﹄朝雲新聞社、1976年8月。 ●牧野茂、福井静夫 編﹃海軍造船技術概要﹄今日の話題社、1987年。ISBN 4-87565-205-4。 ●﹃軽巡 阿賀野型・大淀﹄ 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズNo.5、潮書房、1976年4月。 ●雑誌﹃丸﹄編集部 編﹃写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II﹄光人社、1990年。ISBN 4-7698-0459-8。 ●瀬名堯彦﹃図で見る軽巡洋艦﹃大淀﹄変遷史﹄、141-145頁。 ●鈴木範樹﹃軽巡﹃大淀﹄に装備された航空兵装﹄、146-147頁。 ●雑誌﹁丸﹂編集部﹃ハンディ版 日本海軍艦艇写真集14軽巡 長良型﹄光人社、1997年。 ●雑誌﹁丸﹂編集部﹃ハンディ版 日本海軍艦艇写真集 15 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型﹄光人社、1997年、ISBN 4-7698-0816-X ●158ページ、落合康夫﹁軽巡洋艦﹃大淀﹄行動年表 ●(社)日本造船学会 編﹃昭和造船史(第1巻)﹄︵第3版︶原書房︿明治百年史叢書﹀、1981年。ISBN 4-562-00302-2。 ●吉田俊雄﹃指揮官たちの太平洋戦争 青年士官は何を考え、どうしようとしたか﹄光人社、1984年8月。ISBN 4-7698-0242-0。 ●吉田俊雄﹁第五章 連合艦隊の落日﹂﹃指揮官たちの太平洋戦争 青年士官は何を考え、どうしようとしたか﹄光人社︿光人社NF文庫﹀、1996年9月︵原著1984年︶。ISBN 4-7698-2134-4。 ●最善の選択 <レイテ沖海戦 ※﹁大淀﹂砲術長・鈴木孝一少佐> ●Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. 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- Tabular record of movement from combinedfleet.com
- Cruiser light 'Oyodo' (1941)[リンク切れ]本艦の写真とスペックのあるページ。(英語)