岡田嘉子
おかだ よしこ 岡田 嘉子 | |
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『報道写真にみる昭和の40年』(1965年)より | |
本名 | 岡田 嘉子 |
生年月日 | 1902年4月21日 |
没年月日 | 1992年2月10日(89歳没) |
出生地 | 日本 広島県広島市大手町(現在の同県同市中区大手町) |
死没地 | ロシア モスクワ市 |
身長 | 5尺1寸5分(約156cm)[1] |
職業 | 女優、アナウンサー |
ジャンル | 新劇、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー)、テレビ映画、バラエティ番組 |
活動期間 | 1918年 - 1986年 |
配偶者 |
竹内良一(離別) 滝口新太郎(死別) |
主な作品 | |
『大地は微笑む』 |
岡田 嘉子︵おかだ よしこ、露: Окада Ёсико、1902年4月21日 - 1992年2月10日︶は、日本及びソビエト連邦︵現在のロシアなど︶で20世紀︵1918年-1986年。日本では大正時代から昭和時代︶に活動していた女優、アナウンサー。1937年に理想の国と信じてソビエトに亡命したが、スパイ容疑で1947年までラーゲリ労働と監獄生活を送った[2]。
﹁名流花形大写真帖﹂︵1931年︶より
1935年頃
1902年︵明治35年︶4月21日︵月曜日︶、新聞記者の娘として広島県広島市細工町︵現‥広島市中区大手町︶に誕生。細工町は後年原子爆弾投下地点となった町である。優秀な教育を受け育つ。母方の祖父がオランダ人のクォーター。母のヤエは福岡県の農家出身であった[3]。父の放浪癖のために、一家は朝鮮の釜山、横須賀、東京の湯島などに移り、嘉子も小学校を8つも変わった。父は学校で宮城︵皇居︶遙拝などがあると休ませてしまうリベラリストで、これが後年、嘉子の型にはまることを嫌う奔放な生き方に影響を与えているものと思われる。1915年︵大正4年︶東京・女子美術学校西洋画科へ入学。1917年︵大正6年︶父が北海道小樽の﹁北門日報﹂の主筆に招かれ嘉子も卒業して、翌1918年︵大正7年︶小樽に移り、同社の婦人記者として入社する。同年、慈善演芸会の催しで頼まれてヒロインに扮して出演。際立った美貌が評判となる。父が芸術座の島村抱月や劇作家の中村吉蔵と知り合いだったこともあり、翌1919年︵大正8年︶、父に連れられて上京、中村の内弟子となる。
多磨霊園にある岡田嘉子の墓
1967年︵昭和42年︶4月に日本のテレビ番組のモスクワからの中継に登場。往年と変わらない矍鑠とした口調で話し、またも日本中を驚かせた。1969年︵昭和44年︶9月、岡田がキルギスのフルンゼにあるキルギス国立劇場で森本薫の﹃女の一生﹄の指導をしていたことを知った取材旅行中の作家阪田寛夫が、通訳のムイコフ︵ムイコフは日本語通訳の試験を受けた時から岡田を知っていた︶を通じて岡田に事情を話し、キルギスの俳優たちに騎馬民族になって、芝居をしてもらえないかと頼んだが、俳優たちは練習中の芝居のこと以外は考える余裕がないと断られた。[13]そして、東京都知事の美濃部亮吉ら国を挙げての働き掛けで、1972年︵昭和47年︶、亡くなった夫の滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに帰国。気丈な彼女もさすがに涙々の帰国記者会見となった。その後日本の芸能界に復帰し、映画﹃男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け﹄に出演、﹃クイズ面白ゼミナール﹄﹃徹子の部屋﹄などのトーク・バラエティ番組にも出演した。
ソ連でペレストロイカによる改革が始まり﹁やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい﹂と1986年に日本の芸能界を再び引退しソ連へ戻る。以降、死去まで日本へは2度と帰国しなかったが、日本のテレビ番組の取材には応じ、モスクワのアパートの自宅内も公開していた。日本からの取材クルーが来るととても喜んでいたという。晩年は軽度の認知症など老衰症状が出ていたことから、モスクワ日本人会の人々がヘルパーとして常時入れ替わり立ち替わりで彼女の面倒をみていた。
1992年、モスクワの病院で死去。89歳没。
生涯[編集]
幼少期[編集]
新劇女優[編集]
芸術座は前年秋の島村の病死、1919年の松井須磨子の自殺で解散。中村は松竹と提携し新芸術座を旗揚げ、同年、3月1日の有楽座﹃カルメン﹄の端役で初舞台を踏む。新芸術座も解散。この後新文芸協会の東北地方巡業中、座員で早稲田大学予科の学生、服部義治と無知のまま初体験を持ち妊娠、東京に戻り男児︵岡田博と命名︶を出産。嘉子の弟として岡田家の籍に入れる。彼はのちに医師となり、1946年に上海で勤務した際には囚われの身となっていた愛新覚羅嫮生︵溥儀の姪︶の往診も行い、彼女とその母嵯峨浩が軟禁されていることを上海連絡班の田中徹雄に伝え、母子救出のきっかけをつくった[4]。服部は結婚を迫ったが拒否した。 多くの劇団の客演をこなし1921年︵大正10年︶舞台協会帝劇公演での﹁出家とその弟子﹂︵倉田百三作︶において息をのむようなラブシーンを見せ、一躍新劇のスター女優となった。この後地方巡業中、共演した山田隆弥と愛人関係となる。これを妬んだ服部は1925年︵大正14年︶に鉄道自殺をした。1922年︵大正11年︶日活向島撮影所の衣笠貞之助ら女形を含む幹部俳優が社の女優採用の不安から国活に移籍。日活向島はこれを埋めるため舞台協会の嘉子や夏川静江らと契約した。映画女優[編集]
第一回作品は1923年︵大正12年︶倉田百三の戯曲﹃出家とその弟子﹄をベースにした﹃髑髏の舞﹄。愛欲心理描写がサイレント期、日本映画のエポックとなった新生日活のこの大作で、嘉子は町娘を演じ映画でも一躍スターとなった。この後も舞台と平行して映画出演を続けたが、同年関東大震災のため日活向島が閉鎖。舞台を続けるが不入りが続き多額の借金を抱えた。さらに結婚を望んだ山田に30歳も上のパトロンの妻がいる事が判り、山田の煮え切らない態度に悩む。この妻への意地で日活京都撮影所と契約。日活から前借りし借金を返済したため一座を救うため身を売った“大正お軽”と新聞に騒がれた。 1925年︵大正14年︶、﹃街の手品師﹄に主演。舞台のスターだった嘉子は自らの演技を活かせない村田実監督の細かいカット割りに強く反発した。しかしながらこの作品の嘉子の演技は“完璧に達せる”と高い評価を得た。この頃、樺太大泊町にあった﹁樺太民友新聞﹂にいた両親が京都に訪ねて来て用立ててやる。給料の大半は借金返済に回され身売りした女郎に変わりが無い、と深刻に悩む。続く﹃大地は微笑む﹄︵オムニバス、監督溝口健二他︶は日活、松竹、東亜キネマの三社競作となったメロドラマの大作だったが、嘉子の日活版に軍配が上がり、東亜キネマの専属になっていた山田の内縁の妻と世間にも知られていたにもかかわらず、この年10月の映画女優人気投票でトップとなった。この年は計9本の映画に出演。1926年︵昭和元年︶はキネマ旬報ベストテン2位となった﹃日輪﹄︵村田実監督︶他7本の映画に主演。この年講演会で﹁私たち女優をもっと真面目に扱って欲しい﹂とスターの人権宣言をする。1927年︵昭和2年︶﹃彼を繞る五人の女﹄に主演、これもベストテン2位となりモダンなタイプのヒロイン像は、それまでの日本の女優にないタイプのもので新しい時代の息吹きとして大きな評判を獲る。スキャンダル女優[編集]
1927年、大作映画﹃椿姫﹄のヒロインに抜擢される。今までに無い意欲を持って撮影に挑んだが、ロケ現場で群集を前に村田監督から罵倒に近い叱声を浴びたり、私生活の悩みを抱え、それを相手役の美男俳優・竹内良一に相談したところ衝動的に駆け落ちを決断、同年3月26日失踪。 愛人であり夫であった山田隆弥のもとには岡田から許しを請う別れの手紙が届いた[5]。 日活は撮影を中止して両名を捜索した結果、同年3月29日までに所在を確認。しかし岡田の気ままさに日活撮影所長は激怒、同日解雇を決断した[6]。この失踪劇を新聞は﹁情死をなす恐れあり﹂などと書きたて、スキャンダルとして大騒ぎになるが、2人はまもなく結婚。恋の逃避行は彼らを大衆のアイドルとした反面、その奔放さに対する反感も強く、舞台では立ち往生させられるほどのひどい野次に見舞われた。この年最愛の母が46歳で病死。 1928年︵昭和3年︶、大衆作家直木三十五の肝いりで﹁岡田嘉子一座﹂を浅草で旗揚げ[7]。この年から1930年︵昭和5年︶4月に解散するまでほぼ2年間地方巡業。信州、北陸、東北、関西、東海、四国、中国、九州、更に朝鮮、中国、台湾も一周と、興行の引き受け手があるところが尽きるまで各地を回った。苦闘のトーキー映画時代[編集]
帰京後、日本で糸口が着いたばかりのトーキー︵有声映画︶に着目。自らのプロダクションを設立。嘉子主演・竹内監督で、舞踏や流行小唄を題材とした十数本の映画を製作、売り込みを図る。また、日本舞踊に本格的に取り組む。藤間静枝の門下となり名取を許され藤蔭嘉子を名のった。1932年︵昭和7年︶に日活時代の借金を肩代わりするとの条件で松竹蒲田撮影所と契約。しかし栗島すみ子、田中絹代、川崎弘子ら人気スターのあいだにおいては、若さの盛りにスターの座を退いた嘉子は華やかさで彼女らには及ばず、役にも恵まれず小津安二郎の﹃また逢う日まで﹄﹃東京の女﹄の主演以外は意欲の湧かないものばかりであった。舞台出身ということで最大の希望はトーキーで、いくつか出演はするも脇役あるいは不調和な役柄が続く。1934年︵昭和9年︶、父が病死。衣笠貞之助の股旅物の傑作﹃一本刀土俵入り﹄や小津のネオリアリズムの傑作﹃東京の宿﹄に出演するが、使いにくい女優と敬遠されるにいたり、自分が心底打ち込める作品を求め舞台転向を決意。数本の映画出演の傍ら松竹傘下の新派演劇、井上正夫一座に参加し、舞台出演が増えた。1年前から竹内との仲は冷え切り別居状態になっていたが、1936年︵昭和11年︶8月、嘉子の舞台を演出したロシア式演技メソッド指導者で、共産主義者の演出家杉本良吉と激しい恋におちる。1931年︵昭和6年︶に日本共産党指導部の密命を受けてコミンテルンとの連絡回復のためソ連潜入を試みたが失敗した[8]杉本にも病身の妻がいた。ソビエト逃避行[編集]
1937年︵昭和12年︶日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画にも表現活動の統制が行われた。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。 1937年︵昭和12年︶暮れの12月27日、二人は上野駅を出発。北海道を経て樺太へ向かった。樺太は実父が事業に関係していた土地であり僅かな土地勘があった。12月31日、敷香町の旅館に投宿。翌日から観光を行い、1938年︵昭和13年︶1月3日、警官隊を慰問する名目で国境線に向かい[9]、厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。駆け落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。 1月10日、ソビエト連邦当局は、亜港︵アレクサンドロフスク・サハリンスキー︶の日本総領事に対して両名を大陸に護送した旨を通告。総領事は両名の釈放を求めたが回答は無かった[10]。さらに1月13日、亜港の外交関係者は総領事に対して﹁岡田、杉本の取り調べを行っている﹂﹁両名は入露を希望していた﹂ことを通告している[11]。 この事件を機に日本では1939年︵昭和14年︶に特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が制定された。しかし不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPU︵後の KGB︶の取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。拷問と脅迫で1月10日には、岡田はスパイ目的で越境したと自白した。このため、杉本への尋問は過酷を極め、杉本も自らや佐野碩、土方与志、メイエルホリドをスパイと自白した[8]。 1939年︵昭和14年︶9月27日、二人に対する裁判がモスクワで行われ、岡田は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された。杉本は容疑を全面的に否認し無罪を主張したが、銃殺刑の判決が下され、10月20日に杉本は処刑された。12月26日、岡田はモスクワ北東800キロのキーロフ州カイスク地区にある秘密警察NKVDのビャトカ第一収容所に送られた。岡田はこの収容所で自己を取り戻し、ソ連当局に再審を要求する嘆願書を書き続けたが、無視された。このラーゲリに約3年間収容された後、1943年1月7日からモスクワにあるNKVDの内務監獄に収容され、獄中で日本語教育など対日工作の一端を担い、約5年後の1947年12月4日に釈放された[2]。ソ連当局は釈放前にこの5年間の虚構の経歴を作り上げた。モスクワのNKVD監獄での彼女の活動、任務は明らかではないが、極秘の任務に属したとみられている[8]。この間のことについては生涯口外せず、出版した三種の自伝でも真実を語らなかった[2]。 杉本の銃殺は嘉子の晩年になってようやく明らかになり、それまではずっと﹁獄中で病死﹂とされていた[注 1]。また、彼らの亡命は世界的演出家メイエルホリド粛清の口実の1つにされた。嘉子はソ連入国後の初期︵戦後あたりまで︶の事を後年語っているが、実際は話とは違い、いくつかの刑務所に計10年近くも幽閉されていた事や、話していた事は︵嘉子の意思に関係なく︶釈放の時に幽閉の隠蔽として指示された作り話だったことが、嘉子の死去後の1994年12月4日にNHK-BS2で放映された﹃世界・わが心の旅 ソビエト収容所大陸﹄︵レポーター・岸恵子︶の現地取材により明らかになっている。この番組のディレクターである今野勉は、この内容を﹃中央公論﹄1994年12月号に﹁岡田嘉子の失われた十年﹂として発表した。釈放後も日本へはあえて帰国をしなかった。 戦後、モスクワ放送局︵後のロシアの声︶に入局。日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の日本人の同僚で、戦前日活の人気俳優だった滝口新太郎と結婚、穏やかに暮らす。また、現地の演劇学校に通い、演劇者として舞台に再び立ってもいた。一方、日本は嘉子の亡命後、第二次世界大戦が始まり、彼女は忘れられた存在だったが、戦後の1952年︵昭和27年︶、訪ソした参議院議員の高良とみが嘉子の生存を確認。にわかに日本で関心が高まる。日本帰国〜再びソ連へ[編集]
おもな出演作品[編集]
映画[編集]
- 髑髏の舞(1923年、日活向島) - お絹 役
- 街の手品師(1925年、日活京都) - お絹 役
- 大地は微笑む(1925年、日活京都) - 李秋蓮 役
- 日輪(1926年、日活大将軍) - 長沼徳恵子 役
- 狂恋の女師匠(1926年、日活大将軍) - お久 役
- 彼を繞(めぐ)る五人の女(1927年、日活大将軍)
- 忠臣蔵 前・後篇 赤穂京の巻 江戸の巻(1932年、松竹下加茂) - おるい 役
- また逢ふ日まで(1932年、松竹蒲田)
- 生さぬ仲(1932年、松竹蒲田) - 清岡珠江 役
- 泣き濡れた春の女よ(1933年) - お浜 役 ※トーキー、VHS化
- 東京の女(1933年、松竹蒲田) - ちか子 役
- 隣の八重ちゃん (1934年、松竹蒲田) - 京子 役 ※トーキー、DVD発売
- 一本刀土俵入り (1934年、松竹下加茂) - お蔦 役
- 東京の宿 (1935年、松竹蒲田) - おたか 役
- お静礼三(1937年、松竹下加茂) - お静 役
- 男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976年、松竹大船) - 志乃 役
- オレンジロード急行(1978年、松竹) - 田中もと 役
- 皇帝のいない八月(1978年、松竹) - 金田 役
- ドン松五郎の生活(1986年、東和プロ=プロジェクト・エー)
ラジオ[編集]
テレビドラマ[編集]
- ドラマ人間模様 女たちの海(1977年、NHK)
- 土曜ワイド劇場 涙 じっと見つめる目(1977年、テレビ朝日)
- 太陽にほえろ! 第321話「朝顔」(1978年、NTV) - 滝沢トキ
- 土曜ドラマ 松本清張シリーズ 虚飾の花園(1978年、NHK) - 栗宮多加子 役
- 東芝日曜劇場 露玉の首飾り(1979年、TBS)
- 土曜ワイド劇場 化けた花嫁 財産乗っ取り計画(1980年、テレビ朝日)
- あの街で…(1981年、NHK)
- 土曜ワイド劇場 北海道殺人事件・わたしの婚約日記(1981年、テレビ朝日) - 昻司の祖母タミ 役
- 天使たちの微笑み 280日の赤ちゃん狂騒曲(1986年、TBS)
岡田嘉子を演じた女優[編集]
著書[編集]
- 『自伝:悔いなき命を』廣済堂出版、1973年、全国書誌番号:75042221
- 『岡田嘉子 悔いなき命を』日本図書センター〈人間の記録108〉で再刊、1999年、ISBN 4-8205-5768-8
- 『心に残る人びと』早川書房 1983年
- 『ルパシカを着て生まれてきた私』「女の自叙伝」婦人画報社、1986年、全国書誌番号:86036440
翻訳[編集]
- エリマル・グリン『南からの風』岡田よし子訳 外国語図書出版所 世界文化社 1951、恒文社 1995
- ニコラエワ=テレシコワ『はてしない宇宙へ』岡田よし子訳 プログレス出版所 1965
- 『海の物語』岡田よし子訳編 プログレス出版所 1966
- 『レーニンを語る』岡田よし子訳 プログレス出版所 1970
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ ﹁芝居と映画 名流花形大写真帖﹂︵﹃富士﹄ 昭和6年新年号︵第4巻1号︶附録︶、大日本雄弁会講談社、1931年、p. 313
(二)^ abc﹃国境を越えるユートピア﹄加藤哲郎、平凡社、2002、p76
(三)^ “岡田嘉子 - 人物情報・関連映画 - 映画DB”. 映画DB. 2021年1月5日閲覧。
(四)^ 本岡典子﹃流転の子―最後の皇女・愛新覚羅嫮生﹄中央公論新社、2011年、p. 147-150
(五)^ 撮影中途で行方くらます、日活が激怒﹃中外商業新報﹄昭和2年3月30日夕刊︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p35 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(六)^ 撮影中途で行方くらます、日活が激怒﹃中外商業新報﹄昭和2年3月30日夕刊︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p35︶
(七)^ ステージに返り咲いた嘉子﹃東京日日新聞﹄昭和2年9月21日︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p37︶
(八)^ abc名越健郎﹃クレムリン秘密文書は語る﹄
(九)^ 愛人杉本良吉とともに北樺太で消息を絶つ﹃東京日日新聞﹄昭和13年1月5日︵﹃昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年﹄本編p54 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(十)^ 岡田ら北樺太に逆走、釈放の見込み薄い﹃東京日日新聞﹄昭和13年3月23日︵﹃昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年﹄本編p54︶
(11)^ 二人はゲ・ペ・ウが取調中﹃大阪毎日新聞﹄昭和13年1月15日︵﹃昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年﹄本編p54︶
(12)^ 朝日新聞be編集グループ﹃またまたサザエさんをさがして﹄朝日新聞社、2007年、p. 136
(13)^ ﹃阪田寛夫 賛美歌で育った作家﹄編集工房ノア、8月1日 2023、219-221頁。