広島大本営
座標: 北緯34度24分6.72秒 東経132度27分35.08秒 / 北緯34.4018667度 東経132.4597444度
広島大本営︵ひろしまだいほんえい、旧字体‥廣島大本營︶は、1894年︵明治27年︶に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島県広島市の広島城︵現中区基町︶内に設置された大本営である。
1930年ごろの広島市。中央やや上が広島城。右上に広島駅、右下が 宇品港にあたり、日清戦争勃発後に敷設された宇品線で結ばれている。
大本営は1893年︵明治26年︶5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された制度であり、日清戦争において初めて設置された。このときの大本営は1894年6月5日に東京の参謀本部内に設置され、同年8月5日に皇居内に移った[1]。
その後、当時東京を起点とする鉄道︵山陽鉄道︶網の西端であったこと︵広島駅︶、また大型船が運用出来る港︵宇品港︵現・広島港︶︶が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった広島市に移ることとなった[2]。
9月13日に大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の15日には戦争指揮のために明治天皇が移った[3]。このため、行宮の役割も果たした。10月9日、非常時に備え縮景園は大本営副営と定められ、明治天皇の居所として清風館があてられた[4]。明治天皇は日清講和条約︵下関条約︶調印後の1895年︵明治28年︶5月30日までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理のために広島に留まり、1896年︵明治29年︶4月1日に大本営解散の詔勅によって解散した。
この時期、1894年10月に招集された第7回帝国議会は広島の広島臨時仮議事堂で開会された︵議事堂は西練兵場内に建設された︶。国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、広島市は臨時の首都の機能を担った。これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例である︵日本の首都を参照︶。
概要[編集]
略歴[編集]
「日清戦争#年表」も参照
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広島県立文書館所有の絵葉書。 | |
広島大本営軍務御親裁 |
施設と現況[編集]
大本営[編集]
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広島県立文書館所有の絵葉書。 | |
飛行機より見たる広島大本営跡 北側三ノ丸から撮影。 | |
玉座 | |
御椅子と御火鉢 | |
御衣桁 | |
大本営設置当時の広島城表門 |
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アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真。 | |
Hiroshima aerial A3390 南側から撮影。 | |
Hiroshima aerial A3393 東側から撮影。写真中央付近が現在の中国放送本社敷地、上半分が本丸にあたる。大本営および皇后御座所共に木材が散乱している状況がわかる。 |
元々この地には本丸御殿があったが火災により全焼、1877年︵明治10年︶跡地に広島鎮台司令部として建設されたものである[22]。1888年︵明治21年︶第5師団発足以降はその司令部として使われていた[22]。そして、大本営として用いられた。
洋風建築の木造2階建て、広島城本丸におかれた[22]。1階に大臣室や侍従職室、2階に御座所・御召替所・侍従長室・軍議室などがあり[22]、御座所は執務室と寝室を兼ね、近くに剣璽が置かれた[23]。
明治天皇はほぼここに留まって深夜まで政務を行い、質素な生活をしていたと伝えられている[5]。この戦争中に見せた﹁精力的な活動﹂﹁質素な生活﹂つまり﹁聖徳﹂は明治後期における天皇神格化の中で重要なイメージ戦略として用いられており、例えば当時普通の古びた備品を使う様は戦前の教科書に描かれている[5]。後に明治天皇は当時のことを詠んでいる[23]。
たむろして よなよな見てし 廣島の
月はその夜に かはらざるらむ
1896年︵明治29年︶大本営解散後は第5師団管理の下﹁大本営址﹂は文化財として保護され[24]、史蹟名勝天然紀念物保存法施行により﹁史蹟明治二十七八年戦役広島大本営﹂として1926年︵大正15年︶に国の史跡︵旧史跡︶に指定され[22]た。1928年︵昭和3年︶から広島城天守の一般開放が始まり、あわせて名所として公開された[22]。
1945年︵昭和20年︶8月6日、広島市への原子爆弾投下により建物は全て崩壊した[22]︵爆心地から約900メートル︶。1948年︵昭和23年︶、戦後の軍国主義排除の風潮の中で、史跡指定が解除され塗りつぶされた[25]。現在では、建物の基礎および礎石と、一部文字が消された石碑が残っているのみとなっている。
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広島鎮台。後に第五師団司令部となり大本営になる。
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広島大本営の平面図
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広島大本営の玉座
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大本営跡。
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石碑。
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広島大本営跡の石碑
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広島大本営跡石碑の塗りつぶされた側面
昭憲皇太后御座所[編集]
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広島県立文書館所有の絵葉書。 | |
広島大本営跡と皇后御座所 カラー写真 | |
昭憲皇太后御座所 |
広島城天守から真南、大本営から西南西方向に位置した。元々は第5師団監査部の建物で、大本営設置後はその事務所として使われていた[22][26]。
当初は1895年︵明治28年︶3月13日昭憲皇太后広島行啓で進められていた[27]が都合により延期、同年3月19日皇后行啓した際に御座所として用いられた[22]。この地で皇后も精力的に慰問を行っていたことが伝えられる[5]。
これも現在は基礎石のみが残る。
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皇太后御座所跡を写した絵葉書
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皇太后御座所跡
その他[編集]
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原爆投下前︵7月25日︶の広島城本丸。中央の建物が︵旧︶大本営。そこから左下が皇后御座所、右下の丸い円が桜の池。
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投下後(8月11日)。
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1988年の広島城。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。基礎が見える。
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広島県立文書館所有の絵葉書。 | |
桜の池 |
復元計画[編集]
1968年2月ごろ、広島市の明治百年記念行事の一環として大本営の復元計画が存在した[33]。本館と分館を建設。郷土資料の展示を主目的とし、総事業費13億2681万円を見込み[33]、広島県と広島市で費用を折半するとされた[34]。
発表後、賛否両論が出て、再現計画図に屋根に設置されたサイレンや正面の星のマークなど大本営の復元だとする意見も出た[34]。社会党や共産党、公明党などの革新系団体は反対の立場。旧軍人団体は賛成の立場だった[34]。
同年5月27日に開かれた広島市の平和文化推進会議で慎重論が多く、また29日の広島市の文化財審議会でも反対意見多数で賛成意見が出なかった[35]。6月7日の市長会見で大本営復元について再検討することを明らかにした[35]。その上で別の場所に明治記念館の建設を考えていくとした[35]。
交通[編集]
「広島城#交通アクセス」を参照
脚注[編集]
(一)^ 大本営誌, p. 19.
(二)^ “広島に大本営設置”. 広島市平和記念資料館. 2014年5月14日閲覧。
(三)^ 大本営誌, p. 22.
(四)^ 縮景園史 昭和58年 広島県教育委員会発行p.34
(五)^ abcd佐藤一伯. “明治後期の天皇・皇后像に関する一考察” (PDF). 明治神宮教学研究センター. 2014年5月15日閲覧。
(六)^ 臨戦地日誌, p. 114.
(七)^ ab臨戦地日誌, p. 166.
(八)^ 臨戦地日誌, p. 184.
(九)^ 臨戦地日誌, p. 200.
(十)^ 臨戦地日誌, p. 204.
(11)^ 臨戦地日誌, pp. 206–207.
(12)^ 臨戦地日誌, pp. 255–281.
(13)^ 臨戦地日誌, p. 325-353.
(14)^ 臨戦地日誌, p. 378.
(15)^ 臨戦地日誌, p. 395.
(16)^ 臨戦地日誌, pp. 421–423.
(17)^ 臨戦地日誌, pp. 318–520.
(18)^ 臨戦地日誌, p. 583.
(19)^ 臨戦地日誌, pp. 594–596.
(20)^ ab臨戦地日誌, p. 608.
(21)^ 大本営誌, p. 61.
(22)^ abcdefghijklm“広島の歴史的風景” (PDF). 広島県立文書館. 2014年5月14日閲覧。
(23)^ ab“明治天皇 絵画と聖蹟﹁第20回 広島大本営軍務親裁﹂”. 明治神宮崇敬会. 2014年5月14日閲覧。
(24)^ ﹃広島案内記﹄吉田直次郎、1913年。2014年6月20日閲覧。
(25)^ 広島地歴編集委員会(編)(2018)﹃ひろしま地歴ウォーク﹄,pp.48. レタープラス株式会社. (2018)
(26)^ 臨戦地日誌, p. 143.
(27)^ 臨戦地日誌, p. 499-500.
(28)^ 陸軍省﹃臨時広島軍用水道布設部報告﹄1899年。2014年5月14日閲覧。
(29)^ “クロガネモチ︵広島城跡︶”. NHK広島放送局. 2014年5月14日閲覧。
(30)^ ab臨戦地日誌, pp. 140–142.
(31)^ 臨戦地日誌, pp. 238–251.
(32)^ 臨戦地日誌, p. 327.
(33)^ ab﹃大本営を復元 広島市の明治百年記念行事 観光客集めねらう 懐古趣味避け前向きに﹄1968年2月2日8ページ
(34)^ abc﹃賛否渦巻く 大本営復元 広島県・市会でも両論 ﹁平和の祈りに逆行﹂ 計画撤回求める革新団体﹄1968年3月18日15ページ
(35)^ abc﹃大本営復元を再検討 広島市長語る 建設場所こだわらぬ 設計費 六月市会提案見送る﹄1968年6月8日8ページ