コンテンツにスキップ

慧沼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慧沼
648年 - 714年
尊称 淄州大師
宗派 法相宗
弟子 智周道氤義忠
著作成唯識論了義灯
能顕中辺慧日論
テンプレートを表示

Huìzhǎo648 - 714

[]




[1][2]5153672271467
年表
経歴 関連
貞観22年(648年 誕生。
永徽2年(651年 継親の喪を執る。
永徽4年(653年 道昭遣唐使の一員として入唐。
顕慶3年(658年 智通智達ら入唐。
顕慶4年(659年 出俗せんことを望む。
龍朔2年(662年 出家? 睿宗誕生。
麟徳元年(664年 玄奘が死去。
咸亨3年(672年 と普光の二師に師事。
永淳元年(682年 基が死去。
天授元年(690年 武則天が帝位につき、国号を周とする。
久視5年(700年 この年から景雲2年(711年)まで、法宝・勝荘・神英・仁亮・法蔵らと、証義として義浄の訳場に参列か[3]
長安3年(703年 智鳳智鸞智雄ら入唐。
神龍元年(705年 大福先寺の義浄の訳場において[4]仏説一切功徳荘厳王経』の証義を勤める。肩書きは「淄州大雲寺大徳」[5]
神龍2年(706年)〜先天2年(713年 菩提流志、崇福寺において『大宝積経』の翻訳。慧沼も証義として参加か[6] 唐朝が復活、武則天が死去。
景龍4年(710年 大薦福寺の義浄の訳場において『成唯識宝生論』など20部88卷の証義を勤める[7]。肩書きは「淄州大雲寺大徳」[8]
景雲2年(711年 大薦福寺の義浄の訳場において『略教誡経』など12部20巻の証義を勤める[9]
開元2年(714年 入滅。

959690

[]






34

39











39



43

86

44

44






47898

45

45


[]




[10]

[]


[11]



[12]

[]



(一)^ 1987

(二)^ 

(三)^  (T55, 370c)

(四)^ 13 (T55, 869b)

(五)^  (T21, 894c)

(六)^ 4 (T50, 728c)

(七)^ 13 (T55, 869c)

(八)^ 1T31, 81a

(九)^ 13 (T55, 869c)

(十)^ 1989

(11)^ 1987

(12)^ 1999

[]


19441989

 -  -  1987

 1997

 -  - 48-1 (95)1999

 -  - 352003

[]


 ()