松波良利
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松波 良利︵まつなみ よしとし、?[注 4] - 宝永7年11月19日[7][注 5]︵1711年1月7日︶︶は、江戸時代前期の財政家。勘十郎︵かんじゅうろう︶の通称で知られている。水戸藩など各地の大名家の財政再建を請負った。
来歴[編集]
加納藩領であった美濃国厚見郡鶉村︵現在の岐阜県岐阜市鶉︶出身。鶉村東鶉の奥田家に生まれ[10]、元は奥田姓を名乗っていたが、万治元年︵1658年︶、加納宿の名主・松波氏︵松波文右衛門︵ぶんえもん︶︶の養子となり、加納宿庄屋となったが、寛文9年︵1669年︶に同家を離れて各地を放浪した[11]。延宝7年︵1679年︶に幕府代官による美濃国の小物成検地に協力した[12][注 6]のを機に、貞享年間には下総国匝瑳郡と三河国賀茂郡の旗本領の検地を行った[13][注 7]。元禄年間以後は高岡藩[14][注 8]、大多喜藩[14][注 9]、大和郡山藩[15][注 10][18][注 11][注 12]、三次藩[19][注 13]などの財政再建に関与。人員削減や冗費節減、検地や年貢増徴、専売制の強化、藩札発行などを巧みに組み合わせて成功に導いた。この他にも加納藩[20][注 14]や旗本の松下氏[23][24][注 15]でも財政再建に携わったとされる。現代でいう経営コンサルタントに近い形態の仕事であった[25]。 だが、松波の方法は大胆でかつ民衆に負担を強いるものが多く、大和郡山藩では上島鬼貫と激しく対立。元禄13年には、高槻藩での改革に失敗した[23][24][注 15]。元禄14年︵1701年︶からの棚倉藩[26][注 16][27][注 17]、続く宝永3年︵1706年︶からの水戸藩での財政再建は大規模な農民一揆を引き起こした。水戸藩での政策は﹁宝永の新法﹂・﹁宝永の御改革﹂と呼ばれた。当時の水戸藩は徳川綱條の治世であった。松波は、水戸城下にある千波湖干拓を提案するが、これは重臣の反対で実現しなかった[28][注 18]。続いて﹁紅葉運河﹂﹁大貫運河﹂を開削して、江戸に通じる河川と太平洋を結んで、領内や奥羽の物産を江戸へ売ることを企図したが、工事に動員された農民は賃金が約束ほど支払われなかったことから不満を募らせた[29]。農民3,000人が江戸に出て様々な抗議行動をしたため、水戸藩は松波を解任して改革を中止した[30]。その後、水戸藩を追われて拠点としていた京都に戻るが、翌年、江戸に入ったところを捕らえられて水戸に護送され、赤沼の獄において2人の子とともに獄死した[31][注 19][32][注 20][33][注 21]。 現在でも松波が那珂川と利根川を結ぶために構想して、一揆によって挫折した涸沼と巴川を結ぶ運河︵勘十郎堀︶の遺構が一部残されている。 浮世草子﹃今川一睡記﹄に登場する高師直の奸臣・藤浪甚十郎は、松波がモデルとなっている[34]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 宝永6年︵1709年︶に彼︵清水仁右衛門︵しみずにえもん︶清信、水戸藩 御用御頼︵中途採用された浪人, [2]︶、松波の片腕といわれた︶と共に追放された松波勘十郎は、これまでは藩主綱條が福老爺と呼んでいたといわれるように高齢というだけであったが、最近、七十数歳と見られるようになった。︵この項は、原典﹃茨城県史研究 第64号﹄茨城県立歴史館史料部県史編纂室︵編︶︵1990.3︶﹁松波勘十郎捜索18﹂︵林 基︵著︶︶である。︶
(二)^ この項は、原典﹃茨城県史研究 第36号﹄茨城県立歴史館史料部県史編纂室︵編︶︵1976.12︶﹁松波勘十郎捜索8﹂︵林 基︵著︶︶である。︶
(三)^ この項は、原典﹃茨城県史研究 第34号﹄茨城県立歴史館史料部県史編纂室︵編︶︵1976.3︶﹁松波勘十郎捜索6﹂︵林 基︵著︶︶である。︶
(四)^ 松波勘十郎の生年は、1630年代説か︵ただし結論は未確定である。﹁松波勘十郎捜索18﹂︶[1][注 1]、寛永15年︵1638年︶説[3][4]、寛永21年︵1644年︶説[5][注 2]、慶安2年︵1649年︶説[6][注 3]がある。
(五)^ 松波勘十郎の死没日は、﹁松波勘十郎入獄次第﹂︵﹁松蘿︵しょうら︶随筆﹂[8][9]﹁松波紀事﹂﹁御改革訴訟実録﹂の三種の写本に収められている。最初のものは、後二者とは別本と思われるが、死去の日に関する限り一致している︶。なお、﹃水戸市史 中巻二﹄P82を参照。
(六)^ 延宝7年幕府の美濃代官杉田九郎兵衛︵くろべえ︶直昌に訴えて、少額の小物成︵こものなり︶しか徴収していなかった地域に検地を入れさせ、千数百石を超える石高︵こくだか︶を打ち出させている。
(七)^ 貞享2年︵1685年︶~3年︵1686年︶には、下総︵しもうさ︶国匝瑳︵そうさ︶郡の松平十左衛門︵じゅうざえもん︶昌忠、三河国賀茂︵かも︶郡の鈴木市兵衛︵いちべえ︶寛藤という親戚同士の2旗本家のために次々に検地を行い、その財政立て直しに成功した。
(八)^ 当時の藩主は井上政蔽
(九)^ 当時の藩主は阿部正春
(十)^ 当時の藩主は本多忠平、勘十郎は元禄6年︵1693年︶7月上旬に江戸で郡山藩の﹁勘者﹂︵元は、物事をよく推理する人・よく勘の働く人の意味だが、算勘の上手なもの、財政の上手なものという意味で用いられているのではなかろうか[16]︶として採用されていた。前田金五郎教授に教えられた真山青果﹃西鶴語彙考証﹄は、算と勘を区別している。算の方は、いわば計算を、勘の方は、いわば財政方針の決定を意味するとでもいえようか[17]。
(11)^ 勘十郎は2年前の元禄6年から郡山藩の財政を委ねられていて、京都の金融家たちと深い繋がりを持っていたし、まもなく︵1695年頃か︶京都に大きな事務所を構え、全国での活動の本拠にするのである。・・・・・ ﹃中村雑記﹄内閣文庫本、巻8
(12)^ ﹃中村雑記﹄は水戸藩士 中村浩然良直︵1678 - 1738︶︵彦五郎, 字を子養︵しよう︶, 浩然窩︵こうぜんか︶と号す︶自身が見聞した雑事を記録したもの。浩然は、彰考館総裁 中村篁渓︵こうけい︶の息子である。浩然は、彰考館に30年間勤務した。
(13)^ 当時の藩主は浅野長澄、勘十郎は元禄12年︵1699年︶4月に三次藩に雇われ、はるばる京都から出張してきて、約1週間滞在、指導しては帰京するという形で、彼が三次藩を離れている間の支配については、方針書を封印して御用人に渡しておくという方式をとっていた。3ヶ月に1回くらいの割で三次藩を訪問、指導していたらしいことが推測される。
(14)^ 当時の藩主は松平光永、勘十郎が﹁元禄年中御領主松平丹波守様に被召出、賜知行弐百石﹂[21]また、宝永年中に勘十郎が加納藩に召出された︵ただし、藩主は次代の松平光煕の時期︶[22]とある。どちらが正しいのかを決定付ける史料は無い。
(15)^ ab当時の藩主は永井直達、高槻藩は勘十郎を雇おうとしたが故障があって実現せず、自力で改革を行ったとある。なお、勘十郎は摂津国の島上郡赤大路村の領主であった旗本松下彦兵衛︵ひこべえ︶長房︵松下房利の息子︶に元禄10年︵1697年︶~12年︵1699年︶の頃に雇われていたとある。勘十郎の活動に対して元禄13年︵1700年︶には早くも畿内の幕府当局︵京都町奉行所・大坂町奉行所︶が好ましからぬものとみなし始めていた。
(16)^ 当時の藩主は内藤弌信、勘十郎は元禄14年に棚倉藩を訪問した。しかし、元禄15年︵1702年︶6月には棚倉藩への関与を拒絶されている。同年8月には棚倉藩南郷54ヶ村, 竹貫郷9ヶ村, 計63ヶ村 惣百姓中の名による松波罷免を求める訴状が提出された。
(17)^ ﹁元禄14年6月の村改めに付布令﹂という題を与えられた﹁覚書﹂﹁作奉行之者御領分預之村改様之覚﹂︵巳6月8日 松波勘十郎︶︵巳年覚書︶。この長文の覚書は、勘十郎が棚倉藩に新設された作奉行に対して下した村々を調査する際の諸項目を解説指示したものである。勘十郎自身の文章として、現存する唯一のものである。
(18)^ 例えば知行高5,000石の家老、鈴木︵石見守︶重賢は、﹁千波湖は水戸城の防備に欠くことのできない要害である。高5,000石の土地がどうしても必要であるというのであれば、自分の知行地を全部藩主に返上するから、その代わりに千波湖を賜りたい﹂と強く反対したという。
(19)^ 水戸藩領民の江戸出訴のため宝永6年1月26日夜に追放された松波勘十郎は、6月23日再び逮捕され、息子2人も偽りの手紙でおびき寄せられて逮捕されるが、3人とも互いに完全に隔離されて投獄され、やがて次々に獄死していくのである。これだけでも極めて異常と言わなければならないのであるが、最後に残った勘十郎が死んだ時、藩は獄吏に次のように命じたと獄吏の記録﹁松波勘十郎入獄次第﹂は伝えている。
一.今晩中夜更ニ成程穏便ニ致し寺へ遣わし可申候、寺ニ而も此義且而無沙汰様ニ可申合セ事︵深夜に出来るだけこっそりと寺へ運べ、寺にも絶対に他言しないように約束させよ︶
一.場所は人並ニ見斗へ置可申事、但少々片付候様可仕事︵墓地はふつうの大きさにし、ただ少し隅に寄った所にし、人の注意をなるべく引かないようにせよ︶
一.穴は成程深く為穿可申事︵穴は出来るだけ深く掘れ︶
一.棺へ入遣べく事︵棺には入れてやれ︶
︵﹁松波勘十郎入獄次第﹂﹃松並紀事﹄所収︶
(20)^ 宝永6年7月15日、今夜御手先物頭佐野孫兵衛、京師より松波勝衛門仙衛門を捕へ来り、小石川︵水戸藩江戸藩邸︶より水戸へ送る、道中囚人にして、乗物へ網を懸け、大小用食事も、乗物の内にあり、水戸へ長尾半衛門、両人を召連れ参、獄屋へ入る︵中村雑記︶勝衛門︵長男︶は水野外記、仙衛門︵次男︶は三木佐平次に預けらる、後二人を獄に下す、父子三人獄中に死す、勘十郎は吉沼阿弥陀院、勝衛門は谷田宝蔵寺、仙衛門は吉沼観音寺に埋む︵﹃﹁水戸市史﹂中巻︵二︶﹄P82では、仙衛門と勝衛門は谷田村の宝蔵寺に葬られたとある。︶、勘十郎が小姓一人、手代二人を捕て、江邸︵水戸藩江戸藩邸︶の獄に下す、後皆放逐す︵紀年︶
(21)^ 宝永7年6月27日仙衛門が牢死し、ついで9月18日勝衛門が、更に11月19日には勘十郎がそれぞれ牢死した。
出典[編集]
(一)^ 林 2007, p. 下179.
(二)^ 林 2007, p. 上405.
(三)^ “︽県央ぶらりと見て歩記︾通船税増収狙い運河 勘十郎堀跡︵茨城町︶ 工事旗振り役、獄死”. きたかんナビ 北関東を感じる観光情報サイト. 2020年8月13日閲覧。
(四)^ “朝日日本歴史人物事典の解説”. コトバンク. 2020年8月13日閲覧。
(五)^ 林 2007, p. 上297.
(六)^ 林 2007, p. 上212.
(七)^ 林 2007, p. 上318.
(八)^ “下町年寄加藤家及び松蘿について”. 水戸市立図書館/デジタルアーカイブ. 2023年1月9日閲覧。
(九)^ “松蘿館文庫︵しょうらかんぶんこ︶とは”. 茨城県立図書館デジタルライブラリー. 2020年8月13日閲覧。
(十)^ 林 2007, p. 上296, 328.
(11)^ 林 2007, p. 上296.
(12)^ 林 2007, p. 上301, 307, 309.
(13)^ 林 2007, p. 上342–343.
(14)^ ab林 2007, p. 上343.
(15)^ 林 2007, p. 上219.
(16)^ 林 2007, p. 上111.
(17)^ 林 2007, p. 上161.
(18)^ 林 2007, p. 上368.
(19)^ 林 2007, p. 上179–181.
(20)^ 林 2007, p. 上310–317, 326.
(21)^ 林 2007, p. 上310.
(22)^ 林 2007, p. 上326.
(23)^ ab川口 2005, p. 21.
(24)^ ab林 2007, p. 上346–350.
(25)^ 川口 2005, p. 20.
(26)^ 林 2007, p. 上238–240, 201, 188, 175.
(27)^ 林 2007, p. 上36–44.
(28)^ [[[国立国会図書館#国立国会図書館オンライン(NDL_ONLINE)|国立国会図書館書誌ID]]:000001211722 ﹃﹁水戸市史﹂中巻︵二︶﹄], p. 45
(29)^ 川口 2005, p. 22–23.
(30)^ 深井 2012.
(31)^ 林 2007, p. 上9–10.
(32)^ 林 2007, p. 上65.
(33)^ [[[国立国会図書館#国立国会図書館オンライン(NDL_ONLINE)|国立国会図書館書誌ID]]:000001211722 ﹃﹁水戸市史﹂中巻︵二︶﹄], p. 82
(34)^ 川口 2005, p. 24.