千波湖
千波湖 | |
---|---|
国土地理院2012年10月13日撮影 | |
所在地 | 日本 茨城県水戸市 |
位置 | 北緯36度22分12秒 東経140度27分35秒 / 北緯36.37度 東経140.4597度座標: 北緯36度22分12秒 東経140度27分35秒 / 北緯36.37度 東経140.4597度 |
面積 | 約0.332 km2 |
周囲長 | 3.0 km |
最大水深 | 約1.2 m |
平均水深 | 約1.0 m |
貯水量 | 約0.000365 km3 |
成因 | 堰止湖 |
淡水・汽水 | 淡水 |
湖沼型 | 富栄養湖 |
プロジェクト 地形 |
概要[編集]
千波湖は水戸市の中心市街地近くにある周囲3キロメートル、平均水深1メートルのヒョウタン型をした底浅の淡水湖である[5]。南北を台地に挟まれ、桜川が西から東へ湖北岸に沿って流れている。河川法上はこの桜川に含まれると規定されている[6]。湖北西の崖上には日本三名園のひとつ偕楽園がある。偕楽園から千波湖を見た景色や、千波湖から市中心市街地を見た景色は水戸を代表する景観であり、﹁水の都﹂を自負する水戸のシンボルとも表現される湖沼である[7][8][2][3]。 千波湖の原型は今から5000年から3000年前に古那珂川の堆積物により古桜川が堰き止められて出来た沼地である。このように川の堰き止めによって成立した湖沼を﹁堰止湖﹂と呼ぶ。時は下り水戸藩が城下町の整備のため、沼地を護岸し囲い込んだことにより湖沼﹁千波湖﹂が成立した。この時の千波湖は現在の姿より3倍程広く、東端は今の柳堤堰がある辺りまであった。当時、千波湖北東の高台にあった水戸城にとって千波湖は天然の外堀でもあった。また湖南東端には﹁備前堀﹂と呼ばれる水路が造られ、千波湖から周辺の水田へ水が供給された。大正末期から昭和前期にかけて千波湖の東側を埋め立てる工事が行われ、現在の千波湖の姿となる。この工事によりそれまで直接流入していた桜川、逆川と切り離され、ほぼ閉鎖された水空間となった[1][9][10]。 湖内には人工の浮島が1つ、噴水が3基設置されている。湖西岸には貸しボート屋があり湖上の遊覧を楽しむことができる。外周はジョギングコースとして整備され、散歩やジョギングを行う市民が集っている。湖南側は芝地が拡がる公園となっており市民のレジャーの場として、また各種イベントの会場として活用されている[11][12][13][14][15]。 自然の面では水鳥が多く生息地しているのが特徴で、秋から冬にかけてはカモ、ハクチョウ、雁等の冬鳥が多く飛来してくる。また、千波湖周辺の湧水が湧く湿地には市街地近郊でありながらホトケドジョウ等の絶滅危惧種の淡水魚類が確認される。このことから千波湖および周辺の湧水は環境省の﹃生物多様性の観点から重要度の高い湿地︵略称‥重要湿地︶﹄のひとつに選ばれている[16][17][18]。 しかしながら水質については、天然河川の流入が無いことによる湖沼内の水の滞留や、生活排水由来の栄養塩の流入による富栄養化等の要因で好ましい状況ではない。特に夏場のアオコの大量発生は大きな問題となっている。よって水戸市では那珂川の水の導水を図る等、水質改善対策を行っている[19][20][21]。-
偕楽園好文亭から見た千波湖
-
水戸芸術館から見た千波湖
-
千波湖湖南西から見た水戸市中心市街地
名称[編集]
地形・地質[編集]
現在の千波湖の面積等のデータは以下のとおり[5]。湖面積 | 332,131平方メートル(0.332131平方キロメートル) |
湖岸長さ | 3000メートル(3キロメートル) |
最大水深 | 1.2メートル |
平均水深 | 1.0メートル |
貯水量 | 365,000立方メートル(0.000365立方キロメートル) |
画像外部リンク | |
---|---|
回転と拡大縮小が可能な"図:千波湖周辺3D写真"出典元画像(国土地理院) |
湖底[編集]
千波湖の湖底地形の調査が1986年と1987年に行われており、これにより千波湖の湖底面は極めて平坦であることが明らかになっている。東部側が最も深い部分で最大水深が1.2から1.3メートル。中央部に移るにつれ僅かに浅くなり最大水深が1から1.2メートル。西部側で1メートル以浅となり、湖岸に近づくにつれ浅くなってゆく。勾配率は東西で0.07パーセント程度である。このように全体的に平坦な湖底でありつつ、次の二つの局所的な地形がある。 東部側の﹁海釜﹂に類似した窪地状の最深部 柳崎貝塚近くの岬状に突出している湖岸近くの湖底は窪地状になっており千波湖の最深部となっている。この最深部がある場所は千波湖で最も湖幅が狭くなっている部分であり、この地形から生じた水流の侵食により窪地が生じたものと考えられる。これは潮流による侵食作用で出来た﹁海釜﹂と呼ばれる地形に類似している。 中央部から西部側に点在する﹁穴﹂ 長円形の皿の形をした窪みが中央部から西部側に点在している。窪みの深さは10センチメートルから最大50センチメートル。この﹁穴﹂とも言うべき地形の中央付近には湖沼中に鳥小屋等を固定するための棒杭が設置されており、この棒杭がもたらした水の乱流による侵食地形ではないかと、推測されている。 千波湖湖底の地質は、湖底面から20から30センチ下までの間が表層堆積物の層で、黒色の浮泥状の極軟弱な堆積物で構成されている。表層堆積層の下が基盤層で表層堆積層よりやや締りのある黒色ないしは暗褐色の泥である。それぞれの層の含水率は上層が300から600パーセント、下層が200から300パーセントとなっており、基盤層も軟弱な地質であることがわかる。 前述のとおり湖底調査は1986年と1987年に行われているが、1987年の調査では水深が1986年調査より10から20センチメートル深くなった測定値が出ている。この湖底の変化は1986年調査と1987年調査の間に起きた、大雨により千波湖が増水し水が溢れ出した事象が影響していると見られる。つまり、このときの強風と大雨で湖底の表層堆積層が流出した結果、湖底が深くなったと考えられる。このことは千波湖のような浅い湖沼では強風・大雨でも湖底面の削剥が起こりえることを示している[59]。歴史[編集]
千波湖の歴史を大別すると、古桜川の堰き止めにより原型の沼地が誕生した古千波湖時代︵縄文時代から安土桃山時代まで︶、水戸藩により沼地が護岸工事で囲い込まれ湖沼"千波湖"が成立し現在より広い姿の改修前時代︵江戸時代から大正末期まで︶、改修事業が行われていた改修期(大正末期から昭和前期︶、改修事業が終わり面積を縮小させた以後の改修後時代︵大正末期から現在まで︶となる。古千波湖時代[編集]
最終氷期の時代であった2万年から1万8千年ほど前、海面の低下により流れが急になった那珂川、古桜川は台地に深い谷を造った。1万2千年前頃から地球の気温上昇が進むにつれ海面も上昇し6千年前頃には現在の千波湖近くまで入江が侵入した。現在、千波湖南東岸にある柳崎貝塚はこの時代の証人でもある。海面上昇に伴い那珂川、古桜川の土砂運搬力は弱まり水戸の台地の間に沖積平野を形成し、古千波湖の元となる低湿地が出来た。5千年前頃から海面の低下が始まり、古桜川は那珂川と合流した。那珂川が氾濫時に運んだ堆積物は古桜川との合流点に逆三角州を形成し古桜川を堰き止めた。これにより千波湖の原型たる古千波湖が誕生した。このような形成過程を持つ湖沼を﹁堰止湖﹂と呼ぶ[60]。 流れを遮られた古桜川は那珂川の後背湿地に流れ込み﹁赤沼﹂と呼ばれる沼地も造った。この沼地のあった場所はかっては﹁赤沼町﹂と呼ばれ、現在の城東2 - 4丁目、東台2丁目辺りである。この赤沼の他、古千波湖東端と那珂川の間には﹁鏡ヵ池﹂と呼ばれる池沼などが連なって存在しており、古千波湖の水はこれらの池沼を経由し、最終的に赤沼から那珂川へ流れ込んでいた。これら東端から連なる池沼も古千波湖の一部として捉えるなら古千波湖は吉田地区、浜田地区の方まで拡がっていたより大きな湖沼であったといえる[61][62][28] 。改修前時代[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
千波湖の姿が載っている古地図への外部リンク | |
『千波湖水全図』作者不明(1819年)[63] | |
〔『水戸絵図(水戸城下図)』〕作者、作成年不明[64] | |
『水戸城下図』(『水戸地図』)酒井喜煕、皆川吉五郎(1830年)[65] | |
『水戸市街改正略図』土浦市松編輯(1890年)[66] | |
『水戸市現勢地図』進業堂(1909年)[67]※渡し船運航ルートが記載されている。 |
江戸時代[編集]
江戸時代に入り水戸藩は城下町造りの一環として慶長から寛永にかけて古千波湖の整備を行った。古千波湖から赤沼を経由し那珂川に流れ込んでいた流出河道は、水戸城の東から北側を囲む外堀となるように屈曲した水路に改修された。この水路は﹁下町外堀﹂、﹁桜川﹂又は﹁馬場川﹂と呼ばれる。城下町の拡張のため、沼地や湿地があった古千波湖東部は埋立て工事が行われ﹁田町﹂と呼ばれる"下町"が開設された。この埋立地に接する古千波湖岸は崩れないように護岸工事が行われた。古千波湖北側も屋敷地の拡充や船着場の設置のため整備・護岸化された。これらの整備事業により古千波湖岸が囲い込まれ、湖沼"千波湖"が成立した。大槻はその成立時期を、﹁田町越え﹂と呼ばれる、前述の新開設地である﹁田町﹂へ商人らが移住させられた年である1625年︵寛永2年︶と指定し、同時に﹁千波湖︵千波沼︶﹂という名称が付いたのもこの頃と考察している[68]。 水戸藩にとって千波湖は水戸城を守る要害であり、そのため、禁漁や禁夜船などの措置がとられていた[注釈 4]。又、水深の浅い千波湖は泥の沈澱や草藻の繁茂が生じやすいため、軍事面と治水面から浚渫や草藻の除去といった管理が重要であった。この管理業務は水戸藩の統制の下、武家方と町方双方が負担して行われた[69][70]。改修前の千波湖の姿[編集]
水戸藩により囲い込まれた千波湖の面積は現在の姿より約3倍ほど大きかった[71]。かつて大きさについて記している史料には以下がある。 ●水戸下市の町年寄が残した町方文書である﹃水戸下市御用留﹄内の、宝暦11年︵1761年︶8月16日付け覚に、山口勘兵衛という幕府の巡見使が来水した際の案内において、千波湖の大きさは﹁横拾町、堅壱里﹂と答えよ、との指図が記録されている。これはおよそ、横1090メートル、縦3900メートルとなる[72][73]。 ●﹃水府地理温古故録﹄︵1786年︵天明6年︶︶[注釈 5]では﹁長五里餘、横一里許、深さ平水六尺程。﹂と記録されている。これはおよそ、東西15700メートル、南北4000メートル、水深1.8メートルとなる[75]。 ●﹃水府志料﹄︵1807年︵文化4年︶[注釈 6]では﹁東西三十町余、南北六七町余あり﹂と記している。これはおよそ、東西約3273メートル、南北654ないし763メートルとなる[72][77]。 ●1830年︵天保元年︶写の﹃水戸地図﹄︵徳川ミュージアム所蔵︶では﹁長二十七町 広六町余﹂と書き込まれている。これはおよそ、東西2945メートル、南北654メートルとなる[78]。 ●1885年刊の松平俊雄︵松平雪江︶の編・画による﹃常磐公園攬勝図誌﹄では﹁東西凡そ弐拾五町五十間南北六町余﹂と記されている。これはおよそ、東西2818メートル、南北654メートルとなる[79]。 ●1890年刊の水戸市の古地図﹃水戸市街改正略図﹄︵上掲外部リンク︶には、"長二十五町五十間 巾五丁 周一里二十六町"と書き込まれている。これはおよそ、東西2818メートル、南北545メートル、周囲6736メートルとなる[66]。 ●﹃水戸市史 上巻﹄では"幕末の調査によれば、上沼が196665坪、下沼が162624坪、内堀が27075坪となっている。"と記載している︵但しその出典は掲示されていない︶。これは上沼︵千波湖西部︶が650538平方メートル、下沼︵千波湖東側︶が537600平方メートル、内堀︵新道の内側︶が8190平方メートルとなる[33]。千波湖の"七崎" 『水府地理温古録』 『水府志料』 『常磐公園攬勝図誌』 『便覧水戸市全図』
[注釈 8]神崎 ○ ○ 妙法崎 ○ ○ ○ ○ 柳崎 ○ ○ ※表記:柳か崎 ○ ※表記:栁か崎 ○ ※表記:柳ケ崎 駒入崎 ○ ○ ※こまいり ○ 駒込か崎 ○ いぼ崎/庵崎 ○ ※表記:いぼ崎 ○ ※表記:庵か崎 ○ ※表記:庵崎(いほさき) ○ ※表記:庵崎 筑能崎 ○ ○ ※つくの 藤か崎 ○ ○ ※表記:藤が崎 ○ ※「此辺藤崎址」と記す 梅戸崎 ○ ※表記:梅戸か崎 ○ ○ 三玉か崎 ○ ○ ※表記:三魂ケ崎
- 各崎の詳細は以下のとおり。
- 記事中の『常磐公園攬勝図誌』の絵図については「#松平雪江の絵図」を参照●神崎 - 千波湖北側、梅戸崎と妙法崎の間にあった[87]。 ●妙法崎 - 神崎寺の南に在った。"神崎寺"は現在は水戸市天王町にある真言宗の寺院である。かつてこの崎には釈迦立像を収めた妙法教主殿という建物があったという。また、妙法崎の東には滝があったという[88][86]。
妙法崎︵﹃茨城常盤公園攬勝図誌﹄︶ ●柳崎 - 千波湖の南西の隅で、東京街道︵現在の国道6号︶のすぐ東にあった[84][86]。 ●駒入崎 - 湖北東の水戸城下の内堀に面した所にあった。﹃水府地理温古録﹄では"中御殿下か、御厩の辺かと云々"と、﹃常磐公園攬勝図誌﹄では"上市柵町の裏通りを云"と記されている[75][89][86]。 ●駒込か崎 - 不明。 ●いぼ崎/庵崎 - 当時の逆川河口の西に在った出崎。その名の由来を﹃水府地理温古録﹄では、この地にはかってイボタノキがあったから、と記している[75][89][86]。 ●筑能崎 - 場所について﹃水府地理温古録﹄では"吉田内阿佐ノ台の下辺に、つくのふという字の地あり、その川辺也"と、又、﹃常磐公園攬勝図誌﹄では、"吉田村安蘇の台の辺"と記されている。"筑能"は現在の水戸市元吉田町︵旧吉田村︶の小字に残り、その場所は茨城県立水戸南高等学校のすぐ北である[75][89][90][91]。 ●藤か崎 - 偕楽園の下で、桜川の近くにあった。この崎には藤がはびこっていた、という。﹃便覧水戸市全図﹄ではその場所に﹁此辺藤崎址﹂と、かってはここに崎があった旨、記している[92][75][86]。 ●梅戸崎 - 湖北側の舟着場のすぐ西の"梅香"にあった。"梅香"は現在の梅香1丁目辺りである。現在の千波大橋の市街よりの袂にある切り立った崖がこの崎の名残で、付近の"梅戸橋"はこの崎の名を残している。夕暮れに梅戸崎から西を見た時の残照と湖水の佳景は千波湖八景の一つ﹁梅戸夕照﹂として称えられている[93][94][82][86]。 ●三玉か崎 - 湖南東端の竈神社境内に在った。﹃常磐公園攬勝図誌﹄は"七崎"の一つには挙げていないが、"三魂崎︵三魂ヶ崎︶"として"下市七軒町竈神社の境内にして・・・"と紹介文を記している。竈神社は現在も水戸市本町1丁目に今もある神社で、奥津彦命︵おきつひこのみこと︶、奥津姫命︵おきつひめのみこと︶、中御方命︵なかみかたのみこと︶を祀っており、かっては社名を三宝荒神と称していた[95][86]。竈神社︵2022年撮影︶ 以上が"七崎︵千波七崎︶"であるが、﹃水府地理温古録﹄では千波湖に在った他のいくつかの崎への記述が示されている。ひとつは光圀が"八崎"と呼んだ所への記述で、妙法崎、岩根崎、緑崎、雉崎、柳崎、阿佐野崎、小松崎、宮崎の8つを挙げている。又いまひとつ、"榎樹崎"と称した地もあったと記述している[75]。 八沢︵千波八沢︶ 千波湖に注いでいた沢8つを総じて、八沢︵千波八沢︶と称した。それは﹃常磐公園攬勝図誌﹄で"八澤︵やさわ︶"として挙げられている、鯉沢、木沢、茂沢︵もさわ︶、狐沢、拂沢︵はらいさわ︶、福沢、米沢、中沢である。この内、鯉沢の場所は"吉田村清岩寺の裏"と記述されている。鯉沢にあたる場所は2011年5月に"元吉田鯉沢緑地"︵元吉田町642︶の名称の都市公園となった。この緑地の東隣に"清巌寺"がある[84][85][96][97][98]。 なお、﹃水府地理温古録﹄では前述"八澤"から福沢が抜けた、鯉沢、木沢、茂沢、狐沢、拂沢、米沢、中沢を"七澤"として記述している[75]。 新々道 新々道は千波湖を南北に往来する目的で造られた湖中の道である。設置は文久年間︵或いは安政年間︶で、一旦の廃止と復活を経て1888年末から1890年の間に廃止された。新々道の北側の起点は奈良屋町の新道の西端辺りで、そこから南岸の逆川河口西へ、新道と直角になる形で伸びていた。現在の位置でいうと、千波大橋の辺りである。道途中には2箇所の橋があり舟の運航が可能となっていた。"新々道"の姿については「#松平雪江の絵図」を参照新々道は千波村に武家屋敷を新たに建てるに当りそこまでの交通路として設置された。起年については1863年︵文久3年︶8月に着工し1864年︵文久4年︶6月に通行とする史料︵﹃大津忠順当用手控﹄︵﹃茨城町史資料集 第1集﹄収載︶︶、安政年中の斉昭治世中に築かれたとする史料︵﹃千波湖渡船場関係書類﹄︵﹃深作家文書﹄中の1文書。茨城県立歴史館所蔵︶︶がある。その後、千波村の新武家屋敷建築が見合わされてしまったことから1867年︵慶応3年︶中に一旦は取崩しとなったが、1871年︵明治4年︶7月に通行が復活した。復活した新々道であるが、利用は近隣の農民に限られ荒廃していった。そして、湖水の流れを阻害しているとのことか千波湖普通水利組合︵現在の﹁千波湖土地改良区﹂の前身︶が撤去を要求し、結果、1888年末から1890年の間に廃止された。廃止後は渡し船が運航されるようになった[99]。
偕楽園開園[編集]
明治以後[編集]
明治時代になり、千波湖管理を統制していた藩政が廃藩置県によって無くなったことにより、千波湖を巡り様々な人々の利害の衝突が表面化した。一応、維持管理は旧慣習を引き継ぐ形で備前堀下流の村々が責任を持つことになったが、彼らだけでは維持管理は困難で湖沼の荒廃が進んだ。荒廃した千波湖ではマラリア原虫をヒトに媒介させるハマダラカの生息数が増え、水戸の風土病であったマラリア︵"瘧︵おこり︶"と呼ばれた︶の罹患が増大するなどした[103]。 千波湖の管理団体として﹁千波湖水利土巧会﹂が難産の末、1885年に発足した。﹁千波湖水利土巧会﹂は後、﹁千波湖普通水利組合﹂となり現在の千波湖土地改良普及区へ続く。改修期[編集]
千波湖の様々な問題解決のため、遂にその東側半分︵下沼︶の干拓を含む大改修が実施された。この千波湖改修事業は1921年︵大正10年︶に起工し、1932年︵昭和7年︶終了した。この事業により埋め立てられた下沼部分は水田とされた。千波湖に直接流入していた桜川は千波湖から切り離され、湖北岸を沿って流れた上で水戸城の旧外堀である馬場川に接続し、那珂川に流入するように改修された[注釈 10]。同じく千波湖に直接流入していた逆川も千波湖から切り離され、桜川に合流するように改修された。千波湖改修事業とほぼ同時期に内堀の埋立も行われており、現在の水戸駅南地区の陸地が誕生した。改修事業によって造られた水田における稲作の用水は改修された桜川から取水するようになり、用水源としての千波湖の価値は減じた[107]。千波湖改修事業[編集]
内堀埋立事業[編集]
内堀と呼ばれた新道の北側の水域も、明治維新以後、埋立て計画が出ては消えを繰り返していた。その経緯は以下のとおり。 ●1888年、旧水戸藩士達が内堀埋立てて宅地とする事業の許可を得る。が、事業は着手されなかった。これにより内堀は土砂堆積や水草の繁茂といった荒廃が進んだ[129]。 ●前述の内堀埋立許可による内堀荒廃が千波湖の用水不足を招いていると捉えた水利組合は内堀埋立許可撤廃運動を1893年から起こし、ついに1896年に内堀埋立許可を撤廃させた。これにより内堀は公用水面に戻り、荒廃していた内堀を1898年から1900年に浚渫している[129][130]。 ●1911年、再度内堀埋立て計画が起きる。水戸市と水利組合等関係者の交渉の末、水戸市は内堀埋立ての承認を得る。が、経費面等の問題もあり工事はなかなか始まらなかった[131][132]。 着手されていなかった内堀埋立工事であるが、千波湖改修事業が既に始まっている1926年8月9日の水戸市会でようやく埋立て工事が議決された。その内容は埋立て工事を東部分と西部分の2箇所に分け、その工事費用は埋立地の払下げ代金を充てる、というものであった。同年8月17日に執行された内堀埋立地の予約払下げ入札の結果、那珂郡長倉村の実業家で政治家の淀川藤八郎[注釈 20]が落札した。同年、東内堀埋立工事の契約成立。1928年に西内堀埋立事業費の予算議決。大槻は1929年度には内堀埋立工事は完成したと見ている[135]。改修後時代[編集]
用水源としての価値が薄れてからは、遊歩道として整備された湖外周の散策や湖面でのボート遊びを楽しむなど、千波湖は市民の憩い、レジャーの場としての性格が強くなっていった。中でも貸ボート屋は乱立し、問題となる程であった。1930年には貸ボート組合も設立されている[136]。太平洋戦争後の一時期には、食料難解決のため、千波湖の水が抜かれ水田となったこともあった。
1973年には「千波湖周辺地域大規模公園構想」という、千波湖及び千波公園を中心に周辺の偕楽園等の公園・緑地を一体の大規模公園としての整備を目指す構想が出され、以後これに沿った公園整備が水戸市内でなされる。1999年にはこれらの公園群を「偕楽園公園」として総称して、これはニューヨークのセントラルパークに次ぐ世界第2位の面積を持つ都市公園である、との広報が出されている。
1988年4月8日付建設省告示第1125号で河川法上、千波湖は桜川の一部であることが明確にされた。
年表[編集]
行政指定[編集]
河川法[編集]
河川法上、千波湖は桜川の一部となっている。桜川は那珂川水系の一級河川で、千波大橋から上流の千波湖を含んだ一級河川区間が﹁指定区間﹂として茨城県が管理している。その指定の沿革は以下の通り。 ●1966年 3月28日公布、4月1日施行の﹁河川法第4条第1項の水系及び一級河川を指定する政令︵現題名﹁河川法第4条第1項の水系を指定する政令﹂︶の一部を改正する政令﹂により那珂川水系が一級水系に指定されると同時に、桜川も上流端を東茨城郡内原町︵後、水戸市に︶の有賀橋、下流端を那珂川への合流点とした区間が一級河川に指定された[158]。更に同日の3月28日付建設省告示第897号にて千波大橋から上流の一級河川区間が﹁指定区間﹂とされた[159]。 ●1971年 3月20日公布、4月1日施行の政令第29号﹁河川法第4条第1項の水系及び一級河川を指定する政令の一部を改正する政令﹂で桜川の一級河川としての上流端が東茨城郡内原町有賀の県道橋に改められた[160]。これに併せ、同日の3月20日付建設省告示第396号で指定区間の再指定が行われ、改めて千波大橋から上流の一級河川区間が﹁指定区間﹂とされた[161]。 以上までの桜川に関する指定条文の中で、千波湖が桜川に含まれるか否かは明確に明文化されておらず、見方によっては千波湖は単なる"貯水池"とも取れる状況であった。1980年代に、千波湖の水質浄化策として那珂川の水を導水する方法が浮上したが、この事業を実施するにあたって国や県の補助を受けるためには千波湖を河川とすることが必要となり、茨城県と水戸市が河川指定を受けることの検討を始めた。だがそこに、千波湖の慣行水利権等を持つ千波湖土地改良区が、千波湖が河川となる事でその慣行水利権等がどうなるのか問題視した。この件に関しては河川法第87条等で慣行水利権等は従来と変わらないとの見解が示されたことで解決し、指定がされる前の1987年に千波湖土地改良区と茨城県、水戸市の三者で、千波湖を河川とする確認書が締結され、以後、以下の沿革で河川法上、千波湖は桜川の一部となった[162][163]。 ●1988年 4月8日付建設省告示第1125号で一級河川としての桜川の記述が単に﹁桜川﹂であったのが﹁桜川︵千波湖を含む︶﹂と改められ河川法上、千波湖は桜川の一部であることが明確にされた[6]。 ●1994年 7月25日付建設省告示第1694号で指定区間としての桜川の記述が単に﹁桜川﹂であったのが﹁桜川︵千波湖を含む︶﹂と改められた[164]。排水基準[編集]
公共用水域である千波湖への排出水は﹃水質汚濁防止法に基づく排水基準を定める省令︵昭和46年総理府令第35号 ※当初題名﹁排水基準を定める総理府令﹂︶﹄および茨城県の﹃水質汚濁防止法に基づき排水基準を定める条例︵平成17年3月24日茨城県条例第11号︶﹄によって排水基準が定められている。この内、﹃排水基準を定めるめる省令﹄中別表第2の窒素含有量と燐含有量の排水基準は環境大臣が定める湖沼等に適用される。千波湖は1985年に燐含有量、1989年に窒素含有量について排出基準が適用される湖沼に環境省告示によって指定されている[165][166][167][168]。 2005年制定の茨城県条例﹃水質汚濁防止法に基づき排水基準を定める条例﹄は他に比してより高い環境対策が必要な水域に対し国より厳しい排水基準を課した所謂﹁上乗せ排水基準﹂を定めた条例である。この条例では県内のいくつかの水域に排水基準を定めており、千波湖を含んだ桜川水域もそのひとつに入っている︵条例中、別表第1︵第2条第1項関係︶︶。桜川水域には生物化学的酸素要求量︵BOD︶、化学的酸素要求量︵COD︶、浮遊物質量︵SS︶、ノルマルヘキサン抽出物質含有量︵動植物油脂類含有量︶、フェノール類含有量、溶解性マンガン含有量、クロム含有量で国より厳しい排水基準が定められている︵※2019年8月時点︶[166]。鳥獣保護区[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
千波鳥獣保護区域図(茨城県報 1973年10月30日号外 5頁) |
風致・景観保全[編集]
千波湖を中心とした周辺の都市環境は良好な風致や景観を保全するため、いくつかの行政上の措置がなされている。風致地区[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
風致地区概略図(水戸市公式ホームページ>「風致地区における行為の許可申請」より) - ウェイバックマシン(2021年4月27日アーカイブ分)[176] |
画像外部リンク | |
---|---|
重点地区「水戸市歴史的風致保存・形成区域」と風致地区の範囲図(2019年4月時)(『水戸市歴史的風致維持向上計画(第2期)』)158頁より - ウェイバックマシン(2021年4月25日アーカイブ分)[185] |
また、千波風致地区は「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律(平成20法律第40号 通称:歴史まちづくり法)」に基づき水戸市が2010年2月4日に国(国土交通省)に認定された「水戸市歴史的風致維持向上計画」における重点地区「水戸市歴史的風致保存・形成区域」1160ヘクタールの範囲内に、その全域が市内の弘道館・備前堀・保和苑等と共に含まれており、都市計画法と合わせ景観・風致の保全・整備がなされている(図「重点地区「水戸市歴史的風致保存・形成区域」と風致地区の範囲図(2019年4月時)」)[186][187][188]。
建築物の高さ規制[編集]
千波風致地区内では建築物の高さは15メートル以下と規制されている。そして風致地区外においては「偕楽園から見た千波湖」「千波湖から見た偕楽園や市街地」等の眺望景観を保全するため、以下のような建築物の高さについての措置がなされている。
「水戸市景観計画」に定める「大規模建築物等の景観形成基準」による建築物の高さの誘導[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
偕楽園・千波湖周辺の眺望景観の保全に配慮すべきエリア図(2016年7月時)『水戸の魅力ある景観づくり(景観法届出パンフレット)』9頁より - ウェイバックマシン(2021年5月1日アーカイブ分)[189] |
水戸市は景観法に基づく「水戸市景観計画」を2008年12月に策定し、大規模建築物等の新築等の行為については、この計画に定める「大規模建築物等の景観形成基準」に適合するよう配慮したうえで届出をすること、とした。この「大規模建築物等の景観形成基準」では計画区域内の建築物の"高さ"については、『偕楽園や千波湖からの眺望景観の保全に配慮する』との留意点がつけられた。具体的には眺望景観に対して配慮すべきポイントが次のA - Dの4つのエリア毎に定められ、建築物の高さの誘導が図られている(参照:図「偕楽園・千波湖周辺の眺望景観の保全に配慮すべきエリア図(2016年7月時)」)[190][191][192]。
概要 | 地区 | 配慮 | |
---|---|---|---|
A | 中心市街地の市街地景観と千波湖北側の斜面緑地との調和した景観形成を推進するエリア。 | 千波湖北部の中心市街地の梅香、備前町付近 | 千波湖南岸から水戸芸術館のタワーが望めるよう配慮すること |
B | 偕楽園から望む、公園や千波湖及び千波湖南岸の斜面緑地等の自然景観を保全するエリア | 千波湖北部の中心市街地の梅香、備前町付近 | 偕楽園からの自然景観を保全するため建築物の高さについて配慮すること |
C | 偕楽園から望む桜川、沢渡川緑地等の自然景観を保全するエリア | 千波湖西部の見和、見川地区 | 偕楽園からの自然景観を保全するため、建築物の高さについて配慮すること |
D | 千波湖から水戸駅南側の市街地を望むエリア | 千波湖東部の駅南地区 | 波湖からの良好な市街地景観を保全するため、スカイラインに配慮すること |
都市計画法下の高度地区指定による高さ制限[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
水戸市高度地区地域図(2010年12月1日現在)『高度地区リーフレット』より - ウェイバックマシン(2021年5月1日アーカイブ分)[193] |
屋外広告物の規制[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
屋外広告物特別規制地区-偕楽園・千波湖周辺-(2020年4月1日時)(水戸市公式ホームページ>「屋外広告物(看板)の設置許可(水戸市全域が対象です)」より)[197] |
生物環境[編集]
千波湖は市街地の近くにしては豊かな自然を有している。特に鳥類は多様な種が確認でき、冬期には渡り鳥が多く飛来する。ただし、水質は汚いレベルにあり、清浄な水を好む水生生物は生息しにくい環境である。夏期にはアオコが大量発生し環境面で大きな課題となっている。その一方、逆川緑地に代表される千波湖周辺の湧水が湧く湿地には市街地近郊でありながらホトケドジョウ等の絶滅危惧種の淡水魚類が確認される。このことから千波湖および周辺の湧水は2016年4月22日に環境省より公表された日本国内633ヶ所の﹃生物多様性の観点から重要度の高い湿地︵略称‥重要湿地︶[注釈 23]﹄のひとつに選ばれている[199][200][201][202][18]。水生生物[編集]
魚類[編集]
以下は﹃河川生物生息実態調査報告書﹄︵2000年、水戸市︶、﹃平成16年度自然環境調査︵河川生物編︶結果報告﹄︵2005年、水戸市︶、﹃平成26年度 自然環境調査︵市内東部地区︶﹄︵水戸市︶で確認された9科22種の魚類である。汚れた水にも耐性が強いコイ科の魚が比較的多い[201][200]。科 | 種 |
---|---|
キュウリウオ科 | ワカサギ |
コイ科 | タモロコ、スゴモロコ、ニゴイ、モツゴ、ウグイ、オイカワ、キンブナ、ギンブナ、ゲンゴロウブナ、コイ、 タイリクバラタナゴ |
ドジョウ科 | ドジョウ |
ナマズ科 | ナマズ |
ウナギ科 | ウナギ |
メダカ科 | メダカ |
サンフィッシュ科 | オオクチバス、ブルーギル |
タイワンドジョウ科 | カムルチー |
ハゼ科 | ヌマチチブ、ヨシノボリ、ウキゴリ |
底生生物[編集]
以下は『河川生物生息実態調査報告書』(2000年、水戸市)、『平成16年度自然環境調査(河川生物編)結果報告』(2005年、水戸市)、『平成26年度 自然環境調査(市内東部地区)』(水戸市)で確認された9種の底生生物である。その内、水質汚濁の度合いを測る指標生物には名前の右に1から4の数字をつけた。1はきれいな水(水質階級Ⅰ)、2は少し汚い水(水質階級Ⅱ)、3は汚い水(水質階級Ⅲ)、4は大変汚い水(水質階級Ⅳ)を示す。この指標生物の調査結果から『河川生物生息実態調査報告書』(2000年、水戸市)は千波湖の水質を「汚い水(水質階級Ⅲ)」のレベルと位置づけている[201][20]。
貝類 | サカマキガイ 4 |
環形動物類 | エラミミズ、ヒル 3 |
甲殻類 | ミズムシ 3、スジエビ 2、テナガエビ、アメリカザリガニ 4 |
昆虫類 | ユスリカ、セスジユスリカ 4 |
昆虫[編集]
科 | 種 |
カワラゴミムシ科 | カワラゴミムシ |
ハンミョウ科 | エリザハンミョウ、コニワハンミョウ |
オサムシ科 | クロナガオサムシ、ヒラタアオミズギワゴミムシ、ヤセモリヒラタゴミムシ、モリヒラタゴミムシの一種が1種、ナガゴミムシの一種が1種、オオマルガタゴミムシ、フタモンクビナガゴミムシ、ミズギワアトキリゴミムシ、アオヘリホソゴミムシ |
コガシラミズムシ科 | クビホソコガシラミズムシ |
ゲンゴロウ科 | ケシゲンゴロウ、クロマメゲンゴロウ、ヒメゲンゴロウ、コシマゲンゴロウ |
ミズスマシ科 | オオミズスマシ |
ガムシ科 | ルイスヒラタガムシ、ゴマフガムシ |
ハネカクシ科 | メダカハネカクシの一種が1種、アオバアリガタハネカクシの一種が1種 |
クワガタムシ科 | ノコギリクワガタ、コクワガタ |
コガネムシ科 | マグソコガネ、アカビロウドコガネ、ビロウドコガネ、ヒラタハナムグリ、ヒメアシナガコガネ、マメコガネ、コガネムシ、ハンノヒメコガネ、ヒメコガネ、カナブン、アオハナムグリ、シロテンハナムグリ、カブトムシ |
マルハナノミ科 | マルハナノミの一種が1種 |
ナガハナノミ科 | ヒゲナガハナノミ |
タマムシ科 | タマムシ、ヒシモンナガタマムシ、ウグイスナガタマムシ、クズノチビタマムシ、ヤナギチビタマムシ |
コメツキムシ科 | サビキコリ、シモフリコメツキ、コメツキムシの一種が1種 |
ホタル科 | スジグロボタル |
カツオブシムシ科 | ヒメマルカツオブシムシ、チビマルカツオブシムシ |
ジョウカイモドキ科 | ツマキアオジョウカイモドキ、ヒロオビジョウカイモドキ、ジョウカイモドキの一種が1種 |
ケシキスイ科 | ニセアカマダラケシキスイ、ルイスツヤケシキスイ、ヨツボシケシキスイ |
オオキスイムシ科 | ムナビロオオキスイ |
オオキノコムシ科 | カタモンオオキノコ、ヒメオビオオキノコ |
テントウムシ科 | ヒメテントウムシの一種が1種、ヒメアカホシテントウムシ、ジョウサンホシテントウ、ジュウクホシテントウ、ナナホシテントウ、ヒメカメノコテントウ、ナミテントウ、トホシテントウ |
ゴミムシダマシ科 | ルリゴミムシダマシ、キマワリ、ヨツコブゴミムシダマシ、コクヌストモドキ |
ハムシダマシ科 | ヒゲブトハムシダマシ |
カミキリムシ科 | ノコギリカミキリ、ヒナルリハナカミキリ、ツヤケシハナカミキリ、ヨツスジハナカミキリ、ベニカマキリ、ナガゴマフカミキリ、ヒシカミキリ、アトジロサビカミキリ、キクスイカミキリ |
ハムシ科 | イネクイハムシ、フトネクイハムシ、オオネクイハムシ、スゲハムシ、トゲアシクビボソハムシ、イネクビボソハムシ、キボシルリハムシ、ルリツツハムシ、ドウガネツヤハムシ、アカガネサルハムシ、ヤナギルリハムシ、コガタルリハムシ、オオルリハムシ、アカタデハムシ、ジュンサイハムシ、ウリハムシ、クロウリハムシ、アトボシハムシ、ムナグロツヤハムシ、キイロタマノミハムシ、オオアカマルノミハヤシ、イチモンジカメノコハムシ |
ヒゲナガゾウムシ科 | キノコヒゲナガゾウムシ |
オトシブミ科 | ヒメクロオトシブミ、アカクビナガオトシブミ、カシルリオトシブミ |
ゾウムシ科 | コフキゾウムシ、ハスジカツオゾウムシ、カシワノミゾウムシ、ヒメシギゾウムシ、セダカシギゾウムシ、クロクチカクシゾウムシ、トゲハラヒラセクモゾウムシ、マダラアシゾウムシ、ヤナギシリジロゾウムシ、オオゾウムシ、トホシオサゾウムシ、ゾウムシの一種が3種 |
ガガンボ科 | キハラガガンボ |
アブ科 | シオヤアブ、アオメアブ |
ハバチ科 | ハバチの一種が3種 |
ヒメバチ科 | マダラヒメバチ |
アリバチ科 | ヒトホシアリバチ |
スズメバチ科 | クロスズメバチ、トックリバチ、オオスズメバチ、キイロスズメバチ、オオフタオビドロバチ |
ジガバチ科 | キゴシジガバチ、クロアナバチ |
ハキリバチ科 | オオハキリバチ |
ミツバチ科 | クマバチ |
ヒシバッタ科 | ニセハネナガヒシバッタ |
バッタ科 | ショウリョウバッタ、オンブバッタ |
キリギリス科 | ヤブキリ、コバネヒメギス、アシグロツユムシ |
アザミウマ科 | アザミウマの一種が1種 |
マルカメムシ科 | ヒメマルカメムシ |
カメムシ科 | クロカメムシ、オオクロカメムシ、ウズラカメムシ |
ノコギリカメムシ科 | ノコギリカメムシ |
ヘリカメムシ科 | ホシハラビロヘリカメムシ、ホオズキカメムシ、ホソハリカメムシ、ハリカメムシ |
ナガカメムシ科 | ヒゲナガカメムシ、クロスジヒゲナガカメムシ、オオメナガカメムシ、ナガカメムシの1種 |
アメンボ科 | ヒメアメンボ、アメンボ |
タイコウチ科 | ミズカマキリ |
セミ科 | アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ |
ツノゼミ科 | トビイロツノゼミ |
ミミズク科 | ミミズク |
ハゴロモ科 | ベッコウハゴロモ、スケバハゴロモ |
アオバハゴロモ科 | アオバハゴロモ |
スカシバガ科 | モモブトスカシバ |
ヤガ科 | アケビコノハ |
セセリチョウ科 | ダイミョウセセリ、イチモンジセセリ、ギンイチモンジセセリ、チャバネセセリ、オオチャバネセセリ |
アゲハチョウ科 | アオスジアゲハ、キアゲハ、ナミアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ |
シロチョウ科 | モンキチョウ、キチョウ、スジグロシロチョウ、モンシロチョウ、ツマキチョウ |
シジミチョウ科 | ウラゴマダラシジミ、ミドリシジミ、ベニシジミ、ゴイシシジミ、ヤマトシジミ、ルリシジミ、ツバメシジミ |
ウラギンシジミ科 | ウラギンシジミ |
タテハチョウ科 | メスグロヒョウモン、イチモンジチョウ、コミスジ、キタテハ、ヒメアカタテハ、コムラサキ、ゴマダラチョウ、ルリタテハ |
ジャノメチョウ科 | ヒメウラナミジャノメ、ヒカゲチョウ、サトキマダラヒカゲ、ヒメジャノメ |
イトトンボ科 | キイトトンボ、アジアイトトンボ、アオモンイトトンボ、クロイトトンボ、セスジイトトンボ、オオイトトンボ |
アオイトトンボ科 | オツネントンボ、アオイトトンボ、オオアオイトトンボ |
カワトンボ科 | ヒガシカワトンボ |
サナエトンボ科 | ウチワヤンマ |
ヤンマ科 | ミルンヤンマ、ギンヤンマ |
オニヤンマ科 | オニヤンマ |
ヤマトンボ科 | オオヤマトンボ |
トンボ科 | シオカラトンボ、オオシオカラトンボ、ショウジョウトンボ、コフキトンボ、ナツアカネ、アキアカネ、ヒメアカネ、マユタテアカネ、ノシメトンボ、コシアキトンボ、チョウトンボ |
鳥類[編集]
水戸市立博物館の2014年特別展『天空を翔る鳥たち 千波湖畔に生きる』図録掲載の「千波湖周辺で四季を通じて見られる野鳥、確認された野鳥」は千波湖周辺(干拓以前の千波湖および桜川に隣接する緑林部も含む)で野鳥94種が観察・確認されたと報告している。その内訳は以下である[206]。
普通に見られる野鳥
年間を通して観察・確認(21種)
秋 - 冬 - 春に観察・確認(14種)
春 - 夏 - 秋に観察・確認(3種)
千波湖のハクチョウ、コクチョウ[編集]
彦根市等からの寄贈[編集]
1968年10月29日、水戸市は彦根市と両市間の安政の大獄、桜田門外の変等に歴史的事件に起因するわだかまりを超えて親善都市の盟約を結ぶ。そして彦根市は1969年10月に友好の印として彦根城の堀に住むコブハクチョウのひとつがいを水戸市に贈った。これが彦根市からのハクチョウ寄贈の最初である[注釈 24]。贈られたコブハクチョウは10月16日に水戸に届き、千波湖畔の偕楽園レイクランドの飼育施設に放たれた[212][213][214][150]。 この最初の寄贈以後、彦根市からは度々コブハクチョウが寄贈される。確実な寄贈例は以下のとおり。 ●1972年4月8日にメス鳥1羽が届く。1969年に贈られたつがいのメスが1971年の春に死んでしまったので、その代わりとして届けられたものである[215][216][注釈 25]。更に彦根市は追加でもうひとつがいを贈り、それは同年11月4日に届いた[219]。 ●1974年5月16日に更にひとつがいが届く[220]。翌年、このつがいから初めてのヒナが3羽誕生した[221]。 ●1996年12月6日にコブハクチョウの夫婦とその子の計3羽が届く[222]。2016年-2017年の鳥インフルエンザ禍[編集]
2016年11月29日、水戸市内の大塚池でオオハクチョウの死骸が発見される。この死骸から鳥インフルエンザウイルスが検出され、鳥取大学の確定検査で高病原性鳥インフルエンザウイルス︵H5N6型︶と判明した。翌月12月6日、千波湖東岸でユリカモメの死骸が発見され、これからもH5N6型ウイルスが検出された。12月8日には千波湖西岸で衰弱しているコブハクチョウが見つかり、搬入された茨城県県北家畜保健衛生所で死亡した。検査の結果、これからもH5N6型ウイルスが検出された。これ以後も鳥インフルエンザウイルスに感染した野鳥の死骸発見が相次いだ。環境省は﹃野鳥における高病原性鳥インフルエンザに係る対応技術マニュアル︵以後﹃マニュアル﹄︶﹄に基づき、12月2日に大塚池での死骸回収地点、12月6日に千波湖での死骸回収地点それぞれの周囲10キロメートル圏内を野鳥監視重点区域に指定しており、千波湖はその全域が監視区域に入った。監視区域に入った千波湖周辺では﹃マニュアル﹄に準じ、感染拡大防止のための様々な措置が行われた。それは、湖畔でのジョギング自粛要請、自転車の乗り入れ禁止、消毒用石灰の散布などである。毎年恒例の千波湖での元旦マラソンは中止され、これも正月恒例の千波湖畔での出初め式も場所がケーズデンキスタジアム水戸に変更された。水戸市はまたスマートフォン向け位置情報ゲームアプリの﹁ポケモンGO﹂の運営会社に対し、千波湖および大塚池周辺の"ポケストップ"の削除申請を12月16日に出している。これは﹁ポケモンGO﹂で様々なアイテムが取得できる"ポケストップ"が千波湖および大塚池周辺の公園には多く在り、ゲーム利用者と思われる者がインフルエンザ騒動中も千波湖畔等で多く見受けられたためにとられた措置である。ハクチョウを羽切りして湖沼外に飛んでいけないようにする拡大防止策も検討されたが、鳥の数が多すぎたために断念している。2月18日に開幕した千波湖近くの偕楽園での﹁水戸の梅まつり﹂では千波湖に観光客が近寄らないように、警備員を配しての観光客の誘導や、千波湖を迂回する導線の設定などの措置がとられた。3月10日24時、感染した鳥が1月24日以降の45日間にわたって見られなかったことから、﹃マニュアル﹄に基づき野鳥監視重点区域指定が解除される。解除に伴い千波湖でのジョギング自粛要請等も解除された[205][228][229][230][231][232][233][234][235][236]。 この2016年から2017年の冬シーズンにかけての野鳥での鳥インフルエンザ禍は、千波湖以外の茨城県各地︵ひたちなか市、鹿嶋市、潮来市︶でも発生しており、茨城県内全体で62羽の感染死が報告されている。その内、56羽が水戸市で発見されたもので、更に千波湖で発見されたものが43羽と最多であった[注釈 26]。43羽の鳥種毎の内訳は、コブハクチョウ30羽、コクチョウ5羽、ユリカモメ6羽、カンムリカイツブリ2羽である。鳥インフルエンザ禍発生前の2016年11月の千波湖ではコブハクチョウは51羽、コクチョウは93羽が観測されており、コブハクチョウは6割近くが死んだことになる[157][237]。 この鳥インフルエンザ禍を受け水戸市は千波湖のハクチョウの個体数を管理可能な数にまで減らす対策に乗り出す。その方法は、"偽卵"を抱かせて繁殖を抑制するというもので2017年の4月18日までに湖畔7箇所の巣から31個の卵が偽卵にすり替えられた。この結果、2017年6月時点ではコブハクチョウの誕生は無く、コクチョウの誕生も1匹に抑制されている。水戸市は10羽以下が適当な個体数としている[205][237][238][239]。植物[編集]
公園化されている千波湖の周辺は芝地や植林された桜や柳で囲まれ、人工的な植生となっている。湖沼内の水生植物は大量発生するアオコに生育を阻まれ、種類も個体数も少ない。以下は1986年時点で観察された千波湖の水生植物である[240][241]。抽水植物 | ヨシ、マコモ、ウキヤガラ、ミクリ、サンカクイ、キショウブ、ハス |
浮葉植物 | ヒメビシ |
沈水植物 | 確認できず(僅かにエビモの残骸が確認される) |
浮水植物 | ホテイアオイ(但し人工的に栽培されているもの) |
千波湖の桜[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
『千波公園サクラマップ』水戸市ホームページ>SENBA LAKE OFFICIAL WEB SITEより。 |
藻類・プランクトン[編集]
水戸市立博物館は1987年現在の千波湖のプランクトンとして以下の状況を報告している[244]。 ●ミクロキスティス︵Microcystis︶-千波湖のアオコの主構成種となっている。4月頃から増加しはじめ、夏に大発生する。水温の低下と共に減少し、冬はほぼ姿を消す。 ●アファノカプサ︵Aphanocapsa︶-5月頃はミクロキスティスと共湖沼内の優占種となるが、7月からはミクロキスティスに押される。 ●他 ●藍藻類-ユレモ︵Oscillayoria︶、サヤユレモ︵Lyngbya︶、ホルミディウム︵Phormidium︶などが春から夏にかけて多く見られる。 ●珪藻類-フナガタケイソウ︵Navicula︶、オビケイソウ︵Fragilaria︶が多く見られる。ハリケイソウ︵Synedra︶も見られる。 ●緑藻類-多く見られるのはセネデスムス︵Scenedesmus︶である。他にミカヅキモ︵Closterium︶、ツヅミモ︵Cosmarium︶が見られる。 ●動物プランクトンとしては、クラミドモナス︵Chlamydomonas︶、ツボワムシ、フクロワムシ、ケンミジンコ、オナガミジンコが見られる。 20世紀末には、ロシア科学アカデミー及び茨城大学の研究者によって更に詳細な調査がなされ、千波湖内の藻類として、1997年にクロレラ目緑藻類の20属51種及び2変異種の存在、2000年に珪藻植物30属129種︵内訳123種、5変種、1品種︶の存在が発見されている。発見された珪藻植物の全体では、フナガタケイソウ属︵Navicula︶の15.5パーセント、オビケイソウ属︵Fragilaria︶の9.3パーセントが上位にある。他の珪藻植物はササノハケイソウ属︵Nitzschia︶8.5パーセント、コバンケイソウ属︵Surirella︶7.7パーセント、ツメケイソウ属︵Achnanthes︶6.2パーセント、クチビルケイソウ属︵Cymbella︶6.2パーセントとなっている[245][246][247]。千波湖のアオコ[編集]
千波湖のアオコは6月から10月はほぼ毎日、発生している。発生場所は南岸付近が多い。発生要因としては湖沼水の長期滞留、湖沼の富栄養化、高水温、日射時間増などがあげられる。その内、湖沼水の長期滞留には千波湖の東側の桜川下流に設置された﹁柳堤堰﹂が灌漑期に備前堀へ水を供給するため、堰を閉じ桜川を湛水させていることが要因のひとつにある。桜川が堰き止められることで千波湖も水の流入出が滞り、結果アオコが発生しやすくなっている[248][58]。江戸時代の動植物[編集]
江戸時代の千波湖の動植物について﹃水府地理温古録﹄では以下のように記述している[注釈 27][75]。 一 千波沼の産物荒まし。鯉 鮒 鯰 鯲 泥亀[注釈 28]、亀甲、鱣、鰕、さい[注釈 29]、ぼら、獺 一 鳥類 鴈、鴨 白鳥、翡翠[注釈 30]、ぼと[注釈 31]、よしきり、庭雞、川ねづみ[注釈 32]、白鷺、あを鷺、五位鷺、鳶、鷲、ゑぼ[注釈 33] 黄雀[注釈 34] 鵜 一 蛙、蟇、田螺、かわにう、蜻蛉、蝉、蛍、蚊、蜉蝣、片貝 一 草類 ふとひ、蒲、眞菰、河骨、蓮 蓴菜 、蘆 さんりやう[注釈 35]、澤瀉、葵、蘞 菱 — ﹃水府地理温古録﹄︵﹃茨城県史料 近世地誌編﹄p133[75]︶ この他、湖上に鶴を見た、と記した史料もある[257]。水質[編集]
COD:化学的酸索要求量(1987年度から(但し中央部は1991年度から))
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
pH:水素イオン濃度(1991年度から)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
BOD:生物化学的酸素要求量(1991年度から)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
SS:浮遊物質量(1991年度から)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
DO:溶残酸素量(1991年度から)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
T-n:総窒素(1995年度から)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
T-p:総リン(1995年度から)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
Chl-a:クロロフィルa(1995年度から)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
また、1年間(2017年4月から2018年3月)のCOD等の推移については以下のとおりである[259]。
COD:化学的酸索要求量(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
pH:水素イオン濃度(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
BOD:生物化学的酸素要求量(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
SS:浮遊物質量(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
DO:溶残酸素量(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
T-n:総窒素(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
T-p:総リン(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
Chl-a:クロロフィルa(2017年度)
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
通常、清浄な水質とされるのはBOD、COD、SS、T-n、T-p、Chl-aの場合は低い値の時で、DOの場合は高い値の時である。そこで環境省が公表した「平成29年度公共用水域水質測定結果」上で最も水質の良い(=CODが低い)湖沼の一つとされた支笏湖(北海道)と、最も水質の悪い(=CODが高い)湖沼の一つとされた伊豆沼(宮城県)と千波湖を比較すると以下の表のようになる[289]。
湖沼名 | COD(年間平均値) |
---|---|
支笏湖 | 0.6 |
伊豆沼 | 11.0 |
千波湖(中央部) | 14.0 |
水質浄化対策[編集]
-
3.桜川分水施設(河和田)
画像左上流部 -
4.桜川分水施設
画像右はラバーダムで堰き止められた桜川上流部 -
5.千波湖取水施設
画像左上流部 -
7:西駐車場の水路
画像奥上流部 -
好文茶屋裏の池からの千波湖導水部
-
D51近く岸辺の導水水噴出箇所
- 流動促進装置の設置
-
ジェットストリーマー(流動促進装置)の位置
-
流動促進装置(湖南東側)
画像外部リンク | |
---|---|
スワンボート型の流動促進装置の写真。国会図書館WARPが2011年7月21日に保存した「SENBA LAKE OFFICIAL WEB SITE」のアーカイブより。 |
-
大噴水
-
小噴水(南)
- 湧水の導水
測定日 | 測定場所 | |
---|---|---|
ビオトープ入口 | ビオトープ出口 | |
2012年10月9日(=造成前) | 5.46 | 5.61 |
2013年1月7日(=造成後) | 5.50 | 3.92 |
-
ハナミズキ広場ビオトープ
-
南岸ビオトープ
-
さくら広場前ビオトープ
水温[編集]
千波湖の2009年8月から2012年7月間の月平均水温は以下の表のとおりである。出典としたデータは科学研究費助成事業︵課題番号21710003﹁衛星熱赤外画像データを用いた全国に点在する小水域の水温データベースの構築﹂研究期間:2009年度から2012年度︶の助の下、茨城大学工学部情報工学科・外岡研究室︵指導教員:外岡秀行︶によって提供されたものである。このデータは、千波湖の中央付近に設置したボタン型温度ロガー︵データロガー︶で水面直下の水温を10分間隔で自動計測した値の1日平均値として2009年8月19日から2012年7月5日間のデータを外岡研究室がweb上で公開していたものであり、表化にあたって月平均にデータを加工した。年平均水温は2010年が17.37度、2011年が17.11度、2009年8月19日から2012年7月5日間に計測された1日平均最高水温は2010年7月24日の32.7度、1日平均最低水温は2012年2月9日の2.9度である[323][324]。 下表期間後の千波湖の水温データは外岡達が構築した﹁衛星湖沼水温データベース日本編︵Satellite-based Lake and Reservoir Temperature Database in Japan; SatLARTD-J︶﹂で得ることが出来る。このデータベースではNASAの地球観測衛星Tera搭載に搭載された光学センサASTERの時系列熱赤外画像から推計した"ASTER推定水温"と、この"ASTER推定水温"とAMeDASから得た地上気温との回帰に基づく"回帰推定水温"が提供されている。"ASTER推定水温"のデータは1年間に平均で3回ほど提供され、その精度︵accuracy︶は約摂氏1度で、"回帰推定水温"は5日間隔で提供され、その精度は約摂氏2度である。千波湖以外の湖沼のデータも提供されている[325]。1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2009年 | / | / | / | / | / | / | / | ※27.01 | 23.17 | 18.78 | 13.71 | 8.62 |
2010年 | 5.57 | 6.94 | 10.23 | 13.57 | 20.36 | 24.79 | 28.76 | 30.26 | 25.55 | 19.48 | 13.52 | 9.22 |
2011年 | 4.75 | 7.36 | 9.80 | 15.73 | 20.00 | 23.70 | 28.71 | 28.81 | 26.57 | 19.63 | 14.46 | 7.00 |
2012年 | 4.19 | 5.83 | 9.60 | 15.06 | 21.22 | 22.95 | ※25.58 | / | / | / | / | / |
災害[編集]
水害[編集]
東北地方太平洋沖地震での被害[編集]
2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震︵東日本大震災︶では水戸市は震度6弱を記録し、死者7人、負傷者84人、全壊住宅164棟等の被害が発生した[348]。そして千波湖周辺で以下のような被害が発生している[156]。 ●偕楽橋の南詰で段差の発生。 ●周回歩道の北側︵桜川沿い︶で路面陥没。 ●西岸周辺で路面損壊、盛土の変形、地盤亀裂、河川法面 の崩壊。 ●南岸の周回歩道とその南の千波公園で、地盤の液状化現象が発生。 また、駅南地区においては液状化現象が多く認められ、また地割れ等が発生している。これら千波湖周辺と駅南地区で液状化現象が顕著に認められたのに対し、市内の台地区では液状化現象の跡は認められていない。これは千波湖周辺等の水戸市の低地区の地質が沖積層で構成されていること、また駅南地区の成り立ちが大正後期から昭和前期にかけての千波湖埋め立て事業によって陸地化した地区であること等から、千波湖周辺等が軟弱な地盤であることに要因を求めることが出来、この地域は地形・地質面で地震に対し脆弱性を内包していると指摘出来る[156]。利水[編集]
千波湖の慣行水利権は﹁千波湖土地改良区﹂が有している。千波湖土地改良区の起源は水戸藩初代藩主徳川頼房治世下の1610年︵慶長15年︶の千波湖の放水と周辺の水田への引水を目的とした備前堀の開墾に遡る。その時から水戸藩の統制下のもと千波湖、備前堀の整備・管理の一端を担い、利益を得ていた村衆・町方衆が、この土地改良区の母体である。明治になり、藩制が無くなると、区町村会法︵1880年制定︶のもと法的に裏付けられた用水管理団体である﹁水利土工会﹂が関係者であった村々により設立された。﹁千波湖水利土巧会﹂がそれであるが、その発足は難産であり、1884年9月に第1回の議員選挙を行ったが、結果に不満が出された挙句この選挙結果が取り消され、議員数を見直した上で行われた再選挙で決定した議員で1885年3月に開かれた第1会会議により正式に発足している。その後、﹁千波湖普通水利組合﹂︵1890年︶と組織変遷をし、1949年の土地改良法の成立を受け、1951年8月に﹁千波湖土地改良区﹂と改組し現在に至る[349][350]。1980年1月刊の﹃千波湖浄化対策調査報告書﹄︵水戸市︶は千波湖土地改良区の水利権として毎秒0.19立方メートルの取水権がある、ことを記している[351]。 他に、工業用水として東部ガス水戸支社︵水戸市宮町︶が冷却水として1日100立方メートルを使用していることが、1989年3月刊の﹃水戸市千波湖浄化対策調査報告書﹄︵水戸市︶で記されている[352]。産業[編集]
現在の千波湖で行われている商業活動は偕楽園と連動した観光業、湖岸の公園を活かしたイベント開催等である。かっては農業、水産業も営まれていたが現在は行われなくなっている。観光業[編集]
千波湖は、水戸の重要な観光資源である偕楽園の借景として、水戸の観光業にとっては欠かせないものとなっている。大正からの千波湖埋立事業が始まる前の議論において埋立に強い反対があったこと、偕楽園下の湖西側は埋めてられず残ったことは、千波湖があってこそ偕楽園が引き立つとの認識があったからである。しかし、近年の観光客の減少を受けて、千波湖及び千波公園に新たな観光施設の整備などによる、観光価値の向上が模索されている[353][140]。観光地としての魅力向上への取り組み[編集]
水戸市の観光業は春の﹁梅まつり﹂に依存してきた所が大きかった。千波湖も1993年の﹁第10回全国都市緑化フェア - グリーンフェア'93いばらき﹂開催や、1998年のNHK大河ドラマ﹃徳川慶喜﹄の﹁徳川慶喜﹂展示館設置いった一時的なイベントがあった年以外は梅まつりの時期に観光客が集中する傾向であった。その﹁梅まつり﹂においては駐車場がある湖西側エリアが偕楽園へのプロムナードのひとつとして機能している[354]。しかし、2011年の東日本大震災による風評被害で水戸市の観光客が大きく落ち込んで以降、震災前の水準に回復をしていないことを背景に、宿泊型・通年型観光地への発展、外国人観光客の取り込みの必要性があげられ、その達成の為に偕楽園︵千波公園︶エリアで観光客をもてなすハード、ソフトの整備が課題となった[140][141]。 2019年4月26日、茨城県は偕楽園及び茨城県立歴史館周辺の観光地としての魅力を向上させる計画の策定をさせる﹁平成31年度偕楽園・歴史館エリア観光魅力向上計画策定業務委託﹂の公募型プロポーザルを公告した。このプロポーザルは7社が応募し、結果、国内でリゾートホテルなどを運営している星野リゾートが業務委託先に選定された。同社代表の星野佳路は選定後の6月15日に水戸市内で開かれた偕楽園と千波湖の将来を展望する﹃千波湖フォーラム︵水戸商工会議所主催︶﹄の場で、水戸市の観光課題として、”観光資源の点在”、”体験型サービス︵所謂﹁コト消費﹂︶の不足”、"象徴となる食の欠如"などを上げた上で、今回の計画策定においては国内大都市圏や海外からの誘客に徹した経済効果を産み出す計画であることの必要性を強く語った[355][356][357][358]。レジャー業・イベント業[編集]
江戸時代、千波湖の湖北側の奈良屋町と湖南側の七軒町︵しちけんちょう 現在の本町1丁目[367]︶には舟宿があり遊覧船などを仕立てていた。江戸時代の千波湖は水戸城の外濠としての役割もあり、城防衛上の観点から夜間の舟の往来は禁止されていたが、奈良屋町と七軒町の者らは1800年︵寛政12年︶に夜舟の運航許可願いを出すと、それが認められ5月から7月の間は両町の舟宿から出る夜舟が認められた。許可後は、吉田神社の祭礼の日に舟中で酒宴を行いながら対岸の吉田神社まで渡る、屋形船的な営業もなされるようになった[31][368][28]。 水戸藩の統制が無くなった明治以後は、湖上のレジャー業が拡大する。貸しボート屋が乱立し、ついに1930年に茨城県が規制に乗り出したが、効果無く増え続けた。同年8月には50艘の貸しボートが所属する貸しボート組合が設立された[136][369][370][371]。 昭和の高度成長期は﹁偕楽園レイクランド﹂、﹁水戸レイクサイドボウル﹂といった大型レジャー施設が湖畔にオープンし、千波湖でのレジャー業はピークを迎える。だが1982年の偕楽園レイクランド閉園後は千波湖畔は都市公園として市民が思い思いのスタイルでレジャーを楽しむ場へと整備が進んだ。有料のレジャー施設としては貸しボート屋が1店湖西岸に残るのみである。現在の千波湖での目立つ商業活動は様々なイベントの会場として利用されていることである。1993年の千波湖周辺で開催された「第10回全国都市緑化フェア - グリーンフェア'93いばらき」以後、グルメフェスティバルや音楽フェスティバル等の野外イベントの会場として多用されるようになり、イベント内模擬店では飲食物販売、企業・団体の広報活動が行われている。このようなイベント開催は湖畔の広い公園エリアと大規模な駐車スペースが可能にしている[15]。
かって営まれていた産業[編集]
農業[編集]
水戸藩時代、灌漑用水源としての千波湖は備前堀を通して周辺の20の村︵浜田・酒門・谷田・西大野・東大野・圷大野・中大野・六反田・栗崎・東前・下大野・大串・塩崎・平戸・島田・川又・小泉・渋井・細谷・吉沼︶の約980町歩︵約9.72キロ平方メートル︶に水を供給した[372][注釈 40]。だが、千波湖は干害時には干上がるなどしており、その水量は用水池としては十分ではなかった[373][374]。 千波湖自体を埋め立てて農地にしようとする試みは、宝永の頃に水戸藩の財政再建を託された松波勘十郎の計画を最初に、歴史上度々浮上しては反対に合い潰れていた[375]。が遂に、1921年から始まった千波湖改修事業によって、湖全体の約3分の2にあたる湖東部分が埋め立てられた。埋め立て地には碁盤目状の水田が造られ、その面積は68町5反歩︵約0.68キロ立方メートル︶となった。この開田地からの米の収穫量は1927・28年度では1反当り平均2石4斗︵約493リットル︶であった。しかし、この開田地及び備前堀への供水は改修事業によって千波湖から切り離され新たな河道を整備された桜川から行われるようになり、農業用水源としての千波湖は、用水施設の障害時や干害時の予備としての地位に下がった。 上述の千波湖改修事業前は湖南岸と湖西岸は護岸化されておらず、湖沼の水位が下がると岸辺の湖底が露出した。ここを水田として稲作を行うことが改修事業前の江戸時代の頃から、沿岸の農民により行われていた。千波湖の水位が下がるのは備前堀下流域水田への田植えの為の供水が終わった後で、それからこの自然水田への田植えは行われる。元々は湖沼であった土地のため、貢租や地租が課せられること無いというメリットがあった。が、少しの増水で稲が冠水し収穫出来ないというデメリットがあった。そのため、湖南岸・西岸の農民︵緑岡村の農民など︶は千波湖の水位を常時下げておくことを望み、しばしば紛争を起こしている。千波湖改修事業によって千波湖は全周を護岸化され、この自然水田が生まれる事は無くなった[376]。太平洋戦争後の水田化[編集]
水産業[編集]
水戸藩時代以来、千波湖では漁業は漁業は禁じられていたが、1901年以降には解禁されたと思われる。禁漁時代はおおやけにはジュンサイのみが収穫物であったが、密漁も行われていたようである。既に漁業が解禁されていた1912年には漁業者を本業とする者16名、副業とする者3名がおり、ウナギ、エビ、ドジョウ等が収穫され、当時の金額で1931円の漁獲高を得ていた[383]。1912年の1931円は2019年の貨幣価値に計算︵企業物価指数︵戦前基準指数︶で計算︶すると約209万円に相当する[注釈 41][383]。 水深の浅い千波湖では底が浅い平べったい舟で漁が行われていた。収穫物の中でもサクラエビに似た小エビは名物で、年産額2千円となっていたと1927年刊行の﹃東茨城郡誌﹄には記述されている。1927年の2千円は2019年の貨幣価値に計算︵企業物価指数︵戦前基準指数︶で計算︶すると約127万円に相当する[注釈 42]。エビ漁は9月から1月の間に行われ、最も盛んな時期は11月であった。その漁法は竹の笹を束ねた物を水中に沈めて、その笹の間に潜り込んだエビを獲る、というエビの物陰を好む習性を利用したものである。"笹浸︵ササジ、ササビタシ、ササヒデ︶"又は"笹漁"と呼ばれる漁法で涸沼や北浦などでも同様の漁法でエビが獲られている。水戸市出身の彫刻家である木内克の家は千波湖のエビの卸売商を営んでいた[382][384][385][386]。 千波湖の漁業権を管理する現在の漁業協同組合に相当する組織としては、﹁千波沼漁業組合﹂があった。この漁業組合は1909年6月22日に創立総会を開催し茨城県に組合設置認可を申請、同年10月28日に設置認可された。組合の設置は茨城県の千波湖でのコイの養殖計画に対応したものであった。組合の設立に当たっては、水利権を持つ千波湖普通水利組合が用水運営上支障が生じることを懸念し反対をしたため、認可は遅れた。漁業組合はまた、1912年に専用漁業権の所得も出願したが、水利組合はこれにも反対したが、結局同年5月8日付けで認可された。ただ組合は市民の遊漁行為についてはある程度自由に行わせており、これについて大槻は組合認可において遊漁行為について何らかの条件が附されたものと推測している[383][387][388]。 1932年3月31日現在の組合員数は61であった[389]。 1933年、組合は従来の慣行を反して、千波湖での遊漁者から入漁料を徴収するようになる。1935年4月、漁業組合は千波湖でのコイの養殖を開始する[注釈 43]。組合は養殖事業の権利を宇都宮市の養鯉家Aに年1000円︵2019年の貨幣価値では約70万円︵企業物価指数︵戦前基準指数︶で計算[注釈 44]︶譲渡し、養殖を行わせた。Aは千波湖を監視し、無許可遊漁者は窃盗として告発するなど、厳しく対応する行動をとった。また養殖事業は飼料から発する腐敗臭が湖沼沿岸に拡がる悪臭問題も引き起こした。これら遊漁問題、悪臭問題に市民の不満がたまり、遂にマスコミも大々的に取り上げる漁業組合の専用漁業権取消運動に発展した。﹃いはらき﹄は1937年11月11日より﹃怨嗟の的・専用漁業権﹄と題した連載記事を連日掲載し、漁業組合、養鯉家、行政を追求し、市民は県に漁業権の取消と千波湖開放を陳情した。これらの動きに行政が紛争調停に動き、漁業権取消はされなかったものの、桜川に無料釣り場の設置、及び千波湖に有料ではあるが1人につき20銭とする低廉な入漁料の有料釣場︵設置は9月から12月までの期間限定︶を設置する、などを記した﹃千波沼利用改善ニ関スル覚書﹄が県及び水利組合他の関係団体立合いの元、漁業組合側と水戸市会議長を代表とする入漁者側の間で、1938年3月24日に交わされた。これは、市民の遊漁権が認められた形となったものである。一方、漁業組合側には釣場設置に対し県及び市から補助金が公布されることが同覚書で明記されている。有料釣場は湖南岸に設置され1939年9月1日一般開放された。なお養殖事業の規模について﹃いはらき﹄では養鯉家が収益を明らかにしていない中、1936年度の予想漁獲高として60万尾、15万円︵2019年の貨幣価値では約1億116万円︵企業物価指数︵戦前基準指数︶で計算[注釈 45]︶を出している[383][390][391][392]。 千波沼漁業組合は戦後の1946年9月4日に茨城県告示第297号で、水産業団体法第89条の規定により解散を命じられて、解散した[393]。舟運業[編集]
画像外部リンク | |
---|---|
渡し船運航ルートが載っている「水戸市現勢地図(明治42年)」-水戸市立図書館デジタルアーカイブより |
周辺現況[編集]
広域[編集]
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
詳細[編集]
千波湖周辺の橋、施設、像、碑等の2020年1月現在の状況は下図のとおり。- 1=浮島
- 彦根市から寄贈されたハクチョウが休む所として設置された人工の浮島。詳細は「#彦根市等からの寄贈」を参照
- 2=大噴水
- 3=小噴水(南)
- 4=小噴水(東)
- 水質浄化目的で湖内に3つの噴水が設置されている。詳細は「#噴水の設置」を参照5=ふれあい広場 6=さくら広場 7=ハナミズキ広場 8=せせらぎ広場 ふれあい広場、さくら広場、ハナミズキ広場、せせらぎ広場は千波公園のエリア毎につけられた名称で、それぞれ、市民の遊び場や散策の場として利用されている他、各種イベントの場としても活用されている。詳細は「#レジャー・スポーツ」および「#イベント」を参照
- 9=少年の森
- 子供が遊ぶアスレチック遊具などがある。詳細は「#レジャー・スポーツ」を参照10=水門︵東︶ 桜川と繋がっている水門。千波湖の水の流出箇所である[56][57]。 11=水門︵西︶ 桜川と繋がっている水門。大正後期から昭和前期にかけて行われた千波湖の干拓を主とした千波湖改修工事の一連の工事の中で設置工事が行われ、1925年7月に竣工している。竣工当時は"千波水門"又は"堤塘水門"と呼ばれている。形状は暗渠部分が長さ32尺︵約9.7メートル︶で高さ6尺5寸︵約1.97メートル︶・幅4尺︵約1.2メートル︶のアーチ型の水門が2連並んだものである。千波湖改修工事のため涸れていた千波湖に、1927年2月に、この水門から桜川の水を引き込み湖沼として蘇らせている[56][405][406][407]。 12=芳流橋 桜川に架かる橋で千波湖北岸のほぼ中央部と県道50号を繋いでいる。2020年現在の橋は1993年3月竣功された[56][408]。初代の芳流橋は1959年6月8日の開通式から利用が始まり、その長さは18メートル、幅は4メートルの鉄筋コンクリート製であった[409]。 13=偕楽橋 千波湖から桜川、県道50号、市道見川114号、常磐線を乗り越え、偕楽園東門下の南崖橋に達する歩行者・自転車用の橋。現在の姿になる前は南崖橋から市道114号と県道50号の間の土地︵現在の偕楽橋に2箇所在るループ階段中、北寄りに在るループ階段の場所とほぼ同一の場所︶の所までしか架かっていなかったが、1993年に千波湖周辺を会場として開催される﹁第10回全国都市緑化フェア - グリーンフェア'93いばらき﹂での会場整備事業のひとつとして橋の延伸がされ1992年7月に現在の姿になった[401][410][411][412]。 14=湖畔橋 好文茶屋裏の池から流れ桜川に繋がる春雨川に架かるスギ、ヒノキを使用した木造の短い太鼓橋。湖畔の遊歩道と西側駐車場を結んでいる。2020年現在の橋は大正年間に架けられたコンクリート製のものから1988年1月に架け替えられたもので、長さ約10メートル、幅約4.5メートルである。水戸市が設計し、工費は約9百万円であった[56][413]。前代の橋は大正後期から昭和前期にかけて行われた千波湖の干拓を主とした千波湖改修工事の一連の工事の中で架橋工事が行われ、1925年7月に竣工している。その大きさは長さ25尺︵約7.6メートル︶・幅15尺︵約4.5メートル︶であった[405][406]。 15=湧水の落ちる滝 千波湖では水質浄化のため、周辺の湧水を導入させており、その湧水の流出口であるハナミズキ広場の奥にある人工の滝。詳細は「#湧水の導水」を参照
- 16=ビオトープ
- 千波湖の環境保護活動をしている市民団体によりビオトープが千波湖南岸に造られている[313]。
- 詳細は「#ビオトープの造成」を参照●16a:ハナミズキ広場ビオトープ ●2012年度造成。 ●16b:南岸ビオトープ ●2013年度造成。 ●16c:さくら広場前ビオトープ ●2014年度、2015年度造成。 17=柳崎貝塚 柳崎貝塚は茨城県近代美術館の北西角近くにある小規模な貝塚である。1967年3月に調査が行われ、新発見の貝塚として﹁柳崎貝塚﹂と呼称された。1967年の調査でヤマトシジミ等の貝類、関山式他の土器片が出土しており、縄文時代前期に形成された、主淡貝塚と言える。柳崎貝塚の存在は今から約6000年から6500年前︵縄文時代早期末から前期後半︶には地球の温暖化により海面が上昇︵この現象は﹁縄文海進﹂と呼ばれる︶し、海が現在の千波湖まで入っていたことを伝えており、水戸や千波湖の地形の成り立ちを観察する上での好スポットである[414][415][416]。詳細は「柳崎貝塚」を参照18=好文茶屋 1986年に開業した水戸観光コンベンション協会が運営していた甘味処[417]。千波公園︵黄門像広場周辺地区︶拠点整備事業に伴い2024年5月6日に閉店した[417]。詳細は後述。 19=好文cafe 2010年2月に"新好文茶屋"としてオープンした飲食・物販・観光案内機能を持った施設である。千波湖周辺での休憩・飲食サービスの整備と水戸市政120周年を記念する施設として建てられた。鉄骨造平屋建て、延面積359.5平方メートル、敷地面積2879.6平方メートル。内部は飲食エリア、案内・休憩エリア、事務・厨房等の共用エリアに分かれる。千波湖に面した側は一面ガラス張りとなっている。屋上は自由に上がれることが出来るようになっており、ここには芝生が張られ、千波湖が一望できる好ポイントである。設計は匠建築研究室︵水戸市︶[153][12][418]。 20=貸しボート屋詳細は「#レジャー・スポーツ」を参照21=レンタサイクル貸出所 2019年現在で水戸市内に3つあるレンタサイクル貸出所の一つ。1989年から運営されている。ここで借りた自転車は水戸駅南口のレンタサイクル貸出所に返還もでき、その逆の水戸駅南口のレンタルサイクル貸出所で借りた自転車をここに返却することも出来る。また、ここではタンデム自転車も借りることが出来る。ただしタンデム自転車の運転は千波湖畔園路及び指定サイクリングロードのみである[419][420]。 22=D51 515号蒸気機関車 ふれあい広場西の駐車場の一画には﹁デゴイチ﹂の愛称がある国鉄D51形蒸気機関車の515号機が展示されている。1941年に鉄道省大宮工場で製造され実際に茨城県内を走っていた車輌である。1970年に水戸機関区での蒸気機関車運行が終わった後、国鉄から譲り受けた。その巨体の移動は1971年8月18日の23時より輸送区間となった旧国道6号を約1キロメートル交通止めにしてから深夜に行われ、8月19日の午後に現在のレールの上に設置され、翌20日に引き渡し式が挙行された。車輌は移設年から﹁デゴイチを守る会﹂という団体が清掃や破損箇所の修理などを行い、美観を保っている[421][422][423][424]。「デゴイチを守る会」については「#市民活動・環境活動」を参照23=親水デッキ 2010年2月に噴水、好文cafeと同時に利用が始まった、千波湖に張り出して設置されたウッドデッキ。ここではストリートライブがたびたび催されている[425]。 24=徳川光圀公像 湖畔西の黄門像広場にある徳川光圀の銅像。老境の光圀が左足を半歩前に出し、千波湖越しに自身の生誕地である水戸城下方向を向いて立つ姿を表している。高さは台座を含め6メートル余りある。1983年6月4日に開催された﹁水戸黄門像建立実行委員会﹂で"水戸市民の象徴として"建立することが決定された。委員会の会長は当時の水戸市長和田祐之介であった。翌年、1984年3月9日に除幕式が行われた。銅像製作は小森邦夫、撰文は瀬谷義彦、書は関敬義︵関南沖︶[425][426][427][428][429]。 25=徳川斉昭公・七郎麻呂︵慶喜公︶像 徳川斉昭と七郎麻呂︵後の徳川慶喜︶の親子の銅像。世の正道を子に説く父と、父を仰ぎ見る子の姿を表している。1999年11月1日に除幕式が行われた。銅像製作は能島征二、題字揮毫は橋本昌茨城県知事︵当時︶。この像はNHK大河ドラマ﹃徳川慶喜﹄のロケ地、展示施設として千波湖湖畔に建てられた﹁徳川慶喜﹂展示館の入場料等の収益を活用して建立された[430][431]。詳細は「#イベント」を参照26=長塚節歌碑 長塚節の生誕120年を記念し、建立された歌碑。1994年4月3日、節の誕生日に除幕式節が行われた。歌碑には日露戦争で負傷した親友に宛てた見舞いの手紙に添えられた次の短歌が刻まれている[432][433]。 那珂川ニ網曳ク人ノ目モカレズ鮭ヲ待ツ如君待ツ我ハ — 長塚節、﹃長塚節全集 第6巻 書簡︵上︶﹄75-78p 27=﹁ダイダラ坊の伝説﹂碑 巨人﹁ダイダラ坊﹂が千波湖を創ったとする伝説を記した碑。1990年2月に水戸市教育委員会が設置した[434]。:詳細は「#伝説・民話」を参照28=日朝親善記念碑 碑文には、この碑は1960年4月に水戸市から在日朝鮮人の帰還事業に伴う在日朝鮮人の帰国が行われたことを記念し建てられ、碑石には在日朝鮮人が太平洋戦争前から労働していた日立鉱山近くの宮田川から運んできた自然石が使われている、旨が刻まれている。また碑には日朝親善の証として柳を千波湖畔に植えたことも刻まれている[435]。この日朝親善の柳は1960年4月22日から25日にかけて約400本が、朝鮮総連水戸支部及び日朝親善千波湖畔緑化植樹計画実行委員会︵代表和知忠雄水戸市議会議員︶他の手で植えられている[436][437][438]。10:水門(東)11:水門(西)12:芳流橋13:偕楽橋14:湖畔橋。画像右半分は好文茶屋裏の池。池の奥に見えるのは千波湖へ抜ける水路。17:「柳崎貝塚」碑と小広場。柳塚貝塚本体は小広場の裏手にある。18:好文茶屋19:好文cafe22:D51 515号蒸気機関車23:親水デッキ24:徳川光圀公像25:徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像26:長塚節歌碑28:日朝親善記念碑
千波公園(黄門像広場周辺地区)拠点整備事業[編集]
2016年︵平成28年︶5月に策定された﹁偕楽園公園︵千波公園等︶整備基本計画﹂に基づき﹁千波公園︵黄門像広場周辺地区︶拠点整備事業﹂が進められている[439]。整備前の施設[編集]
●好文茶屋 - 水戸観光コンベンション協会が運営していた甘味処[417]。中には好文亭内の"何陋庵︵かろうあん︶"を模した四畳半の茶室もある。面積は約100平方メートル、総工費は2500万円で水戸市が建設した。1986年2月15日竣工され、21日にオープンした。オープン当初は"黄門茶屋"と呼称されていたが、遅くともオープン年の8月には"好文茶屋"と改称している[440][441][442][443]。千波公園︵黄門像広場周辺地区︶拠点整備事業に伴い2024年5月6日に閉店した[417]。整備後の施設[編集]
公募により大和リース・アダストリアグループの提案が最優秀提案に選定された[444]。 ●公募対象公園施設 - マルシェ、物販施設、カフェ、レストラン、ベーカリー、スポーツラウンジ、サウナ 、交流スペース、コンディショニングセンターなどが設置されることになっている[445]。 ●特定公園施設 - トイレや防災倉庫、インフォメーション、休養施設、遊戯施設、石像、修景施設、芝生の広場などが設置されることになっている[445]。アクセス[編集]
●徒歩 東側湖畔まで水戸駅南口から約15分[446]。 ●バス 西側湖畔最寄りバス停は関東鉄道バス﹁千波湖﹂。東側湖畔最寄りバス停は関東鉄道バス、茨城交通﹁文化センター入口﹂[447][448]。 ●自家用車等 常磐自動車道水戸インターチェンジから約30分。北関東自動車道水戸南インターチェンジから約20分[446]。湖周辺には有料・無料駐車場が点在している︵※無料駐車場の内一部は梅まつり時期は有料となる。︶[449]。伝説・民話[編集]
南岸の湖南坂駐車場付近に建つ﹁ダイダラ坊の伝説﹂の石碑 千波湖には以下のような話が伝わっている。 ﹁昔々、"ダイダラ坊"という巨人が大足︵おおだら︶にいた。村人はダイダラ坊の事を皆、好いていた。ダイダラ坊はお人好しで、自分が天まで届く大男だったので、皆に迷惑をかけないように気をつかっていた。 大足の西南には高い山があった。この山のおかげで、半日は日陰となり、日没が早い時間に来て、いつも日が短い事に困っていた村人は、ダイダラ坊に山を動かしてもらってはどうだろうか、と相談をしていた。それを聞いたダイダラ坊はすぐに山を動かしてあげた。その山の名は日暮れが早く来るのを防いだ、との意味で﹁クレフシ山﹂と呼ばれた。 しかし、山が無くなった跡の土地がえぐれて低くなり、雨が溜まるようになってしまった。そこでダイダラ坊は下流の岡を低くしてサク川をつくり、ヨシ沼の底をさらって水が流れるようにした。 動かしたクレフシ山が前の所に戻りたいと言い動きだすと、ダイダラ坊は山をなだめ落ち着かせて山の形を直してあげた。その時汚れた手を、ヨシ沼まで伸ばして洗った、という。﹂ 上の話で、﹁大足﹂は水戸市大足町、﹁クレフシ山﹂は水戸市・笠間市・東茨城郡城里町に跨がる朝房山︵標高201.1メートル︶、﹁サク川﹂は桜川のことで、﹁ヨシ沼﹂が﹁千波湖﹂のことである。 ﹁ダイダラボウ︵ダイダラ坊︶﹂は他の地では﹁ダイダラボッチ﹂とも呼ばれ、上のような巨人に纏わる話は日本各地に伝わっている[450][451]。 千波湖南岸の湖南坂駐車場近くには上記の伝説の概要を記した﹁ダイダラ坊の伝説﹂の石碑が水戸市教育委員会によって1990年12月に設置されている[434]。「ダイダラ坊の伝説」碑の位置については詳細節地図上のNo.27を参照景勝地としての千波湖[編集]
かっての千波湖の姿については「#松平雪江の絵図」を参照その美しさは以下のような八景の中で称えられている。
- 水戸八景
- 水戸藩第9代藩主徳川斉昭が定めた水戸八景の中のひとつ「僊湖暮雪」の「僊湖」は千波湖のことである[453]。
- 千波湖八景
- 千波湖八景の詳細については「千波湖八景」を参照千波湖八景はかつての千波湖における8つの佳地︵七面山秋月、梅戸夕照、下谷帰帆、柳堤夜雨、藤柄晴嵐、封田落雁、緑岡暮雪、神崎寺晩鐘︶である[452]。徳川光圀が定めたと案内されることが多い。 近現代に入り、埋め立てや周囲の都市化等により﹁水戸八景﹂﹁千波湖八景﹂の選定当時に称えられた千波湖の景観は様変わりした。それでも尚、千波湖の景観は市民に賛美されており、それは戦後に選定された﹁茨城百景﹂と﹁新水戸八景﹂で以下のように千波湖が含まれる風景が選ばれていることからも知れる。 茨城百景 1950年5月10日に茨城県より告示された﹁茨城百景﹂のひとつ﹁偕楽園﹂において、偕楽園の他に含まれる風景として千波湖が入っている。千波湖以外の包含風景は常磐神社、桜川、桜山、神崎寺、会沢伯民の墓である[454]。 新水戸八景 1996年に市民公募で選ばれた現代の水戸市内の八景である﹁新水戸八景﹂の中のひとつ﹁偕楽園公園と千波湖周辺﹂として千波湖が含まれている[455]。
文学・芸術[編集]
水戸城下に拡がる千波湖は水戸藩主・藩士による漢詩、和歌に度々登場している。近現代以降では正岡子規、北原白秋、吉野秀雄らが千波湖の状景を俳句や短歌に記している。絵画では立原杏所の画などもあるが、特に幕末から大正にかけて水戸で絵師、書家、文筆家として活動した松平雪江が、自身が編集した本の挿絵として描いた、千波湖のいくつかの画は当時の千波湖の景観と風俗を伝えている。 千波湖を題材に、または作中にその描写が登場した文学・芸術作品に以下のようなものがある。漢詩・俳句・短歌[編集]
徳川光圀 遊朝比奈泰通亭。賦湖上春望︵朝比奈泰通亭に遊び湖上の春望を賦す︶ 千波湖上落霞飛︵千波湖上落霞とぶ︶ 柳挟長堤映夕睴︵柳は長堤を挟︵さしはさ︶んで夕睴に映ず 遥覓紅雲揩望眼︵遥かに紅雲を覓︵もと︶めて望眼を揩︵こす︶れば︶ 香風満腹一帆帰︵香風満腹一帆帰る︶ — 徳川光圀、大森林造著﹃義公漢詩散歩 常陸の巻﹄92-93p︵﹃常山文集﹄巻之十所収︶[456] 1697年︵元禄10年︶光圀70歳の時の七言絶句。春の夕暮れの千波湖を表している。朝比奈泰通は水戸城代[457]。 徳川斉昭 斉昭は自身が選定した﹃水戸八景﹄に併せ以下のような漢詩、和歌を創作している。 水戸八景 雪時嘗賞僊湖景︵雪時嘗て賞す僊湖の景︶ 雨夜更遊青柳頭︵雨夜更に遊ぶ青柳の頭︶ 山寺晩鐘響幽壑︵山寺の晩鐘は幽壑に響き︶ 太田落雁渡芳洲︵太田の落雁は芳洲を渡る︶ 霞光爛漫巌船夕︵霞光爛漫たり巌船の夕︶ 月色玲瓏廣浦秋︵月色玲瓏たり廣浦の秋︶ 遥望村松晴嵐後︵遥かに望む村松晴嵐の後︶ 水門帰帆映高樓︵水門の帰帆は高樓に映ず︶ — 徳川斉昭、水戸烈公詩歌文集236-237p[458] - 1句目の「雪時嘗賞僊湖景」が千波湖の雪景色を表している。この漢詩は詩吟、詩舞の題目としても演じられている。詳細は「水戸八景#詩吟『水戸八景』」および「水戸八景#詩舞『水戸八景』」を参照
- 千重の波よりてはつづく山々をこすかとそみる雪の夕ぐれ — 徳川斉昭、水戸烈公詩歌文集269p[459] 水戸八景の"仙湖暮雪"を詠んだ一首。 藤田東湖 仙湖暮雪 天風吹下白琳琅 北陌南阡望渺茫 獨有二平湖埋不一レ得 晩来水色故蒼蒼 — 藤田東湖、新定東湖全集327p︵﹃東湖遺稿﹄巻之四所収︶[460] 雪はるる四方のけしきの夕禜を池のかがみにうつしてそみる — 藤田東湖、新定東湖全集404p︵﹃東湖遺稿﹄巻之六所収︶[461] 斉昭の側近の藤田東湖が水戸八景を題に詠んだ漢詩、和歌の中の2首である。﹁東湖﹂という号は生家が千波湖を東に望むことにちなんでいる[462]。 水戸藩の武士では他に、安積澹泊、藤田幽谷も千波湖を詠んだ漢詩を残している[463][464][465][466]。 ウィキソースに以下の原文があります。 ●安積澹泊作﹃仙湖即興﹄ ●安積澹泊作﹃仙波舟中卽景﹄ ●藤田幽谷作﹃暮春。柳堤晩歸﹄ 吉田松陰 よそにのみ見てややみなん常陸なる仙波が沼の波のけはしさ — 吉田松陰、吉田松陰全集 第8巻387p[467] 吉田松陰が収容されていた江戸伝馬町の牢屋敷から同牢の水戸藩郷士の堀江克之助に宛てた1859年︵安政6年︶9月6日の手紙の末尾にしたためられた和歌である。堀江克之助は堀江芳之助ともいい、1857年︵安政4年︶にアメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスの襲撃を企てた罪で投獄されていた。そして同牢の松陰と知己を得て獄中で文通をするようになった。この和歌が詠まれた時、水戸藩は安政の大獄で責め立てられている状況下であった。かって水戸を訪れ会沢正志斎の薫陶を受けていた松陰は、この和歌で思い出の"千波湖に険しい波が"の表現で水戸を案じた。松陰はこの手紙の翌月、処刑された[468]。 正岡子規 この家を鴨ものそくや仙波沼 — 正岡子規、﹃子規全集﹄第21巻 601p [469] 正岡子規は21歳の1889年4月に友人と共に学友の菊池謙二郎︵号は仙湖︶を訪ねる旅に出ており、後に子規はこの旅を﹃水戸紀行﹄という紀行文に書いている。﹃水戸紀行﹄には当時の水戸の様子が描かれており千波湖のことも随所で触れている。特に立ち寄った偕楽園の好文亭からの眺望については、 二階に上りて見れば仙波沼脚下に横たはり向ひ岸は岡打ちつゞきて樹などしげりあへり、すぐ目の下を見ればがけには梅の樹斜めにわだかまりて花いまだ散り盡さず 此がけと沼の間に細き道を取りたるは滊車の通ふ處也 此樓のけしきは山あり水あり奥如と曠如を兼ねて天然の絶景と人造の庭園と打ちつゞき常盤木、花さく木のうちまじりて何一ッかげたるものなし — 正岡子規、﹃水戸紀行﹄︵﹃子規全集﹄第13巻 396-397p︶ [470] と賛美している。 旅の目的であった菊池との出会いは菊池が一足違いで東京に出かけてしまい叶わなかったが、菊池の父親に案内され子規達は菊池家にあがっている。菊池家は崖上に建ち、庭からは眼下にきらきらと輝く千波湖が見えた。この光景に触れた子規が旅のノートに記したのが上の句である[471]。 長塚節 仙湖小波︵三月八日︶ 月かげをおぼろながらに砕きつつ小波ぞ立つせばの湖 — 長塚節、﹃長塚節全集﹄第3巻︵歌集︶ [472] 長塚節は水戸市の茨城県尋常中学校︵後の水戸中学校、現在の茨城県立水戸第一高等学校︶に入学し和歌の創作を始めた。だが4年生に進学後まもなく体を壊し退学した。この歌はその退学を挟む18歳︵1896年︶から19歳︵1897年︶の時期に創られたもので、正岡子規に師事する前の、節の創作人生の最初期の頃の作品のひとつである[473]。 北原白秋 仙波沼ひろき明かりの上にゐて国思ふこころ今朝ももちつぐ — 北原白秋、﹃渓流唱﹄︵﹃白秋全集﹄第11巻︶ [474] 鳰のこゑ昼すぎの沼にたちにしが寒しともあらぬ濁りさざ波 ※鳰︵にお︶=カイツブリ — 北原白秋、﹃渓流唱﹄︵﹃白秋全集﹄第11巻︶ [474] 仙波沼水もぬるむか春早やも河童の子らは抜手切りそむ — 北原白秋、﹃渓流唱﹄︵﹃白秋全集﹄第11巻︶ [475] 51歳の北原白秋は水戸市より水戸市歌作詞の依頼を受け、1935年2月に水戸を訪れた。水戸に滞在した白秋は偕楽園、弘道館や水戸志士の墓[注釈 46]といった場所を巡り、詞の構想を練ると共に、水戸に纏わる短歌も作った。依頼された市歌は白秋の作詞に山田耕筰の作曲で完成。詞に"思へよ尊王"、"偲べよ先徳"、"奮へよこの志気"といった復古的な言葉が並ぶ雄々しいものであった[注釈 47]。水戸滞在で作られた短歌は白秋の死後発刊された第9歌集[注釈 48]﹃渓流唱﹄中の﹁水戸頌﹂と題した章下に60首が収録されている。上は﹁水戸頌﹂で千波湖を題材にした3首である。"鳰のこゑ昼すぎの沼に…"は白秋が水戸滞在中の宿であった常磐神社下に在った﹁清香亭﹂からの情景が詠まれている[478][479][480]。 吉野秀雄 夜あさりの鴨群れ翔ちし千波湖に映る夕月光増しくる — 吉野秀雄、﹃含紅集﹄︵﹃吉野秀雄全集﹄第2巻 95p [481]夕刻、鴨の群れが飛翔した後、暗くなるにつれ湖面の月の輝きが増してゆく千波湖の状景が詠まれている[482]。吉野秀雄が1961年1月に深田久弥らと共に大洗町や親鸞、河田の唯円ゆかりの地への旅行をもとに作られた。歌集﹃含紅集﹄に収載されている[483]。
小説[編集]
舟橋聖一 ﹃ある女の遠景﹄ 舟橋聖一の代表作のひとつに挙げられる﹃ある女の遠景﹄は、維子という令嬢が、彼女の叔母の不実の愛人であった男に自身もまた惹かれ、愛欲の道に入り込む姿を描いた小説である。維子と叔母の対比、更に二人の女を繋ぐものとして彼女たちが読んでいた﹃和泉式部日記﹄を介して和泉式部と現代の女達を対比させ、女達の恋愛を重層的に描いている[484]。詳細は「ある女の遠景」を参照維子は少女時代"M市"という地方都市に住んでいた、という設定になっている。この"M市"とは舟橋が水戸高等学校に通っていた時に住んでいた水戸市に他ならない。そして千波湖は少女維子が叔母とその愛人と3人で散歩する時の描写などで"S沼"として登場する。以下は﹃ある女の遠景﹄冒頭部にある、成長した維子が叔母の墓があるM市に列車で向かう中、車窓から千波湖を懐かしく眺める場面である[485]。 それから十数年後の今日、維子を乗せた下り列車は、天保の頃、古い藩主がこしらえたという名高い公園の下を、西から東へ走っている。維子は窓の外へ首を出して、思い出の残っている公園下の小道や、細い小川や段々に水の涸れてゆくS沼などを、うっとりと眺めずにはいられなかった--。汽車はこの沼のほとりを走るのが合図で、線路は街に近づき、やがてM駅の構内へはいるのである。 — 舟橋聖一、﹃ある女の遠景﹄︵﹃昭和文学全集﹄第12巻 382p︶[486]紀行[編集]
正岡子規 ﹃水戸紀行﹄ 正岡子規が21歳の1889年4月に水戸に旅したことを記した紀行。当時の水戸の様子が綴られており千波湖のことも随所で触れている。『水戸紀行』については「#漢詩・俳句・短歌>正岡子規」を参照萩原朔太郎 ﹃水戸小遊記﹄ 萩原朔太郎が53歳の1939年10月に室生犀星と共に水戸高等学校 (旧制)へ講演旅行に出掛けた際のことを記した紀行。随筆集﹃阿帯﹄︵1940年︶に収録されている。この旅で偕楽園に赴いた朔太郎は、千波湖を称えつつも偕楽園との庭園構成に感じた物足りなさを次のように記している[487][488]。名な偕楽園は、さすがに一覧の價値があった。今では市民の遊園地になつてるらしく、梅時ではなかったけれども、かなりの人出で賑はつてゐた。八木岡氏の説によれば梅見時には雑鬧を極め、東京あたりからの遊覧客で、俗悪極まる絃歌の亂酔地と化するさうだ。そう聞いてしまつては、再び此處へ梅見に来る氣も起らない。しかし千波湖は美しかつた。老松の翠色が鮮かで、眼もさめるばかりであつた。ただ庭園構成上に物足らないと思つたのは、千波湖が築山と別々に離れて孤立し、統一された聯絡がないことであつた。もつとも最初の設計者であつた水戸侯は、兩者を包括的に統一したのであったが、後に地質上の變化によって、今日のようなものに變わつたのだといふことである。とにかくその分離のために、公園全體が甚だ小規模に感じられ、金澤の兼六公園等に及ばないのを感じさせる。自稱庭園師である犀星君は、この理を詳しく説明して僕たちを納得させた。 — 萩原朔太郎、﹃水戸小遊記﹄︵﹃萩原朔太郎全集 第11巻﹄ 309p︶[489] - 朔太郎達が見た時の千波湖は干拓により面積が縮まったものである。
絵画[編集]
- 立原杏所
画像外部リンク | |
---|---|
『水府城閣図』(描かれた千波湖 千波湖の博物誌第1回) 千波湖ホームページより - ウェイバックマシン(2022年3月7日アーカイブ分) |
- 松平雪江
画像外部リンク | |
---|---|
『水府城遠景図』(描かれた千波湖その2 千波湖の博物誌 第6回) 千波湖ホームページより - ウェイバックマシン(2022年3月7日アーカイブ分) |
-
『千波湖』
-
『梅戸﨑』
-
『柳堤』
-
『藤柄並木』
-
『仙奕台』
-
『楽寿楼上より千湖を望む図』
-
『仙湖南岸より偕楽園を望む』
-
『偕楽園 園中より東南の間千湖を平臨する図』
-
『千波湖 南岸ヨリ望ム図』
-
『従柵町西南望千波沼図』
-
『従旧水戸城址東方丘上望柵町之図』
- 加倉井和夫
画像外部リンク | |
---|---|
『梅霞楽郊』(描かれた千波湖3 千波湖の博物誌 最終回) 千波湖ホームページより - ウェイバックマシン(2022年3月7日アーカイブ分) |
音楽[編集]
- 磯山純
映像外部リンク | |
---|---|
いつか湖のほとりで/磯山純(いばキラTVでの番組「音楽のこと」#2でのスタジオライブからの動画 |
レジャー・スポーツ[編集]
千波湖で日常的に楽しまれているレジャーとしては、公園遊び、ボート遊び、釣り等がある。また、湖を周回するコースを使ってのジョギングも盛んに行われている[499]。 千波湖の周囲は﹁千波公園﹂、国道50号を挟んで西側は﹁偕楽園公園﹂と、都市公園として整備されている。中でも千波公園南側と偕楽園公園は芝生の広場となっており、市民の憩いの場所となっている。また、湖南西の直ぐ裏の山にはフィールドアスレチック遊具が置かれた遊び場﹁少年の森﹂も在り、家族連れの遊び場として人気である。湖西岸には1930年から営業をしている貸ボード乗り場が在り、手こぎボートや足こぎボートで湖上の遊覧が楽しめる[13][14]。-
千波公園のさくら広場
-
少年の森
-
貸ボート乗り場
釣り[編集]
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
ジョギングコース・マラソン大会[編集]
映像外部リンク | |
---|---|
千波湖ジョギングコース動画(Youtube水戸市チャンネルの水戸黄門漫遊マラソンコース紹介ムービーより千波湖コースに入った所から再生。※この動画では北周りに移動している |
-
スタート&ゴール地点
-
ゴムチップ舗装面(写真左側)
-
1.5km手前コーナー入口の分岐点。
右が1周3kmジャストコース。
かつて存在したレジャー施設[編集]
このように2019年現在の千波湖でのレジャー・スポーツは自然の下で楽しまれるものが主となっているが、かっては湖畔に建てられたレジャー施設が娯楽を提供していた時期もあった。1968年に湖南西側︵現在のふれあい広場、さくら広場辺り︶にオープンした遊園地﹁偕楽園レイクランド﹂、1969年オープンのボウリング場﹁水戸レイクサイドボウル﹂がその施設であり、当時の千波湖は現在よりもっと娯楽色の強いレジャースポットであった。偕楽園レイクランドは最盛期は年間30万人の客を迎えたが、やがて客入りは低下し、また、千波湖周辺の公園化計画も相まって、1982年1月10日に閉園する。その跡地は公園化され現在に至る[516]。﹁水戸レイクサイドボウル﹂はボーリングブームが去った後も水戸でボウリングが楽しめる数少ない場として人気であったが、2011年の東日本大震災で建物が壊れ休館になると再起することが出来ず、同年8月31日に閉館した[517]。残された建物は廃墟となっていたが、2019年に解体工事が始まる。解体後の跡地は、水戸市が取得し民間活力を使い観光拠点として整備をする予定である[518]。イベント[編集]
映像外部リンク | |
---|---|
【告知】第58回(2018年)水戸黄門まつり 花火大会(Youtube水戸市チャンネル) |
花火大会[編集]
映像外部リンク | |
---|---|
第58回(2018年)水戸黄門まつり花火大会 花火打上げ台の設営(Youtube水戸市チャンネル) |
桜まつり[編集]
春は湖畔の桜をLEDライトで夜間ライトアップをしたりするイベントが﹁水戸の桜まつり﹂の中の一環として行われる[523][524]。千波湖川床ナイト[編集]
2017年からは湖南西の岸部に設営した川床で飲食を提供する期間限定イベント「千波湖川床ナイト」が水戸商工会議所の主催でスタート。2017年、2018年は5月中に、2019年は9月下旬から10月上旬にかけて開催された。席は予約制で、市内の複数の飲食店がこのイベントのために作ったメニューを提供する。ミュージシャンによるミニライブも行われ、笠間市出身の三味線奏者川嶋志乃舞、かすみがうら市出身の歌手オニツカサリーなどが出演している[525][526][527]。
公園部でのイベント[編集]
映像外部リンク | |
---|---|
グリーンフェア'93いばらき(なつかし・いばらきチャンネル「茨城県だよりNo.160」9分08秒から Youtube) |
仮設の施設[編集]
広場ではテレビドラマ放送や映画公開に併せ、仮設の展示館やオープンロケセットを広場に建て長期間一般公開する催しが以下のように行われている。いずれも公開終了後は施設は撤去され、跡地は元の広場に戻っている。映像外部リンク | |
---|---|
「徳川慶喜」展示館開場式(なつかし・いばらきチャンネル「茨城県だよりNo.176」10分50秒から Youtube) |
- NHK大河ドラマ『徳川慶喜』の「徳川慶喜」展示館
1998年放送のNHK大河ドラマ『徳川慶喜』に併せて千波湖のふれあい広場にロケセットと展示ゾーンを兼ねた施設、「「徳川慶喜」展示館」が建てられた。1998年1月11日に一般公開が始まり1999年3月31日に閉館し、その後解体・撤去された。9000平方メートルの敷地内には水戸城や一橋徳川家関連の武家屋敷を再現したロケセットと幕末期を映像やパネル等で案内する展示ゾーンが設けられていた。設置期間中、133996人が訪れた[152]。
映像外部リンク | |
---|---|
桜田門外の変オープンロケセット.flv(Youtube水戸市チャンネル 2010/12/14公開) |
市民活動・環境活動[編集]
千波湖の環境保護、美化等に取り組んでいる市民等の活動には以下のようなものがある。 千波湖水質浄化推進協会及び千波湖水質浄化実行委員会 ﹁千波湖水質浄化推進協会﹂は18の民間団体から構成された、千波湖の水質浄化の為に活動している市民組織である。構成団体には水戸ロータリークラブ、水戸ライオンズクラブ、水戸青年会議所、茨城生物の会、千波湖周辺の公園と自然を愛する会、茨城県公害防止協会︵2012年より茨城県環境管理協会と改称︶、茨城県建築士会などがある。これら様々な団体が連携して千波湖の水質浄化に取り組むための組織として、2010年8月28日の設立総会より発足した[536][537]。 協会は水戸市や茨城県への﹁桜川導水︵=#那珂川からの導水︵千波湖導水事業︶︶の継続利用﹂﹁柳堤ダム運用の見直し﹂﹁霞ヶ浦導水事業による桜川・千波湖への導水の先行運用﹂などの要望書の提出、水質浄化に関する調査や実験活動、外来魚の駆除活動などを行っている[538][315][539]。 また協会は﹁千波湖水質浄化実行委員会﹂を設置し、この委員会を実施主体として千波湖のビオトープ造成に取り組んだ。この委員会は水戸ロータリークラブ、水戸南ロータリークラブ、水戸青年会議所、茨城県環境管理協会、茨城生物の会等の市民団体と、水戸市都市計画部公園緑地課千波湖管理室から構成された市民と行政が協働する組織で、﹁新しい公共﹂の考えに根ざしたものである。委員会のビオトープ造成は茨城県の平成24年度﹁新しい公共の場づくりのための提案型モデル事業﹂に採択され、市民と行政が協働して実施する環境活動として成果をあげている[315][540]。開催日時 | テーマ | 開催場所 | 参加者数 | |
---|---|---|---|---|
2019年 | 5月11日(土)13:00 - 15:00 | 千波湖のプランクトンを調べよう | 親水デッキ | 82名 |
6月1日(土)19:00 - 21:00 | 千波湖周辺に生息するホタルを観察しよう | 偕楽園下駐車場 | 204名 | |
6月2日(日)9:00 - 10:30 | 千波湖にビオトープをつくろう | ふれあい広場 | 230名 | |
6月2日(日)14:30 - 16:00 | こどもムシムシ探検隊 | ふれあい広場、少年の森 | 200名 | |
7月28日(日)13:00 - 15:00 | 千波湖内に入って魚たちを調べよう | 親水デッキ | 126名 | |
8月18日(日)13:00 - 15:00 | 千波湖周辺の昆虫を調べよう | 親水デッキ、少年の森 | 83名 | |
9月29日(日)13:00 - 15:00 | 千波湖周辺の水生生物を調べよう | 親水デッキ | 90名 | |
12月1日(日)13:00 - 15:00 | 桜川で産卵されたサケの卵を調べよう | 水戸市役所、桜川 | 74名 | |
2020年 | 1月19日(日)13:00 - 15:00 | 千波湖の渡り鳥を調べよう | 親水デッキ、少年の森 | 59名 |
2月9日(日)13:00 - 15:00 | 卵からふ化したサケの稚魚を桜川に放流しよう | 親水デッキ、桜川 | 93名 |
事件・事故[編集]
水戸千波湖バラバラ事件︵茨城県下バラバラ殺人事件︶[編集]
1958年1月に起きた、男性を絞殺し、その死体の一部を切断して千波湖に遺棄した殺人及び、死体損壊遺棄事件。この事件は、その犯人が起こした下関市での養父母殺害を発端とした、連続身代わり殺人事件に連なるものである。 1958年1月13日、千波湖南岸で4リットルのオイル缶に入った人間の鼻、右親指を通りすがりの者が見つけ警察に通報。警察の捜索で周囲から成人男子の陰茎が見つかった[556]。更に翌日の捜索で缶の発見現場の約300メートル離れた北岸の笹藪で、鼻、右親指、陰茎が切り取られた全裸の死体が発見された。頸部に締められた後があることから、絞殺の上で死体を切断、遺棄した事件として捜査が開始された[557]。被害者の身元はすぐに分かり、現場に残されていた浅草の旅館の手拭いから"X"と名乗る男が被害者を連れ出していたことが判明、警察はこの"X"を被疑者として捜査を開始した[558]。捜査が進む中、"X"と容貌が似ている、1955年6月に下関市で養父母を毒殺し逃走している"A"が捜査線に浮上した。そうした中、千波湖の事件の1ヶ月前の1957年12月に東京の東調布署︵現、田園調布警察署︶に微罪により検挙され、写真、指紋を採って釈放されていた"Y"と名乗っていた男の指紋が"A"と一致したことが1958年7月に分かる。7月15日、警視庁は偽名"Y"を使っていた"A"を逮捕した。"A"の家から千波湖の被害者の持ち物が見つかったことから、警察は"A"を千波湖の事件の犯人と断定し、7月20日、"A"が﹁水戸千波湖バラバラ事件﹂の犯人と判明した、発表した[559][560]。 "A"は下関での養父母殺害後、身元を偽る目的で北海道に実際にいた"Y氏"を殺害した上で同氏に成りすましていたが、1957年12月の犯罪で東調布署に指紋を採られたことから身元が判明するのを恐れ、改めて別の人物に成り代わる計画を立てる。千波湖での被害者はそのために選ばれた犠牲者で、絞殺後に死体をバラバラにしたのは身元を判らなくするためであった。﹁水戸千波湖バラバラ事件﹂は"A"による一連の殺人の最後のものであった[561]。 1959年12月23日、水戸地方裁判所は"A"の一連の犯罪に対し死刑判決を下した[561]。1961年3月30日、最高裁判所第一小法廷は1審、2審︵1960年、東京高等裁判所︶での死刑判決を受けての被告の上告を棄却し、死刑が確定する[562]。後、死刑執行された[563]。 写真家の渡部雄吉は千波湖のバラバラ事件を捜査する二人の刑事に20日程密着し、聞き込みや会議の様子を撮影した。その作品群はその一部が撮影直後に雑誌に掲載されただけで長らく忘れられていたが、2011年にフランスの出版社Éditions Xavier Barralが写真集﹃A Criminal Investigation︵邦訳題﹃犯罪捜査﹄︶﹄として作品群を刊行すると話題になり、日本でも2冊の写真集が刊行された[564][565]。サーカスピエロ墜落事故[編集]
1977年10月29日から千波公園駐車場で行われていたキグレ大サーカスの水戸興業において、11月23日の公演中に観客の目の前で綱渡りを見せていたピエロが、3.5メートル下の地面に墜落して病院に搬送されるも死亡する、という事故が起きた[566]。ノンフィクション作家草鹿宏著の﹃翔べイカロスの翼﹄は、この事故でピエロを演じていた栗原徹の人生を綴った作品で、のちに西城秀樹主演でのテレビドラマ化され、さだまさし主演、音楽監督で映画化もされた。千波湖ハクチョウ撲殺事件[編集]
2008年に起きた、少年2名が千波湖畔に棲むハクチョウ等を撲殺した少年犯罪。2008年4月28日午前5時30分頃、コクチョウ5羽、コブハクチョウ2羽が千波湖北岸の草むらと湖面で死んでいるのが発見される。他に羽の付け根を骨折したコクチョウ1羽も見つかる︵後にこの個体も死んだ︶。死んで発見された7羽には首や頭の骨が折れている跡があり、何者かにより撲殺された疑いがあった。この事件以前の4月17日の朝にもコクチョウ6羽、コブハクチョウ1羽が死んでいるのが見つかっており、動物愛護法違反で捜査が行われていたところ、水戸市立の中学3年生︵男子︶と、同校の2年生︵男子︶の2名が棒でハクチョウ等を殴ったことを認める供述をした[567][568]。 2少年は4月17日の事件についても関与を認めており、水戸警察署は非行事実を鳥獣保護法違反に切り替えた上で、少年法上のいわゆる﹁犯罪少年﹂にあたる15歳の中学3年生を水戸地方検察庁に、同法のいわゆる﹁触法少年﹂にあたる13歳の中学2年生を茨城中央児童相談所にそれぞれ書類送致した。この中学2年生の児童相談所への送致の措置は、触法少年の児童相談所への送致が定められた2007年の改正少年法下における、茨城県で初めてのケースであった[569]。その後、2人の少年は水戸家庭裁判所に送致されたのち[570][571]、初等少年院送致とする保護処分を7月に受けた[572][573]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
図書・雑誌[編集]
●朝日新聞水戸支局﹃茨城の自然100選﹄筑波書林、1989年6月。 ●水戸の魅力発信課﹃偕楽園公園ガイド﹄︵改訂版版︶、水戸市、2015年。2020年1月22日閲覧。 ●水戸市史編さん近現代専門部会﹃水戸市近現代年表﹄水戸市、1991年。 ●千波湖土地改良区﹁千波湖・備前堀とのあゆみ﹂編集委員会﹃千波湖土地改良区史﹄千波湖土地改良区、2014年9月。 ●水戸まちづくりの会﹃水戸の橋ものがたり﹄水戸まちづくりの会、2011年。 ●茨城県史編さん第一部会原始古代史専門委員会﹃茨城県史料 考古資料編﹇1﹈先土器・縄文時代﹄茨城県、1979年。 ●大槻功﹃都市の中の湖(五浦歴史叢書2)-千波湖と水戸の歴史-﹄文真堂、2001年10月。 ●水戸市史編さん委員会﹃水戸市史 中巻︵一︶﹄水戸市、1968年。 ●﹁角川日本地名大辞典﹂編纂委員会﹃角川日本地名大辞典8茨城県﹄角川書店、1983年12月。 ●茨城県史編さん中世史部会﹃茨城県史料 中世編2﹄茨城県、1974年3月。 ●平凡社﹃日本歴史地名大系8茨城県の地名﹄平凡社、1982年11月。 ●堀口友一﹃今昔 水戸の地名﹄暁印書館、1981年4月。 ●大槻功﹁明治期の千波湖をめぐる若干の問題 水戸の近代化と千波湖1﹂﹃茨城大学教育学部紀要. 人文・社会科学・芸術﹄第43号、1994年、1–18頁。2021年1月15日閲覧。 ●水戸市広報広聴課﹁千波湖の干拓 ; 千波湖の博物誌 第11回 (PDF)﹂﹃広報みと﹄第1255号、水戸市、2011年2月1日、16頁。2021年2月17日閲覧。 ●松平雪江﹃常磐公園攬勝図誌﹄坤、1885年。2023年1月9日閲覧。 ●﹃古地図と歩こう!水戸の城下町マップ﹄茨城大学図書館、2009年5月。 ●茨城大学附属図書館﹃水戸下市御用留﹄︿茨城大学附属図書館郷土史料双書 1-1﹀、1巻、茨城大学附属図書館、1991年3月。2021年8月27日閲覧。 ●茨城県史編さん近世史第1部会﹃茨城県史料 近世地誌編﹄茨城県、1968年3月。 ●関孤圓﹃水戸の心 梅と歴史に薫る﹄川又書店、1970年1月。 ●小野直喜﹃便覧水戸市全図﹄茨城印刷合資会社、1902年5月。 ●吉田地区コミュニティ活動委員会﹃吉田の今と昔﹄吉田地区自治実践会、2003年3月。 ●杢子朱明﹃みと 現時点でとらえた水戸の過去と将来﹄商業開発研究所水戸ぷろむなあど社、1970年10月。 ●﹃水戸市歴史的風致維持向上計画﹄水戸市、2010年2月。 ●菅原浩﹃図説日本鳥名由来辞典﹄柏書房、1993年3月。 ●堀田正敦﹃江戸鳥類大図鑑 よみがえる江戸鳥学の精華﹃観文禽譜﹄﹄平凡社、2006年3月。 ●﹃植物別名辞典﹄日外アソシエーツ、2016年8月。 ●水戸市史編さん委員会﹃水戸市史 中巻(3)﹄水戸市役所、1984年。 ●安見隆雄﹃水戸斉昭の﹃偕楽園記﹄碑文﹄︿水戸の碑文シリーズ﹀、5巻、水戸史学会、2006年7月。 ●同時代研究会﹃茨城昭和時代年表﹄常陽新聞社、1986年11月。 ●江戸崎町史編さん委員会﹃江戸崎町史﹄江戸崎町、1993年3月。 ●イハラキ時事社編輯局﹃時の人﹄イハラキ時事社、1939年。 ●﹃日本全国諸会社役員録﹄第34回、商業興信所、1926年。 ●桜川清流ルネッサンスⅡ地域協議会﹃第二期水環境改善緊急行動計画桜川清流ルネッサンⅡ (pdf)﹄︵改訂版版︶、桜川清流ルネッサンスⅡ地域協議会Ⅱ事務局︵国土交通省関東地方整備局常陸河川国道事務所︶、2016年4月。2019年8月13日閲覧。 ●茨城新聞社﹃茨城県大百科事典﹄茨城新聞社、1981年10月。 ●水戸市史編さん委員会﹃水戸市史 上巻﹄水戸市、1963年10月。 ●﹃千波湖の自然﹄水戸市立博物館、1987年7月。 ●﹁水面に県都の変遷を映す 千波湖(水戸市)周辺の今昔﹂﹃常陽藝文﹄第10号、常陽藝文センター、表紙裏-11頁、1984年。 ●日本陸水学会﹃陸水の事典﹄講談社、2006年3月。 ●池田国昭﹁水戸市千波湖の湖底地形﹂﹃地球科学﹄第42巻第5号、1988年、298–302頁。doi:10.15080/agcjchikyukagaku.42.5_298。ISSN 0366-6611。 ●水戸市市民環境部環境課﹃河川生物生息実態調査報告書﹄水戸市、2000年。 ●環境省水・大気環境局水環境課﹁参考資料﹂﹃公共用水域水質測定結果︵平成29年度︶ (PDF)﹄2018年12月。 ●水戸市市民環境部環境課﹃水戸市環境基本計画︵第2次︶豊かな水と緑をみんなでつくる未来へつなぐまち水戸﹄水戸市、2014年。 ●﹁好文cafeがオープンしました﹂﹃広報みと﹄第1233号、水戸市、14頁、2010年3月1日。 ●内閣﹁河川法第四条第一項の水系及び一級河川を指定する政令の一部を改正する政令︵昭和41年3月28日政令第50号︶﹂﹃官報﹄第号外23号、1966年3月28日、87頁。 ●建設省﹁建設省告示第897号︵昭和41年3月28日︶﹂﹃官報﹄第号外第23号、1966年3月28日、122頁。 ●内閣官房﹁河川法第四条第一項の水系及び一級河川を指定する政令の一部を改正する政令︵昭和46年3月20日政令第50号︶﹂﹃官報﹄第号外21号、1971年3月20日、24頁。 ●建設省﹁建設省告示第396号︵昭和46年3月20日︶﹂﹃官報﹄第号外21号、1971年3月20日、60頁。 ●建設省﹁建設省告示第1125号︵昭和63年4月8日︶﹂﹃官報﹄第号外特第8号、1988年4月8日、60頁。 ●建設省﹁建設省告示第1694号︵平成6年7月25日︶﹂﹃官報﹄第1448号、1994年7月25日、8頁。 ●千波湖土地改良区﹁千波湖・備前堀とのあゆみ﹂編集委員会﹃千波湖土地改良区史﹄千波湖土地改良区、2014年9月。 ●環境省﹁環境省告示第27号︵昭和60年5月30日︶﹂﹃官報﹄第号外62号、1985年5月30日、40頁。 ●環境省﹁環境省告示第38号︵平成元年7月25日︶﹂﹃官報﹄第149号、1989年7月25日、3頁。 ●﹁鳥獣保護区等の設定︵茨城県告示第1060号︶ (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第号外号、茨城県、1973年10月30日。2021年3月10日閲覧。 ●﹁鳥獣保護区の設定等︵茨城県告示第1458号︶ (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第号外273号、茨城県、1983年10月27日。2021年3月10日閲覧。 ●﹁鳥獣保護区の存続期間の更新(茨城県告示第1224号) (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第号外162号、茨城県、3–4頁、1993年10月28日。2021年3月10日閲覧。 ●﹁鳥獣保護区の存続期間の更新(茨城県告示第1681号) (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第号外156号、茨城県、3–10頁、2003年10月31日。2021年3月10日閲覧。 ●﹁鳥獣保護区の存続期間の更新(茨城県告示第1202号) (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第2535号、茨城県、16–21頁、2013年10月31日。2021年3月10日閲覧。 ●水戸市史編さん近現代専門部会﹃水戸市史 下巻2﹄水戸市、1995年8月。 ●野中勝利﹁城下町都市における戦前の風致地区の指定にみる都市づくり上の風致地区の位置づけと役割﹂﹃日本建築学会計画系論文集﹄第60巻第471号、日本建築学会、99–109頁。ISSN 1340-4210。NAID 110004654022。 ●﹁都市計画風致地区の変更︵茨城県告示第137号︶ (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第号外号、茨城県、1頁、1974年2月25日。 ●﹁風致地区の変更︵茨城県告示第351号︶ (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第号外(2)号、茨城県、1–2頁、1976年3月31日。 ●﹁茨城県風致地区内における建築行為等の規制に関する条例を廃止する条例︵茨城県条例第87号︶ (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第号外79号、茨城県、402–403頁、2012年12月27日。 ●水戸市教育委員会事務局教育部歴史文化財課﹃水戸市歴史的風致維持向上計画︵第2期︶﹄水戸市、2019年4月。 ●水戸市都市計画部都市計画課﹃水戸の魅力ある都市景観づくり 優れた都市景観形成をめざして 景観計画区域内行為の届出について (pdf)﹄水戸市、2016年7月。 ●﹃水戸市景観計画 (PDF)﹄水戸市、2008年12月。 ●小倉健夫﹁水戸市千波湖周辺の昆虫﹂﹃るりぼし;水戸昆虫研究会会誌﹄第12号、1988年、8–14頁。 ●﹃天空を翔る鳥たち 千波湖畔に生きる︵水戸市立博物館特別展︶﹄水戸市立博物館、2014年2月。 ●彦根市史編集委員会﹁︿コラム﹀親善をとりもった生き物たち﹂﹃新修彦根市史 第4巻 通史編 現代﹄彦根市、2015年、279頁。 ●﹁トピックス﹂﹃水戸市政だより﹄第254号、水戸市、3頁、1969年11月1日。 ●﹁トピックス﹂﹃水戸市政だより﹄第314号、水戸市、3頁、1972年5月1日。 ●﹁トピックス﹂﹃水戸市政だより﹄第327号、水戸市、9頁、1972年11月15日。 ●﹁千波湖に浮島が完成﹂﹃水戸市政だより﹄第337号、水戸市、1頁、1973年4月15日。 ●﹁千波湖の白鳥に二世誕生﹂﹃水戸市政だより﹄第392号、水戸市、1頁、1975年8月1日。 ●﹁かわいがってね 千波湖に白︵黒︶鳥仲間入り﹂﹃水戸市政だより﹄第453号、水戸市、1頁、1978年2月15日。 ●﹁大塚池に白︵黒︶鳥20羽放つ﹂﹃水戸市政だより﹄第495号、水戸市、1頁、1979年11月15日。 ●﹁千波湖に戻ったハクチョウ︵水戸の身近な生き物10︶﹂﹃広報みと﹄第1039号、水戸市、8頁、2002年2月1日。 ●﹁カメラくんの自然観察日記 第16回 (PDF)﹂﹃広報みと﹄第1361号、水戸市、16頁、2015年7月1日。 ●GONTCHAROV.A.A﹁Chlorococcalean algae from the Semba Lake, Ibaraki Prefecture, Japan.(茨城県千波湖のクロレラ目緑藻類)﹂﹃茨城大学教育学部紀要 自然科学﹄第46号、1997年3月、85–94頁。ISSN 0386-7668。 ●GENKAL.S.I﹁An Annotated List of Diatoms (Bacillariophyta) from Lake Semba, Ibaraki Prefecture, Japan. I.(茨城県千波湖産の珪藻植物(Bacillariophyta)の注釈付きリストI)﹂﹃茨城大学教育学部紀要 自然科学﹄第49号、2000年3月、19–40頁。ISSN 0386-7668。 ●GENKAL.S.I﹁An Annotated List of Diatoms (Bacillariophyta) from Lake Semba, Ibaraki Prefecture, Japan. II.(茨城県千波湖産の珪藻植物(Bacillariophyta)の注釈付きリストII)﹂﹃茨城大学教育学部紀要 自然科学﹄第49号、2000年3月、41–58頁。ISSN 0386-7668。 ●水戸市みとの魅力発信課﹃ミトノート 創刊号 水戸の真ん中千波湖 (pdf)﹄水戸市、2013年1月。2019年9月7日閲覧。 ●﹁千波湖水質浄化のための環境モデル事業;千波湖流入水の窒素濃度軽減のための市民協働ビオトープの造成﹂﹃茨城県新しい公共支援事業報告書;みんなで創るいばらきの未来 (pdf)﹄茨城県生活環境部生活文化課県民運動推進室、2013年9月、90–91頁。2020年5月2日閲覧。 ●﹃水戸市環境基本計画 第2次﹄水戸市市民環境部環境課、2014年3月。2020年5月2日閲覧。 ●﹃水戸市水害誌﹄水戸市役所、1949年3月。 ●﹃環境百科那珂川﹄国土交通省関東地方整備局常陸河川国道事務所、2006年12月。2020年5月9日閲覧。 ●茨城県﹃東日本大震災の記録﹄茨城県生活環境部防災・危機管理局防災・危機管理課、2013年3月。 ●﹃東日本大震災調査報告書 (pdf)﹄︵改訂版版︶、茨城大学東日本大震災調査団、2011年8月。 ●水戸市商工農林部観光課﹃千波湖浄化対策調査報告書﹄水戸市、1980年1月。 ※茨城県立歴史館所蔵 ●水戸市市民生活部環境課﹃水戸市千波湖浄化対策調査報告書﹄水戸市、1989年3月。 ※水戸市立図書館所蔵 ●﹃水戸市偕楽園公園︵千波公園等︶整備基本計画 (pdf)﹄水戸市、2016年。 ●﹁漁業組合設置︵茨城県告示第502号︶ (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第971号、茨城県、1909年10月28日。2020年12月31日閲覧。 ●﹃水戸市要覧 昭和7年﹄水戸市役所、1932年6月。 ※水戸市立図書館所蔵 ●﹁水産業団体法第89条の規定に依り千波沼漁業組合に対し解散命令︵茨城県告示第297号︶ (pdf)﹂﹃茨城県報﹄第2410号、茨城県、1946年9月4日。2021年1月1日閲覧。 ●小野寺淳﹃水戸の城下町マップ 幕末版﹄水戸観光コンベンション協会、2018年12月。 ●﹃水戸市観光基本計画︵第3次︶ (pdf)﹄水戸市産業経済部観光課、2015年5月。 ●水戸の梅まつり実行委員会﹃水戸の梅まつり 第117回 (PDF)﹄2013年。2021年2月2日閲覧。 ●日向野徳久﹁朝房山︵だいだたぼう︶﹂﹃茨城の民話 第1集 ︿新版﹀日本の民話62﹄未來社、2016年12月、112–113頁。 ●大森林造﹃義公漢詩散歩﹄︿ふるさと文庫﹀、筑波書林、1987年2月。 ●水戸市史編さん委員会﹃水戸市史 中巻(1)﹄水戸市、1968年8月。 ●徳川斉昭︵著︶蔭山秋穂編︵編︶﹃水戸烈公詩歌文集﹄明文社、1943年10月。 ●中山信名﹃新編常陸国誌 下﹄積善館、1901年。2019年9月24日閲覧。 ●藤田幽谷︵著︶菊池謙二郎編︵編︶﹃幽谷全集﹄吉田弥平、1935年6月。 ●堀口友一﹃水戸八景﹄崙書房、1991年5月。 ●藤田東湖︵著︶菊池謙二郎︵編︶﹃新定東湖全集﹄︵復刻版版︶、国書刊行会、1998年5月。 ●川崎三郎﹃藤田東湖 (jpg)﹄春陽堂、1897年4月。2019年9月15日閲覧。 ●吉田松陰︵著︶山口県教育会︵編︶﹃吉田松陰全集﹄8巻︵新装版版︶、大和書房、2012年2月。 ●網代茂﹃水府綺談﹄新いばらきタイムス社、1992年7月。 ●寺門寿明﹁描かれた千波湖︵千波湖の博物誌1︶ (PDF)﹂﹃広報みと﹄第1235号、2010年4月1日、16頁。2019年9月15日閲覧。 ●正岡子規﹁水戸紀行﹂﹃子規全集 第13巻 小説・紀行﹄講談社、1976年。 ●正岡子規︵著︶﹃水戸紀行﹄︿ふるさと文庫﹀、柳生四郎解説、筑波書林、1979年。 ●正岡子規﹃子規全集 第21巻 草稿ノート﹄講談社、1979年。 ●長塚節﹃長塚節全集 第3巻︵歌集︶﹄春陽堂、1926年。 ●大戸三千枝﹃長塚節の研究﹄おうふう、1990年12月。 ●北原白秋﹃白秋全集11﹄岩波書店、1986年6月。 ●北原白秋﹃白秋全集31﹄岩波書店、1987年10月。 ●室伏勇﹁北原白秋と水戸頌﹂﹃茨城のこころ︹3︺文学のふるさと﹄昭和書院、1974年1月、209–220頁。 ●堀江信男﹁近代文学に描かれた水戸﹂﹃水戸の近代100年 (いばらき市民フォーラム1)﹄1990年1月、203–226頁。 ●吉野秀雄﹁含紅集﹂﹃吉野秀雄全集 第2巻﹄1969年10月、95頁。 ●﹃﹁茨城の文学読本﹂指導資料 第3集﹄茨城県高等学校教育研究会国語部、1997年3月。 ●吉野秀雄﹁年譜﹂﹃吉野秀雄全集 第8巻﹄1970年、783頁。 ●高橋英夫﹁解説 和泉式部伝説の遠近法︵パースペクティヴ︶﹂﹃ある女の遠景﹄︿講談社文芸文庫﹀、講談社、2003年12月、428–442頁。 ●堀江信男﹃茨城の文学と風土﹄桜楓社、1986年11月。 ●舟橋聖一︵著︶﹁ある女の遠景﹂。井上靖 ほか︵編︶﹃坂口安吾 ; 舟橋聖一 ; 高見順 ; 円地文子﹄︿昭和文学全集12﹀、小学館、1987年10月、380–528頁。 ●萩原朔太郎﹁水戸小遊記﹂﹃萩原朔太郎全集 第11巻﹄筑摩書房、1977年、308–311頁。 ●水戸市みとの魅力発信課﹁輝く人 第8回 磯山純さん︵シンガーソングライター︶ (PDF)﹂﹃広報みと﹄第1297号、2012年11月1日、11頁。2019年10月24日閲覧。 ●子育てサークルwe・net﹃子どもとでかける茨城あそび場ガイド '10〜'11﹄メイツ出版、2010年3月。 ●﹁水鳥保護区域について﹂﹃広報みと﹄第950号、水戸市、1頁、1998年5月15日。 ●水戸市みとの魅力発信課﹁千波湖を見つめる人々 (PDF)﹂﹃広報みと﹄第1309号、2013年5月1日、3–7頁。2020年4月17日閲覧。 ●水戸市みとの魅力発信課﹁特集1水戸黄門漫遊マラソン (pdf)﹂﹃広報みと﹄第1391号、2016年10月1日、4–5頁。2019年11月7日閲覧。 ●水戸市広報課﹁公園を楽しもう1千波公園﹂﹃広報みと﹄第1068号、2003年4月15日、5頁。 ●﹁平成29年度千波湖の利活用・観光振興実験事業 SENBAKO KAWADOKO NIGHT 2017を開催 (pdf)﹂﹃水戸商工会議所会報﹄第668号、水戸商工会議所、3頁、2017年。 ●﹁平成30年度千波湖の利活用・観光振興実験事業 SENBAKO KAWADOKO NIGHT 2017を開催 (pdf)﹂﹃水戸商工会議所会報﹄第680号、水戸商工会議所、2–3頁、2018年。2019年11月25日閲覧。 ●水戸の魅力発信課﹁イベントカレンダー (PDF)﹂﹃広報みと﹄第1430号、2018年5月15日、14頁。2019年11月27日閲覧。 ●水戸の魅力発信課﹁水戸市環境フェア2019 (PDF)﹂﹃広報みと﹄第1454号、2019年5月15日、1頁。2019年11月27日閲覧。 ●﹃大河ドラマ﹁徳川慶喜﹂茨城県推進協議会記録集﹄大河ドラマ﹁徳川慶喜﹂茨城県推進協議会、1999年3月。 ●﹁千波湖水質浄化に関する要望書を県に提出 (pdf)﹂﹃水戸商工会議所会報﹄第632号、水戸商工会議所、6頁、2014年。2020年10月13日閲覧。 ●水戸市広報広聴課﹁情報ガイド > 環境教室﹂﹃広報みと﹄第1239号、水戸市、2010年6月1日、12頁。2020年11月2日閲覧。 ●水戸市広報広聴課﹁みと協働大作戦!わくわくプロジェクト﹂﹃広報みと﹄第1249号、水戸市、2010年11月1日、2–5頁。2011年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月2日閲覧。 ●渡部雄吉﹃張り込み日記﹄ナナロク社、2014年11月。﹃水戸市の環境﹄各年度版[編集]
●﹃水戸市の環境 昭和63年版﹄水戸市市民環境部環境課、1989年。 ●﹃水戸市の環境 平成3年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1992年。 ●﹃水戸市の環境 平成4年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1993年。 ●﹃水戸市の環境 平成5年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1994年。 ●﹃水戸市の環境 平成6年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1995年。 ●﹃水戸市の環境 平成7年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1997年。 ●﹃水戸市の環境 平成8年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1998年。 ●﹃水戸市の環境 平成9年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1998年。 ●﹃水戸市の環境 平成10年度版﹄水戸市市民環境部環境課、1999年。 ●﹃水戸市の環境 平成11年度版﹄水戸市市民環境部環境課、2000年。 ●﹃水戸市の環境 平成12年度版﹄水戸市市民環境部環境課、2001年。 ●﹃水戸市の環境 平成13年度版﹄水戸市市民環境部環境課、2002年。 ●﹃水戸市の環境 平成14年度現況報告︵平成15年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2003年。 ●﹃水戸市の環境 平成15年度現況報告︵平成16年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2004年。 ●﹃水戸市の環境 平成16年度現況報告︵平成17年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2005年。 ●﹃水戸市の環境 平成17年度現況報告︵平成18年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2006年。 ●﹃水戸市の環境 平成18年度現況報告︵平成19年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2008年。 ●﹃水戸市の環境 平成19年度現況報告︵平成20年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2009年。 ●﹃水戸市の環境 平成20年度現況報告︵平成21年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2010年。 ●﹃水戸市の環境 平成21年度現況報告︵平成22年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2011年。 ●﹃水戸市の環境 平成22年度現況報告︵平成23年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2012年。 ●﹃水戸市の環境 平成23年度現況報告︵平成24年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2013年。 ●﹃水戸市の環境 平成24年度現況報告︵平成25年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2014年。 ●﹃水戸市の環境 平成25年度現況報告︵平成26年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2015年。 ●﹃水戸市の環境 平成26年度現況報告︵平成27年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2016年。 ●﹃水戸市の環境 平成27年度現況報告︵平成28年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2017年。 ●﹃水戸市の環境 平成28年度現況報告︵平成29年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2018年。 ●﹃水戸市の環境 平成29年度現況報告︵平成30年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2019年。 ●﹃水戸市の環境 平成30年度現況報告︵令和元年年度版︶﹄水戸市市民環境部環境課、2020年。 ●﹃水戸市の環境 令和元年度現況報告︵令和2年度版︶﹄水戸市生活環境部環境課、2021年。インターネット[編集]
●﹁千波湖 - 水戸市ホームページ﹂。2023年12月13日閲覧。 ●﹁千波湖環境学習会﹂﹃茨城県環境管理協会ホームページ﹄茨城県環境管理協会。2020年5月2日閲覧。 ●﹁水戸の町名﹂﹃水戸市立図書館デジタルアーカイブ﹄水戸市立図書館。2023年1月9日閲覧。 ●﹁日曜劇場﹁翔べイカロスの翼﹂﹂。2020年8月21日閲覧。 ●﹁翔べイカロスの翼﹂。2020年8月21日閲覧。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 千波湖ホームページ
- 千波湖上空からの空撮(youtube水戸市チャンネル)
- 地図で見る明治〜昭和初期の水戸市の変遷(水戸市立図書館デジタルアーカイブ)
- 衛星湖沼水温データベース日本編(Satellite-based Lake and Reservoir Temperature Database in Japan; SatLARTD-J)