林家正楽
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林家 正楽(はやしや しょうらく)は芸人の名跡。東京(江戸)、上方にそれぞれ存在するが、いずれも空き名跡となっている。
上方[編集]
六代目 | |
本名 | 織田 徳治郎 |
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生年月日 | 1853年3月7日 |
没年月日 | 1929年8月31日(76歳没) |
出身地 | 日本 |
師匠 | 五代目林家正三 |
名跡 | 1. 林家新三 (1883年 - 1888年) 2. 林家しん鏡 (1888年 - 1900年) 3. 六代目林家正楽 (1900年 - 1929年) |
活動期間 | 1883年 - 1929年 |
活動内容 | 上方落語 |
所属 | 藤原派 互楽派 寿々会 浪花三友 浪花 吉原 反対派 花月 |
六代目 林家 正楽︵はやしや しょうらく、1853年3月7日 - 1929年8月31日︶は、上方落語の落語家。本名‥織田 徳治郎。俳名は日歳庵程来。娘婿は五代目笑福亭松鶴。六代目笑福亭松鶴は孫にあたる。
1883年8月31日に林家宗太郎門下で、林家︵または桜川︶新三。大阪の新町九軒の末広席で初舞台。1888年ころにしん鏡を経て、1900年頃に六代目正楽を襲名。
師匠の影響で﹁藤原派﹂﹁互楽派﹂に参加、解散後は﹁寿々会﹂﹁浪花三友﹂﹁浪花﹂﹁吉原﹂﹁反対派﹂﹁花月﹂などを転々、主に神戸を中心に活動する。余芸で俳句も嗜み、弟子を持つほどの腕前であった。1927年ごろまで高座に上がったが、その後は若い噺家の稽古台に専念した。現在でも多くの噺家が演じる﹁鉄砲勇助﹂をよく演じていた。
76歳没。法名は釋見徳。
弟子[編集]
●林家正團治 ●林家右楽 ●林家正隆江戸代外[編集]
紙切りの正楽が登場する以前に確認されている正楽。
●林家正楽 - 後∶四代目林家正蔵
●林家正楽 - 後∶橘家林喬
●林家正楽 - 後∶初代帰天斎正一
●林家正楽 - 初代帰天斎正一の門下。同じ一門の帰天斎小正一の実父。本名∶松岡 宗助。
江戸初代[編集]
初代(八代目) | |
本名 | |
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生年月日 | 1896年11月18日 |
没年月日 | 1966年4月15日(69歳没) |
出身地 | 日本・長野県 |
師匠 | 六代目林家正蔵 |
弟子 | 二代目林家正楽 林家今丸 |
名跡 | 1. 五明楼正福 (1917年 - 1919年) 2. 睦月家林蔵 (1919年 - 1920年) 3. 六代目桂才賀 (1920年 - 1925年) 4. 初代林家正楽 (1925年 - 1966年) |
活動期間 | 1917年 - 1966年 |
活動内容 | 紙切り |
所属 | 落語睦会 (1919年 - 1937年) 日本芸術協会 (1937年 - 1966年) |
初代︵自称八代目︶林家 正楽︵はやしや しょうらく、1896年11月18日 - 1966年4月15日︶は日本の落語家、紙切り芸人。長野県出身。本名は一柳 金次郎。生前は日本芸術協会所属。
1917年ごろに、四代目五明楼春輔を訪ね、﹁正福﹂と名乗ってセミプロとなる。1919年1月、﹁落語睦会﹂設立騒動時に、下地があると認められて二ツ目となり﹁睦﹂の字にちなんで睦むつ月き家や林りん蔵ぞうを名乗る。1920年12月に六代目桂才賀襲名。この当時は噺家不足がきっかけの大量真打昇進があったため、﹁準真打﹂昇進だったが、出身地である信州の訛りが抜けず落語家としては大成しなかった。
紙切りを披露するにいたったのは睦会の忘年会であった。それが好評となり、1923年の関東大震災をきっかけに、専業の紙切り師になるにいたった。1925年に正楽を名乗り真打となった。改名時には上方の六代目正楽が生存していたため、2人の正楽が並立していたことになる。マッカーサーやスカルノ、昭和天皇の前で芸を披露したことがある。
1952年3月22日、東京放送会館で行われたNHKのカラーテレビ公開試験放送で紙切りを披露した[1]。白黒テレビさえ本放送にいたっていない時期に、カラーテレビに出演した日本最初の芸人となった。
69歳没。
作品[編集]
- 『峠の茶屋』
- 『さんま火事』
- 『壷』
弟子[編集]
江戸2代目[編集]
二代目 | |
本名 | |
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生年月日 | 1935年9月21日 |
没年月日 | 1998年7月2日(62歳没) |
出身地 | 日本・埼玉県 |
師匠 | 林家彦六 初代林家正楽 |
弟子 | 三代目林家正楽 林家二楽 |
名跡 | 1. 林家正作 (1954年 - 1957年) 2. 初代林家小正楽 (1957年 - 1967年) 3. 二代目林家正楽(1967年 - 1998年) |
出囃子 | 琉球節 |
活動期間 | 1954年 - 1998年 |
活動内容 | 紙切り |
家族 | 三代目桂小南(長男) 林家二楽(次男) 林家八楽(孫) |
所属 | 落語協会 |
二代目 林家 正楽︵はやしや しょうらく、1935年9月21日 - 1998年7月2日︶は埼玉県出身の紙切り芸人。生前は落語協会所属。本名‥山崎 景作。出囃子は﹃琉球節﹄。
経歴[編集]
1954年に八代目林家正蔵に入門、前座名は林家正作。江戸言葉とは異なる埼玉弁特有のアクセントが抜けないため、師匠正蔵は比較的早い段階で噺家を断念させた。初代林家正楽を紹介し、1956年から初代正楽門下として、紙切りに転向する。厳密には預かり弟子と言う形での移籍で、正式な形としては一貫して彦六門下であった。 1957年に林家小正楽、1967年に二代目林家正楽を襲名。1988年に﹁正蔵師匠と私﹂を上梓、翌1989年には、この本を原作としたNHKの連続テレビドラマ﹁晴のちカミナリ﹂で、自身の父親役で出演した。1998年7月2日、腸閉塞のため死去。62歳没。芸歴[編集]
●1954年 - 八代目林家正蔵に入門、前座名﹁正作﹂。 ●1956年 - 初代林家正楽門下預かりとして、紙切りに転向する。 ●1957年 - ﹁林家小正楽﹂を襲名。 ●1967年 - ﹁二代目林家正楽﹂を襲名。逸話[編集]
﹁紅梅白梅(こうばいはくばい)﹂という意地悪な題に対し、急な坂を白バイがのぼっているところ(勾配白バイ→こうばいはくばい)を切って喝采を浴びたが、次の﹁チルチル・ミチル﹂の題に﹁どんな漫才ですか﹂と聞き返し客席を爆笑させた。 時の首相佐藤栄作のお座敷にしばしば呼ばれた。佐藤は柄に似合わず犬やライオンなどと子どもみたいなものしか注文しなかった為、仕方なく﹁似顔を切りましょう﹂と鋏を持って近くに寄ったら﹁総理大臣のそばまで刃物を手にして行ったのはお前くらい﹂だと言われた。家族[編集]
弟子[編集]
著書[編集]
- 『林家正楽切絵傑作集 紙切芸人のうらおもて』明治書院、1976
- 『正蔵師匠と私』一声社、1988.3
江戸3代目[編集]
三代目 | |
本名 | |
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生年月日 | 1948年1月17日 |
没年月日 | 2024年1月21日(76歳没) |
出身地 | 日本・東京都目黒区 |
死没地 | 日本・東京都 |
師匠 | 二代目林家正楽 |
弟子 | 林家楽一 林家富楽 林家楽三郎 |
名跡 | 1. 林家一楽 (1967年 - 1988年) 2. 二代目林家小正楽 (1988年 - 2000年) 3. 三代目林家正楽 (2000年 - 2024年) |
出囃子 | 琉球節 |
活動期間 | 1967年 - 2024年 |
活動内容 | 紙切り |
所属 | 落語協会 |
公式サイト | 林家 正楽 |
受賞歴 | |
国立演芸場花形新人演芸会金賞(1983年) 選抜若手演芸大賞色物部門奨励賞(1988年) 芸術選奨文部科学大臣賞(2020年) 松尾芸能賞功労賞(2023年) 浅草芸能大賞(2023年) | |
三代目 林家 正楽︵はやしや しょうらく、1948年1月17日 - 2024年1月21日︶は東京都目黒区出身の紙切りの芸人。本名∶秋元 真。落語協会所属。出囃子は﹃琉球節﹄。
経歴[編集]
東京都立小石川工業高等学校卒業[2]。1966年︵昭和41年︶、林家小正楽に弟子入りを志願し、紙切りの教えを受けるも、このときは正式な弟子入りは叶わなかった。1967年︵昭和42年︶に正式に林家小正楽に入門、修業のかたわら早稲田大学生活協同組合書籍部で店長を務めた。 1970年︵昭和45年︶、師匠正楽のダブルブッキングの代役として林家一楽の名前で越谷市役所イベントで初高座。1972年︵昭和47年︶にアルバイトを辞め、紙切りで一本立ちする。 1988年︵昭和63年︶に師匠の前名である林家小正楽を襲名。 2000年︵平成12年︶9月、三代目林家正楽を襲名。襲名披露興行では紙切りで寄席史上初の主任︵トリ︶をつとめた。 雑誌﹁東京かわら版﹂の表紙紙切りを二代目正楽から受け継ぎ、2000年より務めていた。 2024年︵令和6年︶1月21日早朝、自宅で倒れているところを家族が発見し搬送されたが、搬送先の東京都内の病院で死去した。76歳没。訃報は同月26日落語協会より公表された[3][4][5]。最後の寄席出演は同年1月19日の新宿末廣亭で、翌20日は千葉県船橋市の落語会に出演。その後、体調不良を訴えて自宅で休養したため、同日の末廣亭の定席興行︵正月二之席楽日・夜の部︶も出演予定であったが休席となっていた[6][7]。芸歴[編集]
●1966年 - 林家小正楽に入門、芸名﹁一楽﹂。 ●1988年 - ﹁林家小正楽﹂を襲名 ●2000年9月 - ﹁三代目林家正楽﹂を襲名受賞歴[編集]
●1983年 - 第13回国立演芸場花形新人演芸会金賞 ●1988年2月 - 第3回選抜若手演芸大賞色物部門奨励賞 ●2020年3月 - 第70回芸術選奨文部科学大臣賞︵大衆芸能部門︶[8] - 紙切り芸での受賞は史上初 ●2023年2月 - 第44回松尾芸能賞功労賞[9][10] ●2023年11月 - 第40回浅草芸能大賞 大賞[11]弟子[編集]
●林家楽一 ●林家富楽 ●林家楽三郎出演[編集]
ドラマ[編集]
●浅草キッド︵スカイパーフェクTV・パーフェクト・チョイス・2002年4月26日︶ - 冒頭でドスの効いた地回りヤクザ役を演じた。ウェブテレビ[編集]
●春風亭一之輔youtube生配信︵2020年5月21日︶ ●第二回ABEMA寄席︵2020年5月24日、ABEMA︶[12]ラジオ[編集]
●ラジオ深夜便︵NHKラジオ︶-﹁にっぽんの音︵大蔵基誠︶﹂- ゲスト︵2023年6月19日︶ソフト・挿絵等[編集]
書籍[編集]
●長井好弘︵著︶林家正楽︵紙切り︶ ﹁寄席おもしろ帖﹂︵2003年4月、うなぎ書房︶、﹁寄席おもしろ帖2おかわりッ﹂︵2004年11月、うなぎ書房︶かるた[編集]
●長井好弘︵読み札・解説︶、林家正楽︵紙切︶﹁正楽寄席かるた﹂︵2002年、奥野かるた店︶挿絵[編集]
●長井好弘・片山一弘︵選︶林家正楽︵紙切︶﹁川柳うたた寝帳﹂︵2009年~2023年、読売新聞︶DVD[編集]
●大石稀哉︵監修︶﹁落語紙芝居 古今亭志ん生シリーズ︵1︶~︵3︶﹂︵2018年、ポニーキャニオン・dZERO)外部リンク[編集]
●林家正楽 - 落語協会脚注[編集]
(一)^ NHK 編﹃放送の五十年 昭和とともに﹄日本放送出版協会、1977年3月30日、293頁。NDLJP:12275859/149。
(二)^ ﹃読売年鑑 2016年版﹄︵読売新聞東京本社、2016年︶p.556
(三)^ “林家正楽 訃報”. 落語協会 (2024年1月26日). 2024年1月26日閲覧。
(四)^ “立川志らくが林家正楽さんを追悼﹁素晴らしい寄席芸﹂﹁紙切を芸術にまで昇華させた﹂”. 日刊スポーツ (2024年1月26日). 2024年1月26日閲覧。
(五)^ ﹁林家正楽さん死去、76歳 寄席紙切り芸の第一人者﹂﹃時事ドットコムニュース﹄、2024年1月26日。2024年1月26日閲覧。
(六)^ 紙切り第一人者、林家正楽さん急死76歳 ハサミ1本で鮮やか芸…2日前まで寄席に出演 - 日刊スポーツ 2024年1月26日
(七)^ 寄席紙切り芸の林家正楽さん死去﹁次の人間国宝﹂の声もあった名人芸 難題も決して断ることなく - 日刊スポーツ 2024年1月27日
(八)^ “令和元年度︵第70回︶芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定について”. 文化庁 (2020年3月4日). 2020年6月6日閲覧。
(九)^ “第44回松尾芸能賞の大賞は市村正親、優秀賞に天海祐希・尾上菊之助ら”. ステージナタリー. ナターシャ (2023年2月13日). 2023年2月14日閲覧。
(十)^ “第44回松尾芸能賞”. 松尾芸能振興財団 (2023年2月13日). 2023年2月14日閲覧。
(11)^ “第40回浅草芸能大賞受賞者決定のお知らせ!”. 台東区芸術文化財団 (2023年11月9日). 2023年11月9日閲覧。
(12)^ “柳亭市馬、笑福亭仁智ら総勢12名が出演する夢の寄席が実現!﹃第二回ABEMA寄席﹄生放送決定”. ABEMA TIMES (2020年5月20日). 2020年5月23日閲覧。
出典[編集]
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X
関連書籍[編集]
- 新倉典生『正楽三代 寄席紙切り百年』(2015年4月、dZERO) - 筆者は江戸初代正楽菩提寺の善生寺(東京・足立)の当代住職。